第七章 異邦人の拒絶(前編)
第四十一節
さて、異邦人の不信仰について。これには本当に唖然とするほかない。異邦人は物笑いの種にまったく不向きである対象を笑っているけれども、その一方で自分たちの偶像がもつ恥と愚かさの方は見過ごしている。だが、私たちの側の議論に重要性が欠けているわけではないから、私たちは自分の目でも見たことを足場として理性的に異邦人にも反駁しよう。
何よりもまず、私たちの信仰にどんな不相応や荒唐無稽さがあるというのか。みことばなる方が肉体をもって現れたと私たちが主張しているからだろうか。だがもし、異邦人が本当に真理を愛するなら、私たちの主張に何の不相応も含まれていないことに同意するだろう。彼らがもし神のことばなる方の存在を拒絶するなら、尋常ではない。自分で知らないものをあざけっていることになるのだから。反対に、彼らが告白するとしたらどうだろうか。神のことばなる方の存在を、この方が万物の支配者であることを、この方にあって御父が創造の御業を行なったことを、この方の摂理によって万物が光といのちと存在を受け取ることを、この方が万物の王であることを、それゆえこの方は御父を通じてその摂理の御業によって知られていることを。それらすべてを告白するとしたら、どうなのか。異邦人は知らずに自分自身を物笑いの種にしてはいまいか。ギリシャの哲学者は、宇宙はひとつの大きな体であると言ったが、確かに宇宙とその部分は私たちの五感で知覚できるのだから、それは正しい。神のことばがひとつの体たる宇宙の中に存在し、その各部分に入ったのが事実だとしたら、神のことばが人間の性質の中にも入ったという私たちの主張のどこに不相応で唖然とするものがあるだろうか。もしこの方が肉体をとったことが不相応だというなら、この方が宇宙の中に入ったこと自体がすでに不相応であり、宇宙そのものがひとつの体であるゆえこの方は御摂理によって宇宙の万物に光と動きを与えているのだと考えることもまた不相応である。だがもし、この方が宇宙に入り、その中にご自分を啓示していることが理にかなっていて正しいなら、人間は他の被造物と同じように宇宙の一部分であるから、この方が人間の肉体をとって現れ、告げ知らせ、地上で働くこともまた理にかなっている。またこの方が神の神性を人に啓示するために宇宙の一部分を使ったことが誤りだというなら、確実に言えることだが、この方が宇宙全体に神性を啓示したと考えることはそれ以上に誤りである。
第四十二節
対比しよう。人間性が人の肉体全体にいのちを吹き込み活動させている。人間の力がつまさきに宿っていると考えるのは不相応だと言う者がいれば、愚か者と思われるだろう。人間性が肉体のすみずみに行き渡って活動力を与えていると認めているにもかかわらず、部分に宿っていることを否定しているからである。それと似ている。神のことばが宇宙全体に宿っていることを認める者は、ひとつの人間の肉体にみことばが宿り、啓示と活動力を与えることが不相応だと考えるべきではない。
こう反論できるかもしれない。人間は無から有へと移された被造物であるからこそ、救い主が人間の性質の中に現れることは不相応なのではないか、と。そうだとすると、この方を被造万物から締め出すのは時間の問題だ。宇宙万物もまた、みことばなる方により無から有へと移されたのだから。ところがもし、反対に、被造万物が確かに造られたものであるけれども、みことばなる方の内在は不相応ではない、と言うのであれば、彼が人間に内在することもやはり不相応ではないことになる。先に述べたように、人間は被造万物の一部分なのだから、一方に適用できる論理は他方にも適用できるのだ。万物はその光も動きもいのちも、みことばなる方に起源をもつ。異邦人の著作家がまさにこう書いているとおりである。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」(使徒一七・二八)。まさにそのとおりである。それゆえ、みことばなる方が人間の中に住まうことはまったく不相応ではない。だからもし、私たちの言説のとおり、みことばなる方がご自分の内在するものを使ってご自分を顕現したとすれば、そのどこが荒唐無稽だろうか。何であれ、その中に存在することなしにそれを使うことはできない。だが私たちはすでに、彼が全体の中にも部分の中にもおられることを認めた。では、彼がご自分の内在するものを使ってご自分を現したということについて、何が信じがたいというのか。みことばなる方はご自分の力によって、個の中にも全の中にも余すことなく入り、惜しまずすべてに秩序を与える。この方が意図するなら、太陽や月や空や大地や火や水を使って、ご自分と御父を啓示することができる。この方がそうしたなら、その活動は誰も不相応だと非難できない。というのも、この方は万物全体を、見えるものでも見えないものも、全体のみならず各部分においても、いっさいを同時に維持しているからである。このような論拠と、またさらに彼がご自分を啓示しようとしたのは全体の一部分である人間を通じてであったという点を考えると、この方が人間の肉体を使って御父の真理と知識を現したという主張は、まったく荒唐無稽ではない。人間の心は、肉体のすみずみにまで充満して存在していないだろうか。心は肉体の一部分、たとえば舌にだけ宿っているのだろうか。心が肉体全体に宿っていると説明すると、心そのものの品位を落とすことになる、と誰が言うだろうか。まさしく同じことだ。みことばなる方についても、この方が万物に充満しているゆえに一個の人間の肉体にも現れうると言ったからとて、この方の品位を落とすことにはならない。なぜなら、先に述べたように、もし彼が部分に宿ることが不相応であるなら、全体の中に存在することも等しく不相応だからである。
第四十三節
こう尋ねる者がいるかもしれない。みことばなる方はどうして、ご自分を現すのに他の方法を使わなかったのか。卑小な人間ではなく、被造万物の諸部分のうちもっと高貴なもの、たとえば太陽や月や星や火や空気を使えばよかったのではないか。それにはこう答えよう。主が来られたのは何かを誇示するためではない。苦しむ人々を癒し、教えるためであった。誇示しようと欲するだけなら、ただ現れて、見る者を圧倒させればよい。だが、人々を癒し、道を教えようとして来るなら、ただ現れるだけでは不十分である。ご自分を必要とする人々の手の届くところに身を置き、人々が耐えうる姿で現れ、しかも神の顕現の価値を減じないように、人間の理解力を超えていなければならない。
それだけではない。人間以外の被造物はすべて、神の目的を外れることはない。太陽も月も天も星も水も空気も、自分の行路を逸脱せず、のみならずみことばなる方が創造主であり王であることを知っており、被造物の分限を守っている。ただ人間だけが、善なるものを拒絶し、真理ではなく虚無を捏造し、神に帰すべき誉れと神に関する知識とを石で形作った悪霊や人間の像に帰している。これほど重大な問題を神の善が見過ごしうるはずがない。とはいえ、人間の認識は、被造物の秩序と規則の全体をとらえきれないのと同様に、神をとらえきれない。そこで神はどうなさるのか。全体の一部分、すなわち人間の肉体を媒介としてご自分を投じ、その中に入るのである。このようにして、全体を認識できない人間が、部分において神を確実に認識できるように保証し、また神の見えない力に目を向けることのできない人間が、人間に似ている姿にある神を見られるように保証したのである。キリストが人と同じ肉体を持つことによって、また神の御業が人の肉体で行なわれることによって、人間は御父をより速やかに、より直接的に、自然に知ることができる。この方の働きを自分たち人間の働きと比較することによって、それが人間のわざではなく神の御業であると判断できる。またもし、異邦人の言うように、みことばなる方の自己啓示を、肉体の行動を通じて行うのが不相応であるなら、宇宙の諸々の働きを通じてなさったとしても、等しく不相応だと言わなければならない。キリストが被造物の中におられることは、被造物と性質を共有することを意味しているのではない。事実は逆である。造られた物がキリストの力を受けている。似たことだが、この方が肉体を媒介として用いたからといって、肉体の欠点を共有することにはならない(文字通りには、「彼は肉体の物について何も共有していない」)。むしろ肉体はこの方の内住によってきよめられているのである。ギリシャ人が偉人だと考えているプラトンでさえ、こう言ったではないか。宇宙は嵐に見舞われて沈没と船体全壊の危機に瀕しているが、宇宙の作者はそのことを知っているので、宇宙の生命力の操舵席に座り、救助に来てあらゆるものを正す、と。それなら、私たちの主張のどこが信頼ならないというのか。人類が道に迷ったために、みことばなる方が降りてきて人として現れ、その本質的善と航海術によって人類を嵐から救うことができる、と私たちは言っているに過ぎない。
第四十四節
しかし、ギリシャ人は恥じ入ってこの反論をさやに収めたとしても、また別の反論を持ちだそうとするだろう。彼らは言う。もし神が人類を教え、救いたいと願われるなら、わざわざみことばが肉体をまとわなくとも、最初の創造と同じように、ただ単純にみこころを発話するだけで救いの御業を終えることができたのではないか。それに対する合理的な応答は、二つの状況には大きな違いがあるということである。最初の創造のときには、いまだ何も存在していなかった。それゆえ、万物を存在に至らせるために必要なのは、かくあれという神のみこころを発話することだけたった。だが、ひとたび人間が存在するようになり、万物が存在するようになると、それらはもう非存在ではない。いまや存在に必要なものは癒しである。したがって、当然の帰結として、癒し主・救い主が必要であり、存在している悪を癒すために、すでに存在しているそれらに照準を合わせなければならない。この理由から、キリストは人間となり、人間の肉体を媒介として用いたのである。もしこれが相応しい方法ではなく、この方が媒介を使おうとされなかったとしたら、他にどのようにしてみことばなる方が来ることができたというのか。また、人間そのものはすでに存在していて、現にあの方による神性を必要としているのだから、人間以外の媒介を取ることがどうしてできようか。非存在は救いを必要としない。非存在には創造のことばが発せられれば十分だからである。だが、人間はすでに存在し、すでに腐敗と破滅の過程にある。それゆえ、みことばなる方がご自分をすべての人に開示するのに媒介を用い、さらに人間を媒介として使ったことは、自然かつ正当であった。また知るべきことがある。人類の腐敗は肉体の外側で起きたのではなく、肉体の内側で起きた。そのため必要なことは、腐敗の現場である肉体の中にいのちが入ることである。それによって、死が肉体の中の存在にもたらされたように、いのちが肉体の中にもたらされる。仮に死が肉体の外側にあるならば、いのちも同じく肉体の外側にあるのが相応しい。しかし、死が肉体の内側にあるならば、死が肉体の中の実体そのものに織り込まれ、実体と完全に一つになっているかのように実体を支配しているならば、そのとき必要なことは、死の代わりにいのちが織り込まれ、肉体がいのちを着て死を脱ぎ捨てることである。もし、みことばなる方が肉体の内側ではなく外側に来られたとしたら、当然ながら、この方は死を打ち負かしたはずである。死はいのちよりも力が弱いからである。だがそれでは、肉体の中に分かちがたく存在している腐敗はそのまま残っただろう。それゆえ、救い主が肉体を取ったのは、肉体に内在する死を切り離すためでもある。救い主の肉体にはいのちが織り込まれるため、死の奴隷としての死ぬべき性質をそのまま残すことはありえない。むしろ死から復活するときに不死性が賦与され、その時からその肉体には不死性が宿る。またじっさい、死に隷属しているものにいのちを賦与するのでなければ、他にどのようにして主がいのちそのものであることを証明できたろうか。麦の刈株には火で燃やせる性質がある。たとえ火を遠ざけ、燃やされないとしても、刈株は刈株のままであって、刈株を焼き尽くす性質を持っている火の脅威に怯えることは変わらない。けれども、火を遠ざけるという対処のかわりに、不燃性の物質である石綿で刈株を覆ったらどうなるか。すると、刈株はもう火に怯えなくなる。火が触れることのできないものを着ているため、安全だからである。肉体と死に関してもまさに同じである。たとえ死がある命令によって肉体から遠ざけられたとしても、肉体はその自然の性質によってあいかわらず死すべきものであり続け、朽ちるものであり続ける。だが、肉体が無形の神のことばを着ると、もう死も腐敗も恐れなくなる。肉体が服を着るようにしていのちを着、腐敗が一掃されるからである。
第四十五節
ゆえに、神のことばなる方の行動に矛盾はない。肉体をまとい、それを人間との媒介とし、それに生命を与えた。ひとりの人を通じた働きによって、いたるところでご自分を啓示する。被造物の他の諸部分を通じてご自分を啓示するのと同様である。そのためこの方の神性と知識の届かない場所はない。このように矛盾はない。以前にこの論点は取り上げたが、救い主がこれをなさったのは、森羅万象を神の知識で満たすためである。森羅万象は神の臨在で満ちているが、同様に神の知識でも満たすのである。聖書がまさにこう語っている。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」(イザヤ一一・九)。天を見上げれば、神の秩序が見えるだろう。だが、人は目の届くところまでしか見られないから、天の高みまで見極められないとすれば、どうか。神の御業によって神の力を目の当たりにしたなら、神の力は人の力とは比べられないことを知り、この方ただひとりが人の間にあってみことばなる神であることを悟る。あるいは、悪霊どもに囲まれて路頭に迷い悪霊を恐れている人がいるとすれば、どうか。この方が悪霊を追い出すのを見たなら、この方が本当に悪霊どもの主人であるとわかる。あるいは、水に全身浸かってみて、水が神であると考えるとすれば――事実、エジプト人は水を崇拝している――どうか。水そのものがこの方によって違う物質に変わるのを見たなら、主が万物の造り主であることを悟る。陰府に下った人が、神々とみなされていた英雄たちが陰府に下ったのを見て、恐れおののくとしたら、どうか。キリストの復活と死に対する勝利という事実を見たなら、何にもましてその事実から引き出せる理性的な結論は、この方おひとりがまさに主であり神であるということである。
なぜなら、主は被造物のあらゆる部分に触れ、あらゆる欺きから被造物を自由にし、真実を悟らせたからである。パウロが言っている。「神は、キリスト(十字架)において、すべての支配と武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロサイ二・一五)。それは、もはや誰も、どうあっても虚偽に欺かれないため、またどこにいても神のことばを見出すことができるためであった。というのも、人は被造物の諸々の働きに四方から囲まれており、どこにいても、天でも、陰府でも、人々の間でも、地上でも、みことばなる方の神性の開示を目撃しているのだから。もはや神に関する知識で欺かれることはない。むしろキリストおひとりを礼拝し、キリストを通じて正しく御父を知るようになるのである。
これら理性と原則にかなった議論を土台とすれば、異邦人が自分の離す番になっても、正当にも異邦人は黙ることになるだろう。けれども、もし彼らがこの議論で不十分だと考え、まだ反駁されていないと考えるなら、次章で私たちの主張を事実に基づいて証明することにしよう。