A・B・シンプソン『神癒の福音』

第五章 聖書の証言(その一)

この主題に関する証言の価値には疑念の余地がありません。証言というものはきわめて聖書的な概念です。証言はしばしば福音を個人的レベルにまで嚙みくだき、苦しんでいる者の心にすっと入ります。そうしたことは抽象的な教えはできません。とはいえ、証言はいつもシンプルで控えめで、できるかぎり一般的で、原理原則の例示となるものであるべきです。これが聖書にある数々の証言の特徴です。その中からいつくか選んで、簡単に見ていきましょう。

ヨブの場合(ヨブ記一章、他)

ヨブの例は詳細に書かれた証言の中で聖書に登場する最初期のものです。

(一) ヨブの病はサタンの手でもたらされました。病気にサタンの使いが関わっているという事実は、私たちの主もはっきりと教えてくださっています。サタンの勢力は今も衰退していません。

(二) ヨブの病は神に許可されたものでした。その目的は、ヨブを導いて自分の心を調べさせ、徹底的にきよめられる必要性を悟らせるためでした。

(三) 病それ自体がヨブをきよめたのではなく、自分の罪と自己義認をより深く表出するよう導いたにすぎません。病そのものは人をきよめませんが、聖性にあずかる必要性に目覚めさせ、神から聖性をいただくようにと教えてくれることがあります。

(四) ヨブの病は、罪を認めて神に告白したときに除かれました。神がご自分を現されたときに、そうなりました。ヨブは声をあげました。「今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ四二・五〜六)。そのときヨブは完全に義とされ、敵を赦し愛する霊をいただきました。ヨブが友のために祈ると、主はヨブ自身の束縛を解きました。私たちは自分自身のためにあまり多く祈る必要がありません。他人のために祈るときにこそ、私たち自身の祝福が来るものです。ヨブの癒しはすべてを新しくし、すべての祝福が二倍になりました。霊的祝福があらゆる祝福の中で最も深遠なものであるのは言うまでもありません。

なんと示唆的なことでしょうか! 霊的教訓を学ぶ用意ができるまで魂は神の御手の中にあり、用意ができたなら、神ご自身の御手からいのちと復興を受け取るようになるのです。

傷ついたイスラエルと青銅の蛇(民数記二一章)

(一) この病の由来は罪でした。イスラエルはつぶやいたので、神はイスラエルにつぶやきの種となるものを与えました。不満をこぼすという行為は深刻な問題です。それは私たちの恐れているものを運んでくるばかりか、さらに悪い結果を持ってきます。「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ」(ヨブ三・二五)

(二) この病の由来は蛇、つまりサタンでした。今でもサタンが私たちのいのちに噛みつき、血に毒を送ります。それは燃える蛇でした。ヘブル語では「蛇、セラフィム」となっています。私たちの霊的な敵は地をはう虫とは限りません。多くの場合、高貴な姿をしていて、人知を超えた賢さをそなえています。

(三) 病の治療法は病が入ったときと似ていました。つまり、毒を抜かれた蛇の形でした。蛇の形は、病に苦しむイスラエルの野営と、罪に屈した世にとって、サタンの牙を抜くという勝利の象徴でした。病と罪は両方ともかつて猛威をふるったサタンの影にすぎないという事実を伝えています。また私たちにとっては、青銅の蛇はイエスを思わせます。イエスは罪人の名前を引き受けて恥と屈辱を負い、神にさえ罪人に数えられ、人にも罪人として扱われました。まるで本当に犯罪人に――蛇に――なったかのようでした。ですから、イエスはサタンの牙を抜き、罪と死を無力化し、勝利の冠として十字架にあげられたのです。

(四) 青銅の蛇を見上げることによって、癒しが訪れました。見ることには言語を絶した力があります。悪を見ることは魂を凍りつかせます。純粋さと愛を見ることは魂を美しく形作ります。目が、魂の中に見えているものの本質をもたらします。太陽のほうを見れば、太陽が目の中に入ります。イエスを見つめることは、私たちの存在そのものにイエスのいのちをもたらします。これは肉体的ないのちです。私たちがイエスを見つめるなら、魂のためにも肉体のためにも、同じいのちが今でも十字架から流れ込むのです。

ナアマン(第二列王記五章)

(一) これは病気の典型例でした。らい病は、魂と肉体を滅ぼす特定の罪を示す型です。罪の肉体的影響を示す固有のしるしです。

(二) この病を癒すために用いられたのは、最初の例によるとヘブル人の娘でした。彼女が大きな貢献をした事実からわかることですが、神は非常に卑しい者の取るに足りない言葉によってみことばを伝えることがあります。じっさい、少しあとでナアマンのしもべが知恵に富んだ勧めを進言して、ナアマンを祝福に導きました。

(三) 次に学ばなければならない教訓は、謙遜と従順の信仰です。肉体が神の御手に触れて癒やされる前に、ナアマンの高ぶる自己と自我が死ななければなりませんでした。そのため、静かで自立心のあるエリシャが晴れ着を着て、ナアマンに謙遜を要求する単純な言葉を伝えました。ヨルダン川で七度身を洗ってきよくなりなさいという内容でした。病人は人に無視されたと感じてしばしば深く傷ついているものですが、神がこのように病人の心の思いを取り扱って、へりくだりの信仰を教えてくださることがあります。ナアマンも他の傲慢な罪人と同じように、はじめは十字架を拒み、あやうく祝福を逃しそうになります。ナアマンのしもべの正直で率直な言葉が、ナアマンの心を動かし、ヨルダン川に行かせました。

(四) ナアマンの信仰は、預言者の伝えたことをそのまま実行したという点がポイントです。ナアマンは無条件に神の方法に従い、そこにとどまったので、祝福をいただきました。もしかすると一度目も、二度目も、六度目も癒しの兆候は現れなかったかもしれません。それでも続けました。最後に驚くべき祝福が来ました。子供のようにすべすべの肌になりました。こうしてナアマンは偉大なヤハウェに感謝し、ただ神にのみ礼拝を捧げました。

(五) ナアマンが癒やされた場所の土を持ち帰りたいと願ったことは、将来私たちもいただくことになる手付金としての聖霊の、美しい予表です。手付金(earnest)という言葉には「ひと握りの土」という意味があります。ナアマンはカナンの大地からひと握りの土を持ち帰りました。私たちも癒しによって御霊の手付金をいただきます。その手付金は、天の一部分が地上において始まったことの保証です。

(六) エリシャがナアマンを去らせるときに、ただ神にだけ寄りかかっていたことに目を留めるのは麗しいことです。ナアマンはリモンの神殿で身をかがめることについて尋ねましたが、エリシャは直接的には答えず、神おひとりに問題をお任せし、平和のうちに行きなさいとだけ答えました。ここには人間がほとんど現れません! 余計なものはありません。神はなんと栄光に富んでいることでしょうか!

(七) しかし、サタンにも手があるはずです。サタンはゲハジのようにがめつい悪だくみをする者にその手を伸ばします。現在でも、サタンに属するスピリチュアリズムやその系統の技術が、神の賜物に似た偽物を作ろうとします。けれども、近づいてよく見れば、偽物には雪のように白いらい病の手と顔が見えます。

ヒゼキヤ(第二列王記十八章)

(一) ヒゼキヤは望みが絶たれていました。ヒゼキヤの病気を治療する方法を人間がどれだけ頭を絞って考えても、神がヒゼキヤは死ぬ、生きることはできないと言われた以上、どんな治療も効きません。人の助けも医学もヒゼキヤの治癒のためには何もできません。ただ神のみが関わることのできる問題です。

(二) ヒゼキヤはへりくだって神のほうを向きました。人からの助けは得ようともしませんでした。万策尽きて自分自身を主のあわれみに委ねました。ヒゼキヤの祈りは必ずしも信頼に満ちたものではありませんでしたが、それでも神はその無力な祈りを聞き入れ、ヒゼキヤを救われました。

(三) ヒゼキヤの祈りに対する答えは明白でした。十五年寿命を伸ばす、という神ご自身からのお答えでした。イザヤが遣わされてそのことを伝えました。ヒゼキヤはすぐに信じて、賛美し始めました。

(四) 二つのしるしが伴いました。ひとつは日時計の影が十五度戻ること、もうひとつはいちじくの湿布です。両方とも「しるし」と呼ばれています、いちじくは医薬品ではありません。いちじくに傷を直す効能はないからです。いちじくは象徴です。そのため、いちじくをヒゼキヤに貼ったのは医者ではなく預言者でした。

(五) 癒された後のヒゼキヤの生き方は、とうてい癒しに値するものではありませんでした。受けた恵みに相応しく身を改めるということはせず、むしろ心が高ぶって、長い年月の後に、罪の苦い実を結びました。神の偉大なあわれみを受けることがいかに厳粛なものであるか、また贖われたいのちを神のために使うという義務がいかに神聖なものであるかを、愚かなヒゼキヤはまたしてもその身で示すことになりました。人々はいつもこう尋ねます。「ヒゼキヤの話は、医療を用いることが正しいことを証明しているのではありせんか」。いいえ、ヒゼキヤの話が示しているのは、癒しに関しては神が仰せられたことをその通りに実行するのが正しいということです。神はナアマンにはヨルダンで身を洗うよう命じました。ヒゼキヤにはいちじくを使うように命じました。神がいちじくを使いなさいと仰せになるなら、他のどんなものを使っても不従順です。では、神が現代の私たちには塗油と信仰の祈りを使うよう命じておられるにもかかわらず、他のものを使うのは、本当に従順といえるのでしょうか。

身分の高い役人の息子(ヨハネ四章)

これはキリストが最初に行われた癒しの奇跡です。私たちの生きる時代にあって、特に参考になります。

(一) この箇所が教えてくれるのは、イエスが私たちをお癒しになるのにイエスが物理的に目の前におられる必要はないということです。イエスはこの病気の子供から遠く離れた場所におられ、力あるみことばをひとことお話しになっただけでしたが、全能の御力は地理的隔たりを超えて届きました。ですから今も、御力は天から地へと隔たりを超えて届きます。「ああ、イエスがここにいてくださったらいいのに!」と言う人がいます。けれども、イエスの最初の素晴らしい奇跡は、地理的隔たりを超えて行われました。これは天と地の隔たりを超えた癒しと同じくらい素晴らしい奇跡です。

(二) これは信仰による奇跡でした。目に見えるしるしの伴わない、単純でそのまま受け入れる信仰です。主イエスは他のすべてを退けてこの信仰に集中させるため、こう言われました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(ヨハネ四・四八)。それから彼の信仰を試してこう言われました。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」(ヨハネ四・五〇)。男はこの難しい課題を受け入れ、そのまま信じました。すると子供は全快していました。彼は主に来てくださいと頼み込むのをやめ、静かに帰ることによって、自分の信仰を示しました。

(三) この話ではある瞬間から癒しが始まり、少しずつ静かに進行しました。多くの人が今もそのように癒されています。「子どもがよくなった時刻を彼らに尋ね」た。すると答えは、ある瞬間から熱が引いたというものでした。子供はすでに回復中でした。現在でも主はご自分を信頼する者すべてのために働いてくださいます。信仰には瞬間的なものと時間のかかるものがあります。その両方を受け入れなければなりません。私たちが信じた瞬間に、病の根は打ち砕かれますが、そのあとで段階を踏んで癒しの祝福が進行します。

ペテロのしゅうとめの癒し(マルコ一章)

二番目に記録されているキリストの癒しの奇跡です。キリストは会堂で悪霊を追い出し、唖然としている人々の真ん中を通って出てきたところでした。ペテロの妻の母が熱病で伏せっていました。その頃にはよくある病気でした。しかし私たちの主は、熱病の背後に別のものがあることをはっきりと認識しておられました。「熱をしかりつけ」(ルカ四・三九)たとありますが、これは熱病を引き起こしている何らかの悪い人格的な存在がいることを示しています。単なる自然の法則をしかったりすることはありません。人格的な意志のないところに、非難すべき点はないからです。この熱はまさに悪霊の焼けつく手が触れたことによるものでした。それを主はしかりつけられたのです。次のステップとして、彼女は主が与えてくださった癒しの力を自分の行動によって所有する必要がありました。主は彼女の手を取り、起こしました。彼女は立ち上がりました。そこにはもちろん主の力強い御手と全能の助けがありましたが、彼女の協働もありました。主の伸ばした御腕をつかみ、病気による無気力と疲労を振り払い、起き上がろうと力を込め、立ち上がったことです。私たちも神の助けと力をいただくためにこのようにしなければなりません。そうしてはじめて主と人々に仕えるための新しい力が湧いてきます。この話は癒しの証明として非常にすぐれていますが、癒しの活用例としてもすぐれています。私たちは新しいいのちをいただいたなら、それをいつも神に捧げ、このいのちをもって他人に仕え、自分自身を忘れなければなりません。そうすれば新しい力が自分の中に湧いてくるのを感じるはずです。自分のいのちを与えるとき、それを救います。他者に仕えるとき、主が私たちの必要をすべて満たしてくださいます。責任と扶養の喜ばしい交換です。私たちがただひたすら主のために生きるときに、主もただ私たちのためにすべての必要を満たしてくださることを知るようになります。

大勢の人の癒し(マタイ八章)

キリストのご生涯から次の例を引きましょう。ペテロのしゅうとめをお癒しになった安息日の夕方に、誰もかれもが来て癒されたという箇所です。大勢の人が集まって、安息日が終わるまで待っていました。六時になるとすぐに、皆がイエスのもとに殺到しました。さまざまな人が押し寄せましたが、イエスは全員を癒されました。さて、この箇所から学ぶ最初の教訓は、民衆が安息日の終わるのを待っていたという事実と大いに関係あります。この事実が示すとおり、当時蔓延していた癒しについての考え方は、私たち自身の世俗的な時代の不敬虔な考え方とよく似ています。民衆は、肉体とそれにまつわるあらゆるものは純粋に世俗的なものであると考えていました。そのため、肉体の癒しは世俗的な仕事にすぎず、聖なる安息日にはふさわしくない働きと見なされていました。これはまさに現代の不信仰がキリスト教国の教会に教えていることではないでしょうか。肉体への関心は自然法則と医学に関する問題であって、世俗の医者がほかの仕事と同じように世俗的な利益のために研究し取り扱うべきものであるのだから、魂の救いと養育に並ぶような神聖さはない、と。この時には私たちの主は民衆の考え方に合わせてくださいましたが、しばらくもしないうちに主が明白な意図をもって安息日の癒しを行う日が来ました。この愚かで不敬虔な考え方を主は破り捨て、踏みつけました。そうすることで、人々に次のことを教えられました。肉体は魂と同等に神聖であるということ、肉体の回復も神の贖いの一部分であること、肉体は専門家だけに取り扱いを任された対象ではないということ、肉体の癒しは主自身の特権的な務めであるということ、さらに、肉体の癒しは神殿での礼拝や人の魂の救いと同じように安息日にも行われるべき神聖なわざであるということです。この箇所が教えてくれる次なる教訓は、主の癒しの普遍性です。主は癒しを必要とする者を全員癒されました。癒しは使徒のしゅうとめのような特別な場合にだけ行われるものではなく、貧しい者、罪人、苦しむ者、主を信頼するなら誰にでも与えられるということを、主は示そうと願われたのです。そして、最も重要で有用な教訓は、この出来事がイザヤの預言と結び付けられているということです。イザヤはメシヤの本質を、病と苦しみを背負う者と表現しました。ですから、主がここで苦しむ者を癒したのは偶然ではありません。特別に、例外的に神の御子としての御力を示したのでもありません。そうではなく、メシヤが何のために来られるのか、本当の目的を明らかにするためでした。ですから、すべての時代の人が主のもとに来て、主に重荷と痛みをお委ねすることができるのです。なんと深遠で完全なみことばでしょうか。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」。ご自身が――ご自身と医者とではなく、ご自身おひとりが、いっさいの重荷を負い、私たちを完全に自由にしてくださったのです。だから、癒しは主を所有することと無関係ではありえません。主ご自身の中にあらゆるものが詰まっています。私たちのうちにある主のいのちが、主の内住が、主のからだが、主の肉が、主の骨が。主ご自身が一度だけでなく永遠に、にない、背負い、持ち上げ、保持し、永遠に運んでくださいます! 素晴らしい癒し! 素晴らしい癒し主よ!

らい病人(マルコ一章)

これはキリストのガリラヤ巡回のあとすぐに起こりました。

この男の嘆願は、平均的なクリスチャンに見られる心の状態の良い見本です。キリストが癒す力をお持ちであることは確信していましたが、癒しがキリストのみこころにかなっているかどうかに自信がありませんでした。たとえば私を疑っている友人が、私のところに助けを求めに来たとして、「もし可能なら、私を助けてくれると確信しているよ」と言うかわりに、「君には私を助ける力があることは知っているけど、助けたい気持ちがないんじゃないかと自信がないんだ」と言ったらどうでしょうか。神のみこころに関するこの簡単な何気ない言葉が、最も繊細で侮辱的な不信を含んでいるということが、いつになったらわかっていただけるのでしょうか。

(二) キリストの答えは単純明快で、真摯に信頼する者を癒すことはみこころにかなっているかという疑問に解決を与えるものでした。「わたしの心だ。きよくなれ」。遠回しな表現やあいまいな言い方ではなく、躊躇も留保もありませんでした。頼もしく、きっぱりとした、堂々たる答えでした。すべての時代の人がこのみことばを聞くことができます。私たちにも語られています。

(三) キリストが触れてくださったことは、らい病人にとって大きな意味がありました。長い間、愛の手で彼に触れる者がありませんでした。声をかけたとか事務的に手を触れたとかではありません。主はあわれみに動かされました。主の愛の心といのちそのものがその中にありました。そうです。主が私たちを助けてくださるのは、約束のゆえに強いられてではなく、あふれる愛と限りないあわれみによるのです。主はご自分のいのちで私たちの死すべきいのちに触れ、ご自分の新鮮で温かい血をもって私たちのらい病人の心を溶かしてくださいます。

(四) 癒されてから男は、エルサレムの祭司のところに行き、適切な手続きと証言を行い、国の宗教的権威の前で証をしなければなりませんでした。それまで他の場所で証することは控えていなければなりませんでした。私たちも同じです。神の力あるわざが行われた証を心の中に保ち、主のみこころのときに前に出て証をしなければなりません。証言台は非常に困難な場所かもしれませんし、宗教的にかたくなな反対者の前かもしれません。ガリラヤからエルサレムへの旅は長い道のりでしたが、私たちが証言するためにも同じように神への捧げ物を捧げる長い旅が求められているとしたら、主の愛ゆえにそうする価値があるのではないでしょうか。