アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』

第一章 創造と堕落

第一節

前の本(『異教徒反駁』)で私たちは、異教の偶像礼拝と偽りの恐れがどのような起源から生じたかに関する二、三のおもな論点を十分に論じ尽くした。また、神の恵みによって、次の点を簡潔に指摘しておいた。すなわち、御父のことばそのものが神であること、いま存在している万物はその存在をこの方のみこころと力とに支えられていること、御父が創造に秩序を与えるのはこの方を通してであること、この方によって万物は動き、この方を通して万物は存在を受け取ることを。さて、キリストを真実に愛する者、マカリウスよ。私たちの聖なる宗教の信仰において、さらに先に進まなければならない。ことばが人となったこと、神が私たちのあいだに現れたことについても考察しなければならない。その神秘を、ユダヤ人はののしり、ギリシャ人はあざけるが、私たちは崇めている。みことばは、人になられたことにおいて、ごくごく取るに足らない者に見えるので、彼に捧げるあなたの個人的な愛と献身もますます大きくなるだろう。というのも、信じない者たちが彼を侮蔑すればするほど、彼の神性がますます明白になるのは事実だからである。彼らが人には不可能であると除外するものごとに対して、この方ははっきりと可能であることを示す。彼らが不合理であるとあざけるものごとに対して、この方の善が完全に調和させる。知ったかぶりをするこの者たちが「たかが人間ではないか」と笑いぐさにするものごとに対して、この方は本来の御力によって神であることを宣言する。それゆえ、十字架の上でこの方が見せるまったくの貧しさと弱さと思えるものが、偶像の華やかな誇示をひっくり返す。あざける者と信じない者を、静かにまたひそやかに征服して、この方こそが神であることを認識させるようになるのだ。

さて、これらのことがらを扱うに際してまず必要なのは、すでに言われてきたことを思い起こすことである。あまりにも偉大でいと高くあられる御父のことばが、わざわざ肉体の姿をとって現れた理由を知らなければならない。肉体がこ自分の本性にふさわしいものであるとお考えになったからではない。まったく違う。みことばとしてのこの方にはもともと肉体がないのだから。彼が人間の肉体をとって現れた唯一の理由は、御父の愛と善から出ていることだが、私たち人間を救うためである。では、世界の創造と、その造り主である神から始めることにしよう。あなたがまず理解しなければならない事実は次のことだからである。すなわち、ご自身の名を「ことば」という方がはじめに世界を造られ、また彼が新しい創造をもなさったということである。だから創造と救済に矛盾はない。ひとりの御父が両方の働きのために同じ仲介者を立て、世界をはじめに造られた同じ「ことば」を通して世の救いをもたらしたからある。

第二節

宇宙と万物の創造に関してはさまざまな見解があり、おのおのが自分の好みに合う理論を提示してきた。たとえばある人は、万物はひとりでに発生し、いわば行き当たりばったりにできたと言う。エピクロス派の人々はそういう考えを持っている。彼らは宇宙の背後にいかなる「心」もないと言う。この立場は、彼ら自身の存在も含めて、あらゆる経験的な事実にも反する。というのも、万物がある「心」の結果として造られたのではなく、そのように自動的に発生したのなら、確かに存在はしていたとしても、どれものっぺりと同じようでお互いの区別がないはずである。宇宙にあるものは、どれも太陽であったり、どれも月であったりして、何であれ同じであるに違いない。人間の肉体も、全部が手であったり、全部が目であったり、全部が足であったりするはずである。けれども、事実、太陽も月も大地もそれぞれが異なる。人間の肉体でさえ、足や手や頭など、異なる部分でできている。このように物のはっきりした区別があることは、万物が自然発生したのではなく、先行する原因者がいることを立証している。その原因者から、私たちは、すべての設計者であり創造者である神がおられることを知ることができる。

またある人は、ギリシャ人のあいだにそびえ立つ巨人、プラトンが述べた立場をとる。彼が言ったのは、神は万物を創造したけれど、もともとあった物質、新たに創造されたのではない物質を材料にして造ったということである。ちょうど、大工がすでに存在している木材からのみ、物を作るのと同じである。しかし、この立場をとる人は、神ご自身が物質の原因であることを否定することで、じつは神に限界を設けているということを理解していない。ちょうど、木材がなければ何も作れないということが疑いなく大工にとっての限界であるのと同じである。ほかの原因がなければ、つまり物質そのものがなければ何も行えないのなら、いったいどうして神を創造主とか造物主とか呼べようか。物質が存在しているときにだけ働くことができ、ご自分で物質を新たに存在させることができないのなら、もはや神は創造主ではなく職人にすぎない。

それからまた、グノーシスの理論がある。彼らは私たちの主イエス・キリストの父なる神とは異なる、別の万物の造物主を自分たちで捏造している。このような考え方は単純に、聖書の明白な意味に対して目をつむっている。たとえば、主がユダヤ人たちに創世記に書かれていることを思い起こさせて、こうおっしゃった。「創造者は、初めから人を男と女に造って……」次に、それゆえ人が両親を離れて妻と結ばれるということを示され、続けて創造主に言及してこうおっしゃった。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ一九・四〜六)。この箇所から、いったいどうやって父なる神と無関係な創造を取り出せるというのか。さらにまた、聖ヨハネがすべてをひっくるめてこう言っている。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハネ一・三)。それならいったいどうして、キリストの父なる神ではない別の者が造物主になりうるというのか。

第三節

そのようなものは人間の作り出した考えである。しかし、彼らの愚かなおしゃべりが不敬虔であることは、クリスチャンの信じている神の教えにはっきりと示されている。その教えから次のことを知る。宇宙の背後には「心」があるので、宇宙がひとりでにできたのではないということを。また、神は有限な者ではなく無限な方であるので、宇宙はすでに存在していた物質から組み立てられたのではなく、無から、まったく何も存在しないところから、神がみことばによってすべてを創造されたということを。創世記でもこう言われている。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記一・一)。また、あの最も有益な本『牧者』にこうある。「万物を無から有へと創造し、秩序を与えた唯一の神がおられることを第一にまっさきに信じなさい」(ヘルメスの牧者二)。パウロも同じことを指摘している。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(ヘブル一一・三)。なぜなら、神は良い方、というよりも、すべての良いものの源泉であられる方であり、良い方が何かについて意地悪になったり与えるのを惜しんだりするのはありえないからである。そういうわけで、何ものに対しても存在を与えるのを惜しまない神は、ご自分のことばである私たちの主イエス・キリストによって、万物を無から創造した。そして、神が地に造られたこのすべての被造物のなかでも、人類に対して特別な恵みを取っておいてくださった。彼らの上に、すなわち動物と同じように本質的には永続的でない人類の上に、神はほかの被造物にはない恵みを与えてくださった。それは、神ご自身の姿の刻印である。みことばそのものである神ご自身に似た、理性的存在という取り分である。その結果、神のかたちのうつしである彼ら自身が、限られた程度であるとはいえ、神と同じような理性的存在となって神のみこころを具現化し、パラダイスにある祝福された唯一の真実な聖徒のいのちにあって、永遠に生きながらえることができた。けれども、人間の意志はどちらのほうにも移り変わる可能性があったので、神はご自分が与えたこの恵みを、はじめから条件付きにすることによって確実なものとなさった。その条件はふたつある。すなわち、戒めと場所である。神は人間をご自分のパラダイスに置き、ひとつの戒めを与えた。もし人間がその恵みを守り、もともとの罪なき状態を保持するなら、悲しみもなく、痛みもなく、思い煩いもない、パラダイスのいのちは彼らのものとなるはずだった。そして、そこでの生活ののちには、天での不死が保証されていた。しかし、もし人間が堕落し、生来の美しさを投げ捨てて卑しい者となるなら、彼らは死という自然の法則のもとに置かれ、もはやパラダイスにはいられず、その外で死ぬことになり、死と腐敗の中にとどまることになるのであった。これこそが聖書が私たちに伝えていることである。神の命令はこう宣言している。「神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記二・一六〜一七)。「あなたは必ず死ぬ」――ただ単に死ぬのでなく、死と腐敗の状態にとどまるのだ。

第四節

みことばが人となったことについて話し始めたというのに、どうして人類の起源を論じているのかと不思議に思っているかもしれない。人類の起源というテーマは、みことばが人となったというテーマと関連がある。その理由は、人類の起源にあるものが、みことばが下って来られるのを余儀なくさせた私たちの悲惨な事件であり、この方のあわれみを喚起した私たちの背きの罪であり、この方が私たちを救い、私たちの間に現れるのをお急ぎになった原因だからである。彼が人のかたちをとって来られた原因は、私たちである。私たちの救いのために、大きな愛によって、彼が人間の肉体をもって生まれ、かつ現れてくださった。というのも、神が人をこのように(つまり肉体を持った霊として)造り、人が不朽の性質にとどまることを願われたからである。けれども、人は神の深いみこころをないがしろにして、みずからの企てによって悪に向かったので、死の法則のもとに置かれざるを得なくなった。神が創造なさった状態にとどまることをやめた人間は、存在そのものが腐敗の過程に入り、完全に死の支配のもとに置かれた。戒めに背いたことで、人はもともとの性質にふたたび戻ったからである。つまり、はじめに無から有へと人が造られたように、こんどは腐敗を通じてふたたび無に帰される途上にある。みことばの現前と愛が人を存在へと呼び出したのだから、人が神の知識を失ったとき、必然的に人は存在をも失った。神おひとりだけが存在する方であるから、悪は非存在である。悪は善の欠如であり、善の反対である。生まれながらの人間は、無から造られたのだから、もちろんいずれ死ぬべき者である。ところが人間は、存在する方の似姿をも持っているので、たえず思慮深くあってその似姿を守るなら、人の生まれながらの性質は力を奪われ、人は不朽を保つのだ。だから、知恵の書でこう述べられている。「神の律法を守ることは不朽の保証である」(知恵六・一八)。そして、不朽の性質を得た者は、そのときから神のようになる。聖書が言うとおりである。「わたしは言った。おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう」(詩篇八二・六〜七)

第五節

それゆえ、これは人間の苦境だった。神は人間をただ単に無から創造しただけでなく、みことばの恵みによって、いつくしみ深くご自身のいのちをも人間に与えていた。そののち、悪魔の目論見によって、永遠の存在から朽ちる存在へと変わった彼らは、死において自分の腐敗を招くようになった。先に述べたように、人間は生まれながらに腐敗の法則のもとにあったが、みことばと結びつくという恵みによって、彼らがはじめに創造されたままの罪なき美しさを保つなら、自然の法則から逃れることができるはずだったのに。いわば、人間の前に現れたみことばが、自然の腐敗からも守っていたのだ。知恵の書もこう言っている。「神は人を不朽の者として、また神ご自身の永遠のかたちとして創造しました。ところが、悪魔の嫉妬により、死が世界に入りました」(知恵二・二三)。これが起きたとき、人に死が入り、腐敗が自然の度をはるかに超えて猛威を振るい、支配するようになった。戒めに背くならそのような罰を受けると神が警告したとおりであった。じつに、人は罪を犯したことで取り返しがつかなくなった。というのも、はじめに悪を発明して、そのため死と腐敗のとりこになった彼らは、少しずつ悪から最悪へと進んだからである。ひとつの悪にとどまらず、貪欲に次々と新たな種類の罪を発明した。姦淫と盗みがいたるところにあり、殺人と強奪が地に満ちた。法は腐敗と不公正にまみれて無視され、すべての人がありとあらゆる不正を、単独でも共謀でも犯した。人々は互いに悪を競い合い、町は町と争い、国は国と対立し、全地が内紛と闘争で分裂した。自然に反する罪を犯したことも知られずには済まず、キリストの殉教の使徒がこう言っているとおりである。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(ローマ一・二六〜二七)