アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』

第二章 神のジレンマおよび受肉におけるその解決(前編)

第六節

前章で見たとおり、死と腐敗が人類をつかんで離さないので、人類は破滅の途上にあった。神のかたちに造られ、みことばご自身に似た理性を与えられた人間は、跡形もなく消えそうになっていた。神のみわざは暗礁に乗り上げつつあった。堕罪にともなう死の法則が私たちを打ち負かし、もう逃げ場がなかった。起きていることは本当に不条理で不合理であった。もちろん、神がご自分のことばを撤回し、罪を犯した人間が死なずにいられるなどは考えられない。しかし、みことばなる方のご性質をひとたび分け与えられて「有」になった者が、腐敗によって非存在に帰するのは、同じくらい不条理である。神に造られた被造物が、悪魔のもたらした詐欺によって無に葬られてしまうのは、神の善なる性質に不相応である。人類の過失であれ、悪しき霊の欺きであれ、そうしたことで人類に対する神のみわざが消え失せるのは、まったくもって不合理である。では、神がみことばなる方に似せて理性的に造られた被造物が、事実滅びつつあり、その尊い神の作品が破滅の一途をたどっているなら、善なる神は何をすべきだったのか。人類が腐敗と死に落ちていくままになさるべきなのか。そうなさるのなら、そもそも何の益があって人類を造られたのか。造られたのちに滅びるままに捨ておかれるよりは、最初からまったく造られなかったほうがましなのは確実である。さらに、神ご自身の作品がまさに神の目の前で破壊されていくことに神が無関心であられるなら、そのことは神がいっさい人を創造しなかったよりもはるかに、神の善ではなく神の能力の限界を立証することになる。したがって、神が人間を腐敗の連れ去るままにしておくことはありえない。神ご自身のご性質に照らし合わせて、不合理であり、不相応だからである。

第七節

とはいえ、以上のことは真実であるものの、問題の全体ではない。すでに述べたように、真理の父である神が、私たちの存在を滅ぼさないために死に関してのことばを撤回するなど考えられない。神はご自分を偽り者とすることができない。では、神は何をすべきだったのか。神は人間に背きの罪の悔い改めを要求すべきだったのか。そうすることが神にふさわしいとあなたは言うかもしれない。さらに進んで、背きの罪によって人間は腐敗のとりこになったのだから、同じように悔い改めによって再び不朽へと戻ることができるのだ、と論じるかもしれない。けれども、悔い改めでは神の一貫性を守れない。死が人間を支配するのでなければ、神はなおも不真実であるということなるのだから。悔い改めが人間をその性質による結果から回復させるのではない。悔い改めという行為はせいぜい罪を犯すのをやめさせるだけだ。罪を犯したときにそれに続く腐敗がなければ、悔い改めで十分だっただろう。ところが、背きの罪がひとたび始まると、腐敗が支配力をもち、人間の固有の性質となった。神のかたちに造られた被造物として、人間に与えられていた恵みは取り去られた。悔い改めではまったく不十分である。このような要求を満たす恵みと回復のために必要なのは何か、いや、誰であるか。はじめに万物を無から創造なさった神のことばご自身のほかに誰がいるだろうか。この方が、そしてこの方だけが、朽ちる者をふたたび朽ちない者へと戻し、御父の人格の一貫性をあらゆる点で保たれる。結果的に、御父のことばなる方、すべての上におられるこの方だけが、すべての者を再創造することがおできになり、しかもすべての者のために苦しみを受け、御父の前ですべての者の代表としてふさわしい方であった。

第八節

それでこの目的のために、無形の、不朽の、霊的な方である神のことばが私たちの世に来てくださった。じつはある意味で、昔からこの方は世から遠く離れていなかった。創造のみわざでこの方によらずになされた部分はひとつもなかったからである。彼はたえず御父との結合を持っておられる一方で、存在するすべてのものを満たしておられる。しかし今や、彼は新しい方法で世に来られた。私たちに対する愛と自己啓示によって、私たちのレベルまで身をかがめて。この方ご自身に似せられ、御父のみこころを具現化した理性的な種である人類が、存在をすり減らし、死がすべての者を腐敗において支配しているのを彼はご覧になった。腐敗がますます近く私たちをつかんでいるのをご覧になった。それは堕罪の罰だったからである。また、律法が成就される前に廃止されるということがどれほどあり得ないものであるかをもご覧になった。ご自身の造った者たちが消滅していくことがどれほど似つかわしくないかをご覧になった。並外れた悪意が人間の中でどれほど増大していくかをご覧になった。また、どんな人間でも必ず死ぬのをご覧になった。このすべてをご覧になり、私たち人類をかわいそうに思い、私たちの限界にあわれみを感じ、死が支配権を持つことに我慢ならず、彼の被造物が滅びて私たち人間のための御父のみわざが無に帰すよりは、この方ご自身が私たちと同じ人間の肉体をとるほうをお選びになった。ただ単に肉体をとったりただ単に現れたりしようとなさったのではない。もしそうであったら、ほかのもっと良い方法でご自分の神としての尊厳を現すことができたはずである。そうではなく、しみも汚れもない処女から、人間の父親を介さずに、直接に肉体をとったのである。男性との性交で汚されていない、純粋な肉体を。力あるこの方、すべてのものの造り主が、処女の中にみずからこの肉体を、ご自分の神殿として用意なさった。この方が知られるための道具として、ご自分のとどまる住まいとして、肉体をご自分のものとされた。こうして私たちと同じ肉体をとられた。私たちの肉体はすべて死の腐敗の影響下にあるので、この方はすべての人の代わりにその肉体を死に明け渡し、また御父に捧げた。このことをなさったのは私たちへのまったき愛のゆえである。それは、彼の死においてすべての者が死に、それによって死の法則が廃止されるためであった。なぜなら、彼の肉体において死の運命が成就され、それ以降、人に対する死の力が無効になったからである。このことをなさったのは、腐敗に帰った人間をふたたび不朽へと戻すため、そして彼の肉体を使った死を通して、彼の復活の恵みにより、人間を生かすためであった。そうして、火からわらを取り上げるようにして、彼らから死を取り上げて消したのだ。

第九節

みことばなる方は、腐敗が死をもってしか取り除けないことに気づいていた。しかし、彼ご自身は、みことばであるので、不死の存在であり御父の子であったため、死ぬなど不可能であった。そのため、肉体があれば死ぬことが可能になるとお考えになった。肉体が、すべての上におられるみことばに属することによって、その死において不足なくすべての者の身代わりとなることができ、しかもその肉体そのものは彼の内住によって不朽のままでありつつも、復活の恵みによって、ほかのすべての者たちも腐敗を終わらせるようになるためである。彼の取った肉体を、いっさい傷のない捧げ物また供え物として死に明け渡すことによってこそ、人間という兄弟たちのために同等の供え物をささげたことになり、死はただちに廃止された。当然ながら、神のことばはすべての上にあるので、彼がご自分の神殿とすべての者のいのちの身代わりとなる肉体という道具をささげたとき、死においていっさいの要求が満たされた。また当然ながら、不死なる神の御子と私たち人間の性質がこうして結びつくことによって、すべての人が復活の約束において不朽を着せられた。なぜなら、人類は連帯しているので、ひとりの人の肉体にみことばが内住するという徳によって、死にともなう腐敗がすべての者にふるっていたその勢力を失ったからである。ある偉大な王が大きな町に入って、その中のひとつの家に泊まったら、どうなるかお分かりいただけるだろう。王がそのひとつの家に泊まったがために、町全体が栄誉を受け、敵も強盗もその町に危害を加えなくなる。同じことがすべての王である方にも言える。彼が私たちの国に入ってこられ、多くの者たちの中のひとつの肉体にとどまった。その結果、人類の敵の企ては阻止され、以前は力をもって彼らを捕らえていた死の腐敗が、あっさりとその働きをやめた。すべての主であり救い主である神の御子が私たちのあいだに来られて死を終わらせてくださらなかったら、人類は完全に滅びていたに違いない。

第十節

この偉大なみわざは、じつに神の善なる性質と完璧に合致している。王の建設した町が、住民の不注意のせいで強盗に攻撃されたとしよう。王はそれを放置せず、人々の怠慢よりも王自身の名誉を考慮して、強盗に復讐し、町を破滅から救うものである。とすればなおのこと、まったき善なる御父のことばなる方が、ご自分でその存在を呼び出した人類を気にかけないはずがない。そればかりか、ご自分の肉体を供え物とすることによって、人類が自らの身に招いた死を廃止され、ご自分の教えによって彼らの怠慢を正された。こうしてご自分の力によって彼は人間の性質全体を回復してくださったのである。救い主の霊感を直接受けた弟子たちもこのことを保証している。ある箇所でこう書いてある。「というのは、キリストの愛が私たちを囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(第二コリント五・一四〜一五)。また、別の箇所ではこう言っている。「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」(ヘブル二・九)。同じ著者が続けて、どうしてほかの者ではなくみことばなる神こそが人間になる必要があったのかを述べている。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです」(ヘブル二・一〇)。著者の言おうとしているのは、人類を腐敗から解放することは、はじめに彼らを創造した方にこそふさわしい役目であるということである。著者はまた、みことばなる方が人間の肉体を持ったのは、肉体を持つ者たちのために犠牲の供え物とするためであったことを次のようにはっきりと指摘している。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル二・一四)。彼はご自分の肉体を犠牲にすることによって二つのことをなさった。第一に、私たちの道をふさいでいた死の法則を終わらせてくださった。第二に、復活の希望を与えることで、私たちのために新しいいのちの始まりを用意してくださった。ひとりの人によって死の力がすべての人に及んだが、人類を創造したみことばなる方によって死が打ち砕かれ、いのちが新しく現れたのである。それこそが、キリストの真実なしもべであるパウロが言ったことである。次の箇所などがそうである。「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」(第一コリント十五・二一、二二)。したがって、今や、私たちがひとたび死ねば、もはや死を宣告された者としてふるまうことはない。むしろ、今まさによみがえりの過程にある者として、すべての人の復活を待ち望むのだ。「その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます」(第一テモテ六・一五)。それを私たちの上に臨ませ、授けてくださったのは神である。

以上が、救い主が人間となった第一の理由である。しかしながら、彼が私たちのただ中に来てくださったという祝福された顕現には、ほかにも合理的な理由がある。続いて、それらについて考えなければならない。