第一章 聖書的土台
人間は二重の性質からなっています。人間は物質的な存在であり、また霊的な存在でもあります。両性質は堕落によって等しく影響を受けました。肉体は病におかされ、魂は罪で腐敗しました。それゆえ、贖いの完全な理念は両性質を含む、つまり贖いは霊的ないのちの刷新だけでなく、肉体的ないのちの回復も与えるものであると期待してよいでしょう。もちろんその期待は失望に終わりません。
贖い主が人々の間に現れ、私たちの悲惨と必要とに両腕を伸ばしてくださいました。片腕には救いを、もう片腕には癒しを持っています。主はご自分を完全なる救い主として差し出しておられます。内なる霊は私たちの霊のいのちのため、復活のからだは私たちの死すべき肉体のいのちのために。主はご自分の地上での働きを、癒しを必要とするすべての者を癒すことから始めました。その働きの終わりは、十字架上で私たちの罪を完全に贖うことでした。それから、空になった墓を通って天に昇り、二つの宣教令を残されました。「全世界」のため、「世の終わりまで、いつも」(マタイ28:20)――「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、……病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:15-18)これが「聖徒にひとたび伝えられた信仰」(ユダ1:3)です。何が起きたのでしょうか。どうしてこれが今も世界中で教えらず、知られていないのでしょうか。神癒は使徒の時代に終わったのでしょうか。ペテロ、パウロ、ヨハネが世を去ったときに神癒も去ったのでしょうか。そうではありません。
神癒は何世紀も教会に存在していましたが、最初の数世紀に世俗、腐敗、形式主義、不信仰が入り込んでいくうちに徐々に失われました。信仰復興が起こり、霊的生活が深まって、聖霊と生けるキリストに対する霊的認識が研ぎ澄まされ、主ご自身の再臨が近づくにつれて、肉体的な贖いというこの幸いな福音は、古代の地位を取り戻し始め、教会はもう二度と失ってはならないものを徐々に取り戻しつつあります。けれども、それでもなお因習的な不信仰と冷たく伝統に固執する神学的合理主義の精神が反対するため、私たちは「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦う」(ユダ1:3)必要に迫られています。
何よりもまず、私たちは聖書的土台にしっかりと立たなければなりません。信仰はつねに神のことばに根ざしていなければなりまけん。「信仰の祈り」において最も大切なことは、神を信じる単純な信仰で病気が癒されることが、疑いようもなく福音の一部であり聖書の教理であると、十分に堅固に納得することです。
【一】 一番初めに出てくる癒しの約束は、出エジプト記15:25-26です。
その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
キリストがその働きを病気の癒しから始められたように、イスラエルの民の旅路もまさにその始めから癒しの約束をいただきました。彼らが紅海を通った直後のことです。この出来事は特に、私たちの贖いと、信仰の旅路の典型を示していることがわかります。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(第一コリント10:11)ですから、この約束は贖われた神の民である私たちのものとなります。私たちの旅路のまさに出発点において、神は癒しの契約をもって臨んでくださいます。私たちがきよさと愛の従順をもって歩むなら、私たちは健康でいられます。病気は古いいのちの束縛に属するため、永遠にそれと別れを告げることができるのです。病気はエジプトに属します。神の民に属するのではありません。私たちが霊的にエジプトに戻るのでない限り、伝染病や死の病に戻ることはありません。いえ、これは単なる約束ではありません。「おきてと定め」です。それゆえ、主イエスは福音の他のおきてと等しい厳粛さをもって必ず守られるべきおきてとして、主の御名による癒しを私たちに与えてくださったのです。
【二】 詩篇105:37
「主は銀と金とを持たせて御民を連れ出された。 その部族の中でよろける者はひとりもなかった。」
この箇所は先の約束の成就を示しています。イスラエルの民は、契約にある自らの義務を果たせてはいませんでしたが、神はご自分のみことばを守られました。ですから、私たちの信仰と従順はしばしば不完全でありますが、もしキリストが私たちの保証であり、もし私たちの信仰が主の恵みと主の御名を求めるなら、私たちもまた約束の成就を見るようになります。
【三】 ヨブ記1-2章
ヨブの物語は、最古の歴史資料のひとつです。この物語は病気がどこから来るのかを誤解の余地のなく教えてくれます――サタンから来るのです。また、神癒に至る道は恵みの御座にへりくだり、自分自身の罪を裁くことであると教えてくれます。病気の潜む部屋が暴かれるとするならば、それはウヅの物語に答えがあります。ところが、そこには医者もなく、人間的な治療もなく、ただ彼の復讐者である神を見上げることだけが描かれています。ヨブが自己義認と自己弁護を手放し、神が導き入れたいところ――自己放棄と謙遜――に入ったとき、病気は癒されました。
【四】 詩篇103:2-3
わがたましいよ。主をほめたたえよ。 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、 あなたのすべての病をいやし
ダビデの詩篇は多くが苦悩の記録です。けれども神は、どんなときにも解放者であり、他にはおられません。私たちは人の手を見ません。ダビデは罪の赦しを請うときと同じ目線でまっすぐ天を見つめ、同じ息づかいで、神癒を求めて叫びます。「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやす」。しかも、完全な癒しです。罪の赦しが全面的で永続的であるのと同じ意味で、すべての病の癒しです。それがいかに栄光に富む全面的なものであったかは、十分に明らかです。「東が西から遠く離れているように、 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩篇103:12)。ヨブのときと同様にここでも、病気と罪に密接なつながりがあります。そのどちらも癒されなければなりません。
【五】 第二歴代誌16:12-13
それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。
この王は治世の始めには、人間的な資源を当てにせず、単純に疑わず神に信頼しました。その信頼によって(歴代誌15:9-12)、彼は最も栄光ある勝利のひとつを歴史に打ち立てました。けれども、成功が彼を腐敗させました。彼は肉の力にあまりにも価値を置くようになりました。そのため次の大きな厄災が降りかかったとき(歴代誌16:7-8)、彼はシリアと同盟を結び、神の助けを失いました。彼は預言者の警告を聞き入れず、地上的な栄華のてっぺんに突き進みました。彼は、病気になりました。エチオピア人よりも強い敵を前にして、またしても人間に向かいました。「ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」。次の文は、これ以上ないほど悲しく皮肉にこの問題を端的に描いています。「アサは、彼の先祖たちとともに眠った」。
【六】 イザヤ53:4-5
まことに、彼は私たちの嘆きを負い、 私たちの悲しみをになった。 ……彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 (KJVからの日本語訳)
この素晴らしい福音書的なまぼろし、旧約聖書の福音は、来たるべき贖い主を正確に映しています。冒頭は、力強い「ア―メン」で始められています。「まことに」、この章でただ一度だけ用いられ、神癒の約束を確かさを示しています。彼のいのちと死によって痛みと病から完全に贖われることが、ありうる限りの力強さで述べられています。後の福音書記者は、聖霊の導きに従ってまさにこの箇所を引用しました。マタイ8:17で、キリストがいたるところでなされた癒しの働きの説明として引用されています。
英語訳では原文の意味を正確に訳せていません。マタイ8:17の訳のほうがずっと正確です。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」。直訳すると、「まことに彼は私たちの病を背負い、私たちの痛みをになった」となります。広く読まれているアルバート・バーニーズによるイザヤ書注解など、ヘブル語の権威ある学者の書いた注解を読めば、ここで病気と痛みを意味する二つの単語が使われており、また「背負う」と「になう」は、単に共感を意味するのではなく、実際の行動であり、背負ったものを完全に取り去ることを意味するとわかるでしょう。ですから、イエス・キリストが私たちの罪を背負ったあの同じ場面で、私たちの病気をも背負い、になってくださったのです。そうです、私たちの痛みさえも、キリストの中に転嫁されたのですから、私たちは病気と痛みから完全に解放されてよいのです。こうして、「彼の打ち傷によって、私たちは癒された」。なんと栄光ある幸いな福音でしょうか! なんと栄光ある幸いな「重荷を負える方」でしょうか。このように昔の預言者はまぼろしの中で、贖い主がまずもって偉大な医者として来られるのを見、それから偉大ないけにえとして十字架にかかられるのをみたのです。主は三年間、偉大な癒し主として働かれ、六時間、激しい恥と苦痛の中で、死ぬべき小羊となられました。
【七】 マタイ8:17
(イエスは)病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。 「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
この引用は、主が病気の人々をみな癒された理由を説明するためでした。敵にご自分の神性を証明するためではありません。昔の預言でご自分について書かれたことを実現するためでした。もしそれをなさらなかったら、ご自分の人格に真実とはいえません。今現在もそうなさらなければ、やはり真実とはいえません。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)。これらの癒しは、その時だけのものではなく、継続的なものです。例外的な事例ではなく、普遍的です。主はお変わりになりません。「病気の人々をみな癒された」。「(イエスに)さわった人々はみな、いやされた」。主は今も同じです。
さて、これは主の地上での働きでした。私たちはこれまで、行き過ぎるほど積極的に、贖い主のすべての働きを生涯の終わりの一つの行いに集約させてきました。彼の血の価値を熱心に求めるあまりに、その生涯の始めの尊い価値を忘れていました。しかし、神は私たちを忘れたままにしておかれません。主が十字架にかかって死なれる前の三年間以上、御力と愛をもって行われたその働きを。私たちには十字架のキリストが必要であるのとちょうど同じように、生けるキリストが必要です。レビ部族のささげ物には、罪のささげ物と同様に肉のささげ物も含まれていました。苦しんでいる人の心は、カルバリの小羊によって養われなければならないのとちょうど同じように、ガリラヤとベタニヤの偉大な愛の心によっても養われることが必要です。
主の癒しの御力と恵みの記録は膨大な量にわたるため、すべてを詳細に書くには紙面が足りません。らい病人、足のなえた者、目の見えない者、中風の者、体の動かない者、熱病の者、「いやしの必要な人たち」みなを癒しました。主はしばしば罪と病気を結びつけ、癒しのみことばを語る前に罪を赦しました。主は人々が信仰を所有するために自らの手で触れることを要求され、癒されるために起きて床を取って歩くようお命じになりました。主の癒しはすぐ近くにいなくても起きました。百人隊長のしもべや貴族の息子に届き、彼らは救われました。主は助けたいと願うみこころを疑う者をきびしくとがめ、ある人の苦しみをその人の不信仰のためであるとしました。主のご生涯の全ペ―ジにわたって、これらばかりでなくもっと多くの教えが満ちています。今も主の癒しの御力を手にする秘密が私たちに啓示されています。もしも誰かがこれらの奇跡を、ただ霊的な癒しと祝福の型として説明し、主がご自分を信頼するすべての者に今も行おうとしている実例としないなら、それは福音書がおとぎ話だというのと同じくらい理解しがたいことです。ナザレのイエスは実際にそれを行われました。にもかかわらず、イエスの死と共にこの祝福の御力も死んでしまったのでしょうか。
【八】 ヨハネ14:12
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
ここに再び「まことに」が出てきます。いえ、「まことに、まことに」です。強調されなければならないもの、人が疑うに違いないものです。この意味は、ペンテコステ以後の教会がより大きな霊的力を持つこと、聖霊によってイエスご自身がなされたよりも偉大な霊的働きを教会が行うことなのだ、なぜならたましいの救いはからだの癒しよりも偉大なのだから、と言ったからとて、私たちには無益です。というのも、イエスが言われたのは「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い」、それに加えて「それよりもさらに大きなわざ」を行うということだからです。つまり、信じる者はキリストと同じわざも、さらに大きなわざも、両方とも行います。ですから、教会がキリストと同じわざをも行ったことがわかります。主のご生涯においてさえ、主は十二人の使徒を遣わし、七十人をクリスチャンの長老を代表する先駆けとして(七十人はモ―セの七十人長老と関連しており、クリスチャン時代の最初の長老です)遣わして、彼らに癒しの力を託しました。また、イエスが世を去ろうとするときに、次のような大宣教令を誤解の余地のない言葉でお残しになりました。
【九】 マルコ16:15-18
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます」
この箇所は、弟子たちに与えられた大宣教令、二重の福音、主のご臨在と不変の御力です。いったいどんな権利があって、私たちは福音の一方が欠けたまま他方を宣べ伝えることができるのでしょうか。どんな権利があって、滅んでいく世界に対して福音の一部を隠せるのでしょうか。どんな権利があって、不信仰の世界に出て行き、これらのしるしが伴うことなく福音のメッセ―ジを受け入れなさいと呼びかけられるのでしょうか。どんな権利があって、それらのしるしが宣教の働きに伴わない理由を、しるしを神のことばから取り除いたり、過去の遺物として捨て去ろうとすることで説明できるのでしょうか。いいえ。キリストはしるしを与え、クリスチャンがそれを「信じ」、期待し続ける限り、しるしが伴うようにしてくださいました。そして、こうした「力あるしるしと不思議」によって教会はエルサレムに、サマリヤに、地上のあらゆる場所に建てられたのです。世の不信者は今日でも使徒の時代と同じようにしるしを必要としています。使徒の時代には、癒しの力が現されるしるしは決して使徒だけに制限されたのではありませんでした。ピリポとステファノは、ペテロやヨハネのように栄光ある務めに用いられました。第一コリント12:9-30で「癒しの賜物」が教会に賜った力のひとつとして、広く普及し普遍的なものと理解されていたことが語られています。しかし現在、使徒の時代は終わりましたが、なおも神癒は継続しているのでしょうか。継続しているとすれば、誰が行いうるのでしょうか。どんな線引きをすれば、神癒は狂信や厚顔と区別できるのでしょうか。どんな権限によって、神癒を世の終わりまでながらえさせ、苦悩の中にある神の聖徒たちに届けられるのでしょうか。私たちはこれらの問題に対し、最も深い関心をもってヤコブ書の教えを見たいと思います。
【十】 ヤコブ5:14-15
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリ―ブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
まずはじめに、このいましめを誰が書いたかに注目しましょう。使徒会議の長であったヤコブです。彼はエルサレムの母教会を指導していました。エルサレムの会議で決定を取りまとめるために「私の判断では」と言う権威のある人物でした(使徒15:19)。パウロが「教会の柱」として最初に名前を挙げる人物でした(ガラテヤ2:9)。そのヤコブが、使徒たちの次の世代にキリストの会衆を監督する普通の常任の働き人に使徒的な賜物を直接送ったのです。次に、この力が誰に対して与えられたのかをよく見ましょう。使徒ではありません。使徒はすでに世を去りました。特別な賜物を持った、めったに会えない人たちにでもありせん。そうではなく、長老たち、つまり各教会にいるごく普通の働き人に与えられたのです。苦しみに会っている者が近しく面会できる人々、世の終わりまで続く人々です。さらに、このいましめが与えられた時点がいつなのかに注意しましょう。使徒時代のはじめではなく、終わりです。使徒の世代ではなく、次の来るべきすべての世代のために書かれました。というのも、実際、これら新約聖書の書簡は、書かれた当時に広く読まれたのではなく、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため」(第一コリント10:11)におもに書かれました。また、このいましめで課された命令の性質に注目しましょう。信仰の祈りと、主の御名によって油を塗ることです。ここで、油を塗ることは明らかに医療行為ではありません。医者ではなく長老たちに命じているのですから。また自然な解釈として、これはマルコ6:13等の塗油と同じで間違いありません。使徒たち自身が行った病気の癒しのための塗油と結びついています。他の解釈では、私たちの主と使徒たちが語った習慣が教えるところの明らかな意味と比べて、不自然で歪んだものとなるでしょう。他に議論の余地がないのですから、私たちとしてはそれが同じもの――油によって比喩される聖霊の御力を象徴的に宗教的に表現したもの――であると信じないわけにはいきません。ギリシャ教会は今もこのいましめを守っています。カトリック教会の背反が、これを悲しみをたたえた死への備えに変えてしまったのです。これは本来、神のいのちの御霊が人のからだに宿り、生かす御力を息吹くことの美しい象徴です。まだあります。これが命令であることに注目しましょう。ただの特権ではありません。病気に関する神の命令です。従順なクリスチャンが容易に無視してよいものではありません。病気に関して、他のいろいろなやり方は神の権威から来てはいません。これが神のご計画です。これによって信仰はシンプルに、簡単になります。子供のように信頼して従わなければなりません。神は実現してくださいます。最後にもうひとつ、病気と罪が結びついていること、試練は神の懲らしめであり自分を裁く悔い改めが要求されること、罪の赦しと病気の癒しは共に主の御名によって宣言される保証されたのでは祝福であることを、見過ごしてはいけません。
【十一】 第三ヨハネ1:2
愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
ヤコブの証の他にさらに必要なら、最後の使徒、主のお心を最もよく知る者が、この優しい手紙を残しました。これによって私たちの御父が私たちのたましいだけでなく、からだの健康をも優しく気遣ってくださることがわかります。神がこのようか祈りに息を吹き込むとき、私たちは神癒を私たちのものとなるよう求めることに恐れなくてよくなります。いえむしろ、私たちがたましいに幸いを得ているように、からだの健康にも幸いを得られることを忘れてはならないのです。
【十二】 エペソ5:30
私たちはキリストのからだの部分だからです。
このことばは、私たちのからだと主イエス・キリストの復活のからだと間の結合を認識しています。この結合ゆえに、私たちの朽ちる器に対して主の完全ないのちの生ける御力が注がれることを要求する権利が、私たちにはあるのです。主のみからだは私たちのものです。主のいのちは私たちのものです。それで十分です。
【十三】 ロ―マ8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
この箇所が将来の復活に言及しているとは考えられません。復活は、聖霊によってではなく「神の御子の声」によって起こるからです。これは現在、御霊が内に住んで生かしてくださるということです。生かされるのは「死ぬべきからだ」であって、たましいではありません。これが肉体の回復でないとしたら何がありえるでしょうか。これこそが聖霊の直接的な働き、また内住する神の御霊を人々が知る唯一の方法です。イエス・キリストが地上で行われたすべての奇跡は、神の御霊がなさったことでした(マタイ12:28)。そして、私たちが内側に同じ御霊の内住をいただくなら、同じ働きを行うことができます。
【十四】 第二コリント4:10-11
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
これはパウロの肉体的な経験です。おそらく迫害により、時には暴力を受けて、常に危険、弱さ、肉体的苦しみにさらされていました。この箇所は、イエスの癒しと回復と生命の力が彼のからだの中にますます常に現れて、苦しんでいる聖徒を励ますために書かれました。「あなたがたのため」(15節)とある通りです。パウロの生涯は奇跡の連続でした――後に続く苦しむ者に約束された恵みの証と記念碑になるためです。「わたしの恵みは、あなたに十分である」(12:9)。パウロは言います。このいのちは「日々新たにされています」(4:16)。キリストの癒しの御力は、私たちがキリストに留まり続けるかどうかにかかっています。他のあらゆる賜物と同じように、それは日々新たにされます。
【十五】 最後に、18世紀もの間語られ続けた声を、甘美なことばを聞きましょう。ヘブル13:8
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
これは、一世代前に語られたあの別れのことばの反復です。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主は将来のことを語ったのではありませんでした。それでは断絶が存在したことになってしまいます。そうではなく、「います」と。不変の現在、失われることのない臨在、愛、近さ、世の終わりまで永遠に継続し惜しみなく与えられる癒しと救いの御力です。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。
以上のように、私たちは出エジプト記からパトモス島まで聖書の教えをたどってきました。神の民の旅路のまさにはじめから、神が神癒の教えを与えてこられたのを見てきました。ヨブの苦しみ、ダビデの詩、アサの嘆かわしい死の中に、神の御摂理が描かれているのを目撃しました。イザヤの預言的なまぼろしに来たるべき癒し主がおられるのを目にしました。人の子が文字通りそのまぼろしを実現するために来られたのを確かめました。悲しむ弟子たちにキリストが変わらずに共におられると告げたのを聞きました。キリストが癒しの御力を弟子たちの手に渡したのを見ました。そして、弟子たちがそれを私たちに、世の終わりまで続く神の教会の永遠の奉仕職に手渡したのを見ました。今や、これ以上のどんな証拠を求められるでしょうか。病める衰弱した世界に対してこの偉大な救いを信じ、喜び、受け取り、宣言することのほか、私たちは何ができるというのでしょうか。