スミス・ウィグルスワース『勝利する信仰』

(六) 幻を保て

使徒の働き二十章をお読みください。七節から始めましょう。人間はどこにいても失敗するものです。けれども、人間が神の力で満たされるとき、失敗などというものはなくなります。聖霊のバプテスマが失敗ではないことを私たちは知っています。

このバプテスマには二つの側面があります。第一に、あなたが聖霊を所有するということです。第二に、聖霊があなたを所有するということです。これが今回のメッセージです。すなわち、バプテスマを授ける方が私を所有してくださること、そしてそれは私がバプテスマを授ける方を所有する以上の意味があるのだということです。そのいのちの所有には可能性の限界がありません。なぜなら、神ご自身がそのいのちの背後におられ、そのいのちの真ん中におられ、そのいのちを通しておられるからです。ときどき私が見るのは、人々の活気がなく、冷たく、無関心な姿です。しかし彼らが聖霊に満たされたあとでは、神に対して激しい情熱を燃やすようになります。神の働き人は燃えさかる炎にならなければならないと私は信じています。炎になり、力強い道具にならなければなりません。燃えさかるメッセージと、愛に満ちた心と、聖別された体を携えていなければなりません。そうなるなら、神が私たちの全身を御力で十分に満たしてくださって、主の栄光の現れだけが存在するようになります。確かに、これこそが人間の救いに関わるこの偉大なご計画の理想と目的なのです。私たちが神の満ち満ちたさまにまで満たされ、いのちの働き人になり、神が人間を救う御力によって私たちのうちに、また私たちを通じて力強く働いて、恵みを現してくださるということです。

さあ、この素晴らしい神のことばに戻りましょう。私がお見せしたいのは、このパウロという男のうちにあった御力の現れです。この男は「月足らずで生まれた者」(第一コリント一五・八)でした。このパウロは火の中からたいまつとして引き抜かれた者です。このパウロは神が異邦人への使徒として選んだ者です。ご覧ください。はじめの頃、彼は迫害者として、喜ばしい知らせを人々に宣べ伝えている者たちを熱心に破壊していたということを。ご覧ください。彼がどれほど熱心に彼らを牢屋に投げ入れ、彼らに強いて聖なる御名を汚す言葉を言わせようとしたかを。ご覧ください。この同一人物がそのあと神の力とキリストの福音によって変えられたことを。そして、彼が聖霊に満たされ、神の建築者になり、神の御子の宣伝者になったことを。彼は「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ二・二〇)とさえ言ったのです。

使徒の働き九章を読むと、彼が特別な働きに召されたことが分かります。主がアナニヤに言われました。「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒九・一六)この聖句が病気で苦しむことを意味しているとは思っていただきたくありません。と申しますのも、この聖句は迫害に苦しめられ、誹謗中傷に苦しめられ、内紛に、敵意に、悪口に、ほかのいろいろなわざわいに苦しめられることを意味するからです。しかし、それらがあなたを害することはありません。むしろそれらは聖なる志に火をつけます。聖書が言うとおりです。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ五・一〇)キリストのために迫害を受けることは、祝福された人々にあなたの名が連ねられることですが、それだけでなくもっと良いことに、キリストの苦しみにあずかるという主イエス・キリストとの最も親密な交わりによって、キリストと一つになることを意味します。私たちがキリストの御名のゆえに苦しみを受けるという特権にあずかったことを喜びおどる日がやがて来ます。

愛する皆さん、神は証しを求めておられます。真理の証し、十全な真理の証し、贖いの十全さの証し――罪からの解放と病気からの解放――を求めておられます。人々が聖霊によるいのちに満たされるにつれて、彼らのなかに働く永遠の力によって、その証しが現されます。神は私たちがそのような働き人になれることを信じてほしいと願っていらっしゃいます。聖霊によって私たちのうちに神の栄光がまっとうされるのです。

七節を見てください。パウロがいかに主の働きに情熱を傾け夢中になっていたか。「夜中まで語り続けた」のです。そのとき、集まりを中止する恐れのある出来事が起こりました。若い男が、眠気のあまり、窓から落ちたのです。普通の集会なら閉会に追い込まれて当然でした。しかし、御霊に満たされたこの人は、こういう緊急事態にあってさえ、この瞬間に立ち会ってさえ、平然としていました。彼は降りてきて、若者を抱きかかえ、彼のうちにあるいのちの御霊によって若者のいのちを呼び戻し、それから上の階に戻って明け方まで集まりを続けました。

スイスで、人々が私に言いました。「私たちに話してくださる時間はどれくらいの長さですか。」私は答えました。「聖霊が私たちの上におられるなら、永遠に語ることができます!」私がサンフランシスコにいたとき、ある日メインストリートを車で走っていると、道の脇に人だかりができていました。運転手が停めたので私は車から飛び降り、まっすぐ騒ぎの真ん中に行くと、見るからに死にかけている少年が倒れているのを見つけました。私はかがんで尋ねました。「どこが具合が悪いのですか。」彼は消え入るように「歩けません」と答えました。私は手を彼の背中の下方に置いて「イエスの御名で出て行け」と言いました。すると男の子は飛び上がって駆け出し、立ち止まって「ありがとう」とさえ言わずに去って行きました。

ですから、お分りいただけるでしょうが、聖霊のバプテスマを受けていれば、あなたが考える暇のないときにも行動できる領域に入ります。聖霊の力と働きは神に起源があります。それは超自然的で、神ご自身が震わせ、動かすもので、全能の力と権威が伴うものです。ほかの方法では解決できなかった事を解決します。

私は海を渡っているときに、船の上でこの人物の体験したいくつかのことを体験しました。私はパウロの領域に達したいとずっと願っています。どんなときにも、真夜中でも、何に直面しても、死そのものに直面しても、神がご自分の力を現すことがおできになり、私を通して神が望まれることを行なってくださるという領域です。これが、神の御霊に所有されることの意味です。私の心はパウロがいた場所に入るという可能性によって震えています。十九節を読みましょう。神が私たちに与えてくださったこの祝福された真理によって、私たちの心に完全な励ましを受けることでしょう。

「謙遜の限りを尽くして主に仕えました。」私たちのうちで一人たりとも、謙遜を無視したままで、御霊の油注ぎと力をいただいてこの新しい約束の契約に仕える働き人になることはできません。私にとって、高く上げられるための道は低くへりくだることのように思えます。私にとって、はっきりしているのは、私が主の死をこの身に帯びれば帯びるほど、主のいのちが私のうちにあふれるということです。そして私にとって、じつに聖霊のバプテスマは到達点ではなく、より高みに達し、より聖なる領域に達するための御力の流入です。神の力によるなら、人間の性質がそこに達することは可能なのです。聖霊のバプテスマが与えられるのは、キリストを啓示し、キリストを現実のものとするためです。この方のうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ二・九)ですから、私の理解では、聖霊のバプテスマを受けることは、死のなかに、いのちのなかに、御力のなかに、三位一体の交わりのなかに浸されることを意味しています。そこにおいて、古いいのちは消え去り、神のいのちが永遠に私たちを所有します。

神を見たあとで人が生きることはできません。そして私たちが神をその栄光に満ちた無限なる充満のうちに見て、私たちが喜びをもっていのちを終えるようになることを神は望んでおられます。そうして神ご自身が私たちのいのちとなってくださるのです。それだからパウロはこう言えました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きています。」神は私たちがこの謙遜の模範を現実のものとするよう願っておられます。その模範において、私たちは人間の無力さと人間の不足をはっきりと認識することができます。そうなれば、もはや私たちは人間の計画、人間の方策、人間の力を頼みにすることはなくなり、ひたすら神だけを見つめ、神のみこころ、神の御声、神の力の、いっさいのもののなかにいっさいを満たす神の十全さを求めるようになります。

さて、ここでもう一節、私たちのためのみことばがあります。読みましょう。二十二節です。「いま私は、心を縛られて」。人類が神のみこころによって手を取り合いひとつになる可能性はあるのでしょうか。聖句からもう二点の見解を取り上げさせてください。イエスさまは私たちと同じように血と肉をもっておられました。一方では主は天にある権威と力と尊厳を受肉された方でしたが、他方では私たちと同じ肉体を負って、私たち人間の弱さに耐え、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われました。ああ、主は愛しい方! 完全な救い主! ああ、私は全世界が聞こえるように「イエスさま」と叫びたいです! その御名を通じて、救い、いのち、力、解放があります。しかし、愛する皆さん、マルコの福音書一章十二節にはその御体が「御霊に追いやられた」とあるのが読めます。ルカの福音書四章では、御霊に「導かれた」とあります。そして今、この箇所でパウロは御霊に「縛られて」います。

ああ、なんという神のご謙遜でしょうか。人間を御手でつかみ、ご自分の聖なるご性質、ご自分の義、ご自分の真理、ご自分の信仰とともに人間を所有してくださる。それゆえ人はこう言えます。「私は御霊に縛られている。私にはほかに道がない。私の唯一の選択肢は神である。私の唯一の望み、私の唯一の志は神のみこころである。私は神に縛られている。」愛する皆さん、これはあり得るのでしょうか。ガラテヤ人への手紙の第一章を見れば、パウロがいかにしてこの祝福の状態へと高められたかを確認できます。エペソ人への手紙第三章を見れば、パウロは自分がすべての聖徒のうちでいちばん小さな者であると思っていたことが確認できます。また、使徒の働き二十六章を見れば、パウロが「私は幻を一度も失っていません、アグリッパ王。私はそれを一度も失っていません」と言っているのが確認できます。さらに、ガラテヤ人への手紙に戻ると、彼は幻を保つために、血肉に相談しなかったことが確認できます。神が彼をつかみ、神が彼を縛り、神が彼を保ちました。しかしながら、私は言わなければなりません。あなたは全能者にあなたを保っていただくという素晴らしい領域に入るべきです。私たちは自分自身を神に委ねるようにすべきです。その結果は良いものでしょう。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ九・二四)

さて、愛する皆さん、私は人々を得ようと奮闘しています。人々を得ることが私の務めです。あらゆる人に飢え渇きを与えることが私の務めです。人々を喜びや情熱で満たすことが私の務めです。人々を最初の聞き始めたままにとどめてはおかない天からのメッセージが私にはあります。彼らが聖霊に満たされたあとで、必ず何かが起こります。聖霊に満たされた人はもはや普通の人ではありません。人は、キリストの啓示を聞いた最初の段階で神の力に圧倒され、その瞬間から普通でない人になります。しかし、聖霊に満たされるためには、神がその人のなかに住まわれ、その人をお使いになり、その人を通じてご自分を現わすことのできる自由な体にならなければなりません。ですから、私は皆さんに訴えます。聖霊を受けた皆さんに訴えます。どんな代価を払ってでも、神にご自分の道を進んでいただけるようにしてください。私は訴えます。神とともに働き続け、キリスト・イエスにあって贖われた者のために用意された、神の無限の目的を永遠にわたって日増しに豊かに実現する場所に入ってください。あなたが神の満ち満ちたさまに満たされるまで。三日間同じ場所に居続けるなら、あなたは幻を失ってしまうことになります。神の子どもは毎日新しい幻を獲得しなければなりません。神の子どもは毎日より一層、聖霊に動かされなければなりません。神の子どもは天の御力と共にある道に入って、神の御手が彼の上にあることを知らなければなりません。

主は同じイエスさま、まさしく同じイエスさまです。主は巡り歩いて良いわざをなさいました。「神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」(使徒一〇・三八)愛する皆さん、これこそが神が私たちに相続させるために見せようとしておられる働きではないでしょうか。聖霊の使命は、わたしたちにイエスさまの啓示を与え、神のことばを御子がお話しになった当時と同じように――主ご自身が語っておられるのと同じ新しさ、同じ新鮮さ、同じ御力の働きをもって――私たちを生かすいのちとすることです。花嫁は新郎の声を聞くのをこの上なく喜びます! ここにあるのは祝福された神のことばです。みことばの全体です。一部分だけではありません。ノー、ノー、ノー! 私たちはみことばの全体を信じます。私たちのうちにいのちのことばが働く力強さが本当にあるので、私たちは日に日にみことばそのものがいのちを与えるということを実感しています。主の御霊が、みことばで呼吸し、みことばで啓示を与え、みことばで私たちを新たにし、みことば全体に今日もいのちを与えています。アーメン。ですから、私の手のうちに、私の心のうちに、私の思いのうちに、非常に多くの驚くべきわざをすることのできる、数々の約束という祝福された貯水池があります。皆さんのうち幾人かは限定されたイエスさまの啓示しか受けていないために苦しみに会ってきたかもしれませんが、キリストのうちにこそいのちの充満があるのです。

カルフォルニアのオークランドでのことです。大きな劇場で集会をしました。神がその場所を満たしてくださったので、あぶれる人々が出て、ほかの会場でも集会をしなければなりませんでした。その集会で救いを求める人々がぞくぞくと集まってきて、自発的にその場所で立ったり座ったりして、救われました。それから、体に癒しを必要としている人々がぞくぞくと集まってきて、信仰を励まされて癒しを受けていきました。癒しを必要とする人のひとりは九十五歳の老人でした。彼は三年間苦しんでいました。ここ三週間は流動食しか喉を通らなくなっていました。きわめて悪い容態でした。私は彼を立たせて、祈りました。彼は、自分の体のなかに新しいいのちが吹き込まれたようだ、と言いながら晴れやかな顔で戻っていきました。のちに彼はこう言いました。「私は九十五歳です。集会に来たとき、胃ガンでひどい痛みに見舞われていました。それがすっかり癒されたので、あれから何でも食べています。痛みもありません。」多くの人たちが同じように癒されました。

(上記の出来事をニュージーランドのウェリントンで話しました。ウェリントンはこの講演をした場所です。そこで左足にリューマチのある婦人が立ち上がりました。彼女のために祈ると、彼女は会場の端から端まで何度も走りました。それから癒された部分の証しをしました。頭痛持ちの若い男性が瞬間的に癒されました。また、肩に痛みのある別の男性も瞬間的に癒されました。)

使徒の働き二章で、聖霊が来られたとき神の力の非常な現れがあり、みことばが聖霊を通して語られると、人々の心が刺され、罪の確信に至るように働いたことが分かります。三章では、ペテロとヨハネが神殿に上って行ったとき、足の不自由な男が美しの門で、御霊の力を通して癒されたことが分かります。また四章では、御霊による奇跡の力が驚くばかりに現れたので、男だけで五千人、さらに女性と子どもも主イエス・キリストを信じる者とされました。愛する皆さん、神がその神聖な力を現すのは、神が私たちと共におられることを証明するためです。いますぐに、この素晴らしい神にあなたの心を開いて、あなたの人生のなかに神をお迎えし、ご自分の無限の愛に動かされた神がキリスト・イエスにあって与えてくださったすべてのものと、ご自分の無限の力をもって神が聖霊を通じて罪人のなかに働きかけてくださるすべてのものとによって、新しい自己を受け取ってください。

神から来るこの幻を求めてください。そして幻をあなたの前に保ってください。使徒パウロがエペソの信徒たちに祈った祈りをあなたも祈ってください。エペソ人への手紙一章十七、十八、十九節に記録されています。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」