スミス・ウィグルスワース『勝利する信仰』

(一) 神の与える信仰

聖書朗読:ヘブル人への手紙十一章一から十一節

神のあらゆる宝物へと続く道がたった一つだけあることを私は信じています。それは信仰の道です。信仰によって、ただ信仰のみによって、私たちはその宝物がどんなに素晴らしいものであるかを知り、神の祝福にあずかることができ、天に上げられた私たちの主の栄光に参与することができます。信じる者にとって、神の約束はすべて「しかり」であり「アーメン」です。

神は、私たちが神ご自身の道を通って神のもとに来るようにと願われています。その道に踏み出すには、恵みのとびらを開けばよいのです。道はすでに作られています。美しい道です。すべての神の聖徒は、この道を通って神の臨在に入り、休息を見出すことができます。義人は信仰によって生きる、と神が定められました。岩なるキリスト・イエスに基礎を置かないものはすべて、失敗に終わることを私は知っています。キリストこそが唯一の道であり、真理であり、いのちです。信仰の道とは、キリストの道のことです。キリストをその満ち満ちたさまで受け取ることです。キリストのうちに歩むことです。キリストのよみがえりのいのちを受け取るなら、私たちは満たされ、突き動かされ、変えられます。神のすべてのみこころに、いつも心からアーメンと言える場所へと私たちは導かれます。

使徒の働き十二章を読むと、ペテロが監獄から出されますようにと人々が夜通し祈っていたことが分かります。教会は熱心ではありましたが、信仰は欠けていたようです。たゆまず祈り続けるほど彼らが熱心だったことは賞賛に値するのですが、その一方で彼らの信仰のほうは、祈りに驚くべきこたえが与えられることを想定していませんでした。教会の誰よりも信仰を持っていたのは、女中のロダでした。戸を叩く音がすると、ロダは駆け寄りました。ペテロの声がすぐに聞こえました。彼女は喜んで駆け戻り、ペテロが門の前に立っていることを知らせました。ところが人々は「あなたは気が狂っている。そんなはずがない」と言いました。それでも彼女は本当にペテロがいたと言い続けました。

ザカリヤとエリサベツは確かに子どもを持つことを欲していました。しかし、御使いがザカリヤのもとに来て、息子が与えられることを告げたとき、彼は不信仰に満たされました。それで御使いは言いました。「あなたはものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。」(ルカ一・二〇)

でも、マリヤを見てください。御使いが来た時、マリヤは言いました。「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ一・三八)彼女は神のみこころにアーメンと言いました。神が私たちの人生に願われているのは、アーメンと言うことです。内なるアーメン、力強く動くアーメン、神の霊に息吹かれたアーメンです。「神が語られたのだから、そうである。そうでないことはありえない。そうでないことは不可能である。」

ヘブル人への手紙十一章五節を調べましょう。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」

スウェーデンにいた頃、主が力強く働いて下さいました。私が一つか二つの説教を終えると、リーダーの方々が私を呼んで言いました。「あなたについてたいへん不思議なことを聞きました。それが本当かどうか知りたいと存じます。神があなたと共におられて働かれるのが確かめられれば、そのことがスウェーデンに大きな祝福となることを私たちは知っています。」

「はい」と私は言いました。「どんなことでしょうか。」

「それがですね」と彼らは言いました。「信頼できる筋から聞いたのですが、あなたはご自分が復活のからだをすでに持っていると宣べ伝えているそうですね。」私がフランスにいたときに、そういうことを信じている通訳者に当たったことがあります。その通訳者を立てて一度か二度、説教をしてから分かったことですが、その人は自分独自の考えを混ぜ込んで話していました。もちろん私は知りませんでした。この兄弟たちに言いました。「私が個人的に確信していることを皆さんに教えましょう。もし私がエノクの証しを持っていれば、天に移されるに違いないと信じています。エノクは神に喜ばれる証しを得た瞬間に移されれたのだと私は信じています。」

天に移されることは神のみこころのなかにあることです。だから私は、神が私たちの信仰を強めてくださるようにと祈ります。しかし、天に移されるのは、聖なる従順と神に喜ばれる歩みをした結果として与えられるものだということを覚えていてください。エノクもそうでした。私たちも同じように、御霊にあって神と共に歩み、主と交わりを保ち、神の聖なる微笑みの下で生きなくてはならないと私は信じています。神が御霊によって私たちを動かして、神と共に歩んでいたエノクがいたところにまで私たちを導いて下さるようにと祈ります。

信仰には二種類あります。一つは自然の信仰です。もう一つは超自然の信仰ですが、これは神からの賜物です。使徒の働きでパウロは、主が彼を任命する際に語られたことばをアグリッパに告げています。「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって(欽定訳:わたしのなかにある信仰によって)、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒二六・一九)

パウロの信仰なのでしょうか。いいえ、ここで言及されているのは聖霊が与えて下さる信仰のことです。その信仰は、私たちが神と共に前進し続けるようにと、神が与えて下さるものです。私たちの信仰とイエスさまの信仰のこの違いを皆さんに知っていただきたいと思います。私たちの信仰には終わりがあります。私たちの信仰が終わると、ほとんどの人がこう告白する場所に来ています。「主よ、私はもうこれ以上進めません。これまで自分の力で来ましたが、これ以上進めません。私が持っている信仰は使い果たしました。今、立ち止まって、ただ待つことしかできません。」

ランカシャーでのある日のこと、数人の病人を訪問した時のことを私は覚えています。ある家に招かれると、若い女性がベッドに寝ていました。八方ふさがりの状況でした。彼女の正気は失われ、悪魔的な力がそこに現れているのが私には分かりました。彼女はごくふつうの若くて美しい女の子でした。夫が、といっても彼もごく若い男の子でしたが、赤ん坊を抱いて部屋に入り、かがんで妻にキスをしました。その瞬間、妻は身を投げ出して部屋の片隅に逃げました。気の狂った人のようなふるまいでした。私は胸がひどく痛みました。それから夫は赤ん坊を抱き上げて、赤ん坊のくちびるを妻の頬につけました。今度も、妻は野生動物のように怯えて逃げました。私は付き添い人にたずねました。「治してくれる人はいますか。」彼らはため息をついて言いました。「何もかも試しましたよ。」私は言いました。「でも、霊的な治療はしましたか。」夫は怒鳴りちらしました。 「霊的な治療だと。七週間も不眠不休で看病してもこんなにひどいありさまなのに、私たちが神を信じているとでも思うのか!」

そのとき、十八歳くらいのその若い女の子が私のほうを見てにっこりと笑いかけて、ドアから出て行きました。私はそれを見て、あわれみに駆られました。何かをしなくてはいけませんでした。それが何であるとしても。それから私は、自分の持っているすべての信仰をもって、天に入りはじめました。私の霊はすぐに家から出ていました。皆さんに言いたいことはこうです。私は地上で祈って神から何かをいただける人を見たことがありません。神から何かをいただくためには、祈りによって天に入らなくてはならないのです。そこにすべてがあるからです。地上の領域に生きていて天から何かを期待するなら、何も来ません。そして私が見てきたとおり、神の臨在のなかで、私の信仰が限界に至ると、別の信仰がやってきます。打ち消されることのない信仰、約束を信じる信仰、神のことばを信じる信仰です。その臨在のなかから、私は地上に戻ってきます。しかし、もう同じ人間ではありません。神が、地獄であれ何であれ、すべてを揺り動かす信仰を与えてくださいました。

私は言いました。「イエスの御名によって、この人から出て行け!」彼女はその場で倒れこみ、眠りにつきました。十四時間後に目覚めると、彼女は完全に正気になって、まったく正常な人になっていました。

ここに至るまでにひとつの過程があります。エノクは神と共に歩みました。すべての歳月を通して、彼は霊において天に入り、つまずくことなく、信仰をかたく保ち、信じ、見て、神との親密な協力者となり、神に触れました。それゆえに地上のものごとが動き去り、彼は天へと移され始めたに違いありません。ついに、何ものも彼を引き止めることはできなくなりました。ハレルヤ!

第一コリント十五章には私たちのからだが「弱いもので蒔かれ」(四三節)御力のうちによみがえらされる、と書いてあります。私たちが天に引き上げられることを求めるにつれて、主はその御力についていま何かを教え、私たちをその御力のうちに保とうとしてくださるように、私には思えます。そうなれば、私たちはもはや弱いもので蒔かれなくなるでしょう。

若いころからずっと、神が私にいつも与えてくださったものが一つあります。それは聖書の風味と味わいです。私は神の御前でこう言えます。この聖書のほかには何も読んだことがない、と。だから、私はほかの本のことを何も知りません。本の中の本である聖書を読むほうが、あなたのたましいにとって、あなたの信仰の成長にとって、あなたの神にある人格を建て上げることにとって、有益だと思います。そうすれば、あなたはたえまなく変えられて、神とともに歩むにふさわしい者に造られていきます。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル一一・六)

信仰以外のいかなる方法によっても、神に喜ばれることはできないことが、私にはわかります。信仰から出ていないことは、みな罪だからです。信仰による計画こそが神の理想と原理であることを、神は私たちに知ってほしいと願われています。それで、ヘブル人への手紙十二章二節の「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」という美しいことばを私は思いのなかに保つことを愛しています。イエスさまは信仰の創始者です。神が世界を形造られるとき、イエスさまを通して働かれました。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ一・三)こんなにも素晴らしい救いを私たちに与えようという、あふれ出る豊かな喜びのゆえに、イエスさまは生きた信仰の創始者となってくださいました。そして、生きた信仰のこの原理をとおして、私たちの信仰の創始者であり完成者であるこの方を一心に見つめながら、主の御霊によって私たちは栄光から栄光へと同じ姿に変えられていきます。

神は、あなたが過去に得てきたものよりも素晴らしいものを、あなたのために備えておられます。神が喜んで与えようとされる信仰、力、いのち、勝利の完全な充満のなかに飛び込んでください。あなたが過去のものを忘れ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、ひたむきに前に向かって進むことができるように、それらの充満の中に入ってください。