スミス・ウィグルスワース『勝利する信仰』

(四) パウロのペンテコステ

聖書朗読 使徒の働き九章一節から二十二節

サウロは初期のクリスチャンたちにとっておそらく最大の迫害者でした。「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」(使徒八・三)とあります。この時点で、彼は「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(一節)いたことが分かります。彼は教会を破壊する目的をもってダマスコに行く途中でした。神はそういう者をどのように取り扱われたのでしょうか。私たちがそこにいたら彼を裁きの心で取り扱ったに違いありません。神は彼をあわれみをもって取り扱われました。ああ、神の驚くほどの愛! 神はダマスコの聖徒たちを愛してくださいました。神が彼らを守られた方法は、彼らを追い散らし破壊しようとする男を救うことでした。私たちの神はあわれむことを喜びとされ、神の恵みを罪人にも聖徒にも日々快く与えてくださいます。神はすべての人にあわれみを示されます。私たちがそのことを認識しさえすれば、私たちの神の恵みを通して今日を生きるというシンプルな生き方になります。

私が毎日いのちを保たれているのは、神の恵みによるのだと、ますます私は実感しています。私たちが悔い改めに導かれるのは、神の素晴らしさを認識するときなのです。ここでパウロは、大祭司からの手紙を持って、ダマスコに急いでいました。彼は地面に倒され、光に照らされて幻を見ました。その光は太陽よりもまぶしいものでした。彼がものも言えずに地面に伏していると、彼に話しかける声が聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(四節)。彼は答えました。「主よ。あなたはどなたですか」(五節)。するとお答えが返ってきました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(五節)。それで彼は叫びました。「主よ、あなたは私に何をさせようとなさるのですか。」サウロと一緒にいた人々は唖然としていました――ものも言えない状態でした――が、彼をダマスコに連れて行きました。

神のみこころを知りうるのは聖職者だけだという考えを持っている人々がいます。しかし、主が用意しておられたダマスコの弟子は、舞台裏の男でしたが、神が語りかけることのできる場所に住んでいました。彼の耳は開かれていました。彼は天から来るものを聞き入れた人でした。ああ、これは、あなたが地上で聞けるどんなものとも比べものにならないほど驚異的です。主が幻のなかで現れてくださったのは、この男に対してでした。主は彼に、『まっすぐ』という街路に行き、サウロを尋ねるように命じました。また主は彼に、サウロが幻のなかで「アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになる」(一二節)のを見たと教えました。アナニヤは抵抗しました。「主よ。私は多くの人びとから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」(一三〜一四節)けれども、主はアナニヤに、サウロが選びの器であることを請け合いました。アナニヤは疑いをはさまず、あわれみの務めに向かいました。

主はパウロに関して「見よ、彼は祈っている」とアナニヤに告げました。悔い改めの祈りは天において必ず聞かれています。主は、砕かれ悔いた心を決して拒まれません。そしてサウロに、すぐにも現実になる幻を与えられました。その幻とは、アナニヤが来て彼のために祈り、彼の目が見えるようになることでした。

ある日、私がベルファストの町に滞在中、手紙に目を通していたときのことです。ある男性が私のところに来ておもむろに切り出しました。「あなたは病人を訪問するのですか。」彼は、ある家に行ってほしいと私に頼みました。その家に行けば、ひどい病気にかかった女性がいるとのことでした。私はその家に行き、ぐったりとベッドでもたれかかっている女性に会いました。彼女は人間的に言えば完全にお手上げだと分かりました。彼女の呼吸は短く、か細く、一息ひといきがもう最後の呼吸であるかのようでした。私は主に叫びました。「主よ、私に何をすべきか教えてください。」主は私におっしゃいました。「イザヤ書五十三章を読みなさい。」私は自分の聖書を開いて言われたとおりにしました。この章の五節までを読むと、まったく前触れなく、女性が大声を上げました。「私は癒されています! 私は癒されています!」このとつぜんの叫び声に私は驚き、何が起こったのかを教えてくれるよう彼女にお願いしました。彼女はこう話してくれました。「二週間前、家を掃除していると、心臓にひどく締め付けられるような痛みがありました。ふたりの医者が診察してくれましたが、どちらにも手遅れだと言われました。でも、昨日の夜、主が私に幻を見せてくださいました。あなたがこの寝室に来て、祈っているのが見えました。あなたがご自分の聖書を取り出して五十三章を開くのが見えました。五節まで進んで『彼の打ち傷によって、私たちは癒された』とあなたが読み上げると、私が奇跡的に癒されるのが見えました。そういう幻でした。今、それが事実になったのです。」

幻がいまでも終わっていないことを、私は神に心底、感謝しています。聖霊が幻をお与えになることができるので、この終わりの日にあって私たちは幻を期待できます。神は罪人の死を喜ばれないので、罪人を救うためにあらゆる手段を講じられます。ああ、なんという愛の福音でしょうか!

アナニヤは「まっすぐ」という街路にある家に行き、以前は神の冒涜者であり迫害者であった者に手を置いて、言いました。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(一七節)主はサウロの肉体的な状態をお忘れにはならず、彼のために癒しが準備されていました。しかし、癒し以上のものがありました。それは聖霊の満たしです。ああ、私たちが聖霊のバプテスマというこの驚くべき真理を見落とすとき、福音にある神の栄光が奪われてしまっているように、いつも私には思われます。救われることは確かに素晴らしい。新しい被造物になること、死からいのちに移されること、神によって生まれたという聖霊の証しを持つこと、すべてこれらは言い表しがたいほど尊いです。けれども、救いの湧き出る泉を得る一方で、私たちの内側から生ける水が川となって流れ出る場所に達することも私たちには必要です。

神はサウロを選ばれました。彼は何者だったのでしょうか。冒涜者です。迫害者です。その選びは恵みにほかなりません。私たちの神は恵み深く、神はその恵みを人々のなかで最も邪悪なならず者に示すことを喜ばれます。私の住んでいた町に、町一番のならず者として知られていた、目を引く人物がいました。彼はあまりに邪悪で、身の毛のよだつ言葉を吐き散らしていたので、悪党でさえ耐えられないほどでした。イギリスでは、死刑の執行を担当する死刑執行人という公務がありました。このならず者はその公務に就いていました。のちに彼が私に話したところによると、彼が殺人犯の死刑を執行するとき、死刑囚のなかに働く悪魔の力が彼のなかに入り、その結果、彼は悪魔の群れにとりつかれていました。彼の人生は耐えがたいほどみじめで、もう人生を終わらせようとしていました。彼はある駅に行って切符を買いました。イギリスの電車はアメリカの電車とはずいぶん違います。それぞれの車両にはいくつもの小さな仕切り客室があって、自殺をしようとする者が簡単に客室のドアを開けて電車の外に身投げできるようなつくりになっています。この男は、あるトンネルで対向列車とすれ違う直前に電車から身投げしようと計画していました。それが自分の人生を終わらせるてっとり早い方法だと考えたのでした。

その夜、駅には昨晩救われたばかりの若者がいました。彼はほかの人々を救いに導こうと心が燃えており、これからの人生を毎日、誰かを救いに導くために生きていこうと心に決めていました。若者はこの傷心の処刑人を見て、彼のたましいについて話し始めました。処刑人は私たちの伝道所に連れて来られました。そこで彼は力強い罪の自覚に導かれました。二時間半ものあいだ、彼は文字通り罪の確信の下で汗びっしょりになり、彼から湯気が上がっているのが見えました。二時間半ののちに、恵みによって彼は救われました。

私は「主よ、何をすべきか教えてください」と言いました。主は「彼を離れてはいけない。一緒に帰りなさい」とおっしゃいました。私は彼の家に行きました。彼は妻に会うなり、「神が俺を救った」と言いました。妻は泣き崩れ、そのまま恵みによって救われました。特に私がお伝えしたい点は、その家で変化があったということです。猫でさえ、その変化に気づいたでしょう。

その家にはふたりの息子がいて、ひとりが母親に言いました。「お母さん、この家に何が起きたの。こんなことは今までなかった。すごく平和だね。何があったの。」母親は息子に言いました。「お父さんが救われたのよ。」もうひとりの息子も同じく心打たれていました。私がこの男をいろいろな特別礼拝に連れて行くと、神の力が彼の上に何日も働きました。彼は証しをしていましたが、だんだんと恵みにおいて成長するにつれて、福音を宣べ伝えたいと願うようになりました。

彼は宣教者になり、その働きを通して何百人もの人々が主イエス・キリストの救いに関する知識を与えられました。最も邪悪な者にとっても、神の恵みは十分です。神は最悪のならず者を導き出して、神の恵みを示す好例とすることがおできになります。神はこのことをタルソ人サウロに行なわれました。彼が主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えている真っ最中にです。神はそのことをベリーの処刑人に行なわれました。神は私たちの叫びに答えて、その百倍ものことをしてくださいます。

お気づきかと思いますが、アナニヤがその家に入ったとき、かつて福音の敵であった者を「兄弟サウロ」と呼びました。主イエス・キリストはアナニヤをその家に遣わし、この新しく救われた兄弟に手を置かせました。それは、サウロの目が見えるようになり、また聖霊に満たされるためでした。「でも、彼が異言を話したとは書いていません」と言う方がおられるかもしれません。私たちはパウロが間違いなく異言を話したことを知っています。彼はすべてのコリントの信徒たちよりも多く異言を話しました(第一コリント一四・一八)。草創期だった当時、ペンテコステの聖霊降臨からまだ日が浅かったので、ペンテコステの日に聖霊のバプテスマを受けた最初のパターンに従ってそれを受けるのでなければ、バプテスマを受けてもだれも満足しませんでした。ペテロがカイザリア地方のコルネリオの家で起きた出来事について証言しているとき、ペテロはこう言いました。「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りなったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。」(使徒一一・一五)あとになって彼はこの事件についてこう言いました。「人の心を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(使徒一五・八〜九)コルネリオの家族に起きた出来事についての説明から私たちが知るのは、聖霊が下ったとき「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いた」(使徒一〇・四六)ということです。多くの人は、私たちと使徒の時代の人々とのあいだに神ご自身が区別を設けたと考えます。けれども、これを示す聖句はありません。聖霊の賜物を受ける人はだれでも、その人が今日にした経験とペンテコステの日に与えられた経験とのあいだに、何の区別もないことがわかるでしょう。サウロが聖霊に満たされたとき、主がパウロに与えた経験と、少し前にペテロたちに与えた経験とを違うものになさったとは、私には信じられません。

三十一年ほど前のことです。ある男が来て言いました。「ウィグルスワースさん、サンダーランドで何が起きているかご存知ですか。人々が聖霊のバプテスマを受けています。ペンテコステの日に弟子たちが受けたのとまったく同じ方法です。」私は「そこに行きたいです」と言いました。私はすぐに電車に飛び乗ってサンダーランドに行きました。集会に着くと「異言で話すのを聞きたいです」と言いました。「聖霊のバプテスマを受ければ異言で話すようになりますよ」と言われたので、私は「聖霊のバプテスマならもう受けましたよ」と言い返しました。ある男性が「兄弟。私はバプテスマを受けたときに異言を話しましたよ」と言うと、私は「じゃあ聞かせてください」とたてつきました。彼は自在に異言を話すことはできず、御霊が話させてくださるときにだけ異言を語ることができたので、私の好奇心は満たされませんでした。

この人たちが非常に熱心なのを見て、私はいよいよ異言を聞きたくてたまらなくなりました。この新しい御霊の現れを見たくてやっきになっていたので、四六時中質問していて、集会の邪魔ばかりしていました。ある男性が来て言いました。「私は宣教師です。聖霊のバプテスマを探してここに来ました。私は主を待ち望んでいるのですが、あなたがここに来てから質問攻めで何もかも台無しにしています。」私は彼と議論し始めました。そして私たちの愛があまりに白熱したので、帰るときには彼と私は道の互いに反対側を歩きました。

その夜、待望集会が予定されていて、私は参加するつもりでした。私は着替えたときに脱いだ服のなかに鍵を入れっぱなしにしました。夜中に集会から帰ってきてから鍵を身につけていないことに気づき、この宣教師の兄弟が言いました。「私のところに来て一緒に寝るしかないね。」でも、いかがでしょうか、私たちがその夜、眠れたと思いますか。いいえ、とんでもない。夜通し祈って過ごしました。私たちは上よりの尊い雨を受けました。朝食のベルが鳴っても、私にはそれがどうでもよくなっていました。四日間、私は神以外に何も欲しませんでした。もしあなたが三位一体の第三位格により満たされるという言葉にならないほど素晴らしい祝福を知りさえすれば、この満たしを待ち望んでほかのすべてを傍に置くことでしょう。

私はサンダーランドをまもなく去ろうとしていました。このリバイバルは英国国教会の祈祷会堂で起きていました。その日、私は別れのあいさつをしようと牧師館に行って、牧師夫人のボディ姉妹に話しました。「もう、おいとまいたしますが、まだ私は異言を受けていません。」

彼女は言いました。「あなたに必要なのは異言ではなくて、バプテスマです。」私は言い返しました。「姉妹、私はバプテスマを受けましたよ。でも私が帰る前に、あなたに手を置いていただきたいのです。」彼女は私の上に手を置き、それから部屋を出なければなりませんでした。炎が下りました。私がそこでただ神とだけ過ごす素晴らしい時間を持ちました。神が私を御力のなかに沈めてくださっているように感じました。私は素晴らしい幻を与えられました。尊い血によって私がきよめられているのがわかって、「きよい! きよい! きよい!」と叫びました。きよめられているという喜びに満たされました。私は主イエス・キリストを見ました。からの十字架と、キリストが父なる神の右に引き上げられているのを見ました。キリストをあがめ、ほめたたえ、賛美していると、私は御霊の話させてくださるとおりに異言を語っていました。私は今や本当の聖霊のバプテスマを受けたことを知りました。

私は家に電報を打ちました。家に帰ると、息子の一人が言いました。「お父さん、異言を話すようになったんだってね。さあ聞かせて。」異言はその場で話せませんでした。バプテスマを受けた瞬間は、聖霊に話させてくださるとおりに異言が出てきましたが、異言の賜物を受けたわけではなかったので、そこでは一言も出ませんでした。九ヶ月後まで、ふたたび異言を話すことはありませんでした。九ヶ月後にほかの人のために祈っているときに、神が私に恒久的な異言の賜物をくださいました。

さて、サウロが聖霊に満たされてから、使徒の働きののちの章でこの満たしの結果を見ることができます。ああ、なんという違いを生んだことでしょうか。家に帰ると、妻が私に言いました。「ねえ、あなたは聖霊のバプテスマを受けたと思っているんですね。でも、私もあなたと同じくらい聖霊によってバプテスマを受けていますよ。」私たち夫婦は二十年間、一緒に講壇のところに座ってきましたが、その夜、妻は「今夜はひとりで行ってね」と言いました。私は「わかった」と言いました。その夜、私が講壇のところにのぼると、主は私にイザヤ書六十一章の最初の節を示されました。

「神である主の霊がわたしの上にある。
主はわたしに油をそそぎ、
貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
囚人には釈放を告げ」

妻は会場のいちばん隅の席に行って「どうなるか見てみよう」とつぶやきました。私の説教は主が私に与えてくださったことを主題にして、主が私にどんなことをしてくださったかを話しました。私はこれからの人生に神を歓迎して生き、私に与えられたこの満たしを失うくらいなら、死の苦しみを千回でも喜んで受ける、と会衆に話しました。妻は落ち着きを失っていました。彼女は新しい方法で動かされ、「説教しているあの人は私のスミスではないわ。主よ、あなたが彼のために何かをしてくださったのですね」と言いました。私の説教が終わるやいなや、宣教団の秘書が立ち上がって言いました。「兄弟、私たちの宣教団のリーダーが受けたものを私もいただきたいです。」彼は座ろうとしましたが、椅子に腰掛けられずに床に倒れてしまいました。すぐにつづいて十四人もの人々が床に倒れました。私の妻も倒れました。私たちは何をすればいいか知りませんでしたが、聖霊がこの状況を取り扱ってくださったので、火が下りました。リバイバルが始まり、群衆が押しかけてきました。これは祝福の洪水が押し寄せる前触れにすぎませんでした。私たちは主のいのちと力の貯水池にふれました。そのときから主は私をさまざまな土地に連れて行かれ、私は神の聖霊がそそいでくださった多くの祝福を証ししてきました。

迫害者サウロに与えられた神の恵みは、あなたが受けられるものです。サウロが受けたのと同じ聖霊の満たしも、おなじくあなたが受けられるものです。ペンテコステの日に弟子たちが受けたバプテスマに届かない経験で満足して立ち止まらないでください。祝福に満ちた神の御霊をいやましに受け続ける人生へと歩み出してください。