アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』

第五章 復活

第二十六節

さて、私たちのために十字架で死なれたことは、完全に目的にかなったものであった。それで、十字架の死がいかに妥当であるか、また、世の救いが他の方法ではなくどうしてこの十字架で成し遂げられなければならなかったのかをここで理解できる。十字架上にあってさえ、彼はご自分を人の目から隠されなかった。むしろ、造り主がそこにおられるという事実を、すべての被造物の目に焼き付けたのである。それから、肉体がほんとうに死んだことをひとたび確認させ、神殿たる肉体をいつまでも死にとどまらせず、三日目によみがえった。キリストの勝利のしるし、また勝利の証拠としての、苦しみも痛みもない、不朽のからだでよみがえったのである。

もちろん、ご自分の肉体を死んだ途端にすぐさまよみがえらせ、生きている肉体を公に見せることは、彼の力をもってすれば容易であった。しかし、知恵深い救い主はそうなさらなかった。彼が間違いなく死んだことをだれにも否定させないためである。加えて、死から復活までの期間が二日間しかなかったのは、彼の不朽の栄光を現すためであった。肉体が死んだことを明白に示すために、丸一日待ち、それから三日目に、その肉体が不朽のものであることをすべての者の目に明らかにした。死から復活までの期間が三日より長くなかった理由は、人々が生前の肉体のことを忘れ、復活した肉体がほんとうに同じものだろうかと疑い始めることのないためである。まだ十字架の事件が人々の耳に鳴り響いており、目が見開かれており、心が騒いでいるうちに、また、彼を死なせた者たちが現場にいて、彼ら自身がその事実を証言しているうちに、つまりちょうど三日目に、神の御子はひとたび死んだ肉体が不死で不朽のものとなったことを示したのだ。みことばなる方が内にとどまっておられた肉体が死んだのが、自然の弱さのせいではなく、その肉体にあって救い主の力によって死が打ち砕かれるためであったということが、すべての人に明かされたのである。

第二十七節

死がこのように十字架によって滅ぼされ、征服されたことを示す非常に強力な証拠は、次の事実によって与えられる。すなわち、キリストの弟子たちはみな、死を蔑視した。彼らは死に立ち向かい、死を恐れることなく、十字架のしるしにより、またキリストにある信仰によって、動かなくなったなきがらを踏むようにして、死を踏みつけたのだ。救い主が来られる前には、どんなに立派な聖徒でも死におびえ、死が滅びであるかのように死者を悼んだ。しかし、今や救い主が肉体をよみがえらせたので、死はいまや恐怖の対象ではなくなった。キリストを信じる者はみな、ちりのように死を足の下に踏みつけ、キリストへの信仰を否定するくらいなら死を選ぶのである。クリスチャンにとって死は滅びではなく、じっさいには生きていて、復活を通じて不朽の者とされるということをよく知っているからである。しかし、古い邪悪な悪魔が死において勝ち誇っていたが、今や死の苦痛は過ぎ去ったので、ほんとうに死んだままでいるのは悪魔ただひとりである。次のこともこの証明である。キリストを信じる前には、死をおぞましいものと考え、死におびえていた人々が、ひとたび回心すると、死を完全に見下し、それどころか死ぬ機会があるなら、彼ら自身が救い主の復活の証人となるために、熱心にそれを求めさえもするのである。子どもですら、死に急ぎ、男ばかりでなく女も、死にまみえるための肉体的な修練によって自分自身を訓練している。死はその力を失った。女さえも、以前は死に欺かれていたが、いまは死をすべての力を奪われた死んだものとして、あざわらっている。死は、正統の王によって完全に征服された暴君のようになった。手足は縛られ、通りかかる者にやじられ、打たれ、ののしられ、もはや彼の冷酷や獰猛を恐れる者はだれもいない。王が彼を征服したからである。そのように、死は、救い主が十字架上で成し遂げられた勝利によって、征服され、焼印を押されたのだ。その手足は縛られている。キリストにある者はみな、死を踏みつけながら通り過ぎる。キリストの証人は死をあざわらい、軽蔑し、こう言う。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(第一コリント一五・五五)

第二十八節

これでもまだ死の無力化の証明は不十分である、とお考えだろうか。キリストにある年端もいかない男女でさえも、今のいのちを軽視して死のために自分を鍛錬しているということが、救い主の勝利を指し示す証拠として取るに足りないものだろうか。どんな人でも本能的に死を恐れ、肉体の消滅に恐怖をおぼえるものである。十字架の信仰に入れられた者がこの自然の恐れをさげすみ、十字架のためなら死に直面しても臆することがなくなるというのは、まさしく驚異の中の驚異なのだ。火の自然の性質は燃えることだ。ところが、もしインドの石綿のような不燃性のものがあれば、燃やされることを恐れないどころか、火を近づけても燃え移らず、むしろ火の無力を明らかにする。この真理を疑う者がいるなら、その疑いを晴らすためには、ためしに自分の身を石綿で覆い、火に触れるだけでよい。つまり、もとの話題に戻ると、人々に恐れられていた暴君が今は縛られて何もできなくなっている姿を見たい人がいれば、簡単なことで、暴君を征服した王の国に行ってみればよい。それでもまだ死の征服を疑うなら、多くの証拠と、キリストにある多くの殉教者と、キリストの忠実なしもべたちが死を日常的にさげすんでいるのを見て、それらに圧倒され、驚愕するがよい。けれども、これらのシンプルな事実をかたくなに疑ったり無視したりしてはならない。そうではなく、石綿の不燃性を実証しようとする人のようにしなければならない。征服者の領地に縛られた暴君を見に行く人のようにならなければならない。死が征服されたことを疑っていたその人は、キリストの信仰に驚嘆し、キリストの教えに来るに違いない。それから、死がどれほど無力であるか、どれほど完全に征服されているかを彼は確認するだろう。じっさい、多くの先輩がたが、はじめは私たちを疑い、馬鹿にしていたけれども、信者になったあとでは、キリストのために彼ら自身が殉教者となるまでに死を軽蔑するようになったのである。

第二十九節

それで、もし死が足の下に踏みつけられるのが十字架のしるしとキリストにある信仰によるのであれば、死から力を奪い取った大勝利者がキリストご自身に他ならないことは明白である。かつて死は強く恐ろしかった。けれども、救い主が来られ、その肉体をもって死と復活をなさったいま、死は軽蔑の対象となった。そして明らかに、死を最終的に破滅させ征服したのは、十字架にかかられたキリストご自身なのだ。夜が明けて太陽がのぼると、世界中が照らされる。いたるところに光を注ぎ、暗やみを駆逐しているものが太陽であることを疑う者はいない。同じくらい明らかに、キリストを信じる者たちが死を完全に軽蔑し、蹂躙していることは、救い主が肉体をもって顕現し、十字架の上で死なれたことの結果である。死を無力化し、今もご自身の弟子たちの中に勝利の記念碑を日々建てておられるのは、主ご自身なのである。

それ以外にどう説明がつくだろうか。自然のままでは弱い人間が、死に向かって駆け、朽ちることを恐れず、ハデスに下ることも怯えず、いや、ハデスを挑発さえもし、拷問を前にして尻込みするどころか、キリストのためなら現在のいのちを惜しまずに捨てて、みずから死を選ぶ者となっているのを見て、どう考えればよいか。男も女も、それどころか子どもも、キリスト教のために喜んで死ぬ。あなたが自分の目でそれを確かめれば、彼らが口をそろえてかたく証言しているキリストこそが、彼らに勝利を与え、キリストの信仰と十字架のしるしを負う者たちのために死の力を完全に奪ったことを認識せずにはいられまい。よもやそれを見てまで否定するほど、頭が悪く、かたくなで、まともな思考のできない読者はおられないだろう。理性をもって考えれば、蛇が足の下に踏みつけられているのを見てもまだ疑うような者はいない。蛇がそれまでどれほど猛威をふるっていたかを知っていれば、なおさらである。あるいは、子どもがライオンを遊び道具にしているのを見て、この猛獣が死んでいるか、力が完全に奪われていることを疑う者はいない。これらのことは自分の目で確かめれば分かることであるが、死の征服についても同じである。だから、キリストを信じる者たちが死をあざけりさげすんでいるのをその目で見れば、もはや疑いようもなく、キリストが死を滅ぼしたこと、また死にともなう腐敗を解決し、終わらせたことがわかるだろう。

第三十節

ここまで述べてきたことは、主の十字架こそが死の滅ぼした勝利の記念碑であるという事実の証明として、決して小さなものではない。けれども、不死の肉体への復活は、言葉による証明よりも事実による証明のほうが、賢い読者にとっては、さらに効果的である。肉体の復活は、すべての人の救い主、また真実のいのちなる方、キリストが行われたみわざの結果としてこれから起こるのである。というのも、ここまで示したきたように、キリストのゆえに死が滅ぼされ、皆が死を踏みつけているのが事実だとすれば、キリストご自身がご自分の肉体を持って最初に死を踏みつけ、滅ぼしたのがどれほど確かな事実だろうか! キリストは死を殺害した。では、キリストの肉体の復活と、キリストの勝利の記念碑として復活を公に示したことのほかに、何か扱うべき問題が残るだろうか。もしも主の肉体がよみがえらなかったとしたら、いったいどうやって死が滅ぼされたことを目で見てわかるように示せるだろうか。だが、もしだれかがこれでも不十分だと感じるなら、次の事実を心にとめて、復活の証明とするがよい。死者は人に深く感化を与える行動をとれない。死者の影響力は墓までで終わりである。人々に力を与えるような行動は、ただ生きている者だけが行うことができる。では、ここで扱っている事実はどうだろうか。救い主は人々の間でいまも力強く働いている。目には見えないけれども、毎日、彼は非常に多くの人々を説き伏せ、そのため、ギリシャ語世界の中にとどまらず世界中の人々が彼の信仰を受け入れ、その教えに従うようになっている。この事実を直視してもなお、彼がよみがえって生きておられること、それどころか彼ご自身がいのちであることを疑う余地があるだろうか。先祖から受け継いできた伝統をまるごと投げ出して、キリストの教えの前にひざをかがめるようになるほどまでに人々の良心を刺し貫くことが、死者にできるだろうか。もしも彼がもう世界に働きかけていないのなら、もちろん彼が死んでいるなら当然そうなのだが、生きている者が彼によって罪の活動をやめるのは、いったいどうしてなのだろうか。つまり、姦淫を犯す者がその姦淫をやめ、殺人を犯す者が殺人をやめ、不正を行う者がむさぼりをやめ、さらには神を恐れぬ不敬虔な者が神を求めるようになるのは、いったいどういうわけなのだろうか。もしも彼が死んだままでよみがえらなかったとしたら、不信仰な者たちが生きていると思い込んでいる偽物の神々や、彼らがあがめている悪霊どもを、彼が追い散らし、なぎ倒しているのはいったいどうしてなのだろうか。というのも、キリストの名が呼ばれるところでは、偶像崇拝が破られ、悪霊の嘘が暴かれているのだ。じっさいに、悪霊どもはこの方の名に耐えられず、その名が発せられると一目散に逃げるのである。これは生きている者の働きである。死者になせるわざではない。そして、生きている者の働き以上のものだ。これは神の働きである。彼に追い散らされた悪霊どもや、彼に打ち壊された偶像のほうがじつは生きていて、追い散らした張本人である方、悪霊どもがみずから神の御子であると証言しているこの方のほうが死んでいる、などと言うことはまったくばかげている。

第三十一節

要約すると、復活を信じない人は事実に根拠を置いているのではない。キリストが死んでいると仮定しても、死んでいるはずのキリストを彼らの神々と悪霊どもが撃退できていないのだから。逆に、悪霊や偶像の神々のほうが死んでいる存在であると宣告しているのが、キリストというお方である。死者には何もできないが、救い主は毎日力強く働いておられるという点で、私たちは見解の一致を得られた。キリストは人々を信仰へと引き入れ、徳へと導き、不死について教え、天的な事柄を求める霊的渇きをもたらし、御父についての知識を啓示し、死に立ち向かう強さを与え、ご自分を一人ひとりに現し、偽りの偶像崇拝を退けている。その一方で、不信仰な者たちがあがめている偶像の神々や悪霊どもはこのようなことを何ひとつできない。それどころかキリストの御前で死んだものとなり、この者どもの虚飾は実を結ばず、むなしくされている。反対に、十字架のしるしによって、信仰の目が地上から天に向けられるとき、すべての魔術は止められ、すべての呪術はろうばいし、すべての偶像は破棄され、すべての無分別な快楽は止む。それなら、このような方をどうして死んでいると言えようか。このすべてをじっさいに働かせているキリストを、死者などと呼べようか。死者にはこのような影響力がない。それとも、私たちは「死」を死者と呼ぼうか。悪霊どもや偶像と同じように、もはや生命力も影響力もなく、何ら実質的な働きをすることのできない死を。神の御子は「生きていて、力があり」(ヘブル四・一二)、毎日働いておられ、すべての人の救いのために力あるわざをしておられる。しかし、死は、そのすべての力をはぎとられたことが日々証明されている。死んでいるのはキリストではなく、偶像や悪霊どものほうなのである。したがって、キリストの肉体の復活に関して、疑いの余地はない。

じっさい、主の肉体の復活を信じない者は、みことばの力と神の知恵とを見過ごしているのではないか。もし主が肉体をとって来られ、すでに示したとおりに肉体をご自分の目的にかなって用いたのなら、主は肉体とどんな関係にあり、みことばなる方が携えて降ったその肉体は、最後にはどうなる予定だったのだろうか。主の肉体は、もともと死ぬべきものであり、すべての人のために死に明け渡される手筈だったから、肉体が死ぬのは不可避である。事実、救い主が肉体を用意されたのはまさにそのためであった。だが、他方で、それは死んだままではありえない。救い主の肉体は、いのちそのものである方の神殿となったからである。したがって、朽ちるべき肉体は死を免れなかったが、内におられるいのちのゆえに再び生きたのである。そして、彼の復活は、彼の作品を通して知らされている。

第三十二節

神がご自分の作品を通じて知られるべきであるという法則は、目に見えない神の性質に一致している。主がいまこの目で見られないからといって主の復活を疑う者は、まさに自然の法則を否定しているも同然である。証拠となる作品が不足しているのなら、信じない根拠もあろう。だが、作品たちが大声をあげて事実をこんなにもはっきりと証明しているのなら、はっきり示された復活のいのちをどうして故意に否定するだろうか。判断力に欠けていたとしても、たしかに彼らの目が、キリストの力と神性との論駁できない証明を与えることができる。目の見えない人は太陽を見ることができないが、太陽の光が与える熱から、上空に太陽があることを認識する。それと似たようなものだ。不信仰という盲目にとどまっている人も、キリストが人々を通じて現した力によって、キリストの神性を認識し、キリストがもたらした復活を認識できる。キリストが死んでいたのなら、悪霊を追い出したり偶像を退けたりすることは明らかに不可能だ。悪霊どもが死者の言うことに聞き従うはずがないからだ。他方で、もし、キリストの御名が悪霊を追い出しているなら、彼は明らかに死んでいない。霊どもは人間の目に見えないものを知覚しているのだから、なおさら、彼が死んでいるならそのことを知って、従わず反抗するにちがいない。けれども、事実はそうではない。神をけがす人々が疑っている真実を、悪霊どもは知っている。つまり、彼が神であるということを。それだからこそ、悪霊は彼から逃げ去り、足の下に踏みつけられ、彼が肉体にとどまっておられるときに彼らが叫んだように、いまも叫んでいる。「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」(ルカ四・三四)。また、次のように。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください」(マルコ五・七)

それだから、悪霊どもの告白からも、彼の作品たちの毎日の証言からも、救い主がご自分の肉体をよみがえらせたということや、彼こそが神の御子であってその存在が御父からつまり神から来ているということや、彼が神のことばであり知恵であり力であるということは、もう明白である。だれにも疑いようがない。彼こそが、この終わりの日に肉体をもって私たちすべての救いのために来られ、御父に関して世に教えた方なのだ。彼こそが、死を滅ぼし、復活の約束を通じて不朽を私たち皆に惜しみなく与えてくださった方なのだ。その最初の実として、ご自分の肉体を復活させ、十字架のしるしによって、その肉体を、死と腐敗に対する勝利の記念碑としてお示しになったのである。