アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』

第三章 神のジレンマおよび受肉におけるその解決(後編)

第十一節

全能の神はご自分のみことばをもって創造しておられたとき、人類がその有限性のゆえに、造り主を自分自身の能力では理解できないということを分かっておられた。神は形のない方、創造されたのでもない方だからである。そのため、神は人類をあわれみ、神を知る知識を欠けたままにしておかれなかった。そうでなければ、彼らの存在は無意味となる。というのも、被造物が創造者を知りえないなら、被造物が存在することに何の益があろうか。人がその存在を与えてくださった御父のことばとみこころをまったく知らないなら、どうして人間は理性的な存在であるといえようか。人間が地上のことしか知らないなら、獣と何も異ならない。また、神がご自分を知らせるおつもりがないとすれば、いったいどうして人間を創造する必要があっただろうか。しかし、事実、善なる神は人間に神ご自身のかたち、すなわち私たちの主イエス・キリストのかたちを分け与えてくださり、同じかたちと似姿をもって人類を造ってくださった。どうしてだろうか。それはひとえに、神に似せられるというこの賜物を通して、絶対者、すなわちみことばご自身である方のかたちを知ることができるため、またこの方によって御父を理解することができるためである。創造者を知ることは、人間にとって唯一のほんものの幸せであり、祝福された生き方であるのだ。

しかし、すでに見たように、人間は愚かにも、受けた恵みをほとんど考えず、神から離れてしまった。自らのたましいを完全に汚したために、神を理解できなくなった。そればかりか、さまざまな種類のほかの神々を自分たちのために作り出したのだ。真理に代わって自分たちの手で偶像を作り、崇むべき神ではなく、崇むべきでない物を拝むようになった。パウロが「造り主の変わりに造られた物を拝」んだ、と述べたとおりである(ローマ一・二五)。さらに悪いことに、彼らは神に帰せられるべき栄光を、木や石のような物に、あるいは人に、移し変えたのである。もっと忌むべきことをも行なった。前の本で書いたとおりである。じっさいに、あまりにも不敬虔な彼らは、その情欲を満足させるため、悪霊を神として崇めたのだ。忌むべき動物を供え物とし、人間を焼いて捧げ物とした。それらはこの神々に対しての正しい献上物であった。それによって人間はますます狂気に満ちた神々の支配の下に置かれた。呪術も教えられ、さまざまな場所で神託が人々を堕落に陥れ、人間の生活で起こるあらゆる出来事の原因は星々にあるとされた。まるで目に見えるもの以外に何も存在しないかのようであった。ひと言で言うなら、不敬虔と無法がいたるところにはびこり、神もそのみことばも知られなくなった。しかし、神はご自分を人の目に隠されなかった。また、神を知る知識を与えるに際し、ひとつの方法でしかそれを得られないようにはなさらなかった。むしろ神はさまざまな形で、さまざまな方法で明らかにされたのである。

第十二節

お分かりのとおり、神は人類の有限性を知っておられる。神のかたちに造られたという恵みは、みことばなる方を知り、また彼を通して御父を知る知識を得るためには、確かに十分なものであった。けれども、この恵みが見過ごされてしまった事態に備えて、神はその御手のわざである被造物をも、創造主を知るための手段として提示しておられた。それだけではない。内側にある恵みをないがしろにする人間の性向は、つねに増大している。悪化し続ける人間の弱さに対処するためにも、神は律法を与え、人々のよく知る者たちを預言者として送られた。こうして、人々が天に目を向けずにぐずぐずしていたとしても、なお彼らの手近なところから創造主を知る知識を得られるようにされた。なにしろ、彼らは天上のことがらをほかの者たちから直接学ぶことができるのである。このようにして、神を知るために三つの方法が提示されている。広大無辺な天を見上げて、創造の調和について思いをめぐらすなら、御父のことばである宇宙の支配者を知ることができるはずである。すべてを統べ治める彼のご支配がすべての者に御父を明らかにするのである。あるいは、それがかなわないなら、聖者たちと話し、彼らを通じて、万物の造り主、またキリストの御父である神を知る知識を学ぶこともできよう。そうすれば、偶像礼拝が真理の否認であり、不敬虔の極みにほかならないことを理解できよう。あるいはまた、第三の方法として、なまぬるさから抜け出して、ただ律法を知ることによって正しい生活を送ることもできる。なぜなら、律法はユダヤ人だけに与えられたのではなく、神が預言者を送ったのはユダヤ人のためだけではなかったからである。確かに預言者が送られたのはユダヤ人に向けてであり、預言者を迫害したのもユダヤ人ではあったとしても。律法と預言者は、全世界が神の知識と霊的な生活を学ぶための神聖な学校であった。

神の善と愛はじつに、あまりにも偉大であった。ところが、人間が、一時の快楽に屈したことにより、そして悪霊の嘘と惑わしにより、真理に向けて顔を上げなかった。人間は悪を背負ったため、みことばの似姿を反映した理性的な人間ではなく、むしろ汚れた獣のようになったのである。

第十三節

人類のこの非人間化をご覧になった神は、何をすべきであっただろうか。悪霊の策略によって神を知る知識がこうして全地で隠されたのを前に、またこれほどひどい不正を前にして、神は沈黙を保つべきだったのだろうか。人間をこのように騙されたまま、神について無知なままになさるべきだったのだろうか。もしそうなら、人をはじめに神ご自身のかたちに造られたのは、意味があったろうか。みことばなる方のご性質をひとたび分け与えられた者が獣の状態に戻ってしまうくらいなら、最初からずっと獣のままで創造されたほうがまだ良いに決まっている。また、神がそのままにされるなら、人間が神の知識をひとたび得たことに何の益があろうか。神を知った人間が、その次にその知識を受けるにふさわしくないものになるくらいなら、神ははじめから知識を与えないほうが良かったに決まっている。似たようなことだが、人間が神を崇めず、ほかの物を創造主としたなら、人を創造した神ご自身にとって何の利益がありえようか。これではご自分ではなくほかの物のために人を造ったも同然ではないか。ひとりの人間にすぎない地上の王でさえ、みずからが植民地にした土地をほかの者の手に渡したり、ほかの支配者に明け渡したりすることを許さない。そのために手紙や友を送ったり、王自身がそこに赴いたりして、王の働きが無駄にならないように、人々の忠誠心を呼び戻すのだ。それならなおのこと、神は、被造物が神を離れて、神ならぬ物に仕えるようにならないために、忍耐強く骨身を惜しまないはずではないか。そのような過ちは彼らにとって徹底的な破滅を意味する上、神のかたちをひとたび分け与えられた者が破壊されるのは正しくないのだから、なおさらではないか。

では、神は何をなさるべきだったのか。人類の中に神のかたちを新しく造り、そのことによって人間がもう一度、神を知るようになるようにする以外に、神である方にいったい何ができようか。そして、このことは、神のかたちそのものである私たちの救い主イエス・キリストの来臨以外に、どうやってなしえようか。人間にはできなかった。人間はそのかたちに似せて造られたにすぎないから。御使いもできなかった。御使いは神のかたちに造られていないから。神のことばがご自分の位格において来られた。御父のかたちであるこの方だけが、人をそのかたちにかたどって再創造することがおできになるからである。

しかしながら、この再創造をもたらすために、彼はまず死と腐敗とを廃止しなければならなかった。それゆえ、彼は人間の肉体を持たれた。その肉体において死をすべての者のためにひとたび破壊するため、また人間をそのかたちに従って一新するために。御父のかたちだけがこの要求を不足なく満たすのだ。それを証明するために、ここに説明しよう。

第十四節

画板の上に描かれていた肖像画が、外から一面に汚されてしまったら、何が起こるかお分かりだろう。芸術家は画板を捨てたりはしない。肖像画のモデルが来て、描き直すためにまた座らなければならない。そうしてモデルを見ながら同じ画板の上にもう一度描く。それはまったき聖なる神の御子についても同じである。御父のかたちである彼が来られて、私たちの只中にとどまってくださった。それは、人類を彼の似姿に一新するため、失われた羊を探し出しすためであった。福音書で彼がおっしゃっているとおりである。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ一九・十)。彼がユダヤ人におっしゃったことばも、それを説明している。「人は、新しく生まれなければ、……」(ヨハネ三・三)人々は母から生まれるという自然の誕生のことを考えたが、そのことについて述べたのではない。そうではなく、神のかたちにたましいが新生し、再創造されることについて語られたのである。

みことばなる方だけがなしうることは、これにとどまらない。愚かな偶像礼拝と不信仰が世界を席巻し、神の知識が隠されたとき、世界に御父のことを教えるのはだれの役目であったか。人間の役目だ、と言えるだろうか。だが、人には世界中を駆け巡ることはできないし、仮にできたとしても人の言葉が十分な影響力を持つことはできない。それに、人は独力では悪霊どもにかなわない。さらに、最良の者でさえも悪に騙され、縛られていたのだ。だから、どうして人間がほかの者のたましいと心を変えることができようか。あなた自身の中で心根がねじまがっているのだから、あなたがほかの人の心根をまっすぐに直すことはできない。あるいは、あなたは言うかもしれない。神の創造した万物は御父を知るに十分であった、と。確かに、万物はいつでも存在していた。けれども、人間が過ちに陥るのをとめられなかった。だから、念を押しておく。神のことばこそが、ただひとり、この状況にあって要求を満たすことがおできになるのである。人のうちにあるすべてのものをご覧になり、創造したすべてのものを動かす方こそが。宇宙に秩序をもたらすことで御父を教えてくださったのは彼である。その同じ教えを一新するのは、この方が、この方だけが果たせる役目である。しかし、どうやってそれをすべきなのだろうか。あなたはこう答えるかもしれない。――前と同じ方法で。創造のみわざによって、と。いや、それでは明らかに不十分だ。前の時に、人間は天のことをよく考えなかった。今はもう反対方向を見ているのだ。それゆえ、きわめて自然で合理的な結論として、人間に良いものを与えようと欲しておられるこの方は、ほかの者たちと同じような肉体をとって、人として住まわれる。人間のレベルにまで降りたその肉体において行なわれたみわざを通して、ほかの方法では学ばない者たちに、神のことばである彼ご自身と、彼を通じて御父を知るようにされた。

彼は弟子たちを教える良い教師として、人のレベルにまで降りてこられ、単純な方法を使って人々を扱われる。聖パウロもこう言っている。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(第一コリント一・二一)。人間は神に思いをこらして上を見上げるということをやめた。反対に下を見て、造られた物や五感でとらえられる物の内に神を探していた。私たちすべての救い主である神のことばは、その大きな愛によって、肉体をとって人々のあいだに立つひとりの人として働かれた。いわば、人々の五感を途中まで満たしたのだ。彼はご自分から感覚でとらえられる対象となられた。五感で感じられる物の内に神を探し求めていた者たちが、御父のことを認識できるためであった。これは、神のことばなる方の肉体における働きを通してのことである。したがって、人間と、人間と同じような心を持つ者であれば、感覚世界のどちらのほうを向いても、真理がはっきり教えられていることに気づく。彼らは被造物を見て畏敬の念に打たれるだたろうか。被造物がキリストを主と告白するのを彼らは見たのだ。彼らの心は、人間を神々と見なすほうに流されやすいだろうか。救い主の働きの独自性は、人間のなかで彼おひとりが神の御子であると認めさせる点にあるのだ。彼らは悪霊に惹かれただろうか。主が悪霊どもを追い出したのを彼らは目撃し、神のことばなる方だけが神であって、悪霊どもは断じて神々などではないということを学んだのだ。彼らは英雄崇拝や死者崇拝に翻弄されただろうか。救い主が死者の中からよみがえったという事実が、これらほかの神々が偽りであることを示したのだ。復活は、御父のことばなる方が唯一の真実な主、死さえもひざまずく主であることを示している。このような理由から、彼はひとりの人として生まれ、現れた。このような理由から、死んで、よみがえられた。そうして、その働きによってほかのすべての人間のわざを覆い隠し、御父を知らせるために、あらゆる偽りの道から人間を呼び戻そうとなさった。主ご自身がこう言われているように。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ一九・十)。

第十六節

さて、人間の心がついに五感で感知できるものばかりに向けられるまでに落ちてしまった。このとき、みことばなる方は肉体において現れることをよしとなさった。ひとりの人となられて彼らの感覚をご自分に向けさせ、人としての行動を通して彼ご自身が人であるばかりか神でもあること、真実な神のみことばであり知恵であることを、彼らにはっきりと分からせるためであった。パウロが私たちに伝えようとしたとおりである。彼はこう言っている。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(エペソ三・一七〜一九)。みことばなる方の自己啓示は、あらゆる次元で現されている。高きには、被造物において見られる。低きには、受肉において、死において、ハデスにおいてある。その広さは、全世界に渡る。万物は神の知識に満ち満ちているのだ。

彼がすべての者のための供え物をご自分が来られた直後に捧げることはなさらなかったのは、こういう理由からである。もしもすぐに肉体を死に捧げてよみがえったのなら、私たちの感覚でとらえられる対象となられるのをやめたことになる。そうではなく、彼は肉体にとどまり、ご自分をお見せになった。その肉体で働きをされ、彼が人であり、またみことばなる神でもあることを示すしるしを行なわれた。だから、救い主がひとりの人となることによって私たちのためにしてくださったことは二つある。ひとつは、死を打ち砕き、私たちを新しく造ってくださった。もうひとつは、彼ご自身は目に見えず五感でとらえられない方であったが、その働きを通じて目に見える方になり、御父のことばとして、全被造物の支配者また王として、ご自分を現されたのである。

先ほど述べた中にパラドクスがある。それをこれから精査しなければならない。みことばなる方は肉体によって制限されたわけではない。肉体で現れたことで彼の存在をあらゆる場所でも現すのが不可能になったわけでもない。彼が肉体をもって生きていたとき、彼のみこころと力によって宇宙を統べ治めることを放棄したのでもなかった。驚くべき真理は、みことばなる方は何ものの中にもとどまらず、むしろ万物をご自身の中にとどめたということである。被造物において彼はあらゆる場所にご自分を現す。しかし、彼のおられる場所は被造物と峻別なさっている。あらゆるものに秩序を与え、監督し、いのちを付与していて、すべてをご自分の中にとどめておられるが、しかもご自身はどんなものの中にもおられない。彼がおられる場所はただ御父の中だけである。全体としてもそうだが、部分としてもそうである。人間の肉体の中に存在しておられるが、その肉体にご自身でいのちを吹き込んでおられる。肉体の中にあっても、彼は全宇宙に対していのちの源であり、宇宙のあらゆる部分にご自分を現し、しかも宇宙全体の外側におられる。肉体の働きを通じても、世界への働きかけを通じても、ご自分を啓示されている。肉体の外にある物を見つめるのはたましいの働きであるが、ふつうはそのことによって物にいのちが与えられたり動かされたりすることはありえない。人が、たとえばある物について考えるだけで、それを別の場所に移動させることはとうていできない。あなたも私も、太陽や星を、家で座ってそれを見つめているだけで動かすなどということもできないのだ。ところが、人間の性質を持った神のことばなる方なら、話は違ってくる。肉体は彼にとって制限ではなく道具であった。彼はその中におられ、またすべてのものの中におられ、かつ、すべてのものの外におられ、ただ御父の中にとどまっておられた。彼はまったく同時に――これが驚異である――ひとりの人として人間の生活を送りながら、しかもみことばとして宇宙のいのちを保っておられ、御子として御父とつねに結合を持っておられた。そのため、処女から誕生したからといって彼は少しも変化しなかったし、肉体を持ったからといって汚されもしなかった。むしろ彼が肉体にとどまることで肉体はきよめられた。なぜなら、彼がすべてのものの中におられることは、それと性質を共有することを意味せず、彼は一方的にすべてのもののに存在を与え、存在を保つのだからである。まさに太陽が地上の物に光線を当てたからといって汚れることなく、一方的に万物を照らし、きよめるのと同様に、太陽を造られた方は肉体の中におられるのを知らせたかたといって汚されず、むしろ彼の内住によって肉体はきよめられ、よみがえらされているのである。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした」(第一ペテロ二・二二)。

第十八節

こういうわけで、よく理解しておかなければならない。この神聖なテーマについて論じる人々が、キリストが飲み食いしたことや生まれたことについて述べるとき、その肉体が、ひとつの肉体として生まれ、その性質にふさわしく食物によって維持されたということを言っているのである。その一方で、その肉体と結合を持っているみことばなる神が、宇宙に秩序を与えることと、その肉体の活動をもってご自分が人間であるばかりか神でもあることを示すこととを同時に行なわれたのである。その活動は正しく彼の活動であると言える。なぜなら、活動をした肉体はじっさいに彼のものであって、ほかのだれのものでもなかったからである。さらに、その活動はひとりの人としての彼に帰すべきことも正しかった。それは、彼の肉体がほんもので、ただ見かけだけで現れたのではないことを示すためであった。生まれたことや食したことといったごく普通の活動から、彼が事実として肉体をもって現れたことが認識されるのであった。しかし、肉体をもってなされた尋常ならざる活動によっては、ご自分が神の御子であることを証明なさった。それが、彼が不信仰なユダヤ人に語られたことばの意味である。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです」(ヨハネ十・三七〜三八)。

彼ご自身は目に見えない方であるので、創造した作品からご自分を知ることができるようにされた。それからまた、彼の神性が人間の性質をまとったとき、彼の肉体での活動こそが、彼がただの人間ではなく、神の力でありみことばであることを力強く宣言している。たとえば、悪霊に権威をもって命じ、追い出したことは、人間ではなく神としての性質である。人間にふりかかるあらゆる病気をおいやしになったのを見た者が、どうして彼をただの人であって神ではないと言い切れるだろうか。彼はらい病人をきよめた。足のなえた者を歩かせた。耳の聞こえない者の耳を聞けるようにした。目の見えない者の目を開けた。彼が追い出すことのできない病気も弱さもひとつとしてなかった。どんな素人が見ても、神のみわざだと分かるだろう。たとえば、生まれつき目の見えない者のいやしである。人の父であり造り主である方、人のすみずみまでコントロールしている方以外のだれが、生まれつき機能を失っている部分を回復させることができるだろうか。彼の神性はひとりの人となられた最初の段階からも明らかである。処女からご自分の肉体を形づくられた。そのことは彼の神性の小さな証明などではない。それを造られた方はほかのすべてのものの造り主でもあるからだ。どんな人でも、人間の父親なしで処女から生まれたという事実から、その肉体をもって現れた方がすべてのものをも創造なさった方であり、また主でもあることを推論できる。

また、カナで起きた奇跡を考えるとよい。水という物質がワインに変化したのを見た者が、それをなさった方こそが、変化させた水の創造者であり主でもあることを理解できないだろうか。海の上を乾いた地のように歩かれたのも同じ理由である。彼がすべてのものの主権を持っておられることを、見た者に証明するためであった。それから、わずかなものを多くに増やして、群衆に食べさせられた。五つのパンで五千人が満腹したのだ。これも彼が、まさしくすべての者をみこころに留められる主にほかならないことを証明していないだろうか。