第六章 ユダヤ人の拒絶
第三十三節
ここまで、救い主の受肉について語った。主の肉体が復活したこと、主が死に勝利したことに関しても、明確な証明をしてきた。さて、次だ。ユダヤ人と異邦人それぞれに対して、これら同じ事実をどんなに不信仰な見方で、あるいはどんなに愚かな思い込みでとらえているかを調べることにしよう。両者とも、問題の本質は同じだと思う。つまり、みことばなる方が人間になったことと、その方が十字架にかかったこととが、(あくまでも彼らにとってそう見えるということだが)論理的に結びつかず、調和しないという点である。しかし、私たちはこれらの反論に対してひるまず応えよう。私たちの側にある証拠こそが疑いようもなく明白なのだから。
第一に、ユダヤ人を考える。ユダヤ人の不信仰は、彼ら自身が丹念に読んでいる聖書こそが証明している。最初から最後まで神の霊感によって書かれた聖書が、キリストに関することを、全体的なメッセージを通じても具体的な記述においても明確に教えている。あの処女のこともそうだ。キリストが処女から誕生するという驚異は、預言者が予告しているのだ。「見よ。処女がみごもって、男子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。神が私たちと共にいるという意味である」(イザヤ七・一四)。また、ユダヤ人はモーセを偉大な預言者として無条件に信頼しているが、モーセもやはり、キリストの来臨の重要性と真実性を認識していた。モーセはこう言った。「ヤコブから一つの星がのぼり、イスラエルから一人の男が出る。彼はモアブの支配者どもを粉々に打ち砕く」(民数記二四・一七)。さらに、「ああ、ヤコブよ、あなたの住まいはなんと美しいのだろう。ああ、イスラエル、あなたの天幕はなんと慕わしいのだろう。その日陰は木のしげる谷間のように、川のほとりの草原のように、主の建てた天幕のように、小川のほとりの杉のように。彼の子孫から一人の男が出る。この方は多くの人々を支配する」(民数記二四・五~七)。それだけでなく、イザヤはこう言っている。「その幼子が『お父さん』『お母さん』と呼べるようにならないうちに、ダマスコの権勢とサマリアの戦利品を、アッシリアの王の目の前から持ち去る」(イザヤ八・四)。これらのことばが予告している内容は、ひとりの人が現れるということである。聖書はさらに、来られる方はすべてのものの主であると宣言している。こう書いてある。「見よ。主が空高く雲に乗ってエジプトに来られる。人の手で作ったエジプトの偶像はおののき震える」(イザヤ一九・一)。御父がエジプトからこの方を呼び戻すことも書かれている。こう言われている。「エジプトから、わたしはわが息子を呼び出す」(ホセア一一・一)
第三十四節
それだけではない。聖書はキリストの死についても黙っていない。それどころか、これ以上ないほどはっきりと死について語っている。死の原因についても雄弁だ。聖書が語っているキリストの受難の目的は、ご自分のためではなく、すべての人に不死と救いをもたらすためである。また、キリストに対してユダヤ人がくわだてる謀略も、ユダチ人の手によるあらゆる屈辱も、聖書に記されている。聖書を読む者は、それらの事実をうっかり読み飛ばしてしまったなどという言い訳がきかない。たとえば、この節である。「彼は苦しめられ、弱さを背負うことを知っている。彼は人から顔を背けられているからだ。彼はさげすまれていた。彼が私たちの罪を置い、私たちのために苦しんでいると、私たちは思わなかった。私たちのほうは、彼が自分のせいで苦しめられ、悩まされ、しいたげられているのだと思った。だが、彼が私たちの罪のために傷を負い、私たちのとがのために弱くされたのだ。彼へのこらしめによって私たちに平和がもたらされ、彼のうち傷によって私たちはいやされている」(イザヤ五三・三~五)。ああ、みことばなる方がどんなに深く人間を愛しておられることか。私たちに義がもたらされるために、私たちの不義のために、彼は侮辱に甘んじたのだ。続けてこう書いてある。「私たちはみな、羊のようにさまよっていた。人は自分の道からさまよい出ていた。それで主は彼を私たちの罪のために手放した。彼自身はしいたげられても口を開かなかった。羊のように彼はほふり場に引かれていき、毛を刈る者の前で黙っている小羊のように口を閉ざしていた。はずかしめを受け、彼のさばきは取り去られた」(イザヤ五三・六~八)。聖書はまた、彼の苦しみを見て彼がふつうの人間にすぎないと考える者が出てくることを見越していた。それで彼の行いにどのような力が働いているかを聖書は示しておいた。「彼がどの血筋の者かをだれが当てられようか。彼のいのちは地から取り上げられたのだ。人々の暴虐によって彼は死んだ。私は悪人には彼の墓で、富む者には彼の死で報いよう。彼は暴虐を行わず、偽りはその口に見出されなかったのだから。そして、主が彼の傷を癒すことは、主のみこころであった」(イザヤ五三・八~一〇)
第三十五節
キリストの死についての預言は以上である。さて、ではキリストの十字架についてどんな預言があるのか関心をお持ちかもしれない。十字架さえも聖書は惜しまず語っている。聖書を記した聖徒たちは、誤読の余地をまったく残さずに十字架を預言した。はじめにモーセがはっきりと予告した。「あなたは自分のいのちが目の前に吊り下げられているのを見るが、信じない」(申命記二八・六六)。モーセの後、預言者たちもこう証言している。「私は供え物として引かれていく傷のない小羊のようでしたが、そのことを知りませんでした。彼らは私に悪を企てて、言いました。『さあ、彼のいのちに木を投げ入れてしまえ。彼を生ける者の地から追い出せ』」(エレミヤ一一・一九)また、こう書かれている。「彼らは私の手と足を刺し通し、私の骨を数えた。彼らは私の衣を自分たちのために裂いて、くじ引きにして分け合った」(詩篇二二・一六~一八)。さて、吊し上げられる死、しかも木の上で起こる死とは、何か。十字架の死にほかならない。手と足が刺し通されるのだから、なおさら十字架以外にはあり得ない。加えて、救い主が人間のあいだに来られてから、全世界の国々が神を知り始めている。このことも聖書ははっきり書いている。「エッサイの根がある。彼は立ち上がって国々を治め、国々は彼に望みを置く」(イザヤ一一・一〇)
これらの聖句は、かの出来事を立証する証拠のうち、氷山の一角にすぎない。じっさいには、ありとあらゆる聖句がユダヤ人の不信仰を反駁している。たとえば、義人や預言者や族長のうち誰かひとりでも、聖書に「彼は処女から生まれる」と預言された者がいるだろうか。アベルはアダムから生まれた。エノクはエレデから生まれた。アブラハムはテラから、イサクはアブラハムから、ヤコブはイサクから生まれたのでなかったか。ユダはヤコブから、モーセとアロンはアムラムから生まれたのではなかったか。サムエルはエルカナの子、ダビデはエッサイの子、ソロモンはダビデの子、ヘゼキヤはアハズの子、ヨシヤはアモンの子、イザヤはアモスの子、エレミヤはヒルキヤの子、エゼキエルはブジの子ではないか。彼らには、父がいるではないか。では、処女から生まれる者、預言者がしるしとして語ったその方はいったい誰なのか。また、彼ら先人たちのうち、天の星によってその誕生が世界中に知らされた者がいるだろうか。モーセが生まれたとき、両親はモーセを隠した。ダビデは自分のいる地域でも知られていなかった。強大な権力を持っていたサムエル自身もダビデの存在を知らず、エッサイに他の息子がいるか尋ねたほどだ。アブラハムも、誕生ののちにやっと彼の地域で偉大な人として知られるようになった。だが、キリストはそうではない。彼の誕生を証言したのは人間ではなく、天に輝く星であった。その天から、彼はくだって来られたのだ。
第三十六節
まだある。地上の王のうち誰が、父と母を呼べるようにならないうちに、即位して敵を打ち破っただろうか。ダビデが即位したのは三十歳になってからだ。ソロモンの即位は若い青年に成長してから。ヨアシュが即位したのは七歳のとき、ヨシヤもヨアシュののちに同じ七歳で即位した。二人とも、父と母を呼べる年齢に達してからだ。ではいったい、生まれた直後から王として治め、敵を打ち負かした先人が誰かいるだろうか。このことについてユダヤ人に調べさせてみよ。そして、イスラエルやユダにそのような王がいるか言わせてみよ。全世界の国々が彼に希望を起き、彼に敵対するのではなく彼にあって平和を得るような王がいるのかを! エルサレムがそこにある限り、彼らの間に戦争が絶えることなく、異邦人はみなイスラエルと戦ってきた。アッシリア人はイスラエルを圧迫し、エジプト人は虐待し、バビロニア人は襲撃した。奇妙なことに、隣人のシリア人でさえイスラエルと戦争した。ダビデはモアブと戦い、シリア人を打ち倒し、ヒゼキヤはセナケリブの高ぶりにおじけずいたのではなかったか。アマレクはモーセと戦い、アモリ人もモーセと敵対し、エリコの住民はヌンの子ヨシュアと対決したのではなかったか。国々はたえずイスラエルのことを燃えるような敵意をもって憎んできたではないか。だからこそ、「国々が彼に希望を置く」と言われた方はいったいどなたなのか、とは尋ねるに値する問いなのだ。明らかにそのような方がいなければならない。預言者が嘘をつくなどありえないからだ。だが、聖なる預言者のひとりでも、あるいは昔の父祖たちのひとりでも、十字架の上ですべての人の救いのために死んだ者がいただろうか。ひとりでも、すべての人をいやすために傷つけられ、殺された者がいただろうか。義人や王のうちひとりでも、その人の前にエジプトの偶像が倒れることがあったろうか。アブラハムはエジプトに行ったが、エジプトの偶像崇拝はやまなかった。モーセもエジプトで生まれたが、やはり偶像崇拝は変わらなかったのである。
第三十七節
また、聖書が告げている、手足を刺し通され、木にかけられる者とは誰を指しているのか。十字架の上で、すべての人の救いのために供え物をまっとうする者とは、誰のことなのか。アブラハムではない。アブラハムは寝床で死んだ。イサクもヤコブもそうだ。モーセとアロンは山で死んだ。ダビデは自分の家で生涯を閉じた。誰もダビデに剣を突きつけなかった。サウルはダビデを殺そうとしたが、かすり傷一つ負わせられなかった。イザヤはのこぎりでひかれて処刑されたが、木にかけられたのではなかった。エレミヤははずかしめられたが、罪に定められて死んだのではなかった。エゼキエルは苦しんだが、人々の救いのためではなく、これから起こるべきことを告げるという使命のためであった。さらに、すべてここで挙げた者たちは、苦しみにあうときにも、人間であることに変わりなかった。だが、すべての人のために苦しみを受けると聖書が告げているこの方は、ただの人間ではなく、確かに私たち人間の性質に持っているものの、すべての人のいのちと呼ばれているのだ。「あなたは自分のいのちが目の前に吊り下げられているのを見る」と書かれている。「彼がどの血筋の者かをだれが当てられようか」とも。どんな聖徒でも、先祖をさかのぼってどの部族から出たかを調べることはできる。だが、聖書のことばは、いのちそのものである方がどの家の出自かは誰にもわからないと証言している。では、聖書が書き記したこの方は、いったい誰なのだろうか。預言者たちがその来臨を力強く予言した偉大な方は、いったい誰なのだろうか。聖書をすみずみまで探しても、すべての人の救い主、神のことばと呼ばれる方、私たちの主イエス・キリストのほかには、誰もいない。イエス・キリストは処女から生まれた。ひとりの人として地上に現れた。どの血筋の者でもない。人間の父から肉体を受けたのではく、処女から生まれたからである。ダビデも、モーセも、族長たちも、父系の先祖をさかのぼることができる。けれども、救い主にはそれができない。星が彼の誕生を予告したが、そうさせたのはほかならぬ彼ご自身だったのだ。みことばなる方が天から降ってこられたとき、天にもしるしを現したのはふさわしいことだった。被造物の王である方の来臨を全世界が目で見て確認できるようになさったのはふさわしいことだった。イエス・キリストはユダヤに生まれたが、彼を礼拝するためにペルシャから人が来た。肉体の現れの前にすでに、キリストは敵である悪魔から勝利を得、偶像礼拝者から戦利品を受け取った。このことが示しているとおり、全地から集まった異教徒たちが、今や父祖伝来の言い伝えと偽りの偶像礼拝を捨てて、キリストに望みを置くようになり、宗教的献身をキリストに鞍替えしているのだ。これは私たちの目の前で、ここエジプトで起きている。ここにおいて、もうひとつの預言が成就した。エジプト人が偽りの礼拝をやめるという事態はキリストが来られるまで起こったことがなかった。すべての人の主であるキリストが、雲に乗ってこられるようにして、肉体をもって地上に降り、偽りの偶像のむなしさを明らかにし、すべての人を彼の所有物として、また彼を通して御父の所有物として勝ち取ったからこそ、エジプトで偶像礼拝がやむようになった。彼こそが、太陽と月の証言のもとに十字架にかけられた方である。彼の死によって救いがすべての人に来た。今やすべての被造物は贖われた。彼こそがすべての人のいのちである。彼こそが、羊のようにご自分の肉体を死に明け渡し、私たちのために、私たちの救いのために、いのちを手放した方である。
第三十八節
それでも、ユダヤ人は信じない。この議論では満足しない。それなら、彼らが納得するように、彼ら自身の預言者のことばからほかの証拠を提示しよう。たとえば、預言者がこう言った。「わたしはわたしを探し求めなかった者たちにわたし自身を現した。わたしを求めなかった者たちがわたしを見出した。わたしはわたしの名で呼ばれたことのない国々に言った。『見よ、わたしはここにいる』と。不従順でかたくなな者たちにわたしは腕を伸ばした」(イザヤ六五・一~二)。これは誰のことを言ったのだろうか。ここで現された人は誰なのか、と人はユダヤ人に尋ねるかもしれない。預言者が自分自身を指して「わたし」と言ったのなら、預言者がはじめにどうやって隠れたのかと尋ねなければならない。現されるためには隠れなければならないからだ。さらにまた、これらのことがらはそれらの義人のうち誰にも起こらなかった。それらが起きたのは神のことばなる方、もともとは肉体をもっておられず、私たちのために肉体をもって現れ、私たちすべてのために苦しみを受けられた方だけである。また、これでも不十分なら、ユダヤ人が黙らざるをえない動かぬ証拠がほかにある。聖書がこう言っている。「なえた手と弱った足を伸ばせ。小さな信仰を奮い立たせよ。強くあれ。恐れるな。見よ、私たちの神が裁きをされる。彼ご自身が来て、私たちを救う。目の見えない者たちの目が開き、耳の聞こえない者たちの耳が聞こえるようになり、口のきけない者たちがはっきりと話すようになる」(イザヤ三五・三~六)。これにどんな言い逃れができるだろうか。真正面からこのことばを受け取るなら、どんな言い訳の余地があるだろうか。預言が宣言しているのは、神がこの地上に来られるということだけではない。神の来臨のしるしと時代をも示している。神が来られるとき、目の見えない者の目が開き、足のなえた者が歩き、耳の聞こえない者が聞き、口のきけない者が話すようになる、と言っているのだ。そのようなしるしがイスラエルで起きたことがあるだろうか。そのようなことがユダヤで起きたことがあるだろうか。ユダヤ人は答えられるだろうか。ナアマンのらい病がきよめられたのは確かだが、耳の聞こえない者が聞こえるようになったり、足のなえた者が歩いたりしたことはない。エリヤもエリシャも死者をよみがえらせた。だが、生まれつき目の見えない者を見えるようにはしなかった。確かに、死者をよみがえらせたのは素晴らしいことだが、救い主がなさったこととは違う。聖書がらい病人とやもめの死んだ息子について沈黙しなかったのだから、もしも足の不自由な男が歩いて、目の見えない人が視力を取り戻したのなら、聖書にその記録が当然残されたはずだ。聖書の沈黙は、それらの出来事が起こらなかったことを証明している。したがって、これらの出来事が起きたときが、神のことばご自身が肉体をもって来られたときでないとすれば、いったいほかの可能性がありうるだろうか。足の不自由な者が歩き、口のきけない者がなめらかに話し、生まれつき目の見えない者が見えるようになっったのは、キリストが来られた時ではなかったか。そして、ユダヤ人は自分たちでそれを目撃し、このようなことがこれまで起きたことがないという事実を証言した。「世が始まって以来、生まれつき目の見えない者の目が開くなどということは聞いたことがない。この方が神から来たのでなければ、何もすることができないはずだ」(ヨハネ九・三二、三三)
第三十九節
だが、ユダヤ人も平易な事実の前には抵抗できない。これでもまだ、彼らは書かれていることを否定せずに、神のことばなる方はまだ来臨しておらず、これらの預言の起こるのを今も待っているのだという主張を擁護できるかもしれない。あらゆる証拠が彼らに反対しているにもかかわらず、いつも彼らは厚かましくも嫌気がさすほど繰り返しそう主張しているのだ。けれども、次の点において、ほかのあらゆる点にまさって明々白々に彼らに究極的に反駁する。私たち自身ではなく、最も賢い人ダニエルが反駁するのだ。ダニエルは、救い主の来臨の日付、主が私たちの間に住まわれる日がいつ来るのかを示しているからだ。ダニエルは預言した。「あなたの民と聖なる都の上に、七十週が定められている。それは、罪を完全に終わらせ、そむきの罪をやめさせ、咎が覆われ、罪の和解を得、幻と預言を封じ、聖者の中の聖者に油そそぐためである。だから、知りなさい。悟りなさい。返答のことばが出されてから(「返答」は七十人訳の誤訳であり、ヘブル語では「回復」)、エルサレムが再建され、王なるキリストが来られるまで」(ダニエル九・二四、二五)。ほかの預言に関してなら、「これは未来に実現する出来事を書いているのだ」と言い訳できるかもしれないが、これにはどんな言い訳ができるだろうか。いったい、この預言にどう説明がつくだろうか。油注がれた者キリストのことを書いているだけでなく、キリストがただの人間ではなく、聖者の中の聖者であると明言しているのだ! さらに、エルサレムがキリストの来臨まで残っていなければならない。そのあとで預言と幻がイスラエルで止むことになっているのだ! ダビデはかつて油注がれた。ソロモンも、ヒゼキヤも油注がれた。だが、その時はエルサレムとその場所は健在だった。預言者は預言していた。ガドとアサフとナタン、後にはイザヤとホセアとアモスとその他の預言者たち。それだけではない。油注がれたこの王たちは確かに「聖者」と呼ばれたが、彼らのうち誰ひとりとして、「聖者の中の聖者」と呼ばれた者はいない。彼ら聖者たちの存在は、捕囚に引かれていくユダヤ人にとって慰めにもならないものだった。捕囚のときには、エルサレムが破壊され、なくなっていた。預言者についてはどうだろうか。捕囚のはじめにダニエルとエレミヤがいた。エゼキエルとハガイとゼカリヤもその後、預言している。
第四十節
したがって、ユダヤ人は虚構にかまけている。現在を未来に先送りしている。預言と幻がイスラエルから消えたのはいつのことなのか。聖者の中の聖者、キリストが来られた時ではなかったか。エルサレムがもはやなくなり、預言も語られず幻も啓示されなくなることこそ、事実、みことばなる方の来臨を証明するしるしであり、顕著な証拠である。それには必然性がある。なにしろ、象徴の本体である方が来られたら、象徴がいまさら必要だろうか。真理そのものなる方が来られたら、真理の影にいまさら必要だろうか。この方のためにこそ、預言者は繰り返し預言してきたのだ。預言の存続は、すべての人の罪のために贖いの対価であられる、義の本体が来られる時までにすぎない。同じ理由で、エルサレムも、真理が知られる前に真理の型を予見できるようにと建てられたのだ。だから、エルサレムの存続も、真理そのものなる方が来られる時までである。それゆえ、当然のこととして、聖者の中の聖者が来られたら、幻も預言もやんだのである。また、エルサレムの王国も同じ時に消えた。なぜなら、王たちがユダヤ人の中で油注がれるのは、聖者の中の聖者に油注がれる時までだからだ。モーセも預言している。ユダヤの王国が続くのは彼の時までであると。「統治者はユダから離れず、王はユダの腰から途絶えない。ユダのために備えられた時が来て、国々の希望が彼にかけられるまで」(創世記四〇・一〇)。そういうわけで、救い主ご自身がつねにこう明言しておられた。「律法と預言者とが預言したのはヨハネの時までであった」(マタイ一一・一三)。だからもし、今もなおユダヤ人の間に王や預言者や幻があれば、彼らはキリストが来られた事実を否定する証拠になるのである。だがもし、今は王も幻もなくなっていて、あの時以来、預言はやみ、町も神殿もなくなっているのなら、もう否定しようがない。それら象徴の指し示す本体であるキリストを否定するほどまでに、不信仰で事実無視の態度をどうして取り続けられようか。また、彼らは異教徒たちが偶像を捨て、キリストを通じてイスラエルの神に希望を置くようになるのを見ているのだ。どうしてそれでもなお、エッサイの根として肉をもってお生まれになり、王として統べ治めるキリストを否定できようか。これがもし、異教徒が崇めている神が他の神であって、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセの神を告白しないのなら、神がまだ来られていないのだという彼らの言い分はもちろん通るだろう。だがもし、異教徒がほめたたえている方が、モーセに律法を与え、アブラハムに約束を与えた神と同じ神であるなら、〜〜もっとも、ユダヤ人は自分たちに与えられた神のことばを軽視したのであるが〜〜どうして彼らは、聖書が預言した主が世の光として来臨され、肉体をもって世に姿を現されたということを理解しないばかりか、理解することを意図的に拒絶するのか。聖書は繰り返し述べている。「主なる神が私たちに現れた」(詩篇一一八・二七)。また、「彼はみことばを送って彼らを癒した」(詩篇一〇七・二〇)。「私たちを救ったのは、神のから遣わされた人でもなく、御使いでもない。主ご自身だった」(イザヤ六三・九)。ユダヤ人たちの悩みはまるで、太陽の光で大地が照らされているのを見ても、大地に光を届けているのが太陽であることを懸命に否定している、気の狂った人の悩みのようだ。彼らの待ち望んでいる方が来れられたとして、これ以上何をすればよいというのか。異邦人を召すことか。だが、異邦人の召しはすでに起きている。預言と王と幻の終焉か。これもすでに起きている。偶像が神を否定していることを暴くことか。それもまたすでに暴かれ、罪に定められている。あるいは、死の敗北か。死はすでに打ち壊された。それでは、キリストがしなければならないことで、何が不足しているというのか。ユダヤ人がそれほどまでにやすやすと不信仰でいられるために、何が残っているのか。何が成就していないのか。単純な事実は、私が言うように、こうだ。王も預言もエルサレムも供え物も幻も、彼らにはもうない。だが、全地は神を知る知識で満たされている。異邦人は神なき思想を捨て、みことばなる方、私たちの主イエス・キリストを通じて、アブラハムの神を避け所としている。
そうであるなら、どんなに恥知らずな人にとっても、キリストが来られたこと、キリストが御父に関する神の真理を全地のすべての人に告げ知らせたことは、明らかであるに違いない。それゆえ、ここに挙げた議論によって、あるいは他の聖書の教えから議論しても構わないが、いずれにせよ、ユダヤ人の誤りが証明される。