スミス・ウィグルスワース『勝利する信仰』

(七) 現代の祝福

マタイの福音書五章の最初の十二節をご一緒にお読みください。いわゆる「八福の教え」という箇所です。マタイの福音書五章は千年王国で実現する箇所なのだから、現代ではこれらの祝福をいただくことはできない、と言う人もいます。確かに聖霊のバプテスマを受けた人は誰でも、千年王国でいただける祝福の前味わいを本当に得、またそれを待ち望む熱心さを持ち合わせています。しかし、この箇所で主イエスさまは、私たちが今ここで享受できる現代の祝福を説いておられます。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(三節)これはイエスさまが私たちを導き入れてくださる最も豊かな場所の一つです。貧しい者は天国のあらゆるものに対して権利があります。「彼らのもの」です。これを信じる勇気がありますか。私はあります。信じます。私は自分がとても貧しい者であることを知っています。神の御霊がいのちの支配者、また主権者として入って来られるとき、私たちの内なる貧しさについて神の啓示を与えてくださり、神が一つの目的をもって来られたことを示してくださいます。その目的とは天にある最良のものを地上に賜ること、イエスさまを与えてくださった方がそれだけでなく「惜しまずにすべてのものを私たちに与える」ことです。

ある老夫婦が七十年間、一緒に暮らしてきました。誰かがふたりに言いました。「今日までいくつもの暗雲を見てきたに違いないですね。」ふたりは答えました。「雨はどこから来るのでしょうか。雲がなければ雨は降りません。」聖霊だけが人間の貧しさを悟る場所に導きます。御霊がそうなさるときはいつでも、それだけで終わらず、天の窓を開いて祝福の雨を降らせてくださいます。

しかし、自分自身の霊と聖霊との違いを認識しなければなりません。自分自身の霊は自然の観点に立って何がしかを行うことができます。さめざめと泣いたり、祈ったり、賛美したりすることさえできます。それでも、すべては人間の水準で行っているにすぎません。私たちは自分自身の人間的な考え、行動、人格に頼ってはなりません。バプテスマがあなたにとって何か意味があるとすれば、あなたの平凡な日常を死に導くということです。そこに入るともはや、信仰をあなた自身の理解の水準に押し込めることがなくなります。あなたは自分の貧しさを自覚しているので、絶えず自分を御霊に明け渡します。そのとき、あなたの体が地上にありながらも天のもので満たされるようになります。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(四節)悲しみについて間違った考えがあります。スイスには墓に花輪を捧げる記念日があります。私は人々の無知を笑って言いました。「どうして墓に集まって時間を過ごしているのですか。愛する人たちはそこにいません。墓に花をあげるのは、まったく信仰ではありませんよ。」キリストにあって死んだ者はキリストと共に行ったのです。「そのほうが、はるかにまさっています」(ピリピ一・二三)とパウロは言いました。

私の妻が以前私にこう言いました。「私が福音の説教をしているときの姿をあなたは見ていますね。私が福音の説教をしているとき、私はあまりにも天に近づいているので、いつの日か地上から取り去られるでしょう。」ある夜、妻が福音を語っていて、それが終わると、妻は息絶えました。私はグラスゴーに行くことになっており、妻が集会に行く直前にさよならを言ったところでした。私が家を出ようとするとき、医者と警察がドアの前に来て、伝道所の入口で妻が亡くなったことを告げました。妻は自分の望んだものを得たのだと私には分かりました。私は泣きませんでした。その代わりに、異言で祈り、主を賛美しました。自然の観点でいえば、妻は私にとってのすべてでした。けれども、私には自然の観点に従って泣くことはできませんでした。そうではなく、ただ御霊にあって笑いました。まもなく家に人々が押しかけてきました。医者が言いました。「奥様は亡くなりました。奥様のためにできることはもうありません。」私は妻の遺体のところに行き、死に向かって彼女を手放すよう命じました。妻は一瞬だけ、私のところに戻って来ました。そのとき、神が私に言われました。「彼女は私のものである。彼女は働きを終えた。」主の言おうとされていることは分かっていました。

妻はひつぎに収められました。私は息子たちと娘を部屋に連れて来て言いました。「お母さんはそこにいるかな。」子どもたちは言いました。「いいえ、お父さん。」私は言いました。「お母さんを包んであげよう。」もしあなたが愛する人を失ったとして、その人がキリストと共にいる場所に旅立ったのに、それでも墓に泣きに行くなら、あなたへの愛をもって申し上げますが、パウロが「世にとどまるよりも世を去るほうがはるかにまさっている」と言ったとき何のことを話したのか、あなたは神の与える理解を得ていません。私たちはこのことばを聖書から読みますが、問題はそれを信じようとしないことです。あなたが神を信じるとき、こう言うでしょう。「それが何であってもまったく構いません。主よ、あなたが私の愛する者を取り去ることをみこころとされるなら、まったく構いません。」信仰は自己憐憫から来るすべての涙を取り去ります。

しかし、御霊による悲しみというものがあります。神は何かを変えなければならない場所にあなたを導きます。そこでは神が来られるときまで、悲しみ、すなわち言葉で言い表せないうめきがあります。そして、すべて本物の信仰は喜びを終着地としています。イエスさまはエルサレムのために嘆かれました。イエスさまは彼らの状態を見ました。イエスさまは不信仰を見ました。イエスさまは福音に耳をふさいだ者たちの末路を見ました。しかし、神は約束をくださいました。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ五三・一一)という約束です。ペンテコステの日にエルサレムで起きた出来事は、キリストの産みの苦しみの結果として刈り取るものの手付金であり、代々にわたって全世界で十億倍にも増え広がるようになりました。御霊に導かれて私たちが間違った状況に対する産みの苦しみのなかに入るとき、その悲しみが神のために結果を結び、そのことによって私たちの喜びはキリストの満足のなかにあって完全になります。

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」(五節)モーセは自分の民族を想う熱心が強情なまでに強かったので、結果的に殺人を犯しました。彼の心は物事を正そうとする願いにおいては正しかったのですが、自然の観点に従って行動を起こしてしまったです。私たちも自然の観点に従って行動するなら、必ず失敗します。モーセは強烈な熱情を持っていました。それは、神がコントロールしてくださるなら、世界で最も素晴らしいもののひとつです。救霊の熱情になるからです。しかし、神から離れると、それは最悪なもののひとつです。パウロの熱情は尋常ではありませんでした。だから彼は脅迫の言葉を吐きかけ、男も女も牢屋に投げ込みました。ところが、神がそれを変えてくださいました。のちに彼は、同胞、肉による同国人のために、キリストから呪われた者となることさえ願うようになったことが分かります。神は強情なモーセを練り上げて誰よりも柔和な男にしました。神は激しやすいタルソ人サウロを練り上げて恵みの第一人者にしました。ああ、兄弟の皆さん。神はあなたをおなじように変えることがおできになります。あなたのなかに柔和と、それだけでなくあなたに欠けているあらゆるものを植えることがおできになります。

私たちの日曜学校には赤い髪の男の子がいました。彼の髪は火のように赤く、彼の気性もまた火のようです。彼は問題児でした。彼は教師たちも校長も蹴り飛ばしました。彼は単純に感情をコントロールできませんでした。彼の問題を話し合う会議を教師たちで開きました。教師たちは神が彼の保証人になってくださるかもしれないと考え、彼にもう一度チャンスを与えることに決めました。ある日、彼はついに放校されなければならなくなり、彼は教会のすべての窓を割りました。彼は内側よりも外側が悪かったのです。しばらくしてから私たちは十日間のリバイバル集会を持ちました。その集会ではたいしたことは何もなく、人々は時間の無駄だったと考えました。しかし、一つだけ結果がありました。その赤い髪の少年が救われたのです。彼が救われたあとの困難は、彼を私たちの家から帰らせることでした。彼は夜中まで教会にいようとし、泣きながら自分を従順にしてください、神の栄光のために用いてください、と神に求めました。神は少年をかんしゃく持ちから解放してくださいました。彼は最も柔和で最も美しい少年のひとりとされました。二十年間、彼は中国で力強い宣教師の働きをしました。神はありのままの私たちを受け入れてくださって、神の力によって変えてくださいます。

私は自分がかつて怒りで顔面蒼白になると全身をぶるぶると震わせいたのを思い出せます。私も自分を抑えられませんでした。私は十日間、神を待ち望みました。その十日間で私の内側はすっかり空にさせられ、主イエスのいのちが私のなかに働きかけてくださいました。私の妻は私の人生に起きたこの変化を証ししてくれました。「こんなに変化した人を見たことがありません。そのとき以来、料理に夫が満足しなかったことがありません。熱すぎたり、冷たすぎたりしません。何もかもちょうどいいのです。」神があなたの人生に来られて最高の主権をもってご支配なさらなければなりません。あなたは神にご支配をお委ねしますか。神はそうすることがおできになります。あなたがお委ねさえすれば、神はそうしてくださいます。「古い人」を従わせようと奮闘しても益がありません。しかし、神には「古い人」を取り扱うことが可能です。肉の心は神に服従しません。しかし、神はそれをあるべき場所である十字架につけられます。そして、肉の心のあった場所に主ご自身の純粋な、聖なる、柔和な心を置いてくださいます。

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」(六節)「満ち足りる(shall be filled)」ということばに注目してください。聖書のなかで「shall」がある箇所は、どれでもそれをあなたのものとしてください。条件を満たしてください。そうすれば神がご自分のことばをあなたに実現してくださいます。神の御霊が叫んでおられます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」(イザヤ五五・一)神の御霊はキリストについての事柄を知っておられ、あなたに示してくださいます。それはあなたがキリストの満ち満ちた御姿を切望するようになるためです。そのような切望があるとき、神は間違いなくあなたを満たしてくださいます。

祭りの日に礼拝に来た群衆を見てください。人々はまったく満足できないまま去ろうとしていました。しかし、祭りの終わりの大いなる日に、イエスさまは立ち上がって大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ七・三七〜三八)イエスさまは、人々が生ける水を得られないまま立ち去ろうとしていることを知っておられました。ですから、本当の供給源を人々に指し示したのです。今日、あなたも飢え渇いていますか。生けるキリストが今もあなたをご自分のもとへと招いておられます。私は証しします。キリストが渇いたたましいを満ち足らせてくださり、飢餓を良いもので満たしてくださいます。

スイスで、プリマス・ブレザレンの会衆の一員だった男性と知り合いました。彼はさまざまな集会に参加してきました。ある朝、パン裂きの礼拝で彼は立ち上がって言いました。「兄弟の皆さん。私たちにはみことばがあります。みことばの文字のなかに深くとどまっていると感じています。しかし、私のたましいは今あるものよりもっと深く、もっとありありとした本物を求めて飢え渇いています。私はそのなかに入るまで心安らぎません。次の週、この兄弟はふたたび立ち上がって言いました。「ここにいる私たちは皆、貧しい者です。この集まりにはいのちがありません。私の心は本物を求めて飢えています。」彼は毎週同じことを言い続けたので、会衆はいらだって反抗しました。「サンズ、あなたのせいで私たちは皆、だんだんみじめな気持ちになっている。あなたは集会の邪魔をしている。あなたのすべきことはただひとつだ。今すぐに出て行ってくれ。」

その男性は非常に悲しんで集会から出て行きました。彼が外に立っていると、彼の子どものひとりがどうしたのと尋ねました。「もっと深いものを求める神への飢え渇きが理由で会衆の真ん中から追い出すのは、正しいことなんだろうかと考えていたんだよ!」これは私が後に教えてもらうまで知りませんでした。

数日後、誰かがサンズのところに走って来て言いました。「イギリスからここに来た男がいる。異言と癒しについて話しているんだ。」サンズは言いました。「僕がその男を正してやる。集会に行って、真ん前に座って彼に聖書で問い詰めよう。スイスで異言と癒しをよくも語れるものだな。公衆の面前で思い知らせてやろう。」それで彼は集会に来ました。すぐそこに彼は座りました。彼はあまりにも飢え渇いていたので、ひとつのことばも聞き漏らさずに吸収しました。彼の反対意見はすぐに萎えてしまいました。最初の日の朝に彼は友人に言いました。「これが僕の求めていたものだ。」彼は御霊を飲み続けました。三週間後、彼は言いました。「神がいますぐ何かをしてくださらないと、僕はもうはち切れそうだ。」彼は神のなかで呼吸し、主が彼を十分に満たしてくださったので、彼は御霊が話させてくださるとおりに異言を語りました。サンズはいま福音宣教の働きをしています。新しいペンテコステ派の集まりで責任ある立場にいます。

神はご自分の最高のみわざのために人々に飢え渇きを与え続けています。そして、いたるところで神は飢えを満たしてくださり、弟子たちが初めに受けたのと同じものを与えてくださっています。あなたは飢えていますか。もしそうなら、神はあなたを満たすと約束してくださっています。