第五章 聖書の証言(その三)
二人の盲人(マタイ九章二七節)
この短い話はいくつもの大切な原理を説明しています。
(一) 祈るだけで病気が癒されるのではありません。この二人の盲人はヤイロの家からイエスについて来て「私たちをあわれんでください」と叫びました。けれども、返事はありませんでした。「私は四十年間癒しを求めて祈っていますが、いっこうによくなりません」と言う人がいます。やや不思議なのですが、もし信仰によって祈ったのなら、ずるずると祈り続けるはずがありません。
(二) キリストの御前に出さえすれば癒されるというわけではありません。二人は家までついて行きましたが、まだ癒されませんでした。集会に行って霊的影響を受ければ、それだけでもう祝福をいただけると思い込んでいる人がいます。主の御前に出るだけでなく、助けと癒しを求めてさえいるかもしれませんが、それだけでも治りません。
(三) この話の最後にその理由が明かされています。自分が求めているものを主が必ず与えてくださると信じない限り、癒しに届きません。「あなたは信じるか」と主は尋ねられました。続けて、私たち一人ひとりが祝福をいただけるか否かを決定している重要な信仰の法則を述べられます。「あなたがたの信仰のとおりになれ」。それから主が触れると、二人は癒され、見えるようになりました。二人は輝かしい太陽の光を見られるようになりました。ここに秘密があります。鍵を開けるための秘密のばね、あるいは数字です。嘆願書が政府に届くための秘密の経路です。自然の強力な力を利用するための秘密です。天の指令を開いて王座の力と資源を出す秘密です。それは懇願の祈りではありません。労力のかかるものではありません。シンプルにこういうことです。「あなたの信仰のとおりにあなたの身になれ」。
ツロ・フェニキヤの女
(一) また別の、望みも光もほとんどない場所での信仰の例です。この女がこれまで聖書のみことばや約束を聞いたことがあったとか、霊感を受けた教師に教えられたとかというのは考えにくいことです。女は異邦人であり、鼻つまみ者であり、誰も味方がありませんでした。イエスのところに来たとき、イエスも女を邪険に扱いました。哀れに助けを求めて叫んでも、ひと言もお答えになりませんでした。弟子たちは女を帰したがっていました。それは女の願いを聞き入れて追い払ってほしいという意味でしたが、イエスのお答えは、女をあわれみを受ける権利から完全に除外していると思えるものでした。女がついにイエスの足元にまで来て懇願したとき、イエスがお答えになったことばはひどく冷淡で、追い払うようなもので、二度と近づきたくなくなるような侮辱的なものでした。主は女を「犬」とまで呼びました。犬は東洋世界では仲間にふさわしくない汚れたものの象徴でした。それでも女の信仰はますます強くなり、はじめは取りつく島もない拒絶を受けていたのが、ついに祝福についての議論にこぎつけました。本物の信仰は困難にくじけません。困難とは信仰を育てる栄養です。
(二) 私たちを取り扱う主のご計画を見ると、ときどき私たちを拒絶しているように思えることがあります。じっさいには、その奮闘すべてを主は知っておられ、また彼女を愛しておられ、否定しようのない信頼を見ておられます。信頼の完全な現れを待っておられるのです。拒絶しているのではなく、信仰が試練に耐え、最後には金のように精錬されることを知っておられるがために、信仰を試しているだけなのです。主は私たちを足元で待機させ、私たちの嘆願を拒んでいるようにさえ思えることがありますが、それは私たちの深い信仰と熱心を呼び覚ますためです。また、このときには別の目的がありました。主は女を自己の死と罪を実感するように促しておられました。そして、ついに主の裁きを自分から受け入れ、自分をあわれな価値のない罪人、祝福に値しない者と認めたとき、女はすべてを受け取ることができました。信仰は上に昇ることであると同時に下にくだることでもあり、いのちであると同時に死でもあります。
(三) 女の信仰の素晴らしいところに、最後までしつこく願い続けた粘り強さがありますが、それだけはありません。祝福を願い求め、自分のものにするための根拠を見出すために知恵を絞りました。信仰は論理的なプロセスです。自分自身のことを神と議論し、根拠となるものをつねに探します。女の心ははじめ、本能的にそれとなく感じ取って、神の愛と恵みにより頼んでいるようでした。その穏やかな優しい顔立ちが彼女を拒絶するはずがない、と感じていたのでしょう。しかし、いまだ主からおことばをいただけません。ほんのひとこと、ささやき、かすかな配慮さえいただければもう十分でした。けれども、主からいただいたのは、排除されたとしか受け取りようのない冷淡なことばでした。主が来てくださるには原理原則と制限条件があって、その原理からすると主が女を助けるのはお門違いであると思われました。やっと主がおことばをくださったと思ったら、永遠に扉が閉め切られたかのようでした。異邦人どころか、犬とまで言われて。恵みを受けるにふさわしくないということです。どこに突破口を見出せるでしょうか。不思議なものです! これがまさしくヨルダン川を渡る橋となったのです。犬――ここに入り込む隙間がありました。そうです、犬にさえいくらかの権利があります。女はパンくずという自分の権利を求めました。女が求めたものは、主にとってパンくずに過ぎません。主の指からこぼれおちる小さな恵みが、力と愛をもって絶大な効力を発揮するため、女には十分過ぎるほどでした! 主よ、私は受け入れます。あなたの足元に、あなたの子供たちの足元に身を置きます。子供たちの食事は求めません。ただ残り物をください。子供たちの食べる分は減りません。遥かガリラヤの子供たちまで、もうこれ以上食べられないくらいお腹いっぱい食べてから、余った分をください。これが卑しく私が自分と娘のために求めるものです。あなたは拒むことができません。
(四) 主は拒まれませんでした。愛と驚きに満ちて、こう答えられました。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」(二八)。このとき、力ある御業がなされました。「その願い(意志)通りに」。ここでも、決意、確固たる意志という要素が、強い信仰と行動の本質として示されています。さかのぼること十六世紀前のペニエルで、同じ意志が、否定形の「させません」ではありますが、勝利をもたらしました(訳注:創世記三二・二六でのヤコブの格闘)。この二つの事例では両方とも世俗的な解放を求めていますが、勝利する信仰はどういうものかを教えてくれる青写真です。
悪霊につかれた子供(マタイ一七章一四節)
山でキリストが変貌なさった出来事のすぐあとに、イエスはサタンの勢力と直接対決することになりました。それは悪霊つきでしたが、弟子たちには手に負えませんでした。弟子たちの失敗の原因は、不信仰でした。不信仰の原因は、弟子たちが個人的な野心から言い争いをしていたことでした。イエスが群集のところに来られたとき、不信仰になっている人々をお叱りになり、父親と子供を呼び寄せました。父親がこの難病について説明し終わらないうちに、子供がひきつけを起こして倒れました。父親は弱々しく言いました。「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」(マルコ九・二二)。けれども、主の答えはただちに父親の目を開かせました。これはキリストの力の問題ではなく、父親自身の信仰の問題だったのです。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」(同二三)。父親はすぐにこの状況における自分の重大な責任を認め、それを果たしました。「信じます。不信仰な私をお助けください」(同二四)。この二つの言葉――主が父親に言われた言葉と、父親が主に話した言葉――は、信仰についての聖書の教えの中で最も価値あるもののひとつです。第一に、信仰にできることを教えてくれます。信仰にはどんなことでもできます。神ご自身の全能の力と対等です。どんなことでもできる方は、神おひとりのほかにおられないからです。信仰はじっさい、神ご自身の全能を拝借して、行使します。第二に、信仰を持つことができるということを明確にしてくれます。つまり、私たちはどれほどの信仰を持つことができるか、ということです。ところで、多くの人が自分は信じることができるだろうかと迷っているうちに一生を終えてしまいます。他のもう少し賢い人は、この父親のように、まず努力して手を伸ばし、自分自身を神に投げ出して信仰に導き運んでくれるよう願います。もしも父親が「主よ、不信仰な私をお助けください」とだけ言って「主よ、信じます」と言わなかったとしたら、無駄だったでしょう。「主よ、信じます」と言ってそこで止まっていたら、同じように無駄だったでしょう。というのも、それでは彼自身の意志の力にすぎないからです。意志を発揮して、それからキリストのちからにより頼みました。これが信仰です。信仰はただキリストから来ます。事実、信仰とは私たちの内にあるキリストご自身の信仰です。しかし、私たちが自分で信仰を受け取り、しっかりと堅い手で行使しなければなりません。癒しの力は今来ますが、はじめは悪化しているように見えます。サタンが死にものぐるいで抵抗するため、闘争の中で見物人からは子供が死んだように見えました。ですから、よくあることですが、神が私たちをお癒しになり始めるとき、私たちは症状が悪化するように見え、世が私たちに私たちが自滅したと言います。けれども、死がいのちに先立たねばなりません。破滅が刷新に先立たねばなりません。恐れずに全知の神に信頼し、すべてがよくなることを信じようではありませんか。キリストは子供を抱きかかえて起こし、悪魔は永遠に去ったのです。
ベツサイダの盲人(マルコ八章二二節)
(一) キリストが最初になさったことは、この男の手を取って町の外に連れ出すことでした。群衆から離れたところでひとり考える時間を与え、キリストと共に歩くこと、暗闇の中でキリストを信頼することを教えるためでした。私たちについても同じで、最初にキリストはご自分と二人きりになるところに連れ出します。そうして長い時間が経ってから、私たちはキリストの御顔を仰ぎ見、キリストが私たちを導いてくださったことを知るようになります。
(二) 次にキリストは癒しのみわざを行なわれましたが、油注ぎとして、またしるしとして、単純に御手を男の目の上に置いたのでした。その結果、部分的に癒やされましたが、まだ視界はぼやけていて不十分でした。この出来事によって主が教えてくださっているのは、私たちの癒しが部分的で、少しずつ段階的に進んでいくことが時々あるということです。この最初の段階で諦めてしまう人がたくさんいます。
(三) 三番目の段階として、完全に見えるようになりました。ひとつの理由があります。それはイエスを見ることです。「人が見えます」と男は最初言いました。そして人をただ見ているあいだは、何もはっきり見えませんでした。けれども次に、主がご自分を「見なさい」と言われ、そのとおりにするとはっきり見えるようになりました。おぼろげにしか見えなくてもイエスを見つめるなら、あらゆるものがはっきりと完全に見えるようになります。
エルサレムの盲人(ヨハネ九章)
(一) 病気は罪によって起こるのかという問題を考えるにあたって、この出来事に重要なヒントがあります。キリストが弟子たちに教えたとおり、誰でも犯すような罪のほか特別に罪を犯したわけではないのに病気になることがあります。そのような苦しみに見舞われる機会を神が許可しているのは、癒しによって神の愛と力が現れるためです。
(二) この男の癒しにおいても、主は単純なしるしを用いました。主は油注ぎとして、つばきと泥を男の目に塗りました。医療行為として生まれつき目の見えない人を治療するためにこういうことをしたとは誰も言いますまい。これは主が触れてくださるという単純なしるしです。それから男にシロアムの池で洗うように言い、そのとおりにすると、見えるようになりました。もしかすると泥そのものに効力があったと考える人もいるかもしれませんが、シロアムの池で泥を洗い落とすまで視力が回復することはなかったという事実を付け加えておきましょう。池は、キリストと聖霊の型です。シロアムはシロと同じですが、「遣わされた者」という意味です。水は、御父と御子から遣わされた聖霊を意味します。
(三) 癒された後の男の証言は栄光に富んでいます。男は律法学者とパリサイ人の矛盾を鋭く皮肉りました。律法学者たちは男に会いに来て、キリストをやり込める証拠を引き出そうとしました。キリストはこの癒しの行為によって安息日を破ったからです。けれども、この謙虚な農夫は律法学者たちに言いくるめられません。それどころか律法学者と行なわれた議論は切れ味がよく興味深いものでした。ついに律法学者たちは卑劣な手段に出て、男を会堂から追放しました。しかし、男は忠実な受難者です。すぐあとでイエスがまた会いに来られ、ご自分の真実な愛と栄光を現されました。男はこうして愛すべき弟子のひとりになりました。
盲人バルテマイ(ルカ一八章)
(一) バルテマイの叫びには深い洞察があります。「ダビデの子よ」。この時イエスはご自分の王権を知らせに向かっておられ、イエスの知られるところとなる称号がまさに「ダビデの子」でした。ご自分の民がキリストのことばに盲目である一方で、みすぼらしい盲目な老人がいち早くそのことを知っていたのは、奇妙に思えます。しかし、現在でも同じです。賢い者が盲目であり、盲目な者が見えています。
(二) 男には粘り強い信仰がありました。大声で叫びました。周りの弟子たちが叱りつけるほどの大声でした。男は叫び、衣服も脱ぎ捨てました。まるで私たちに、邪魔なものはすべて道に脱ぎ捨てよと教えてくれているようです。男の望みはただひとつ。熱烈な信仰が次の言葉に要約されています。「主よ、目が見えるようになることです」。強い望みがなければ強い信仰は生まれません。漫然とした祈りには神に届く推進力がありません。
(三) 主の癒しは単純で、栄光に富んだものでした。立ち止まり、呼びかけ、質問すると、熱烈な返事がありました。みことばを話すと、みわざは終わりました。男は美しい風景と、自分を取り囲む人々と、主の御顔を見ました。それからすぐに大声で神を賛美し、イエスについていきました。
いちじくの木を枯らす(マルコ一一章二〇節)
これはキリストの裁きを表す奇跡ですが、この話から信仰の励ましや慰めを得るのは一見難しそうに思われます。けれども、キリストは崇高な信仰の教えを伝える機会となさいました。じっさい、これは最も深遠で優しい恵みの働きの指し示す象徴的な出来事です。聖書の教える最も偉大な原理は、破滅を通じた救い、死を通じたいのちです。世のいのちはサタンと罪と死によって破滅しています。魂の聖化とは自然のいのちを枯らすことです。肉体の癒しとは悪い病気の根に死の一撃を加えることです。神の火と神の聖性が必要です。私たちは優しい恵みよりもそれ以上のものを欲する時があります。鋭い剣に魂を刺し貫かれ、いのちときよさを破壊する邪悪を完全に切り裂いていただくことを欲しています。ああ、生ける神の聖性に焼きつくされる時間は、なんと栄光に富んでいることでしょうか。これが枯れたいちじくの木の意味です。「あなたがたもいちじくの木になされたのと同じことをする」と主は弟子たちに仰せになりました。そうです、私たちは信仰の力あることばを話すことができます。すると見よ、肉が枯れて死にます。私たちがまた話すと、見よ、病気の毒の木が枯れ、根から枯れ上がります。葉と枝がしばらくの間その形と色を保っているとしても、根に死の一撃が加えられている以上、本当の仕事は終わったことを私たちは知っています。秘訣はこうです。「神の信仰を持ちなさい」。天が地よりも高いように、欄外の註釈が本文よりも高いことを語っています。神の信仰は、神を信じる信仰とは異なります。キリストの信仰は弟子たちの信仰とは異なります。弟子たちは悪霊につかれた子供が手に負えなかったのですから。イエスはまさしくご自分の信仰と同じ信仰を持つことを教えています。私たちは神の信仰を持つことができますし、持たなければなりません。
美しの門の足のなえた男(使徒三章一〇節)
キリストの昇天後、聖霊によるいちばん初めの奇跡は、イエスの御名が実効性ある力の源であることを深い印象をもって教えてくれます。その力は人間的な力や栄光とは一線を画しています。使徒たちがこの男に語りかけた第一声がその御名でした。それから人々が群がっても、支配者が裁判の場に呼び出しても、使徒たちは一度もその御名を否認せず、そればかりか十字架にかけられた方の力ある御名と権威を人々の前で堂々と言い表しました。その働きとその御名によって言い表されている方は、今は地上におられない主です。またここでも、奇跡がそれによって行なわれ、受け取られたところの信仰は、いかなる意味でも自分自身の意志の力とか人間的な力ではない、と明確に否定されています。使徒たちはきっぱりと言いました。「そうです、この方によって与えられる信仰が、あなたがたの目の前にいるこの男を立たせたのです」。そのため、信仰と力はひとえに私たちの内に働くイエス自身の力と信仰であることがわかります。また、奇跡そのものはイエスを証するものとしての価値しかありません。主のことばを広く効果的に宣べ伝える機会とするためです。使徒たちは奇跡をもてはやして立ち止まったりしません。奇跡をひけらかしたりもしません。そうではなく、さらに偉大な働きである福音宣教を粛々と進めます。病人の癒しは福音という大きな働き全体の小さなアクセサリーにすぎません。いつでも福音と結びついていなければなりません。けれども、足のなえた男は若き教会にとって否定しようのない福音の論拠となり、教会の壁の支えとなりました。「足のなえた男がペテロとヨハネと一緒にいるのを見て、彼らは反論できなかった」。これが模範です。現在でもそのような証が必要です。世も、不信者も、悪魔も反論できません。みすぼらしい女性が来て、自分をよく知る人々の前で、いかに神が病気を癒してくださったかを堂々と話すと、最もプライドの高い不信者が恥じ入るといったことを、私たちはたびたび見てきました。
ルダのアイネヤ(使徒九章三四節)
この奇跡はペテロの手によるもので、先の例と同じ特徴があります。まず、ペテロは主の力と御名だけを見つめさせるよう細心の注意を払いました。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです」。ペテロ自身は視界の外に出ていました。そうでなければなりません。また、奇跡の効果は人が神に向かうことです。人々を驚かせるのではなく、悔い改めさせることが目的です。ルダとサロンに住む人がみなそれを見て、神に立ち返りました。十全な福音による超自然的な力と権威がもたらす本当の効果というものはいつでも、超自然的な結果、つまり人の救いです。このような力あるしるしと不思議を通じて、ヨエルが預言したように、終わりの日に御霊があふれんばかりに世に注がれ、主の再臨の前に人々の覚醒が起こります。
ルステラでの足のなえた男(使徒一五章一〇節)
これは聖書にある癒しの事例の中で最も示唆に富むもののひとつです。
(一) 群衆は異邦人ばかりでした。彼らには固定観念や先入観がありませんでした。
(二) パウロは「福音」を宣べ伝えました。疑いなくイエスの癒しと贖いのみわざを伝えたはずです。
(三) パウロが宣べ伝えると、群衆に混じっていた無力なひとりの人に信仰といのちの光が注がれ、顔が照りかがやくのがわかりました。私たちはこういうことを人々の中に見ることができます。神は霊的な見分けの心を人に備えてくださっています。
(四) はっきり読み取れるとおり、パウロは慎重でした。この男が「癒される信仰」を持っているとわかるまで、次に進みませんでした。触れる手を持たざる者をキリストのもとに押し出しても仕方ありません。男を癒すのはパウロの信仰ではなく、本人の信仰なのですから。
(五) しかし、信仰を行動にするためには援助が必要でした。「自分の足で立ちなさい」とパウロは大声で言いました。男が起き上がり、ぎこちなくためらいがちに立とうとすると、パウロは「まっすぐに」と言いました。これがことばの力です(ヤング訳参照)。信仰にはためらいや半端がありません。このような大胆な一歩でなければなりません。見よ! 男は勇気あることばに応え、今や立ち上がっただけでなく、飛び跳ねて歩き出します。行動によって信仰が完全なものとなりました。
(六) 奇跡とパウロの謙遜な霊によってどんな波紋が起きたかについては、何も付け加える必要がありません。神がたたえられ、パウロは神に栄光を返しました。
パウロ自身の癒しの経験(使徒一四章一九節、第二コリント一章、四章)
まもなく偉大な使徒に自身の信仰を証明する機会が巡ってきました。最初はパウロを崇めていた人々が、ユダヤ人の煽動によって暴徒となり、パウロを石打ちにし、町の外に引きずり出しました。パウロは死んだように取り残され、ほんの数人の弟子が取り囲むばかりでした。けれども、パウロは死んだのでしょうか。いいえ。「弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。彼らはその町で福音を宣べ」(使徒一四・二〇〜二一)ました。これ以上に簡潔かつ高潔なものがあるでしょうか。饒舌に説明するでもなく、驚きの声すらあげず、痛み、弱さ、死そのものを淡々と無視し、主の強さによって使徒の働きを続行しました。コリント人への第二の手紙の第四章で、パウロは強さの秘訣を語っています。「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」(四・一二)。これこそがルステラで起きたことです。これが不可思議な回復の秘密でした。後の節でこう繰り返しています。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(四・一六)。コリント人への第二の手紙の第一章で、また別の癒しの例をあげています。パウロはアジヤで非常な苦しみにあい、耐えられないほどの苦痛に押しつぶされそうになり、ついにいのちさえも危なくなりました。じっさい、自分の状況を見ても、感覚的にも、死ぬしかないような状態でした。けれども、その闇の時にあってさえ、パウロはひとつの自信、キリストのいのち、「死者をよみがえらせてくださる神」を持っていました。この信頼は無駄になりませんでした。パウロはついに死から解放されました。その時からパウロは神はいつも救い出してくださる、終わりのときまでなおも救い出してくださると確信するようになりました。それからコリントの人たちが祈ってくれたことについて、助けと励ましになったと簡単に感謝を付け加えています。その祈りはコリントの人たちにとって、パウロの癒しゆえに神の恵みと栄光についてますます神に感謝を捧げる機会ともなりました。
私たちの救い主が経験なさった神にある肉体のいのち(マタイ三章)
イエスご自身もまた、肉体の生を自然の強さと支えによって生きるのではなく、神のいのちによって生きるという偉大な教訓を学び、残さねばなりませんでした。これこそが、荒野での最初の誘惑の意味するところでした。それはイエスの肉体に直接向けられました。断食によって弱り、ふらふらになっているところに、誘惑者が近寄り、普通の食事と強さという手段を使って地上的なパンを作ればよいとささやきました。主はこう答えられました。試練と断食を行った理由がまさしく、人のいのちは地上的なパンがなくとも神ご自身のいのちとみことばによって養われうることを示すためであったと。そこで語られたことばは、申命記からの引用であることを思い出しますと、深い意義があります。はじめにいにしえの神の民に語られ、主が民に仰せになったとおり、同じ教訓を教えようとされたのでした。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ四・四)。ですから、神の力の特別な証拠としてこのように生きえたことは、人の子の特権ではなく、私たち人間のための教訓です。私たちはキリストと共に学ばなければなりません。魂のためと同様、肉体のためのいのちを受け取ることを。パンを除外するという意味ではなく、「パンだけではなく」神のことばによって生きることを。これがまさに私たちの救い主が言わんとしたことです。二年後、カペナウムの会堂でこう言われました。「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」(ヨハネ六・五七)。私たちの主は肉体についての教訓を学びました。悪魔のパンを拒絶し、肉体において私たちのために試練を克服しました。次に続く二つの誘惑は、魂と霊に関係があります。同じようにそれも克服しました。このように主は私たちのために信仰の創始者であり完成者となってくださいました。次の証言のとおりです。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル一二・一〜二)