第四章 キリストの死
第十九節
救い主は、以上のすべてをご自分が行なうにふさわしいとお考えになった。創造のみわざを見てもまだ神がおられることを理解できず、霊的盲目になっている者たちに、救い主の肉体での活動が神の働きであると認めさせることができれば、人々が御父の知識を取り戻せるからである。前に述べたとおり、彼が悪霊に権威を用い、悪霊を震えおののかせるのを見たならば、この方が神の御子であり、神の知恵また力であることをだれが疑うだろうか。被造物でさえ、この方に命じられて沈黙をやぶり、驚嘆して語りはじめ、十字架という勝利の記念碑の前に声を合わせて告白したのだ。肉体をもってそこで苦しんでおられるこの方こそは、ただの人間ではなく、神の御子、すべての者の救い主である、と。太陽は暗くなり、地は揺れ動き、山々は裂け、すべての人が畏れに打たれた。これらのことから、十字架のキリストが神であることが示され、また、すべての被造物が彼のしもべとして、その主人の御前でおそれおののいて証言していたことがわかる。
それゆえ、このように神はご自身をそのみわざを通じて人間に啓示された。次に私たちが考えなければならないのは、彼が地上で生きた目的と、その肉体の死の持つ意義である。これこそが私たちの信仰の中心である。いたるところでその教えを聞いているだろう。その死もまた、ほかの働きに劣らず、キリストを神として、神の御子として啓示しているのである。
第二十節
私たちはここまで、状況の許すかぎり、また理解のおよぶかぎり、彼が肉体をとって現れた理由を論じてきた。すでに見たとおり、朽ちていく者が不朽へと変えられるのは、救い主ご自身のほかにだれにもふさわしくない。この方がはじめに無から万物を創造したのである。また、御父のかたちである方だけが、そのかたちに似せて人間を再創造することができるということも見てきた。私たちの主イエス・キリストのほかに、死すべき者に不死を与えることはできないということも。万物に秩序を与えるみことばなる方、ただひとり御父の真実な独り子だけが、人間に神を教え、偶像礼拝をやめさせることができるということも、すでに見たとおりである。けれども、以上のすべてにまさって、返さなければならない負債がある。前に述べたように、すべての人間は死ぬべき定めにあったからである。ここに、みことばが私たちの間に住まわれた第二の理由がある。すなわち、彼がご自分の神性をその働きによって証明なさってから、すべての者のための供え物を捧げるため、つまり、すべての者の身代わりにご自分の神殿を死に明け渡すためであった。死に対する負債を精算し、人間を原初の罪から解放するためであった。その同じ行動において、彼はまたご自分が死よりも力強い方であることを示された。彼ご自身の肉体を、不朽なる復活の初穂としてお示しになったのだ。
このテーマをまた繰り返して論ずるのかと、あきれてはいけない。私たちが話しているのは、神の素晴らしい喜びについてであり、神がその愛の知恵をもってそうすることがご自分にふさわしいとお考えになったことについてである。同じテーマを違う角度から扱ったほうが、論じもれを残す危険をおかすよりも良い。さて、みことばなる方の肉体は、ほんものの人間の肉体であった。処女から独特に形づくられたものであるとはいえ、ほかの肉体とおなじく死すべきもの、いずれ死ぬものであった。ところが、みことばがそこに住まわれたことで、この自然の運命から解放された。腐敗が肉体に触れることができなくなった。二つの驚くべきことが一度に起きた。主の死において、すべての者の死が最終的に遂行された。と同時に、その死において、みことばなる方がその肉体の中におられたので、死と腐敗が完全に廃止された。断行されなければならない死と、すべての者を解放するための死である。こうして、すべての負債が支払われた。それゆえ、前に述べたように、みことばなる方はそのままでは死を経験することができないので、死すべき肉体を必要とした。その目的は、すべての者の身代わりにご自分の肉体を供え物とするため、また、その肉体との結合を通じてすべての人のために苦しまれるためであった。「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル二・一四〜一五)
第二十一節
だから、恐れることはない。今や、すべての人にとって等しく救い主である方が、私たちのために死んでくださったのだ。キリストを信じる私たちは、以前のような死をもはや経験しない。戒めが警告したあの死はもう存在しない。罪の判決はもう終わっのだ。今や、復活の恵みにより、腐敗が消え去り、無効になった。だから、私たちはそれぞれ神のよしとなさる時に、より良い復活を得るために、この死ぬべき肉体から解き放たれるのだ。地にまかれる種のように、私たちは肉体の機能停止によって腐敗するのではなく、もういちど起き上がる。救い主の恵みによって、死は力を失ったのだ。そういうわけで、恵みに満ちたパウロが――彼を通じて私たちはみな復活の確かさを得ている――こう言っている。「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」(第一コリント一五・五三〜五五)
こう言う人がいるかもしれない。「では、彼が肉体をすべての人の身代わりに捧げることが事の本質であるなら、どうして彼はひとり隠れてそれを行なわず、わざわざ大勢の目の前で十字架につけられるほどのことをしたのか。名誉のうちに肉体の死を遂げたほうが、あれほどの恥辱に耐えて死ぬよりも、彼にふさわしいに決まっているではないか。」ところが、この議論を注意深くみると、単に人間的な考えにすぎないことがわかる。いくつかの理由から、救い主がなさったことが本当に神によるもので、彼の神性にふさわしいと言える。第一の理由はこうである。ふつう人間が死ぬのは、弱さという自然の性質の結果である。人間は本質的に有限なので、時を経ると病気にかかり、寿命が尽きて死ぬ。しかし、主はそうではない。彼は弱くない。彼は神の力、神のみことば、いのちそのものである。彼がほかの人と同じように静かに横たわって死んだなら、まるでほかの人間と何も変わらないかのように、自然の性質に従って死んだように見えたことだろう。けれども、彼はみことばであり、いのちであり、力そのものであるから、その肉体は強かった。それでも死が断行されなければならなかったから、自分からではなく、他の者たちによって、彼の捧げ物をまっとうする機会を設けたのである。ほかの人々をいやしておられた方が、病気になりえるだろうか。ほかの人々を強めるために用いていた肉体が、どうして弱くなったり駄目になったりすることがありえようか。ここでまたこう言うかもしれない。「どうして病気を押し止めた方が、死を押し止めなかったのか。」それは、彼が肉体を取られたのが、まさに死ぬことができるようになるためだったからである。死を押し止めることは、復活を押し止めることである。そして、彼の肉体に病気はふさわしくなかったことについて、弱さについての議論と同じように、こう言うかもしれない。「では彼は空腹にならなかったのか。」いや、空腹になった。それが肉体の性質だからである。しかし空腹で死ぬことはなかった。空腹な肉体を持っておられる方が主だったからである。同様に、彼はすべての人の贖いのために死なれたが、腐敗に見舞われることがなかった。彼の肉体は完全に健やかな状態で起き上がった。いのちそのものである方の肉体だったからである。
第二十二節
ひょっとすると別の人がこう言うかもしれない。主がご自分を殺そうとするユダヤ人の謀略をすり抜け、その肉体を死から守ったほうが、全体的に見て良かったのではないか、と。しかし、これもまた彼にふさわしくないということを確認しよう。主がご自分の手で肉体を死に渡すことがふさわしくないのとちょうど同じように、主が他の者から殺されることを避けるのは主ご自身にふさらしくない。むしろ、彼は完全にその状況に従い続けた。彼のご性質をまっとうするために、彼は自死によって肉体を捨てることもせず、謀略をたくらむユダヤ人から逃げることもしなかった。そして、この行動はみことばなる方の限界や弱さを示すものではない。なぜなら、彼は死を終わらせるために死を待っておられたのであり、すべての人のための供え物となるために、死を遂行することを急がれたからである。それだけではない。救い主が来られた目的は、彼ご自身の死ではなくすべての人類の死の遂行であったので、主おひとりで自死によって肉体を捨てることをなさらなかったのだ。自死はいのちであられる主にふさわしくない。そうではなく、人々の手による死を、主は受け入れた。そうして彼ご自身の肉体において死を完全に打ち砕いた。
主の肉体があのような形で終わりを迎えた理由を理解するために、さらに考察に値する事柄がいくつかある。主が来られた究極の目的は、肉体の復活をもたらすことであった。これが、主が死に勝利したことの記念碑となり、主がご自身で腐敗に打ち勝ち、それによってすべての人がついには肉体の不朽を得るようになることの保証となるのであった。その証拠として、また将来の復活の約束を確かなものとするために、彼はご自分の肉体の不朽を保っておられる。しかし、話を蒸し返すが、もしみことばなる方の肉体が病気になり、その状態を放置しておかれるとしたら、なんと不相応であろうか! ほかの者の肉体をいやした方が、ご自分の健康維持を無視するべきであろうか。もしそうだとしたら、人々はどうしていやしの奇跡を信じるだろうか。彼は自分の病気を追い出すことができなかったと言って、人々は笑うに違いない。そうでないなら、できたのにしなかったのだから、彼は人間として適切な感情を欠いていると人々は考えるだろう。
第二十三節
あるいはまた、彼が病気にならないとしても、ご自分の肉体をどこかにただ隠して、それからとつぜん再び姿を現して「私は死からよみがえった」と言ったとしよう。そうしたら、作り話を話していると思われるだろうし、彼の死を目撃した者がいないので、だれも彼の復活を信じないに違いない。死が復活に先行しなければならない。死ぬことなしに復活もありえないからだ。隠れた場所でだれにも見られずに死ぬなら、復活の証明も証拠もないことになる。また、彼が復活することを公に宣言したのに、どうして隠れて死ぬべきだと言えるだろうか。悪霊を追い出すのも、生まれつきの盲人をいやすのも、水をぶどう酒に変えるのも、すべて人々の目の前で行なったのは、彼こそがみことばなる方であることを人々に信じさせるためであったのだ。どうして、彼がいのちなる方であると信じさせるために、彼の死ぬべき肉体の不朽性のほうは公に宣言すべきでないと言えるだろうか。さらに、弟子たちが復活のことを話すのに、彼がまずはじめに死なれたという事実から始めるのでなければ、どうして大胆になれようか。また、弟子たち自身も彼の死を目撃したのでなければ、その証言を聞く者を信じさせることがどうして期待できようか。彼が地上におられるときでさえ、奇跡が目の前で起きたのに、パリサイ人は信じることを拒絶し、ほかの者にも否定するように強いたのだ。復活が隠れた場所で起きたとしたら、信じないための言い訳がどれだけ多く考え出されることだろうか。あるいは、主がすべての人の見ている前で死に挑み、肉体の不朽によって死が無化されその力を剥奪されたことを証明するのでなければ、どうして死の終わりと死に対する勝利を宣言できようか。
第二十四節
ほかにも答えなければならない反論をいくつか想定しうる。のちの復活を信じさせるためには公に死ぬ必要があったということは認めても、彼はご自分のために名誉ある死を選んで、十字架の恥辱をさけたほうが良かったはずである、と力説する人がいるかもしれない。けれども、そうすることさえも、死に対する彼の力はご自分で選んだ特定の種類の死に限定されるのではないかという疑いをはさむ余地を残すことになる。そうして、やはり復活を信じない言い訳をひねり出すのである。ゆえに、死が彼の肉体に来たのは、彼ご自身からではなくて敵の攻撃としてであった。それは、敵がどのような形で死をもたらしたのであっても、あらゆる点で救い主が死を完全に廃止なさるためであった。たくましくて強い闘士はどんな相手とも戦うので、自分で対戦相手を選ばない。彼は恐れいているとだれにも思わせないためである。それどころか、彼は観衆に対戦相手を選ばせる。観衆が彼に敵意を持っているなら、なおさらそうさせるだろう。それは、対戦するどんな相手をも倒して、彼がだれにもまさって強いということを寸分の疑う余地なく証明するためである。すべての者のいのちである方、私たちの主であり救い主である方は、ほかの死に方を恐れていると思わせないように、ご自分の死に方を選ばなかった。選ぼうともしなかった。十字架上で、ほかの者から、なかでも敵対する者から負わせられた死を受け入れ、背負った。その死は彼らにとっておぞましく、直視できないほどのものであった。彼がこのことをされたのは、この死をも打ち砕き、彼ご自身がいのちであると信じさせ、死の力が究極的に滅ぼされたことを分からせるためであった。驚くべき、力強い逆転がここで起きた。敵対者たちが彼に負わせようと考えた恥辱の死が、死の敗北をしめす栄光ある記念碑となったのである。それだから、こうも言える。彼はヨハネのように首をはねられて死んだのでもなく、イザヤのようにのこぎりで切り分けられて死んだのでもない。死にあっても肉体の一体性を維持し、分断されなかった。それゆえ、これからも教会に分裂を持ち込む者には弁解の余地がない。
第二十五節
教会の外からの反論はここまでにしよう。けれども、もしもクリスチャンが、なぜキリストが十字架上で死の苦しみを味わったのか、なぜほかの方法をとらなかったのかを正直に知りたいと思うなら、私たちはこのように答えよう。すなわち、ほかの方法では私たちにとって都合が悪かったからである。じっさい、主は私たちのためにただ一度死なれたが、その死はこの上なく良いものであった。私たちの上にあった呪いを負うために彼は来られたのだ。呪われた死を受け入れることなくして、どうして「のろわれたもの」(ガラテヤ三・一三)となることができようか。そして、死が十字架であるのは、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(ガラテヤ三・一三)と書かれているからである。また、主の死はすべての者の贖いの代価である。それによって「隔ての壁」(エペソ二・一四)が打ち壊され、異邦人が召されるようになった。彼が十字架にかけられなかったら、どうしてそれが可能であろうか。十字架の上でのみ、人は両腕を広げて死ぬのだから。またここでも、彼の死のふさわしさと、その両側に伸ばされた腕のふさわしさを確認できる。彼が両腕を広げたのは、片方の腕で昔からの民を抱き、もう片方の腕で異邦人を抱いて、両者を彼において一つにするためであったのだ。贖いとしての死に方を彼が前もって語ったとおりである。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」(ヨハネ一二・三二)。また、空中は悪魔の活動領域となっている。天から落ちた私たちの敵である悪魔が、彼の不従順にならった悪しき霊どもを引き連れて、人々のたましいを真理から遠ざけ、真理に従おうとしている者たちの進路を邪魔しようと力を尽くしている。使徒はこのことについてこう言っている。「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って」(エペソ二・二)。しかし、主は悪魔を打ち負かすために、そして空中をきよめて私たちのために天につづく「道」を作るために来られた。使徒が言うように、「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」(ヘブル一〇・二〇)その道を作られたのである。これは死を通じて行なわれなければならなかったが、空中での死、つまり十字架上での死のほかに、どんな死に方でなされうるだろうか。ここでもまた、主がこのように苦しまれるべきであったことが、いかに正しく、いかに自然であったかを確認できよう。このように「上げられ」ることで、彼は空中を敵のあらゆる悪しき影響からきよめたのだ。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました」(ルカ一〇・一八)と彼は言った。このようにして彼は天への道をふたたび開き、こう言った。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ」(詩篇二四・七)。なぜなら、門を開けてもらう必要があるのは、みことばなる方ご自身ではなく――彼はすべての者の主だからである――また造り主との断絶のない各種の被造物でもないからである。そうではなく、私たちこそ、門を開けてもらう必要がある。私たちこそを、主ご自身がご自分の肉体をもって背負ったのだ。その肉体を彼はまずはじめにすべての者のために死に渡し、そのことによって天への道を開いたのである。