A・B・シンプソン『神癒の福音』

付録 いわゆるクリスチャン・サイエンス

多くの人が、この奇妙な反キリスト教的な誤りを、不思議なことに神癒と混同しています。また、よくわかっているはずの多くの人が、それが配布するおびただしい数の浅薄なトラクトや出版物によって、知らず知らずのうちにそのわなに引き込まれています。それらの出版物は、その本当の教えや不信仰の哲学には一切触れず、症状を無視することなど、簡単で一見無害な指示をいくつか載せているだけなのです。そこで私たちは、私たち自身の本やほかの本から、その本当の性格を注意深く述べた文章をいくつか、またその権威ある書物からの直接の引用を、ここに付け加えます。この哲学は、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを否定します。キリストのからだの実在を否定します。ですから、その教えは反キリスト的です。これは神癒ではありません。両者のあいだには何の交わりもありません。これは、偽って科学と呼ばれているものの惑わしの一つです。これはキリスト教を根底から崩すでしょう。これは最も致命的な不信仰です。これは贖いを完全に無にしてしまいます。罪がないのなら、贖いもありえないからです。こんな偽りによって癒されるくらいなら、私は一生あらゆる肉体の苦しみを味わいながら病んでいるほうがましです。

その多くは漠然としていてわかりにくいものですが、教理や原理がはっきり述べられているところでは、どこでも聖書とまったく相いれません。ある人がすでに言っているように、それは少し仏教に似ていますが、それ以上に、イギリスの理神論と観念論にドイツの汎神論を合わせたものによく似ています。それは、物質の存在、神による物質的宇宙の創造、イエス・キリストの贖い、そしてキリスト教体系に特有の教理を、はっきりと否定しています。それは一連の原理を掲げていますが、そのいくつかをエディ夫人の標準的な書物から引用します。

クリスチャン・サイエンティストの綱領

一、人格的な神も、人格的な悪魔も、人格的な人間も存在しない。

二、神は人格ではなく原理であり、物質ではなく心である。この原理は、聖書が宣言しているもの、すなわちいのち、真理、愛である。

三、完全な心、すなわち原理である神は、完全な観念を含み、それだけが実在するもの、永遠なるものである。

五、霊が唯一の実体である。まさに「望んでいる事がらの実体、まだ見ていない事実の証拠」である。霊的なもの、永遠なものは実体であり、物質的なもの、一時的なものは実体ではない。

十、人間は神の観念、心の概念であったし、今もそうである。この観念は心と共存し、心と共に永遠である。それゆえ、人間は永遠に心の中にあったが、心が人間の中にあったことは一度もない。物質的な観念や人格的な人間は存在したことがない。すべては心であり、物質は存在しない。すべては調和であり、不調和は存在しない。すべてはいのちであり、死は存在しない。すべては善であり、悪は存在しない。すべては神とその観念である。

十一、科学は、物質すなわち死ぬべき肉体が、信念と幻想にすぎないと判定する。存在についてのこの科学的理解をもって病や罪や死を包囲するなら、神と人間についての私たちの言明が真実であるとわかるであろう。また、それと反対の言明こそ、真理が追い出す誤りと不調和であることもわかるであろう。……異教ローマの神話が神についてのより霊的な観念に道を譲ったように、私たちの物質的な神学、すなわち教理的な宗教も、物質的な人間が示すよりも霊的な神の観念に道を譲るであろう。そしてついには、あらゆる物質性が思考の中で消え去り、有限なものは無限なものに場を譲るであろう。非人格的で、限りなく、誤ることのない観念と、その観念の非人格的で、限りない、すなわち無限の原理が現れるであろう。そして「御国が天にあるとおり地にも」実現するであろう。

十三、霊すなわち神はただ一つである。それゆえ、霊たちや神々は存在せず、悪霊も存在しない。霊は神だからである。人格的な神、人格的な人間、人格的な悪魔、悪霊と善霊は、神学の作り話であり、最終的には神と人間についての反対の科学に道を譲らなければならない単なる信念にすぎない。

十八、いのち、真理、愛が三位一体、すなわち三一の原理であり、三つにして一つ、働きにおいても実体においても同じであって、これらが唯一の神である。聖霊は神の科学であり、この三一の原理を啓示し説明し、すべての真理に導く。キリストは神の別名にすぎず、イエスは一人の人間の名であった。イエスの受胎は霊的なものであった。マリアの霊性は、不死の心が真理と愛のよりよい似姿、すなわち善にして純粋なイエスのうちに映し出されるための透明な媒体であった。マリアの神の観念と人間の概念には、男性的な、すなわち感覚的な思考の要素が入り込んで、その観念を汚すことはなかった。こうしてイエスは、真理と誤り、魂と感覚のあいだに立つ仲介の観念となった。それは神に逆らうことなく、病人を癒し、感覚の幻想、すなわち物質の中にいのちと知性があるという信念を払いのけた。そして非人格的な真理を明らかにした。すなわち、魂と神は一つであり、「わたし」すなわち父であるという真理である。

十九、私たちの教会はキリストの上に建てられている。そのキリストとは人格ではなく、キリストが「道であり、真理であり、命である」と言われた原理である。クリスチャン・サイエンスこそがその道であり、その土台は永遠である。

ボストンのゴードン博士は、その教えを次のように要約しています。クリスチャン・サイエンスは自らを「神についての理解」と呼んでいますが、これはギリシャ語の「テオソフィア(神智学)」を訳したものにすぎません。神智学の根本的な公理の一つは、次の文に示されています。「人格的な悪魔は存在しない。神秘的に悪魔と呼ばれるものは、神の否定であり反対である。そして神は『わたしは有る』、すなわち肯定的な存在であるが、悪魔は有るものではない」。その綱領は、「人格的な神も、人格的な悪魔も、人格的な人間も存在しない」という驚くべき宣言で始まっています。

神のことばに明らかに矛盾していることに加えて、それが私たちの敬虔な思いに与える衝撃についても告白しなければなりません。イエスが絶えず形而上学者、クリスチャン・サイエンスの実証者として語られ、「地上を歩んだ人の中で最も科学的な人」と呼ばれるのを聞かされるのです。園での苦悶の原因は、イエスが「物質の中にいのちがあると信じるというまったくの誤り」に触れられたことだと言われます。十字架の上では、この世に「神の科学の模範と証明」を示しておられたのだと言われます。イエスのキリスト教が「罪と病と死を滅ぼしたのは、それが形而上学であったからであり、人格的な感覚が十字架を負い、完全な原理の右に達した」のだと言われるのです。

これまで述べてきたことからすれば、クリスチャン・サイエンスを、聖書で「病んでいる人を救う」と言われている「信仰による祈」と区別する必要はほとんどないでしょう。私たちの知るかぎり、この約束を信じ、それを用いる人で、その成就が心による心への作用にかかっていると考えた人はいません。「信仰治療」と時に呼ばれるものを信じる人はみな、それが苦しむ人のからだに対する神の直接的で超自然的な働きの結果であると考えています。クリスチャン・サイエンスは、病人の回復のための祈りの効力をはっきりと否定しています。こう言っています。

「神に病人を癒してくださいと願っても、愛の耳に届くという点では、その常なる臨在以上の効果はない。それがもたらす唯一の有益な効果は、より強い信仰を通して心がからだに作用し、からだを癒すことである。しかしこれは、一つの信念が別の信念を追い出しているのである。人格的な神への信念が病気への信念を追い出しているにすぎず、癒しをもたらす原理の理解を与えるものではない」(『科学と健康』一七一ページ)。

ここでは、異なる二つのものの対立があまりにもはっきりしているので、それに注意を促すだけで十分です。

シカゴのグリーン・ウッド牧師は、次のような力強いことばを付け加えています。「この科学の隅のかしら石は、次の公準である。すなわち、いのちの不死の基礎は魂であってからだではなく、いのちであって死ではない」。つまり、いのちの不死の基礎はいのちである、言い換えれば、いのちはそれ自身の基礎だというのです。もう十分でしょう。これは、升の中でネズミが自分のしっぽを追いかけてぐるぐる走り回っているのにそっくりです。これは土台のない幻の建物ではないでしょうか。

これこそ、イスラエルの王サウルがそれに頼ったために王国といのちを失った、あの口寄せではないでしょうか。神政のもとでは死をもって罰せられたものではないでしょうか。これこそ、私たちの主イエス・キリストのからだは神話である、あるいは今言われているように観念であると主張した、一世紀のグノーシス主義の神秘思想ではないでしょうか。このグノーシス主義の神秘思想に対抗するために、ヨハネは第一の手紙を書きました。その中で彼は、神の権威によって、人間イエスは神話ではなく、「観念」でもなく、まことの人格、実在の人間であったことを示しています。第一ヨハネ四章二、三節を見てください。「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている」。また五章では、イエスは神の子であると言われています(第一ヨハネ五・五)。そして「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい」(第一ヨハネ五・二一)とあります。終わりの時については、こう書かれています。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく」(マルコ一三・二二〜二三)。すべての人は警戒してください。この鬼火を追いかけた結果、自分が選民ではなく、仏教とグノーシス主義の神秘思想にだまされた者であると明らかになることのないように。それは十九世紀のキリスト教国アメリカに、「クリスチャン・サイエンス」の装いのもとで、ひそかに、まがい物として押しつけられたものなのです!