(三) 御霊の力
聖書朗読 マタイの福音書十六章
パリサイ人とサドカイ人たちは、天からのしるしを見せてみよとイエスさまを試みました。イエスさまの答えは「あなたがたは空模様に現れるしるしは見分けられるのに、時のしるしは見分けられない」というものでした。イエスさまは、彼らの不信仰な好奇心を満たすようなしるしを与えようとなさいませんでした。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(四節)と警告しました。悪い、姦淫の時代はヨナの物語につまずきます。けれども、信仰の目は、ヨナの物語のなかに主イエス・キリストの死と葬りと復活の素晴らしい青写真を見ることができます。
イエスさまがパリサイ人たちから去り、湖の向こう岸に行くと、弟子たちにこう言いました。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」(六節)弟子たちは互いに議論を始めました。彼らが思い当たったのはせいぜい、パンを持ってくるのを忘れたということでした。彼らは何をすべきだったのでしょうか。そのときイエスさまはこのことばを発せられました。「あなたがた、信仰の薄い人たち!」(八節)彼らはあんなにもイエスさまと一緒にいたのに、理解力と信仰が欠如していたために、まだまだイエスさまの失望の種でした。彼らはイエスさまの教えようとしている深遠な霊的真理を理解できず、ただパンの手持ちがないことしか考えられませんでした。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」(八〜一〇節)
あるとき、イエスさまがペテロに言われました。
「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」(マタイ一七・二五〜二七)
ペテロは半生を漁師として生きてきましたが、銀貨をくわえた魚など捕まえたことがありませんでした。しかし、主は言い訳を好まれません。肉による言い訳は不信仰の泥沼に落ち込ませるのが常だからです。主は私たちが単純に従うことを好まれます。ペテロは釣り針に餌をつけながら「やっかいな仕事だな」とつぶやいたかもしれません。「でも、あなたがそう言われるなら、やってみましょう」と言いながら釣り針を海に垂らしたかもしれません。水中には無数の魚がいましたが、どの魚もペテロの餌を素通りして食いつきませんでした。銀貨をくわえたその魚だけが餌に食いついたのです。
ウェールズ地方のカーディフで、潰瘍をわずらっている女性が私のところに来ました。彼女はそのせいで二度、道で倒れたことがありました。彼女が集会に来ましたが、彼女の体内の悪しき力が彼女をその場で殺そうとしているようでした。彼女は倒れ、悪魔の力が彼女の患部を引き裂いていました。彼女はぴくりとも動かず、死んだようになりました。私は叫びました。「おお神よ、この女の人を助けてください。」それから私はイエスの御名によって悪しき力を叱りつけました。すると瞬間的に、主は彼女を癒してくださいました。彼女は起き上がり、偉大な志を持つようになりました。彼女は神の力を体内に感じて、証しをしたいとたえず願っていました。三日後に彼女は別の場所に行って、主の癒しの力を証し始めました。彼女は私のところに来て言いました。「みんなに主の癒しの力を伝えようと思います。このテーマについて何かトラクトをお持ちではありませんか。」私は聖書を彼女に手渡して言いました。「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。これらが癒しについての最高のトラクトです。」イエスさまの御力が現された出来事が福音書に散りばめられています。人々が福音書を信じるなら、それが神のみわざを確実に成し遂げるでしょう。
人々のなかに欠如している場所があります。信仰の欠如は、神のことばによって養われていないことが原因です。神のことばはあなたに毎日必要です。どうやって信仰のいのちに入ることができるでしょうか。神のことばに満ち満ちておられる生けるキリストに養われてください。キリストが生きておられるというこの栄光に満ちた事実と、キリストの驚くべき臨在とに親しむと、神の信仰があなたの内側からだんだんと湧き出ます。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ一〇・一七)
イエスさまは弟子たちに、人々がご自分について何と言っているかとお尋ねになりました。弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」(一四節)そこでイエスさまは、弟子たちがそのことについてどう考えているかを知るために、質問をしました。「あなたがたは、私をだれだと言いますか。」(一五節)ペテロが答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(一六節)するとイエスさまは彼に言いました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(一七節)
単純なことです。あなたはイエスさまをどんな方だと言いますか。彼はどなたなのでしょうか。ペテロと一緒に「あなたは生ける神の御子キリストです」と言えますか。どうやってこれを知ることができるのでしょうか。イエスさまのことは啓示されなければなりません。肉も血もこれを啓示しません。それは内なる啓示です。神はご自分の御子を私たちの内側に啓示し、内なる臨在に気づかせようとしておられます。そのときあなたは叫ぶでしょう。「私はイエスさまが私のものであることを知った! イエスさまは私のもの! イエスさまは私のもの!」「子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」(マタイ一一・二七)御子に関する力強い啓示を神からいただけるまで、神を求めてください。内なる啓示があなたを導き、あなたがどんなときにも揺るがされず、動かされず、いつも主のみわざに富んでいる場所に達するまで、神を求めてください。
この啓示のなかには素晴らしい力があります。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(一八〜一九節)ペテロは岩だったのでしょうか。いいえ。数分後に彼は悪魔に満たされてたので、キリストはこう言わなければなりませんでした。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」(二三節)この岩とはキリストのことでした。キリストこそが岩です。このことを確証する聖句はたくさんあります。彼がキリストであることを知っている人ならだれにでも、主は信仰の鍵と、つなぐ力と解く力を与えてくださいます。この事実をあなたの心に留めてください。
私はトロントで以上の内容を語っていました。人が心を尽くして神を信じるなら、その瞬間に、神は彼のなかにありありとした現実、実体、いのちを入れてくださるということを確信してもらおうとして私は懸命に話していました。そうです。神は彼の内側に住んでくださいます。そして新生にともなって、敵のあらゆる力よりも強い大能の御力が私たちの内側に注がれます。ある男性が集会の途中で抜け出しました。その夜、私が家に帰ると、彼は巨大で頑強で背の高い男を連れてきていました。この男は私に言いました。「三年前、私は神経が悪くなった。眠れなくなった。仕事もやめた。何もかも失った。不眠に悩まされ、私の人生は悲劇だ。」私は彼に言いました。「イエスの御名によって、家に帰って寝なさい。」彼は向きを変えましたが、帰りたくないようでした。でも私は「行きなさい!」と言いました。そして彼をドアから追い出しました。
翌朝、彼が電話をくれました。彼は私のホストに言いました。「先生にぐっすり一晩中眠れたとお伝えください。すぐにでも先生にお会いしたいです。」彼は来て、言いました。「私は新しい人です。新しいいのちを得たように感じます。それで、私の失ったお金を取り戻せますか。」「何もかも取り戻せますよ!」と私は言いました。「どうやってですか。教えてください」と彼は言いました。「今夜の集会に来てください。そこで教えましょう」と私は言いました。その晩の集会では神の力が力強く現されました。そこで彼ははげしく罪に胸刺されました。彼は講壇に近づきましたが、たどりつく前に倒れてしまいました。主が彼と彼のうちにあるすべてのものを変えてくださいました。彼はいま、成功したビジネスマンになっています。すべての過去の失敗は、神についての知識不足からきていました。どんな問題をあなたが抱えているとしても、神は悪魔を振り払うことができ、あなたを完全に変えることができます。神のような方はほかにいません。
ある日、私が電車で旅をしていると、客室に病人がふたりいました。母と娘でした。私はふたりに言いました。「さあ、このバッグのなかに、世界のどんな病気でも治せるものが入っていますよ。それを使って治療に失敗した例は知られていません。」ふたりはとても興味をもちました。それで私はふたりに、どんな病気でも確実に治すこの薬について語り続けました。ふたりはついに、服薬を申し出る勇気がでました。それで私はバッグを開け、聖書を取り出して、「わたしは主、あなたをいやす者である」(出エジプト一五・二六)というあの節をふたりに読み聞かせました。失敗はありえません。あなたが大胆に神を信じるなら、神はあなたを癒してくださいます。人々は今日、自分たちを癒すことのできるものを求めてあらゆる場所を探していますが、ギルアデの乳香がすぐ手の届くところにあるという事実を忘れています(訳注:乳香は旧約時代に傷を癒すために用いられた)。私がこの素晴らしい医者について話していると、母と娘の信仰が神に向かって解き放たれ、神はふたりを電車の中で癒してくださいました。
神はみことばをあまりにも尊いものとしてくださったので、もし聖書がもうこれ以上手に入らないとすれば、私はこの聖書を世界の何に替えても手放しません。みことばのなかにこそいのちがあります。みことばのなかにこそ徳があります。みことばのなかにこそキリストを見出します。キリストこそが私の霊、たましい、からだにとって必要な方です。みことばはイエスの御名の力と、イエスの血潮にあるきよめの力を教えてくれます。「若い獅子も乏しくなって飢える。 しかし、主を尋ね求める者は、 良いものに何一つ欠けることはない。」(詩篇三四・一〇)
あるとき、ある男性が小さな女性に連れられて私のところに来ました。「どうしたのですか」と私は言いました。「この人は仕事に就いても、いつも長続きしません。彼はアルコールとニコチンの毒の奴隷なのです。普段は明るくて聡明な人なのですが、このふたつに打ちのめされています。」私たちにつなぐ力と解く力を与えたという主のことばを私は思い出し、彼に自分の舌を出すよう言いました。主イエス・キリストの御名によって、これらに彼を縛りつけている悪しき力を追い出しました。私は彼に言いました。「男の方よ、あなたは今日、自由です。」彼はまだ救われていませんでした。しかし、主の御力が彼を解放したことを認識したとき、彼は礼拝に来るようになりました。自分は罪人だと公に告白しました。主は彼を救い、バプテスマを授けてくださいました。二、三日たって私は「調子はいかがですか」と聞きました。「解放されました」と彼は言いました。神が私たちに、つなぐ力と解く力を与えてくださったのです。
別の場所で、ある女性が私のところに来て言いました。「私は二十年間、嗅覚が不能です。私のために何かしていただけますか。」私は「あなたは今夜、においをかぐようになります」と言いました。人が二十年間も失っていたものを、私が与えることができるでしょうか。私ではありません。私は覚えています。神の教会が建てられた岩、岩なるキリスト・イエス、そして、ご自分のつなぐ力と解く力を与えようという約束のことを。私たちを支える神のことばが私たちのものであると知れば、私たちは何でもする勇気を得ます。主イエスの御名によって、私はこの女性を解きました。彼女は家に走って帰りました。テーブルには良いものがいっぱいに並べられていましたが、彼女はそれに触れようとしませんでした。彼女は言いました。「私は香りのごちそうを食べています!」主ご自身がご自分のことばを実証してくださり、この不信仰と背教の時代にあっても、みことばが真理であることを証明してくださるという事実のゆえに、主をほめたたえます。
別の人が来て言いました。「あなたは私のために何ができますか。十六回、手術をして耳の鼓膜を取り出しました。」私は言いました。「神は鼓膜のつくり方を忘れてはいませんよ。」私は彼女に油を塗って祈りました。鼓膜がもとどおりになるように主に求めました。彼女は完全に耳が聞こえなかったので、大砲の音も聞こえなかっただろうと思います。祈ったあとでも、彼女はまだまったく耳が聞こえないままでした。しかし、ほかの人々が癒され、喜んでいるのを彼女は見ました。神はご自分が恵み深い方であることをお忘れになったのでしょうか。神の力は今でも同じでしょうか。彼女は次の夜に来て言いました。「私は神を信じるために今夜来ました。」ほかのどんな目的でも来ることのないようにご注意ください。私はもう一度彼女のために祈り、イエスの御名によって彼女の耳が解かれるように命じました。彼女は信じました。彼女が耳が聞こえると信じた瞬間、走って椅子の上に飛び乗って、福音を語り始めました。のちに私はピンを落として、彼女がその落ちる音を聞けるようになったのを確認しました。神は耳に鼓膜を創造することがおできになります。神にはあらゆることが可能です。神は最悪の人を救われます。
失意のうちにある方よ、あなたの重荷を主に委ねてください。主はあなたを励まします。主を見つめ、光で照らされてください。今、主を見つめてください。