A・B・シンプソン『神癒の福音』

第三章 よくある反論

さて、すべての罪を赦してくださった神が同じ真実と完全をもって病気をも治してくださるという喜ばしい知らせに対して、反論もあります。その中でとりわけ説得力のある反論に答えましょう。

【一】 奇跡の時代は過ぎ去った。

これは広く公理として仮定されていますし、あまつさえ聖書本文の引用のごとく扱われています。歴史は過去から未来までいくつかの時代と経綸(Dispensations)に分けられます。すなわち、エデンの園の時代、洪水前までの時代、家父長制の時代、モーセの律法の時代、クリスチャンの時代、千年王国時代、永遠の時代です。現在は家父長制の時代でもモーセの時代でもありませんし、千年王国の時代でもありませんから、クリスチャンの時代で間違いありません。ですが、クリスチャンの時代がさらに二つか三つに分けられるとお考えかもしれません。キリストと使徒の時代と、私たちの時代というふうに。けれどもパウロは、「この終わりの日」に生きていると言いました。彼は当代の人々を「世の終わりに臨んでいる私たち」(第一コリント10:11)と言いました。また、ペテロはペンテコステの日の説教で、この時代をヨエルの預言した終わりの日であると力強く言いました。そのため現在が間違いなくキリストとキリスト教の時代なのですから、奇跡の時代でないとしたら、いったい何でしょうか。あるいはこの時代の始まりと終わりとでは大きな相違があるかもしれません。神の御力が特別に顕現するのは初期だけで、徐々に落ち着いて平凡な日常へと戻っていくかもしれません。そうだとすると、「終わりの日」に聖霊がめざましく注がれるのはどうしてなのでしょうか。御霊の賜物がしもべにもはしためにも与えられ、天にも地にも超自然的なしるしと不思議が現れることが、とりわけ「主の大いなる輝かしい日が来る前に」、つまりクリスチャンの時代の終局に、再臨の前にある、とヨエルが預言したのはどうしてなのでしょうか。また、パウロが、キリストの教会は一つの身体であって二つではない、それぞれの部分の賜物は全体に属しているのだ、と強く主張したのはどうしてなのでしょうか(第一コリント12)。使徒の時代と後世の時代に本質的な違いがあるとすると、教会は一つの身体ではなく二つの身体になります。そうであるとすると、一方の身体に属する人々の賜物は他方の身体に属する私たちには流れません。そうであるとすると、あの栄光に富んだ描写と力強い論証は偽りであり、空想にすぎません。私たちが同じ身体でないとすれば、同じいのちも同じ力も持ちえません。使徒たちを平凡な人よりも力ある者としたものは何ゆえだったのでしょうか。キリストとの交わりの深さではなく、聖霊の賜物のゆえでした。私たちは同じではないのでしょうか。使徒の力が例外的で一時的なものだと言うのは、人を高く上げて、その力を与え給うた御霊をおとしめることにならないでしょうか。確かに使徒にはキリストの復活の証人として、地上で教会を建て上げるための固有で例外的な役割がありました。けれども、教会の奇跡的な賜物は使徒に限定されたものではありません。そのことを示すように、特に第一コリント十二章では奇跡的な賜物が使徒性からはっきり区別されています。奇跡的な賜物は、ステファノにも、ピリポにも、また他の使徒でない者たちにも与えられました。ヤコブによって教会の普通の長老職の者たちに任せられました。

親愛なる主には、使徒以後の時代に区別をもうけて、力を失った不能の時代にしようという計らいも意図もありませんでした。人の不信仰と罪がそうならせたのです。教会自身の腐敗がそれを招いたのです。主がそれを願われたり賜ったりしたのではありません。主は、天地の真ん中に立って、十九世紀を慈愛と満ち満ちた恵みをもって見下ろしながら、最初の弟子たちに語ったのと同じように現在形で、私たちがみな等しく主に近い者であるかのように、こう仰せられます。「天においても地においても、いっさいの力がわたしに与えられている。見よ、私は時代の終わりまで、いつまでも、あなたがたと共にある。」(ギリシャ語からの訳)二つの時代ではなく、ただ一つの時代です。主の御力はいっさい衰えません。主は永遠に「ある」方であり、時代の終わりにあっても、時代の始めと同じように近しくあってくださいます。事実、私たちがなすべき働きは、主ご自身の計らいであり、それどころか主ご自身のみわざにほかなりません。ルカが「イエスが行い始め、教え始められた」(使徒1:1)と書いたとおりです。それゆえ主はそのみわざを今も完成へと向かわせておられます。また、主ご自身が私たちの働きについて語られたのは、まさに次のことです。「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行う(すなわち、そのわざはキリストのみわざであると同時に私たちのわざでもある協働です)」(ヨハネ14:12)。主が地上から去ってもそのわざは去りません。「またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」また、実際、古代の教会の初期、信仰と聖さの乏しい教会においてさえも、同じわざが一様に見られました。二世紀から四世紀にかけて、エイレナイオスやテルトゥリアヌスのような著名な教父も、多くの疑う者に対して神癒の奇跡を証し、イエスの御名によって死人がよみがえったことさえも証しています。五世紀に至っても、超自然的な現象のゆえに非常に多くのよく知られた男女が、プロコピウスやユスティニアヌスといった皇帝に捕らえられました。その証拠は非常に強力であるため、モスハイムという実直な編者は、それを疑う者は歴史上のあらゆる事実を疑わざるをえないと断言しています。

奇跡の時代は過去の遺物ではありません。神のことばはそのようなことをほのめかしてさえいません。反対に、奇跡は終わりの日のしるしであると述べています。本当の敵は、偽りの奇跡です。敵は奇跡を行う悪霊を地上の王たちに送り込みます。偽りの奇跡に対する唯一の対抗策は、本物の奇跡です。私たちが生きているのは、奇跡の時代、キリストの時代、キリストの二度の降臨の間にある時代、絶えざる神の臨在の時代、力の時代、他のどの時代にもまさって激しく力が増す時代です。

【二】 スピリチュアリズム、動物磁気、透視などの実践によっても神癒の信仰と同じ結果が得られると言われている。

スピリチュアリズムの現象のいくつかは明らかな詐欺である一方で、科学で説明しようのない力によって生じた疑いなく超自然的な現象が多く存在することも否めません。「スピリチュアリズム」という恐るべき怪物に出会おうとしても無駄です。ジョセフ・クックが言ったように、もしかするとイギリスとアメリカで近い将来、その現象をよく検討せずに手品やごまかしだと言って浅はかに否定し真面目に取り合わない人たちが、スピリチュアリズムに取り込まれるかもしれません。スピリチュアリズムで起きる現象は、しばしば疑いようなく人間の力を超えた現実そのものです。それはハルマゲドンのために人々を集める「奇跡を働く悪霊」です。彼らはエジプトの魔術師やギリシヤの神託、ローマの腸ト師、インドのまじない師の力の再来です。神から来たものではありませんし、全能でもないものの、人間を超えた力を持っています。私たちの主はそれについてはっきりと警告し、その力ではなく、その結ぶ実、聖さ、謙遜、イエスの御名と神のことばに従うかどうかによって判別しなさいと命じておられます。彼らが存在するからこそ、私たちは霊的な世界だけでなく物理的な世界においても対抗し、聖なるキリスト教の生ける力を示すべきであるという命令がますます厳粛になるのです――モーセの杖が魔術師の杖を飲み込み、彼らの卑小な力を黙らせたように。

3 【三】 キリストと使徒の奇跡はキリスト教の事実と教理を確立するために計画されたものであるため、継続して起こる必要はない。

それならどうして、福音書に書かれた事実の存在やその信頼性に疑問を投げかける批判が起こるのでしょうか。新しく宣教された国の人々は、どのようにしてこの福音が神からのものであると知るのでしょうか。世界中の多くの人々に、どうしたら知恵の記録である聖書を届けられるのでしょうか。無謀です。あらゆる世代の人々が生けるキリストを必要としており、あらゆる新しい共同体が「これらのしるしが伴う」というみことばの確証を必要としています。また、理性を振り回して引き下がらない不可知論者が、どんなに言葉を尽くして説得しても動じないのに、腰の低い読み書きもできないひとりの女性と出会い、私は長年寝たきりでしたがイエスのことばと御名だけによって起き上がりましたと飾り気なく正面から言われたときに、深く感動し、うろたえて黙り込むといったことを私たちはときどき経験してきました。主が再び来られるときまで、世界は神の御力と臨在に触れていただくことを必要としています。それが不要になることはありません。「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル2:4)また、キリストが行われた数々の奇跡の目的について、その美しさと価値とを半減させるような誤解がはびこっています。奇跡は、キリストの御力と神性とを特別に証するためだけのものであると理解されています。しかし、もしそれがすべてであったなら、ほんの数回の顕著なしるしが起きれば十分であるはずです。キリストは日々押しかけてくる数千の群衆をお癒しにならなくてもよかったでしょう。けれども、私たちが伝えられているのは反対に、奇跡が起きたのは一回きりとか時たまとかではなく、非常に多く、ほとんどいつでもどこででも起きたということです。「キリストは癒しの必要な者みなを、病気の者みなをお癒しになった。」キリストの御力を証明するためだけでなく、その限りない愛をすべての人が知ってもらいたいと願われていることを示すため、また昔の預言者が恵み深いキリストについて預言したことが成就するためでもあります。預言者イザヤが「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と話したことばが成就するためです。しかし、もし福音書の時代にキリストのご人格を実現することが必要であったなら、今はなおさらそうです。神が描写したキリストのあり方、つまりご自分が描かれたキリストのあり方に真実であることを決してやめるわけにはいかないからです。もしこれが今の私たちにとって真実でないなら、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも同じ」ではありません。こしこれが今の私たちにとって真実でないなら、おそらく、聖書の他の約束も、私たちに真実ではありません。キリストは私たちの病と苦しみを背負わなかったように、私たちの罪を負ってくださいません。そんなことは不合理です。

「キリストの心は今も同じです。同国人、友、長子。それが彼の永遠の名。あなたは私にとっていっさいの中にあるいっさいです。ベタニヤの生けるお方。」

4 【四】 マルコの福音書にあるキリストの最後の約束は、癒しのみならず他の事柄も含んでいる。一つを取り上げるなら、他のすべても取り上げなければならない。

もし病気の癒しを期待するなら、異言の賜物も毒を克服する力も期待しなくてはならないし、もし異言の賜物がやんでしまったのなら、病気を癒す力もやんだのだ、というわけです。私たちはこの厳粛な論理を喜んで受け入れます。いくつもある約束の一つでも諦めることはできません。私たちはペンテコステ派の教会のさまざまな霊的賜物のうち、癒し主の臨在を認めています。キリストの卑しいしもべが、主のみわざに従事しながら、単純な信仰をもって感染症や毒や危険に対抗する力を求めてはならないという道理はありません。異言の賜物については、虚栄のために乱用されたので、あるいは福音が急速に世界に広がる上での実際的な必要がなくなったので、初期の教会以後は与えられていないと私たちは信じています。とはいえ教会が福音を全世界に広げるために必要であるとしてへりくだって求めるなら、異言の賜物もすぐさま再興するでしょう。実際、インドやアフリカで働く宣教者の間では、異言の賜物が顕著に現された例は枚挙にいとまがありません。

5 【五】 病気の中で神のみこころに従うことによって神の栄光が現され、聖なる苦しみを味わうことで結果的に幸福に至る。

これが最も有力な反論かもしれません。さて、もしこの実践を勧める人が、自分が病気になったときにそれを本当に受け入れ、病気をそのままにしておくならば、少なくとも一貫性はあります。しかし、そういう人は医者を呼んだりといった、この素晴らしい神のみこころからみすみす抜け出すような努力はしないのでしょうか。苦しみにおとなしく従うのでしょうか。従順というものは普通、必然的に訪れる結果がわかっているときに生じるのではないのでしょうか。痛ましい病気の中で、魂が罪の道から立ち返らされ、神と深く出会う体験へと導かれて、結果的に幸福になる場合があることを否定してはいません。また、癒しの点で神を信頼できない多くの病弱な人々は熱心な敬虔さが足りないとか、霊的な成長がないとか疑っているのでもありません。そうではなく、クリスチャンとしての成長の原理に関して、非常に多くの曖昧で非聖書的な誤解が確かにある、と申し上げています。神はただ善を伸ばす目的のために従順な子供を懲らしめる、と私たちは信じていません。「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」(第二コリント11:30-31)ここに神がその愛する子供たちを取り扱う明確な不変の法則があります。私たちが自分を裁くなら、私たちは裁かれません。私たちが聞き従うなら、「わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。」(出エジプト15:26)神が子供たちに語る標準的なことばは、体、魂、霊が健やかであれ(第一テサロニケ5:23)です。神が子供たちに祈るのは、魂に幸いを得ているように、健康でもありますように、です。神が子供たちに願うのは、神のことばのとおりに生きることです。神のことばはつねに「神の善を喜ぶ」(第二テサロニケ1:11、KJVより)こと、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」(ローマ12:2)を知ることです。「正しい者の悩みは多い」のは真実です。しかしまた「主はそのすべてから彼を救い出される。主は、彼の骨をことごとく守り、 その一つさえ、砕かれることはない」(詩篇34:19-20)もまた真実です。そして「悩み・苦しみ」と病気の間には、明白な区別があることはよく記憶されなければなりません。マラにて、イスラエルの子らが苦い水を飲まなければなりませんでしたが、水は除去されたのではなく甘くされたのでした。同じように、試練はきよめられ祝福へと変えられるものです。他方で、まさに同じ場所で、神は癒しのために像を造らせ、布告を行いました。もし彼らが神に従うなら、病気にかからず、神が常に癒し主となってくださる、と。この事実は、マサでの苦い水は病気とは異なっていたことを示しています。また、まさに同じ主題について、ヤコブは手紙の中で「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい」(ヤコブの手紙5:13)、つまり恵みを受けて強くなりなさい、と命じていますが、他方で「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き……」(5:14)、癒されなさいと命じています。苦しみは、「キリストと共に苦しむ」ことです。キリストは病気ではありませんでした。「あなたがたは、世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)が、それゆえなおのこと、私たちには患難に耐え、打ち勝つために、健やかで強い心が必要です。

6 【六】 病気の癒しを絶対的に求めるのは傲慢である。

真の祈りの模範はキリストがゲッセマネの園で祈ったことばである、と。「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)そのとおりです。しかし、反論者は見落としています。キリストはこの杯が過ぎ去ることは不可能だと知っていました。またこのときキリストが願われたものは、控えめに言って、約束も保証ももない事柄でしたから、すぐにこう撤回したのです。「『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」(ヨハネ12:27-28)確かに、ある状況のもとで、極度の困窮にあって、明確な保証も約束もなく、神のみこころを好意的に解釈しても手がかりを得られないような事柄を願い求めるとき、未知のみこころの裁定に関するこの出来事を参照すべきです。けれども、ある祝福が神のみこころに合致していて、差し出され、買い取られ、約束されていることを神ご自身のことばから知っているとき、疑いながら神のもとに近づいて、不明瞭な言葉で願いを口にするのは、神から顔をそむけ、いただけるものを遠慮し、見せかけの誠実で、敬虔なふりをしているだけではないでしょうか。たとえば学寮にいる息子がいるとして、あなたが最初の手紙に詳細な指示を出したにもかかわらず、そこに書いてあることについて許可を求める手紙を息子が重ねて送ってきたとしたら、いかがでしょうか。それと同じではないでしょうか。キリストは、神のみこころに合致していることが既知であるような事柄を求めて祈ったでしょうか。キリストのひとつの祈りを見習うのが正しいのなら、別の祈りを見習うことも同様に正しいのではないでしょうか。ゲッセマネの祈りを見習うように、ベタニヤでの祈りを見習うことも。ベタニヤで主は何と言われたのでしょうか。「父よ。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」(ヨハネ11:42)「父よ。彼らを私と共におらせてください。」(参考・ヨハネ17:24)神のみこころが明白に知られている事柄に関しては、私たちはキリストの御名によって祈るなら、キリストと同じ祈りでなくてもよいのです。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)赦しを願い求めるときに、不明瞭な祈りをするでしょうか。私たちは単純に赦しを受け取り、自分のものとし、信仰よって大胆になり、そうすることによって最も効果的に神に栄光を帰するのです。

7 【七】 多くの場合、癒しは失敗しているではないか。

パウロとその連れが最初の例です。パウロの不可避的なとげは、疑うクリスチャンを苦しめ続けてきた代表的な遺物です。トロピモ(第二テモテ4:20)とエパフロデト(ピリピ2:25-27)は、疑念の城という病院で自ら進んで病人でいようとする人たちを励ますために、彼らのベッドの中に引きこまれています。パウロのとげに関して私たちが言わなければならないのは、第一に、それが病気であるかどうかは極めて不確かだという点です。パウロを打っているのはサタンの使いと言われています。つまり、何か屈辱的なこと、たとえばどもりかもしれません。第二に、とげが何であるにせよ、それが彼にキリストの御力をもたらし、その御力の中にとどまらせて、彼の働きと責任を豊かに可能ならしめ、ますます大きな祝福を渇望させたのですから、癒し以上のことが起きています。そして、この描写の中に弱り果てた病人が働きもできずに臥せっている姿を見る人は、苦しいことに霊的に目の焦点が合っていません。第三に、病気が、パウロに与えられたように身の丈を越えて誇ることのないよう与えられた天の恵みであると主張する人々は、その前にパウロと同じように第三の天に引き上げられて人間には話すことのできない事柄を聞くという体験が必要なのではないでしょうか! 第四に、パウロは他の箇所で癒しの体験を証言しています(第二コリント1:10)。これは誤解の余地なく、死人をよみがえらせてくださる神を信じる力強い信仰と祈りによるものです。

エパフロデトについては、彼は神のあわれみによって癒やされました。トロピモも時間がかかったにせよ、疑いなく癒やされました。信仰による癒しがいつも瞬間的に起こるとは限りません。癒しには「奇跡」と「賜物」があります。「奇跡」は瞬間的で並外れており、「賜物」は単純で徐々に起こることもありえます。病気であったことや信仰が遅かったなどトロピモに責むべき点があったことは驚きに値しません。最も驚くべきは、聖書に記載されている個人的エピソードの中でこのようなケースがたった二つだけであるという点です。

癒しの失敗は現在でも存在しますが、説明可能です。知識が欠けていたり、信仰がなかったり、ある点で神に従っていなかったり、みことばや御霊の教えに継続して従うことができていなかったり、あるいはより深い霊的修練のためかもしれません。霊的生活にも同じ(あるいは似たような)理由から失敗は存在します。それはいかなる意味でも神の約束の現実性やキリストの恵みの完全性に対する反証になりえません。「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

【八】 もし神癒が正しいとしたら、人は死ななくなるはずではないか。

そうでしょうか。どうしてみことば以上のことを信じなければならないのでしょうか。みことばを超えるものはすべて憶測です。みことばは人間のいのちに限界を定めました。聖書的な信仰が主張しうるのは、その正当な限界の範囲内で私たちが生き、働くために十分な健康と強さを得られるということです。生涯は長いかもしれませんし、短いかもしれませんが、悪者の人生とは違って、私たちは満たすべき日々の半ばで絶える必要はありません。それは完全で、満足のいくものであるはずで、人生の働きが完了しないうちに途絶えるようなものではありません。生涯の終わりが来るときに、六月に病気のりんごが腐っておちるように、あるいは根が虫に食われて枯れるように、病気にかかって失意と痛みの中で死んでいく必要がどうしてあるのでしょうか。九月になってりんごが成熟し、甘くなり、無事に収穫者の手に落ちる準備が整ってから落ちるように、人生の終わりもそうなってはいけないのでしょうか。ヨブ記は正しい人の生涯の終わりを、こうたとえています。「あたかも麦束がその時期に収められるように」(ヨブ5:26)。

9 【九】 神はそれらのみことばを文字通りには意図しておられず、私たちが文字通りに適用することを願われていないのではないか。また実際、私たちが自分でできることをすべて行ったあとでなければ、神に何かしていただくのを期待するのは厚かましいのではないか。

私たちの答えはこうです。第一に、神は医学的治療をどこにも正式に定めておられないので、医薬が神の通常の治療法であると推測する権利を私たちは持っていません。食物は私たちの必要を満たし楽しむべしと繰り返し言及されていますが、医薬はそうではありません。反論の余地のない顕著な事実は、歴史上の司教・監督は医学的治療の使用に一度も言及していないという点です。ヨブの物語では微に入り細に入りさまざまな描写がされていますが、登場人物の中で医者だけが出てきませんし、被造物の中で医薬だけが出てきません。確かにヨブが回復したとき部屋に医者がちらりと登場しますが、ヨブが治ったのは完全に神の直接の御手によるものでした。ヨブ自身が神にへりくだり人を愛する本来の位置へと立ち戻ったときに神が癒したのでした。レビ記には人間生活のすみずみに渡った詳細な指示、禁止、おきてが記されていますが、らい病を含めあらゆる病気について、医者や薬局への言及はわずかにもありません。

聖書の中で最初に見つけられる明確な医療行為は、ソロモンの後の時代まで待たなければなりません。明らかにエジプトの神なき文化と科学の無能さを表すものとして記されています。患者は死にました。不信仰によって神から見捨てられ、恥辱の下で死にました。新約聖書でも、医療行為はほとんど褒められていません。キリストの衣のすそに触れた女性の箇所では、非難がましく言及されています。ルカが医者だったとすると、彼の巡回生活から推察するに、福音の働きのために医者を辞めたに違いありません。腰をすえて治療行為にあたれないからです。次に進む前に、少なくとも以下の点を明確にしておきます。第一に、神が医薬を命じられたことはありません。第二に、神が命じられたのは別の方法です。イエスの御名によって、贖いの中でそれが差し出されています。神はそれを覚えるようおきてを定め、また実際に行うよう命じておられます。第三に、恵みのあらゆる規則は行いではなく信仰によります。医療行為は、たとえうまくいっても、人に栄光を与えるものです。神はそのようなことをなさいません。もし病気の癒しがキリストの贖いによって買い取られたものの一つであり、私たちの贖い主からの特別な贈り物の一つであるなら、神は医療行為を妬まれます。私たちも妬むべきです。救済の枠組みの中に置かれるものはすべて、「信仰の律法」に従って定められていることを私たちは知っています。ヤコブのことばの中で神癒が命令されているのなら、人間的な医療行為とは相容れません。一人の医者を雇ったなら、同じ病気について同時に他の医療行為を受けるべきでないのと同じです。癒しに関して神の方法があるなら、他の方法は人間の方法であらざるをえず、後者のために前者を故意に否認することは危険です。医療行為が罪だとか、それがつねに間違っていると申しあげているのではありません。

信仰が実践されていない分野が今もこれからも数えきれないほどあります。自然の方法に限界があるなら――明らかに限界がありますが――信仰を実践する余地が広大に残っています。けれども、神に信頼する神の子供たちのためには、神のことばが明確に定めておられる遥かに素晴らしい方法があります。それによって神の御名がさらに高められ、私たちの霊的生活は新たにされ続けます。現代は不信仰な合理主義が勢力を持っているため、直接的な超自然的働きのあらゆる痕跡を宇宙から締め出そうと不断の努力を行っていて、あらゆるものを第二原因である自然現象として説明しようとしています。神は、まさにこの理由のために、私たちの信仰が神に機会を与える場所ならどこであっても、直接の働きを示したいと願わているのです。高等批評の勤勉な働きが聖書から奇跡を取り上げています。低められた規準のクリスチャン生活が、神のあらゆる賜物を私たちの生活から取り上げています。生ける神を信じる人はみな、あざける世代に対して、「主は永遠の神、地の果てまでも創造された方。疲れることなく、たゆむことなく」(イザヤ40:28)みわざを行なわれていることを勇んで証明しようではありませんか。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」(使徒17:28)のですから、神には今もなお「何ひとつできないことはありません」(エレミヤ32:17)。

【十】 神癒の思想は肉のいのちを不当に高く上げ、不死の魂に対する関心を失わせ、狂信的な信仰に陥らせ、さらには人を悪へと導くのではないか。

最後にこの反論にだけ触れておきます。主の地上でのお働きにおいても、からだの癒しが人々の魂に到達する手段として使用され、キリストの霊的な教えの証として使用されたとき、最初のうちは同じような反論がもたらされたかもしれません。キリストの癒しの御力の教理は、聖性の必要性と霊的生活の真理と敬虔の深化に密接に結びついています。きよさと熱心さを著しく求めさせます。からだを癒やす力は一般的に、ますます豊かな聖霊のバプテスマを心に授けます。神のいのちと健康をいただいたなら、その霊的結果を一時的なもので終わらせないために、継続的に神との親しい交わりを持ち、主にきよい奉仕を捧げることが要求されます。それは、神癒を真にいただいた者の人生におよぼす最も力強い影響と報奨の一つです。癒しの乱用は一般に、無分別あるいは野心的な人が不敬虔な目的のために広げる、偽りの教えと非聖書的なこじつけに見出されます。主イエス・キリストによる真実な神癒の教えは、最も謙遜で、聖く、実践的です。人間を高く上げず、罪を助長せず、不従順な者には約束を与えず、世的な目的や放縦を奨励せず、イエスの御名を高め、神に栄光を捧げ、魂に信仰と力を吹き込み、自己否定と聖なる奉仕の生涯へと奮い立たせ、生ける神と再臨する主の厳粛なしるしによってまどろんでいる教会と不信仰の世界を目覚めさせます。逸脱、こじつけ、偽装が存在することを私たちは知っています。権威なく癒しの賜物を自称する者、自分たちは偉大な人間だと吹聴する報酬目当ての詐欺師、無知と無分別で真理に泥を塗るだけの結果に終わる軽率で見境ない「油注がれた」者、透視の免許やスピリチュアリズムの術や動物磁気の実行のためにイエスの御名を求める羊の皮をかぶった狼どもが存在します。しかし、神の真理は人間の誤謬のそしりを受けません。偽物はしばしば本物に対する最高の証人となります。主イエスの奉仕者は、これらの悪に対して、聖霊の御力において、自分たちに与えられた賜物と職務を求め、実行することによって答えようではありませんか。神の人々は、この危急の時にあって、「正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違い」(マラキ3:18)を見分けようではありませんか。