第五章 聖書の証言(その二)
中風の人(マルコ二章)
(一) これはキリストの癒しの奇跡の中で最も注目すべきもののひとつです。ここで初めて主は罪と病気を結びつけて教え、ご自分が罪を赦す権威を持っておられることを明かされたからです。この時以降、キリストは神の冒瀆者と見なされるようになりました。この哀れな男は癒しを求めて来ましたが、主はもっと深い必要が先に満たされるべきであるということを知っておられました。主の霊的ないのちは肉体的ないのちに先行しなければなりません。そのため、最初に話されたのは赦しのことばでした。「子よ。あなたの罪は赦されました」。私たちも同じように始める必要があります。いったいどれだけの人が、自分の癒しの必要を通じて自分の救いの必要に気づくよう導かれてきたことでしょうか!
(二) その後で肉体的癒しがありました。しかしこの癒しも、大胆な従順の信仰を自ら実行することによって起きたものでした。男は床に伏したままで癒されたのではありません。自分で起き上がり、床を取り上げ、自分の足で歩き出さねばなりませんでした。キリストがあなたを癒されるとき、床に伏したままで癒されるのではありません。あなたはキリストの力により頼んで、自分で立ち上がり、自分の足で踏み出さなければなりません。
(三) 男が癒されたのは、イエスのもとに運んできた人たちの信仰のおかげであると一般には思われていますが、そうではなく男自身の信仰によるのです。周りの人たちの信仰が男をイエスの足元に置き、罪を赦すあわれみのみことばを聞けるところにまで運んだことは確かです。けれども、癒しを自分のものにするためには本人の信仰が必要でした。しかも、群衆の前で立ち上がり床を抱えて歩くには、本物の信仰でなければなりません。他人の信仰が大いに役立ち、私たちの信仰を励ましてくれるのは事実ですが、信じない心のままでは主から何もいただけないかもしれません。
(四) 癒しの行われる場所というものは、赦しの証としても、キリストの救いの御力のしるしとしても、非常に厳粛な場所です。主がこの男を癒されたことによって、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを人々は知ることができました。主は現在も、癒しの奇跡によってご自分の福音が現実であることを世に知らしめたいと願っておられます。私たちの人生に臨む肉体的な悪に対して、主がそれを凌駕する十分な力を現されないとすれば、主の霊的な賜物が現実のものであることをどうして人に信じてももらうことができるでしょうか。実生活で起きるさまざまな現実的な困難に立ち向かう十分な力が信仰にないとすれば、その宗教が本物であるとどうして確信することができるでしょうか。
ベテスダの動けない病人(ヨハネ五章)
(一) この奇跡は主の働きの中期ごろにエルサレムで起こりました。安息日に公然と意図的に癒しを行った最初の例です。この奇跡は、病気と癒しは世俗的なものであるという人々の愚かな考えに真っ向から否を突きつけるために行なわれました。また病気の癒しは安息日に行なうにふさわしい神聖なものであって、主の霊的働きの一部であることを示すためでもありました。現在でも多くの人が肉体の重要性を強調することを過剰に恐れています。キリストが肉体に触れるときにはいつも、肉体は聖なるいのちと祝福の通る経路となり、またそれを入れる器となりますが、その事実を人々は忘れてしまっています。
(二) 次なる重要な教訓は、人は癒しのためにいかに空疎なものを頼りにしているかです。この男は癒やされるためにベテスダの池で待機していました。癒しの効力がまれにしか発揮されないという厄介な迷信を信じていました。ある時期になると御使いが降りてくるという一節がありますが、これは後世の付加でまったく愚かな嘘にすぎません。癒しのために地上的なものに希望を見出すことは、非常に馬鹿げていると同時に間違いでもあります。ベテスダとその偽りの迷信のように、失望と落胆に終わります。主が男を癒すとき、ベテスダや他の手段にはいっさい目もくれず、ただひとこと力あることばを話され、男に神の力の受けて立ち上がるよう命じただけでした。
(三) いつか誰かが助けてくれるという漠然とした希望をもって待っていても、希望が叶えられず墓へと向かっていく人がいますが、そういう人にも教訓があります。イエスは男を癒やされるとき、夢見がちな未来を一掃し、今この時に決断するという実践的で堅固な足場に男を連れていきました。希望というものはしばしば信仰と取り違えられます。信仰はいつでも現在であり、今この時に祝福をいただくものです。信仰であるかどうかはそこに違いがあります。
(四) もうひとつの重要な教訓は、他人に頼ることがいかに愚かで無益であるかです。「主よ、池の中に私を入れてくれる人がいません」という言葉は、他人の助けによって癒しを期待している何百人もの人々の無気力な依存心を代弁しています。彼らは他の人の信仰と祈りばかりに目を向けているため、自分で信じる力が麻痺しています。私たちが自分でしっかりと信じるのでないかぎり、他人の助けは役立ちません。もし自分の手を縛って他人にしがみつくなら、溺れる人が救助人にしがみつくように、両方とも沈んでしまうかもしれません。けれども、キリストにしがみつくなら、キリストは友人をも私たちをもしっかりとつかんでくださいます。
(五) また、「よくなりたいか」という問いかけは、力ある信仰にとって本当に必要な要素を表しています。力ある信仰は揺るがぬ確固たる意志によって働きます。信仰はただの意志の力ではありませんが、信仰の台座と領域は意志にあります。これは神が人間に与えた最も力強い恵みであって、誰であれ揺るがぬ確固たる選択を避けて神から何かをいただくことはできません。私たちを健康にすることが神のみこころであることを最初に知らなければなりませんが、そのあとは自分自身で粘り強く求めてこそ、私たちを強める力が流れ込んでくるのです。
(六) この哀れな病人が教えてくれるまたひとつの教訓があります。「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」(一四節)。常にではありませんが、しばしばこうした長く苦しむ病気が、ある罪の習慣の直接的な結果である場合があります。今日でも多くの人が、若い日の隠れた罪が原因で病に倒れています。ですから、あらゆる罪をはっきりと認識し、告白し、断ち切らなければなりません。贖われたいのちをきよく保つには、不純なものが入らないようによく見張っていなければなりません。各人の心と良心を省みなければなりません。自分が従順であるかどうかを知ろうと願う者には、神の御霊がきっと明らかにしてくださいます。しかし、このキリストのいのちほど心を探る試金石となってくれるものは他にありませんし、「わたしは主、あなたをいやす者である」というみことばほど魂を聖なる祭壇にきよく結びつけてくれる紐は他にありません。この奇跡は、続く次節での、キリストがいのちを与えるために来られたというメッセージと分離すべきではありません。これはその幸いないのちの説明でもあります。キリストの癒しは、キリストご自身の神のいのちを私たちに吹き込み、私たちの無力な魂と体を生き返らせ、永遠のいのちを今始めること以上でもそれ以下でもありません。これはまさしく主がここで教えておられることです。「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(二一節)。「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(二五節)
片手のなえた人(マタイ一二章一〇節)
この奇跡は、ベテスダの池で病人を癒したエルサレムでの出来事に続いて、安息日の癒しについての大胆な教えをガリラヤでも繰り返したものです。この二つの話は、安息日の自由、肉体の聖性、また肉体の癒しの神聖さという偉大な原理を強調している点で共通しています。また、キリストの癒しの力を受け取るためには能動的で積極的な信仰が必要であるという偉大な教えについても共通しています。この人もまた病におかされた手をどうすることもできませんでした。自分では手を持ち上げる力がありませんでした。にもかかわらず、男は強い意志をもって力ある行動に出なければなりませんでした。結果はともあれ試すというのではなく、現実に成し遂げるのだという良き信仰と期待をもって行動しなければなりません。そうして手を伸ばしたとき、神の力が静かに人の従順と協働し、強さと勝利をもたらしました。このように信仰は、行う力がないうちに行うことを要求しますが、行動に出るなら新しい力がやってくるのです。足を深みにむかって投げ出さなければなりません。前に踏み出すと冷たい水に触れるかもしれませんが、神は裏切りません。受け身の姿勢で待っているだけでは神からいのちも力もいただけません。カナンの地に足を踏み入れなければなりません。手を伸ばしていのちの木から取って食べ、永遠のいのちをいただくのです。「やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる」(箴言三〇・二八)。手を伸ばさないクリスチャンがあまりにたくさんいます。手を握りしめる力もなく、意志も弱く、信仰に力がありません。うなだれた方々よ、主の御声を聞いて下さい。「手を伸ばしなさい」。パリサイ人との議論の中で、イエスは癒しが神のみこころと結びついているとお考えになっていることに疑問の余地を残しませんでした。主は、安息日に病人を癒すことに反感を持っている人々の誤解をあざけり、この人の癒しを行う正当性を擁護しました。第一に単純な人道的観点から、穴に落ちた牛や羊ならだれであれ助けるだろう、という点で。第二に正しさの観点から、癒しを行うのは「善いこと」「いのちを救うこと」であって「悪いこと」「いのちを滅ぼすこと」ではないという点で。これは病気を素晴らしい賜物とみなす考え方とは相容れません。ところがこのようないつくしみと恵みに満ちた教えは、その場にいた悪人を怒らせるだけでした。神の力が主の教えの嫌疑を晴らすのを見てもなお、またこの人が目の前ですっかり癒やされて立っているのを見てもなお、彼らは怒りに満ち、どうやってイエスを殺そうかと相談しました。同じように現在でも、誤った考えが神の愛と真理を見る目を覆っています。教義的な整合性のためにキリストの癒しの働きに反対する人がいるのは、今日でも同じです。
病の霊につかれた女(ルカ一三章一〇節~二〇節)
この美しい出来事はしばらく後に起こりました。これはキリストの安息日の奇跡のひとつで、先に挙げた話と同じ一般的な類型に分類できます。この話も同じ原理を補強します。紹介しましょう。
(一) 女の病はどういうものだったのでしょうか。体の変形と麻痺でした。腰が曲がり、自分では伸ばせなくなっていました。しかも長い間ずっとそうでした。十八年間、この状態が続いていました。そのため、偉大な癒し主のもとに持っていくほか取り扱いようのない状況でした。
(二) 病の原因は何でしょうか。この箇所で、驚くほど明るい閃光が投げかけられています。彼女個人の場合にとどまらず、病気一般の原因は何であるかが説明されています。主はこの問題が自然の原因から起きたのではなく、ある人格的存在に直接的な原因があることを明確に指摘しておられます。その原因とは悪霊であり、彼女の体はまさしく病の霊に縛られていたというのです。主は「見よ、十八年間もサタンが彼女を縛っていたのだ」と宣言しておられます。主はこれを神の訓練とはみなさず、悪魔の手が肉体に直接働きかけた結果とみていました。婉曲表現も曖昧さもありません。汚れた悪魔をまるで天使のように大事に世話していたとしたら、それは身震いするような恐ろしいことです。
(三) 神のみこころに関する疑問も驚くほど明確になっています。クリスチャン倫理において「すべき」ほど強い言葉はありません。それは良心の、律法の、永遠の義の言葉です。それは神と人とを両方ともを縛り付けておく綱です。神がすべきと言われるなら、不服申し立ても、妥協も、代替手段もありえません。絶対的に従う以外にありません。できるとか、しても良いとか、するかもしれないという意味ではありません。必ず行う必要があり、それを行なわないのは間違っています。そして、被造物の幸福を願うなさけ深い神のみこころに関して誤った見解を持っているこの悪人たちに対して、キリストはこう言われました。「この束縛を解いてやるべきではないでしょうか」。この言葉によって、神が私たちの癒しをどう考えておられるかについての疑問に決着をつけるべきです。
(四) もうひとつ、とりわけ重要な原理があります。この原理がこの「すべき」を含めたあらゆるものに条件と限界を設けます。それはこの女の信仰です。主は彼女を特別に信仰の子と呼びました。「アブラハムの娘」という表現はまさにこういう意味です。これこそが彼女の癒しを「すべき」ものとしています。「この女はアブラハムの娘だというのに、この束縛を解いてやるべきてばないのでしょうか」。すべての人を癒すことが神のみこころでしょうか。信じる者すべてを癒すことが神のみこころでしょうか。それ以上の意味がこの表現に含まれています。「アブラハムの娘」にはただの信仰以上の意味があります。非常に堅固な信仰、アブラハムのような、見ることなしに信じ、不可能と思えることであっても信じる信仰です。女がそのような信仰を持っていた証拠があるのでしょうか。あります。イエスが女を呼び寄せ、こう言われました。「女よ、あなたは病から解かれました」。(英欽定訳の)改訂版では「イエスは女を呼び寄せ」とあります。イエスは女に、まず主のもとに来るよう求めたことを意味しています。超自然的な行動と信仰が要求されていました。そのため、女はイエスに触れていただく前にイエスのもとに来ようとしなければなりませんでした。それから、女が近づくと、イエスはみわざがなされたことを宣言しました。「女よ、あなたは病から解かれました」。イエスは女に手を置き、みわざは完了しました。女の信仰は能動的でした。アブラハムのようにどこに行くかも知らないまま、ただ神の召しと確かさをそのまま受け入れて踏み出しました。そのときにみわざは完了したと見なされました。「あなたは解かれました」。このときに完全な結果が伴い始めました。
百人隊長のしもべ(マタイ八章五節)
この話で最初に特筆すべきは、異邦人であり異教徒もである百人隊長の信仰をキリストが褒めておられることです。異邦人である百人隊長は神を知る機会も神の光を享受する機会もほとんど与えられなかったにもかかわらず、です。聖書全巻を通じて信仰についての最も厳粛な教えは、ほとんど光を受けていない者が最も勇敢な信仰を養われ、最も優遇されている者が最も説明しがたい不信仰にあうということです。光を使わずに取っておく者は適切な使い方をしているとはいえません。百人隊長は自分なりの宗教心から学んだ経験則と聞きかじった程度のユダヤ人の教えしか知らず、ほとんど光を受けていない者でしたが、それでも自分の行うべき義務をわきまえ、神の民を愛し、ユダヤの会衆を大切にし、ユダヤ人の会堂まで自分の費用で建ててやったほどでした。
(二) 百人隊長が堅固な信仰を持っていたことは次の事実からわかります。第一に、百人隊長は自分がよく訓練された兵士を率いているように、キリストが宇宙万物を絶対的な権威で治めておられることを認識していました。第二に、百人隊長はキリストが病気を制するおことばをひと言話せばそれで十分であることを認識してました。百人隊長は天と地の主からただひと言だけいただくことを願って、それ以上は願いませんでした。キリストのひと言をまるでカエサルの命令のように究極のものとして受け止めました。キリストのことばの権威を認めていたからです。キリストのことばがまるで反抗しようのない偉大な法令のように宇宙を駆け抜け、ご自身の全能の力が小さな子供の手の中に伝わりました。法の強制力は何と恐ろしいものでしょうか! 法廷でひとりの男がひと言発すれば、どんなに富と力を持った人でも、判決の下った者を牢獄から取り戻すことはできません。キリストが私たちに話されたことばは、法のことばです。信仰がそれを主張するとき、地獄の力も地上の力もどんなものも抵抗できません。病と罪の勢力に対して皇帝のことばの権威を行使することは、信仰の管轄です。
(三) 百人隊長には信仰とともに美しい謙遜がありました。彼は自分がキリストにわざわざ来ていただく価値のない者だと感じていました。プライドの高いローマ人が自分のことをわざわざお越しいただく価値のない者だと表現するのはそうそうあることでありませんが、百人隊長は自分がお会いしているのがローマ皇帝よりも偉大な方であると感じていました。だから、百人隊長は霊的にへりくだり、ひざまずき、敬意を示し、礼拝していました。私たちにはさらに近づくことが許されています。私たちの屋根の下に来ていただけるだけでなく、私たちの心に永遠に住んでいただけるのです。
悪霊につかれたガラダ人たち(マタイ八章二八節)
この出来事は非常に重要な事例です。頭と心の病気を扱っているからです。この種の病はキリストの時代には悪霊つきの事例として扱われましたが、現在でもその性質と原因が変わっていないことは疑う理由がありません。私たちの主によると、この病の原因はサタンの使いのわざでした。この男に入っていた力は三千頭の豚を殺すほど強力なものでした。人の心にとりつく力は何と恐ろしいものでしょうか! 悪霊が男に及ぼした力は、鎖で手を縛り付けても鎖を破壊できるほどでした。霊的存在が肉体に及ぼす影響は、善であれ悪であれ絶大なものであるということを思わざるをえません。およそ肉体的な力には、その原因に霊的なものがあります。この惨めな男は自分の中に二つの原理があることに気づいているようでした。ひとつは自分自身の意志であり、弱々しくも自由を求めてもがいており、もうひとつは男を支配する悪霊で、彼の意志を押しつぶしていました。このようなやむえず支配されている状態と、自分からサタンに売り渡すのとでは天地の差があります。主は深くあわれみました。主は男を抵抗しえない力の犠牲者と見ておられ、命令のことばによって自由にしてやりました。ただちに男の様子がすっかり変わりました。荒ぶれたおぞましい狂人が、平静を取り戻して身なりを正してイエスの足元に座っています。男についていた恐ろしい力はすぐに豚の群れに移って、暴走し始めました。男は自分を解放してくださった主にしがみつき、主について行くことを願いました。しかし、イエスは男を告白と奉仕の修練に押し出す必要があることを知っておられたので、すぐに彼を独り立ちさせ、故郷に知らせを広めに行かせました。新しい進歩が新しい保証と強さを与えます。まもなくデカポリス全域に男の証言が知れ渡り、そのことが主が後に訪れてみわざを行う備えの道となりました。そこでのみわざは四千人の給食で締めくくられます。私たちも、若い弟子ひとりに最も大胆で奉仕を任せて、信頼しなければならないことがしばしばあります。精神病のケアは信仰の学科と関係のある最も大切な疑問のひとつです。真実な治療法はキリストの力です。非常に困難な学科であることは疑いようがありません。多くの場合、長く険しい信仰の試練となります。病人が世間から距離を置き、安全にクリスチャンの教えと信仰を受けることのできる静かな居場所が必要です。こうした試みはわずかながらに行なわれていますが、その結果から、聖なる知恵と励ましの信仰が非常に多くの成果を生み出していることがわかっています。
キリストの衣に触れた女(ルカ八章四八節)
(一) この奇跡に関する最も美しい事実は、これがさらに偉大な奇跡、ヤイロの娘の復活を伝える記事の真ん中に挿入されていることです。まるでこの二つの奇跡によって主は一つの決定的な教えを書こうとしておられるかのようです。二つの原理がそれぞれに的確に説明されています。一方は神の絶対的な力が死しか残されていないような場所でさえ働くということ、もう一方は信仰の絶対的な力が神からあらゆるものをいただくということです。それらは二つの素晴らしい全能の力であって、キリストが次のように互いに結びつけています。「あらゆることが神には可能です」。「あらゆることが信じる者には可能です」。
(三) この病に対してなすすべがないこと、また人間の医者には治せなかったことが平易な文章で書かれています。医学的な説明はありませんが、あらゆる治療を試したけれどもますます悪くなるだけだったと簡潔に書かれています。この切れ味のよい描写をしたのが他ならぬ医者ルカだったことは注目に値します。
(三) 信仰の癒しのプロセスは非常に重要です。三つの段階があります。まず、女は自分が癒されることを信じました。「あの方の着物に触れば私は癒される」と言っていました。次に、女は来て、触りました。行動に出たのです。信仰の人格的な生きた要素がここで鮮やかに表されています。信仰はただ信じる以上のものです。信仰は生ける救い主との生きた交流です。信仰は私たちの中にある必要に気づいて手を伸ばし、神に触れて供給をいただくことです。ただの外的な接近でも、ただの心的な接近でもありません。数百人の群衆がイエスに近づいていましたが、イエスに触れたのはただひとりでした。三番目ですが、そのまま信じ、実際に来て、それから意識的に受け取ることが必要です。すぐに血が引きました。女は体の中に病が去っていくのを感じました。癒されるのを感じてから信じたのではなく、信じたのちに癒されるのを感じたのです。
(四) けれども、彼女の祝福は公に告白されねばなりませんでした。キリストは賜物を公にせずに保持しておくことをお許しになりません。私たちはこっそりと賜物を保ち、楽しむことはできません。賜物は植物のように日の光を必要としています。女らしい奥ゆかしさは脇におかなければならず、恐れいりながらも主の足元で祝福を公言しなければなりませんでした。私たちは恥ずかしさと沈黙によってなんと多くの祝福を逃していることでしょうか!
(五) またどれだけ多くのものを女は告白によって得たことでしょうか! 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」。娘は、慰められ、癒されて、今や平和のうちに送り出されました。神の御手に触れていただくことによる深い神聖な休息は、信仰によって相続する恵みのうち最も豊かな部分です。平和が彼女に訪れただけではありませんでした。平和のうちに彼女は広く実り豊かな土地に行きました。その境界線は侵されず、その貴重な資源は使い尽くすことができません。自分の体のために行った小さな信仰の行動がこの深い霊的祝福をもたらしたのでしょうか。そうです。主の癒しに伴ういちばん尊い祝福は、心身をまるごと癒して、私たちを神との交わりに招き入れることです。その祝福の素晴らしさは人間としての生き生きした「接触」があって初めて知りうるものです。じっさい聖書を調べると、神の民に与えられた素晴らしい霊的祝福、体験、神の啓示はほとんどの場合いわゆるこの世の祝福から始まったことがわかります。アブラハムはひとりの息子を求めて神を信じることによって信仰の父となりました。ヤコブはこの世での解放を求めることによってイスラエルの王子となりました。ダニエルは捕囚からの解放を求めるうちにイエスの到来を見ました。スロ・フェニキヤの女は苦しむ子供のために癒しを求めた結果、卓越した勝利を得ました。現在でも同じです。取るに足りないありふれたこと、たとえば時計のホイールにはめこまれている小さな宝石の心棒のようなものが、最も素晴らしい霊的経験に変わる転換点となるのです。頭痛であれ一ドル札であれ、信頼して神に願うなら、満ち満ちた恵みときよさを求めて神に信頼するということを学ぶことになるかもしれません。