第二章 実践的指導
神への信仰に基づく神癒の教理の聖書的土台については、すでに考察しました。次に来るのは実践的な疑問です。どのようにして、この教理を十分に信じた人が、神癒の祝福を受け取り、癒しを自分のものにできるのでしょうか。
【一】 神のことばに関する神のことばを十分に納得してください。
これだけが合理的で聖書的な揺るがぬ信仰の基礎です。あなたの信仰は聖書の偉大な原理と祝福とに根ざしていなければなりません。そうでなければ、必ず来る反対と試練に倒れずに立つことはできません。これが福音の一部分であり、キリストの贖いに含まれていることを確信して、人間的なあらゆる教えと理屈とに信仰が振り回されてはなりません。神癒に関して信仰が実践に至らずくじけてしまうほとんどの理由は、神の言葉に対する確信が不完全で、疑念が残っていることに由来します。お許しいただければ、筆者はある女性の話をしましょう。この真理にかたく立って、キリストを癒し主として受け入れた女性の話です。
彼女はまたたくまに霊とからだが癒されてすっかり健康になり、喜びのあまりに良き知らせを友人たちにふれ回りました。その中の一人、牧師に自分の信仰と祝福を話しました。驚いたことに、牧師はすぐさま神癒の信仰を否定して、この新しい熱狂に警告を発し、彼女が信じている約束は私たちのためのものではないのだと説得しました。使徒たちと使徒の時代にだけあったのだ、と。彼女は聞き、尋ね、説き伏せられ、自信を失いました。一ヶ月もしないうちに、筆者が彼女と再会すると、彼女は聖書を信じているのか信じていないのか自分でもわからないほどにすっかり落ち込んでいました。彼女はこう言いました。「もしあの約束が使徒のためだけのものなら、聖書にある他の約束もすべて使徒のためだけのものではないでしょうか」と。私は彼女を招きました。数ヶ月の間、神のことばの教えを調べてもらいました。出エジプト記からヤコブの手紙まで、神癒の約束の数々を慎重に見比べ、いろいろな疑問を精査するうちに、真理が明白になり、証拠が山ほど見つかりました。彼女はやっとのことでこう言いました。「ここにあると理解しました。真実であると理解しました。たとえ世界中が否定しようとも」。それから、彼女はひざまづいて、自分の弱さと不信仰について主の赦しを願い求め、信仰ときよめの厳粛な告白を新たに行い、神癒の約束と聖霊のバプテスマを新たに求めました。その日から彼女は回復し、あらゆる霊的な祝福をもって祝福されるようになりました。それを見て、つまずきをもたらした牧師も、これが神の指であることを認めざるを得ませんでした。けれども、彼女の全祝福のスタート地点は、神のことばを十分に受け入れ信頼したその瞬間だったのです。
【二】 あなたを癒すことが神のみこころであると十分に確信してください。
ほとんどの人は、キリストが神癒の御力を持っておられることを喜んで認めています。悪魔でさえも認めています。本物の信仰は、神がこの信仰の祈りに応えることがみこころであるということにも、同等の信頼を寄せます。この点における疑いが、癒しを求める堂々とした祈りを躊躇させるのです。もしここに疑問があるなら、確かな期待を持つことはかなわないでしょう。私たちの祈りがひょっとしたら受け入れていただけるかもしれないといった曖昧な信頼では、病気と死の勢力と格闘する上で十分な力を得られません。「もしみこころでしたら」と神癒を祈り求めても、サタンがつかんでいるものを離せと要求するところまでいきません。私たちが知るべき大切なことは、私たちが願う前に神のみこころが存在し、それが神のみこころであるからこそ私たちは願い求めるのだということです。
神は私たちに神のみこころを知りうる方法を与えてくださったでしょうか。これ以上ないほど確実です。もし主イエスが贖いの中で私たちのために買い戻してくださったものがあれば、それを得ることこそが私たちに対する神のみこころであるに違いありません。なぜなら、キリストの贖いのみわざは単純に御父のみこころを行うことだからです。もしイエスが私たちに何かを約束したのなら、それを受け取るのが神のみこころであるはずです。というのも、神のことばによる以外にどのようにして神のみこころを知りうるのでしょうか。いえ、それどころか、イエスが新しい契約において私たちに残してくださったものがあれば、それこそがひとえに神の最も新しいみこころであり、それゆえひとえに私たちの兄弟の遺志による遺産のひとつであるため、みこころに関するすべての疑問は終結します。神のことばは未来永劫にわたって神のみこころの基準です。そして、神のことばが変わらずに宣言しているところによると、神の偉大な願いと神の行為・みこころに関する不変の原理は、誰であれ信じる者に与えること、特に信仰によってキリストを受け入れる者すべてを救うこと、また信仰によってそれを受け入れる者すべてを癒すことです。誰であれ、罪の赦しを願い求めるときに「もし主のみこころでしたら」とは考えません。肉体的な贖いの約束に関しても同様に、みこころであるかどうか疑うべきではありません。どちらもそれを受け入れる信頼の心を持つ者に、自由なみこころで差し出されています。
最近、筆者が見かけた非常に印象深い出来事があります。クリスチャンの働きを熱心に行なっている一人の女性が、神癒の祈りと塗油をしてもらいました。一、二週間して戻ってきた彼女は、「少しも良くなりません」と言いました。十分に神癒を信じていますか、と尋ねられると「はい」と答えました。「もし主のみこころになかうなら私は癒される、と信じております。みこころでなければ、病気のままでいることを受け入れるつもりです。」それで、こう答えました。「けれども、このことに関して神ご自身のことばからみこころを知り、完全な祝福を期待することは、私たちに許されていないのでしょうか。実際、私たちはどんなことであれ、それが神のみこころであると信じられる根拠を持つまで、神に尋ねるべきでないでしょうか。神のことばは神のみこころを表現していないのでしょうか。ひとたび神がそれを完全に約束されたあとで、それが神のみこころであるかどうかを疑うのは、不遜にみこころを軽んじているのではないでしょうか。」彼女は帰り、その翌朝、神癒の約束を自分のものとして要求しました。神には病を取り去ることがおできになると信じるだけでなく、そうしようと願われているし、実際にしてくださると信じます、と彼女は主に祈りました。見間違いでなく、また誇張でもなく、かなりの大きさの腫れ物でしたが、半時間もしないうちに完全に消えて見えなくなりました。
祈りにおいて非常に目立ちにくい不信仰がよくあります。「あなたのみこころがなりますように」。この幸いな願いは、神の愛と祝福の計り知れない高みを実際に言い表しています。神のみこころよりも優しいものはありません。それなのに、私たちはしばしばそれがあたかも冷酷な暴君の鉄の手であるかのように、あるいは変えようのない運命であるかのように考えて祈るのです。
【三】 あなた自身が神と共にあって義とされていることに注意してください。
もし何らかの罪が原因であなたが病気になったなら、全面的に悔い改め、罪を告白し、できるかぎり償いをしてください。もしそれがあなたを悪から分離するために計画された修練なら、すぐさま正直に自分を裁いて神の前に捧げ、神があなたをきよめてくださるように、また聖さのうちに保ってくださるよう恵みを求めてください。汚れた心は病気の尽きぬ源泉です。きよめられた霊はそれ自体聖くあるのと同様に、健康にも良いのです。同時に、サタンがあなたを過去のふさわしくない状態に引き戻そうとし、神癒を求める資格があるほどあなたは善くないと言って信仰を揺さぶろうとしてきますが、させるがままにしてはなりません。私たちはどんな意味でも神の恵みに値する者ではありません。唯一の申し立てはキリストの御名、ご好意、義です。それでも、私たちは自覚した罪を捨てて、神に喜んでいただくために歩むことができます。自分自身の中に裁きの基準を持ち、神が間違いを示してくださるすべてのことを捨て去ることができます。それを行うなら、その瞬間に私たちは赦されます。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」(第一コリント11:31)「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)赦された感覚や喜びを感じるまで待ってはいけません。そうではなく、あなたの心を完全に神に向け、あなたが受け入れられていることをすぐさま信じて、「邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:22)
意図的に神に背いたままで、あるいは神が私たちをご自分に向き直らせ明け渡させるために与えられている懲らしめをないがしろにしたままで、自分や他人のために信仰を使おうとしても、まったく徒労に終わります。ですが、神の矯正を受け入れ、謙遜と従順な心をもって神に向き直るとき、神は恵みをもって痛みの手を取り除き、癒しの御手を赦しの愛のしるしとしてくださいます。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」(ヤコブ5:15-16)私たちの病気はしばしば、私たちがサタンの領地に足を踏み入れたことによって感染した道徳的なマラリヤです。私たちが禁域から出て聖域に戻らない限り、癒されません。そのため、このように私たちの個人的な状態を確認することは、神癒の条件ではないものの、非常に大切な要素です。神が私たちを取り扱おうとされるご行為の偉大な目的は、私たちの最高の幸福、霊的な安全です。それゆえ、苦しんでいるクリスチャンに対して、次の古い訓戒以上に有益な助言はありません。「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、 思っておられない。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」(哀歌3:40、33、25)
筆者はこの例として、もうひとつ実際の出来事をお話ししたいと思います。筆者の家族が突然、重篤な病気にかかったことがあります。赤ん坊だったため、その子の過ちや罪が原因でそうなったのではないのは確実でした。激しいひきつけを起こしている最中に、すばやくあらゆる人間的な治療を施しましたが、この状況は祈りと塗油で神に明け渡すべきものに思われました。ただちに解放が与えられましたが、問題な完全に去ったわけではありませんでした。その夜、恐ろしい症状が再発しました。信仰の祈りがひどい雲の妨害を受けているようでした。家族の誰かが何か深刻な間違いを犯している、という深い印象がすぐに筆者の心に来ました。よく調べると、まもなく事実そうであることがわかりました。家族の一人が重大な罪を犯して、それを隠していました。それで深く洗いざらい告白し、過ちを厳粛に神の目に正し、神の赦しを求めました。すると、一切の重荷は取り去られました。赤ん坊は瞬間的に癒され、翌朝には見違えるほど健康に活発になって、それからというもの、深刻な病気にかかっていません。
【四】 神のことばと神のみこころを十分に確信したら、次にあなた自身が神を個人的に受け入れ、単純な信仰により、イエスの御名によって、今、あなたのからだを神に委ね、神癒の約束を要求してください。
単にお願いするのではありません。謙虚にしかし断固として要求してしてください。神の契約に基づく特権として、あなたの受け継ぐ分として、買い取られた贖いの権利として、福音の中ですでに完全な形で差し出され、あとはあなたが良き所有とするのを待つばかりのものとして、要求してください。お願いと要求、また欲すること(wanting)と取ること(taking)の間には大きな違いがあります。あなたはキリストを癒し主として取ら(take)なければなりません――試みにでもなく、そのうち実現する何かとしてでもなく、今ある現実として。キリストが今この時に癒してくださると信じなければなりません。ご自分の約束のとおりに、全能の御手であなたのいのちに触れ、御力によってあなたのいのちの泉をよみがえらせてくださる、と。神が将来そうしてくださると単に信じるのではなく、神が今この時にあなたに触れ、あなたのからだに癒しの御業を初めてくださることを要求し、信じなければなりません。そして、もうそれがなされたものと受け止め、神に感謝と賛美を捧げてください。主体的に自分のものにしようとする信仰をもってこのように厳粛に行動するために自分を整えていくのは良いことです。この行動は、よく考えた上で踏み出す後戻りできない一歩であるべきで、それゆえ何度も繰り返してはなりません。結婚式と同じように、重大なものごとに同意し印を押しているのですから、印を押したという現実の結びつきに意義があります。この一歩を踏み出す前に、あらゆる疑問点をはかりにかけて、それらを最終的に解決してください。そのあとで、神の約束に基づき、永遠の深い確信をもって、新しい大地に確固たる取り消し不能な厳粛な一歩を厳粛に踏み出すのです。この行動は心に大きな力と休息を与えます。千もの疑いと誘惑に対して扉を閉めます。その瞬間から、疑いによって煩わされることは絶対的にあってはなりませんし、古い方法に戻ろうとする思考さえも許すべきではありません。もちろん、そのような人はただちにあらゆる医療や医薬をやめるでしょう。
神が医者となってくださいます。また、神は他の者にご自分の栄光をお与えになりません。神がすでに癒してくださいました。治療しようとするあらゆる人間的な試みは、神癒の現実に対する疑念を暗黙に含んでいます。この信仰の行動をますます完徹するなら、ますます大きな力を帯びるようになります。もしあなたがこの信仰に対する疑問をお持ちなら、整えと祈りを特別な重要事項としてください。この行動をなしうる特別な信仰を与えてくださるように神に求めてください。すべての恵みは神より来なければなりません。信仰も他の恵みと同様です。私たちは自分自身で何かを持っているのではなく、信仰でさえも私たちの内におられるキリストご自身の恵みにほかなりません。私たちは信仰を行使することができます。行使までが私たちの責任です。けれども、神が信仰を賜るのですから、私たちは単純にそれを受け取り、神から来るものを着るだけなのです。この事実が端的に、力強い信仰の行使を幸いにも可能にしてくれます。イエスは「自分自身で強い信仰を持ちなさい」と言われたのではありませんでした。そうではなく、こう言われました。「神の信仰を持ちなさい」。このほうが良いです。神の信仰はそれだけで十分であり、私たちはそれをいただき、使うことができるのです。私たちは義のために、誘惑に対する勝利のために、聖化のためにキリストを取りました。同じように私たちの信仰のためにもキリストを取ることができます。私たちの信仰はキリストご自身の信仰なのですから、信仰が神の約束の要求を間違いなく満たすという保証の中で、私たちは休らいを得てよいのです。私たちは単純にキリストの御名によって来て、キリストを私たちの完全な供え物として、嘆願として、信仰として、弁護者として、義として、あらゆるものとして捧げます。それから、文字通りキリストの目的のために、信仰そのものを、まさしく対価なき恵みの賜物として単純に受け取るのです。このように来て神の約束を自分のものとして求めます。そうしてのちに、神のことばのとおりに、私はすでに受けたと信じるのです。
【五】 信仰によって行動してください。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ5:8)信仰を見せびらかすためではなく、勇敢さを誇示するためでもなく、ただあなたの信仰のゆえに、癒された者としての行動を始めてください。キリストを信頼して、キリストの御名と御力によってあなた一人では不可能であるようなことを計画してください。あなたがキリストを本当に信頼し、一貫して困難に屈せずに信仰による行動をし続けるならば、キリストはあなたをないがしろにしません。しかし、最も大切なことですが、これを他人の信仰やことばによって行なわないように注意深くあるべきです。誰かがあなたがにそう言ったからという理由で、床を取って起き上がり、なえた足を伸ばして歩くようなことがあってはなりません。それは信仰ではなく、見切り発車です。人は確かにそう言うでしょうが、主が言われたのでなければならないのです。あなたがキリストと共に歩き、キリストに信頼しているなら、キリストの御声を知るようになります。ペテロのように「主よ。私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(マタイ14:28)と祈らなければなりません。主が癒すおつもりなら、きっとあなたにお命じになるでしょう。けれども、この偉大で厳粛な御業においては、私たちはみな自分自身で主を知り、見出さなければならないのです。それから、信仰によって実際に踏み出したときに気をつけなければいけないのは、結果を気にしたり症状を見たり、自分がしっかり立っているかどうかを見始めたりすることです。あらゆる症状を無視して、あなたを支え、あなたを堕落から救い出してくださる全能のお方、あなたの前におられるキリストだけを見つめなければなりません。芽が育っているだろうかと種を掘り起こす人は、まもなく芽が根本でだめになるのを見ることになります。真実な農家は自然を信頼し、芽が静寂のうちに育っていくに任せます。私たちも神を信頼しましょう。埋めた種を待つように答えが与えられるのを待ち望みましょう。「もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)というみことばを私たちは知っているのですから、種が暗い失望の土壌の中で死ぬのを待ちましょう。
【六】 信仰の試練に備えてください。
どんな時でも祈ればただちに症状が消え去ると思わないでください。病気の症状のことは考えないでください。症状は単に無視して、いろいろな症状がある中で、その背後で、現実を要求し続けてください。あなたが自分のものとして要求した健康は、あなた自身の自然の力ではなく、あなたの死すべき肉の中に現されるイエスのいのちであることを覚えてください。それゆえ、古い自然のいのちは多くの苦痛の取り囲まれているかもしれませんが、その背後で、その傍らで、それを凌駕して、あなたのからだを支えるキリストの完全ないのちが存在します。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」(コロサイ3:3)、「私たちのいのちであるキリスト」(3:4)。あなたが今、肉にあって生きているいのちは、あなたを愛しご自分をお与えになった神の御子の信仰によっています。ですから、自然がこれからもたびたびあなたを打ち負かすだろうかと心配しないでください。神癒は自然のものではありません。恵みです。キリストです。よみがえられた主のいのちが肉体に宿るのです。神の右にのぼられた御からだの生ける力です。それに信頼する者はつまずくことも転ぶこともありません。キリストこそがあなたのいのちです。キリストの霊があなたの霊のためにあったように、キリストの肉体もあなたの肉体のためでした。それゆえ、試練があるのではないかと心配しないでください。試練が来るのはあなたにキリストが必要であることを示すため、キリストに立ち返らせるためです。 このことを知り、私たちの弱さの中でキリストの強さにより頼み、瞬間瞬間をそれによって生きることが、完全な癒しです。ですから、繰り返しますが、試練はいつでも、信仰が現実となっていることをバランスよく試し、強めてくれます。信仰が本物であることが示されなければなりません。それによって全宇宙の前で神は、信仰の報酬が本物であることを立証しうるのです。こうして神は、ますます大きな要求を課し、ますます大きな恵みを所有し行使させることで、私たちの信仰を増し加えてくださいます。「鷲が巣のひなを呼びさまし」(申命記32:11)、空中に突き放してその小さな翼を広げさせ、飛ぶ訓練をするように、神はしばしば私たち自身の支えや自信を取り払って、信仰の腕や翼を伸ばすように訓練なさいます。イサクの燔祭がなければ、アブラハムは復活の信仰を持つことはありえなかったでしょう。ですから、病気の症状は来るがままにしておきましょう。あらゆる症状の背後で、神が偉大な回復の御業を行っておられることをかたく信じ続けなければなりません。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント4:16)
【七】 あなたの新しい力と健康を神のために用いてください。
主なる方のみこころに従うように気をつけてください。このキリストに与えられた御力は非常に神聖なものです。私たちの内におられるキリストの復活のいのちです。キリストご自身がそのいのちを扱うのと同じように扱わなければなりません。罪と利己のために浪費されてはなりません。「生きた供え物」(ローマ12:1)として神に捧げてください。世に捧げるなら、その力は失われ、そのたびに罪が肉体の懲らしめをもたらします。通常は、私たちは魂に幸いを得ているように健康にとどまり幸いでいることを期待してもよいのです。健康を自分自身のために用いるのは十分ではありません。他の人々にその証をしなければなりません。世に向けて語らなければなりません。恐れず信仰をもって、十全な贖いの福音の証人にならなければなりません。証は、尊大にあざ笑う人々を前にしてという最も困難な状況で行わざるを得ないことがしばしばあります。しかし、神の戒めがあますところなく宣言されるべきことを、主は命じられ、教会は必要としています。そして、世はこの神癒の福音を必要としています。異教徒の国々はキリスト教の証拠を必要としています。不信仰は物質主義に対する答えを必要としています。海外宣教の偉大な働きは異教徒に対する福音の糸口を必要としています。次世代の宣教運動はこの力強い真理を取り入れるでしょうし、取り入れなければなりません。かつて医療による宣教の働きが広がったよりも大きく、この真理は福音を広げる無限の働きとなります。これは利己的な信仰ではありません。偉大で厳粛な信頼です。キリスト教初期、ペンテコステの日に異言が真理の証言と福音宣教に用いられたように、神癒を受け取った私たちはそれが神の栄光のために用いられるために団結しなければなりません。私たちが目の当たりにしている神の御力のこの素晴らしい顕現は、終わりの日の重要なしるしです。それは再臨の前ぶれです。キリストが地上におられた時に顕著に癒しが見られたように、再臨に際しても癒しが多く起こります。神癒のしるしは私たちに、厳かな熱心さをもって再臨に備えよと命じています。私たちの目はもはや墓を見るのではなく開きつつある天を見上げ、心は復活のいのちの兆しをすでに感じ取っています。他の誰もできない働きを行い、他の誰も見られないものを見る特権は、私たちのものです。時が良くても悪くても、自分を顧みるのではなく、神の偉大な御力のうちに働き、次のみことばが真実であることを確認するのです。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8:35)ですから、福音と神の恵みとの偉大なこの賜物を、自分のものとして求め、保ち、聖別しようではありませんか。今こそ、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(第一テサロニケ5:23-24)