A・B・シンプソン『神癒の福音』

第四章 神癒の諸原理

聖書全体の教えに基づいた神癒の原理があります。よく理解し、整理することが大切です。正しく理解するなら、知性的な信仰のために非常に有益です。

【一】 病気の苦しみの原因は他ならぬ堕落と人間の罪です。

もしも病気が自然の構成物の一部であるなら、私たちは自然の観点に立って、自然の方法に従って病気を扱うのがよいでしょう。けれども、もしも病気が罪による呪いの一部であるなら、贖いの中に本当の治療法があるに違いありません。病気が堕落の結果であり、罪の実の一つであることを疑う人はいません。私たちに伝えられているのは、すべての人が罪を犯し、死がすべての人に臨むということです。そして大は小を含みます。申命記にある、神がイスラエルの罪のために送るとされる数々の呪いの中で、病気はその一つに数えられています。また、病気はサタンの使いと明確に結びついています。サタンはヨブの苦しみに直接の原因を作った者です。また私たちの主は神の時に起こる病気を明らかにサタンの直接的な力に帰しています。病気の女性を十八年間縛り付けていたのはサタンでした。主が解放した者たちの魂と肉体をつかんで押しつぶしていたのは、悪魔の影響でした。病気が悪魔の霊的使いの結果であるとすれば、自然の治療ではなく、より高い霊的な力によって対抗し、処置しなければなりません。さらにまた、病気を神の訓練やこらしめと仮定した場合にも、病気が治るのは医療機械によらず霊的な原因あってこそであるという推論はなおもますます明らかです。御父の手にあるこらしめの杖を物理的な力や技術を駆使して人間の腕でもぎ取れると考えるのは、愚かでむなしいことです。神のこらしめを避ける唯一の方法は、悔いた魂を神のみこころの前に差し出し、へりくだりと信仰をもって神の赦しと安息を求めることです。どちらの観点から病気を捉えても、病気の治療はただ神の中にのみ、ただ神の贖いの福音の中にのみ見出されなければならないのはますます明らかになります。

【二】 病気が堕落の結果であるなら、贖いの中に含まれていることを期待してよいし、福音に先立つ準備的な経綸の中に病気の癒しの暗示を求めることは自然です。

私たちは失望させられません。神の配慮と供与が神の民の霊的必要とともにこの世での肉体的必要をも含んているという偉大な原理は、旧約全体にも示されています。モーセの律法の中にも明確に神癒があります。穀物を与える牧者という預言的な描写は、栄光の王や恵みの救い主というイメージに加えて偉大な医者という神のイメージを与えます。アビメレク、ミリアム、ヨブ、ナアマン、ヘゼキヤの癒し、らい病と青銅の蛇、マラでのおきて、ゲリジム山の祝福とエバル山ののろい、アサ王に対するきびしい叱責、詩篇百三篇、イザヤ書五十三章、それらが肉体の贖いが神の大権でありご計画であるという旧約聖書の証言を明白で明確にしています。

【三】 イエス・キリストの人としての働きが、これらの原理を次なる重要な段階へと発展させます。

キリストご自身の生涯は、キリスト教の完全な要約です。贖いの壮大な目的は、キリストのことばとみわざを骨子にして集約できるはずです。キリストのご生涯は肉体的な癒しに関してどんな証言をしているのでしょうか。キリストは町々を行き巡って病気の人々をさまざまな方法でお癒やしになりました。癒しの必要な者をみなお癒やしになりました。それは預言者イザヤの語ったことばが実現するためでした。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」さあ、思い出しましょう。このことはたまさか起きたのではなく、キリストの主要な働きでした。キリストはその働きを癒しで始め、地上の生涯の終わりまで継続なさいました。キリストは可能なかぎりあらゆる機会をとらえ、さまざまな状況にあって癒しを行われました。真心から、ご自身の意志で、それがみこころであることに疑問の余地も残さずに。キリストは疑っているらい病人に「わたしの心だ」とはっきり仰せられました。キリストが嘆いたのは、人々が彼に全幅の信頼を寄せなかったときだけでした。癒しのみわざにおいて、キリストは贖いの本当の目的と、ご自身の変わらない愛とご人格を明らかにしようとなさいました。キリストは「昨日も、きょうも、いつまでも同じ」であることを明確に保証してくださいました。それを認識するとき、私たちは信仰の拠って立つ偉大な原理を得るのです。これは「とこしえの岩」(イザヤ26:4)のように安全です。

【四】 贖いの中心はイエス・キリストの十字架です。神癒の根本的な原理もそこに求めるべきです。

贖いは主イエス・キリストの贖いの供え物に根拠があります。次のことは私たちが述べた第一の原理から必然的に導かれます。病気が堕落の結果であるなら、キリストの贖いに含まれている、ということです。贖いは「もはやのろいがない」ところに達しているのですから。しかしまた、すでに見たように、イザヤ書53章で最も明確に述べられていることですが、キリストは私たちの病気を負い、私たちの痛みをになったと言われています。「負う」という単語は罪の贖いのために使われる単語と同じです。この単語は、人々の咎を負わせる贖罪のやぎの箇所で使われ、またイザヤ書の同じ章で「多くの人の罪を負い」という節でも使われています。ですから、彼が私たちの罪を負ったのと同じ意味で、私たちの病気をも負ってくださったのです。ペテロもこう述べています。「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。……キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2:24)罪に陥りやすい肉体の性向をキリストがその身に負ってくださったため、私たちの肉体は自由になりました。「打ち傷」という単数形の痛ましい表現が、苦しんでいる世界のすべての痛みをそこに集約しています。キリストが完全に負ってくださったものについて、私たちはもう苦しむ必要がありません。神癒は素晴らしい贖いに含まれている権利となりました。ですから、私たちは十字架の血で買い取られた相続分として、神癒を単純に求めます。

5. 【五】 けれども、十字架よりも大切なものがあります。私たちの主の復活です。

神癒の福音は、復活において深甚ないのちの源泉を見出します。キリストの死は病気の根である罪を滅ぼしますが、贖われた私たちの肉体に健康といのちの供給源を植えるのはキリストのいのちです。キリストのからだは、みずみずしい強さがあふれる生ける源泉です。キリストはヨセフの墓から出てこられ、復活の新しい肉体的いのちをもって、生と不死のために神の民のかしらとなられました。キリストが永遠のいのちの力を受けたのは、ご自身のためのみならず、私たちのいのちのためでもありました。キリストはご自分のからだである教会のために、万物のかしらとしてご自身を捧げました。私たちはキリストのからだ、キリストの肉、キリストの骨に連なっています。キリストの与える癒しとは、私たちの肉体にご自身の新しい肉体的いのちを注いで満たし、キリストご自身の深奥なる交わりに私たちを導き入れることにほかなりません。復活し天に昇った方が、強さといのちの源泉また基準となってくださいます。私たちはキリストの肉を食べ、キリストの血を飲みます。キリストが私たちの中にとどまってくださり、私たちはキリストの中にとどまります。キリストが御父の中に生きておられるように、キリストを食す者はキリストによって生きます。これが、イエスの御名による、素晴らしく、力強く、かけがえのない肉体的癒しの原理です。私たちの死ぬべき肉の中にイエスのいのちそのものが現されるのです。

【六】 このため、それはまったく新しいいのちでなければなりません。

イエス・キリストの死と復活は、贖われたいのちにとって過去と現在の間に決定的な分断をもたらしました。今や、人はキリストの中にあるなら、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなったのです。イエスの死が私たちの古い自己を殺しました。イエスのいのちがまったく新しいいのちの泉です。このことは私たちの肉体のいのちについても真実です。古い自然の強さを回復させるのではありません。以前のような健康状態に復帰するのではありません。古きに属するものはすべて過ぎ去ります。しばしば自然の強さを完全に打ち砕きます。それは「弱さのうちに現れる強さ」です。すでに存在する何かをもとにして作り出すのではなく、創造のように無から出で、復活のように暗い墓から、あらゆる助けも希望もついえたところから出でる強さです。この原理は、神癒を実際に経験するうえで非常に大切です。古い自然のいのちの中に癒しを探すかぎり、必ず失望します。が、肉に信頼するのをやめ、私たちの内側に宿って霊と肉の強さとなってくださるキリストとその超自然的ないのちを一心に見つめるなら、私たちを強めてくださるキリストによって私たちはどんなことでもできるということを発見します。

【七】 このため、キリストのもたらした肉体的な贖いは、癒しにとどまらず、いのちそのものでもあります

それは、私たちのいのちを自然の水準のまま古い基礎の上に再び打ち付け、機械のようにひとりでに動くままに放置しておくのではなく、質的に新しいいのちと強さを注入することです。それゆえ健康な人にも病気の人にも平等に不足なく注がれます。端的に言えばそれは自然のいのちよりも質的に高いいのちであり、生命の水を神の天的なワインに変えるものです。そのため、キリストのうちに常にとどまり、キリストから継続して受け取る必要があります。それは一度手にしたら永続する保証金ではなく、日ごとに与えられなければなりません。日々内なる人が新しくされ、私たちの必要な分だけ強さが与えられ、キリストのうちに私たちがとどまる限り継続します。そのようないのちは非常に聖なるものです。見ること、話すこと、ふるまい、細胞、からだの動き一つひとつに固有の聖性を与えます。私たちは神のいのちを生きているので、神のように、神のために生きなければなりません。こうして神のいのちを吹き込まれたからだは魂とクリスチャン生活のあらゆる奉仕に十倍の力を加えます。この神の力において話されたことば、神のいのちを通じてなされた行いには、霊と同様に肉体も聖霊の宮であると感じさせる肯定的な影響力があります。

【八】 この新しいいのちを私たちにもたらす偉大な仲介者が聖霊です。

イエスの贖いのみわざは、祝福された聖霊の働きなしには完成されません。ナザレのイエスは現在、目に見える肉体の顕現ではなく、霊的な顕現によって、病人や足の不自由な者や目の見えない者にお会いになります。古い肉体的な力はすべて保ったまま、苦しむ者にもたらす結果もすべて昔の時と同じですが、その方法は肉体的ではなく霊的です。私たちの心に臨在します。私たちの必要とキリストのいのちの接点は、聖霊を通じて生じます。だからこそ、マリヤは復活にまみえた最初の瞬間に学ばなれけばなりませんでした。「わたしに触れてはなりません。私は天に昇るのですから。」それ以降、マリヤはキリストを昇天のキリストとして知りました。だからこそ、パウロはキリスト・イエスを肉にしたがって知るのをやめました。だからこそ、イエスは弟子たちにカペナウムで、生けるパン――癒しの供給源でもある――のたとえを話され、こう付け加えました。「もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6:62-63)多くの人が癒し主と出会うのが難しいのはこういうわけです。彼らは聖霊を知りません。神を霊的に知りません。天の太陽は、もし大気が熱と光を伝えず、世界に散乱させなければ、ただの冷たく輝く氷のボールにすぎません。キリストのいのちと愛も、媒介となる聖霊なしには私たちに届きません。聖霊こそが光であり大気であり、神のいのちと光を注ぎ、愛と臨在を私たちの内側にもたらす神の仲介者です。聖霊が、イエスの持っておられるものを私たちのところに届け、イエスのいのちとからだの本質をとらえて、私たちの血管、神経、組織、機能のすみずみにまで優しく行き渡らせるのです。そうです、聖霊はいのちを与える方です。イエスが地上で悪魔を追い出したのは聖霊の御力によってでした。現在も同じです。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

【九】 この新しいいのちは、キリストの贖いにあるどの祝福とも同じく、わざによらない神の自由な恵みであり、人の功績による差別やえこひいきがありません

キリストを通じて与えられるものはすべて恵みです。信仰の義には行いが不要です。ただ義とされた後に、義の実として行いが伴うのみです。他のすべては死んだわざであって、救いにとって益になりません。だからこそ、癒しは完全に神のみわざです。そうでなければ恵みとはいえません。キリストがお癒やしになるなら、だたおひとりでお癒しになります。この原理は、神癒の信仰と他の手段を組み合わせて使って良いのかという疑問を永遠に解決してくれます。亀と機関車を同時に走らせたり、鉄と麻をより合わせていかりの綱を作ったりするのがありえないように、自然のものと霊的なもの、地上的なものと天的なもの、人間のわざと神の恵みは、混合されえません。それらは協働できません。福音の賜物は、主権者の賜物です。神は私たちのために最も困難なことをおひとりでなさいます。しかし、私たちが自分で行える最も簡単なことには、神は助けを与えません。ですから、望みのついえた状況は、私たちが自分で解決できると思っている状況に比べれば、はるかに望みがあります。私たちは「他の何ものも割り込む余地のないほどに、完全に神に賭ける」べきです。癒しが自然の方法で求められるべきものならば、あらゆる技と経験を駆使しましょう。けれども、癒しがイエスの御名を通して与えられるものであれば、ただ恵みのみによって得られます。同様に、癒しが福音とキリストの賜物の一部であるならば、福音の偉大な「誰にでも」という性質にのみ制約されて、必ず公平に与えられます。選り好みで差別されるような特別な賜物ではありません。誰にでも与えられる、信仰と従順の偉大な相続分です。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(黙示録22:17)来る者は従順の信仰という単純な条件を満たさなければならないことは真実ですが、癒しは人の功績なしにすべての人に差し出される公平な恵みです。

【十】 この偉大な祝福の単純な条件は、福音に含まれる祝福すべてについて言えることですが、見ずに信じる信仰です。

わざによらない恵みと、見ずに信じる信仰は、栄光の福音における対をなす原理としていつも同伴します。神の恵みを受けようとする者に神が要求なさる一つのことは、神の単純なみことばを信頼するということ、神のことば以外の何も信頼しないということです。本物の信頼でなければなりません。信じて疑わずにいなければなりません。神のことばがまったき真実であるなら、絶対的に、文字通りに真実なのです。たった一つの小さなからし種でも、芽をふいて生ける根を張り、大きな岩や山をも割きますが、欠けのないからし種でなければなりません。からし種は完全な状態で保たれていなければなりません。わずかな傷がその生命を殺します。一つの疑いが信仰の有効性を破壊します。それゆえ、魂の中から始め、神をそのみことばのとおりに単純にそのままに受け取る必要があります。しるしと証拠を見せてくれるのを待つような信仰は、強くなりません。曲がった方向に伸びる植物は枯れやすいため、支えが必要です。見てから信じる信仰は、信仰ではありません。見ずに信じる者がさいわいです。アブラハムは実現の予兆のある前に、それどころか自然の兆候はまったくそれを否定していたときに神を信じたので、信仰の父という名をいただきました。創世記十七章の美しい表現形式に着目しましょう。最初、アプラハムはこう言われました。「あなたは多くの国民の父となる」。続いて、彼の名が信仰の告白を表現した名前に変えられ、あざわらう世界を前にして神を信じたことが認められました。それから神の次のことばが続きました。なんと素晴らしいことでしょうか! 時制が完全に変わります。もはや約束ではなく、実現した事実です。「わたしがあなたを多くの国民の父とした。」完了したのです。信仰が未来を過去に変え、神がまだ存在しないものをすでに存在したもののように呼び出されます。ですから、イエスの癒しのいのちと福音のすべての祝福を信じ、受け取ろうではありませんか。

【十一】 からだの癒しについて信仰の義務に関する原理はあるのでしょうか。

どのように癒やされるか、あるいは私たちが神を信頼するか人を見るかは、私たちが自由に選択できるのでしょうか。それとも「おきてとさだめ」であって、単純に従うべき事柄でしょうか。贖われた者たちの身体を神がどう取り扱うかは神の偉大な特権であって、それを汚れた人間がどうこうしようとするのは不適切であり、誰であれ神以外の方法を選ぶことは不適切なのでしょうか。救いの福音は約束であると同時に命令でもありますが、等しい権威をもつ癒しの福音もそうなのでしょうか。神の世界に入り込んだ病気の取り扱い方を神は制定され、私たちには神の定めた偉大な健康の法則に干渉する権利があるのでしょうか。神は贖いの一部として神の子供たちに治療薬を提供するために膨大な犠牲を払い、神の愛する御子の名の誉れと権利とに対して妬むような熱情をお持ちなのでしょうか。神は子供たちのからだの所有者であることを主張し、その世話をする権利を主張なさるのでしょうか。神は私たちに一つの偉大な処方箋を残し、他のやり方は権威がなく、むしろ不従順で、私たち自身を危険にさらすものなのでしょうか。確かに、これらの質問はおのずと答えが出ます。単純で従順な神の子にはただ一つの道が残されます。

【十二】 神が私たちの魂とからだを取り扱われる秩序はある決まった原理に規定されています。

(一) 内側から外側へ。神はみわざを私たちの霊的性質から始められ、それからそのいのちと御力を私たちの物理的な肉体へと広げられます。多くの人が霊的生活に間違いと欠けを残したままで癒しを求めて神のもとに来ます。神は癒しを拒まれませんが、魂の深みから始めて、神のいのちを受け入れる準備ができてから、やっと肉体の癒しを始めることがおできになります。

(二) 魂とからだの状態には不変の並行関係があります。ヨハネはガイオに「たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように」(第三ヨハネ1:2)と祈りました。心に罪の小さな雲があると、それが脳と神経に影を落とし、全身の骨を圧迫します。霊的な悪の邪悪な息吹が血液に毒を吹き込み、全身の組織を衰えさせます。また、快活で、落ち着いて、信頼のある霊は肉体のいのちに活力をもたらし、私たちの内にある主ご自身のいのちによって力強い脈動へと道を開きます。

(三) したがって、癒しはしばしば霊的生活の成長とキリストへの堅固な信仰が育つにつれて時間をかけて徐々に起こります。神のいのちの原理は、自然のいのちと同様に、「はじめに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。」(マルコ4:28)非常に多くの予備的な働きがあります。種は植えられ、死ななければなりません。茎が伸びて、重たい実に耐えられるほど強く育つ必要があります。多くの人が穂がまだ柔らかな状態なのに麦穂が実ることを望んでいます。それでは自重で押しつぶされてしまいます。いと高き祝福をいただいて維持するためには深く静かな強さを持たなければなりません。時にはこの準備が前もってすべて完了していることもあります。そのようなときには神は直ちにそのみわざを行なわれます。けれども、神は各人の全体的な発達に最もふさわしい秩序と過程を知っておられます。私たちの中に行なわれるみわざすべてが神の偉大な目的にかなっています。

【十三】 癒しの限界もまたある原理によって定められています。

(一) それは不死のいのちではありません。キリストがいつも癒やしてくださるのにどうして人は必ず死ぬのでしょうか。信仰が到達できるのは神の約束の範囲内までだからです。神は私たちがこの経綸の時代に死ななくなることをどこにも約束しておられません。約束されているのは、自然のいのちの長さまで、私たちの生涯の働きがなされるまでの間、いのちと健康と強さが持続することです。私たちがいただいているのは復活のいのちであることは真実ですが、その全体ではなく、ただ初穂だけです。不死のいのちについて第二コリント五章で使徒が語っています。「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。」(第二コリント5:5)すなわち、私たちがいただいた手付金は買い取られた農場の豊かな土壌のひと握りの土ですが、それはひと握りにすぎません。同じように神が御霊によって私たちに与えてくださった新しい肉体的いのちも、復活のいのちのひと握り分です。ひと握りだけが与えられていて、完全なものは主の来臨まで来ません。けれども、そのひと握りは地のどんな土よりも素晴らしく、自然のいのちの百倍もの価値があります。

(二) もうひとつの限界は、私たちが現在の状態にあってこのいのちにどの程度期待できるかという点に関わっています。私たちはあらゆる種類の超自然的な功績をあげ、尋常ならざる力を発揮できるほどの強さをいただけるのでしょうか。私たちが持っているのは、神のみこころとキリストへの奉仕を行うのに十分な強さをいただくという約束です。しかし、誇示するためだけの強さや、むやみに浪費したり自己中心や罪に費やすための力はありません。神に認められうる働きという限界はありますが、この限界は非常に広いものです。どんな自然の強さよりも広いです。私たちは私たちを強くしてくださるキリストによってどんなことでもできます。あらゆる苦役、自己否定、野ざらしや弱さや悪天候など、最も強さと時間を集中的に必要とするような困難に直面しても恐れません。そのようにキリストがはっきりと私たちを導き、召しておられます。私たちは神の守りの御力を得て、次の真実を見出します。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(第二コリント9:8)しかし、禁断の地に触れ、神のみこころの聖なる領域から出て、その強さを自己と罪のために費やしてみなさい。たちまちいのちがしおれてしまいます――ヨナのとうごまやサムソンの腕のように。そうです、それが私たちのいのちの真実です。どの部分も欠けることなく、すべてが真実です。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)