スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(十七) 霊を見分ける力

「ある人には霊を見分ける力」(第一コリント一二・一〇)。自然の見分けと霊の見分けの間には非常に大きな違いがあります。自然の見分けの力は多くの人がそれを持っていると自認するもので、彼らは他の人たちの欠点を非常に多く見つけます。そのような人に対して、ルカの福音書六章で的確に述べられているキリストのことばがあります。「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。」(六・四一)自然の見分けの力を発揮したいと願う人がいたら、最低でも十二ヶ月間は自分自身に焦点を当ててみて下さい。そうすると、自分自身の中にあまりにも多くの欠点が見つかるので、他の人の欠点に憤慨したいと思わなくなるでしょう。イザヤ書の六章で、預言者が神の御前に立つと、自分の唇さえも汚れていて、何もかもが汚れていることを悟った、とあるのが読めます。しかし、神をほめたたえます。今日私たちのために、生きた燃えさかる炭と同じものがあります。それは火のバプテスマであり、たましいの完全、心のきよめ、霊の更新です。神の火が私たちの舌に触れることがどれほど大切でしょうか。

第一ヨハネで、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」(四・一)と言われています。さらに、「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(四・三)と言われてます。何度か、悪しき力の下にある人や発作のある人と会いましたが、私はとりつかれた人のなかにいる悪しき力やサタンの勢力に対して、「イエス・キリストは人となって来たか」と言いました。彼らはただちに「ノー」と答えました。彼らは「ノー」と言うか、口を閉ざして、主イエス・キリストが人となって来られたと認めることを完全に拒否します。ですから、続けてヨハネが「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力がある」と書いたことを覚えていて下さい。すなわち、あなたは主イエス・キリストの御名によって、悪しき力を扱い、それに出て行くように命じることができるのです。ペンテコステ派である私たちは悪しき者の策略を知らなければなりません。また、悪しき者をその座から退かせ、追い出すことができなければなりません。

イギリスのドンカスターで私は宣べ伝えていました。ある時、信仰について宣べ伝えていると、多くの人が解放されました。ある男性が出席していました。彼は自分が見たことに非常に関心を持ち、感動しました。彼自身、ひざの故障に苦しんでいて、布をひざにぐるぐる巻いていました。彼が家に帰ると、妻に言いました。「ウィグルスワースのメッセージを取り入れることにした。私は今からそれに基づいて行動して、解放を得ようと思う。」彼は自分のひざをつかんで言いました。「悪魔よ、イエスの御名によって、出て行け。」それから彼は言いました。「これでもう大丈夫だよ、お前。」ぐるぐる巻きにした布を取ると、包帯がなくても問題なく歩けることが分かりました。次の晩、彼は小さな原始メソジスト教会に行き、礼拝しました。そこには悪い状態にある若者がたくさんいましたが、ジャックはイエスの御名を通して、友人たちを解放する非常に素晴らしい働きをしました。彼は、人が受け継いでいる非常に多くの病気が、敵の働き以外何ものでもないという理解に至りましたました。それでも、彼の信仰は立ち上がり、イエスの御名には、敵に対して圧倒的な勝利者となる力があるということを見ました。

ある夜、スウェーデンのグーテンベルグに私が行くと、集会をするように頼まれました。集会の最中に、一人の男性が出入り口をふさぐようにして倒れました。悪霊が彼を引き倒し、悪霊の症状が現れて、集会全体が妨害されました。私はドアのほうに駆け寄って、この男性をつかんで彼のうちにいる悪霊に向かって叫びました。「悪魔よ、出て行け! イエスの御名によって、悪霊であるお前を追い出す。」私は彼を起こして言いました。「イエスの御名によって、自分の足で立って歩きなさい。」通訳以外に、その集会で私の言ったことを誰かが理解したかどうか分かりませんが、悪魔は私の言ったことを知っていました。私は英語で話しましたが、このスウェーデンの悪魔たちは出て行きました。似たようなことがクリスチャニアでも起きました。

悪魔は目を通して、また思考を通して誘惑しようと腐心します。ある時、ある説教者を魅了していた美しい女性が私のところに連れて来られました。求婚期間も結婚してからも、夫が彼女を満足させなかったという理由だけで、悪魔は優勢になり、彼女の気を狂わせてしまいました。彼女はその状態で二百五十マイル運ばれました。彼女は以前は御霊のバプテスマを受けた人でした。「聖霊のバプテスマを受けた人でも、悪魔に場所を与えることがあるんですか」と尋ねる人がいるかもしれません。私たちが安全でいられるのは、神と共に歩み、聖霊に満たされ続ける時だけです。デマスを忘れてはいけません。彼はパウロの同労者(ピレモン一・二四)だったようですから、聖霊のバプテスマを受けていたに違いありませんが、敵が彼を誘って、彼は今の世を愛するようになり(第一テモテ四・一〇)、恵みから落ちてしまいました。彼らがこの若い女性を私のもとに連れてくると、悪しき力がすぐに見分けられました。そして私はすぐにイエスの御名によってそれを追い出しました。正気を取り戻した彼女がすべての人々の前に立っていることは、大きな喜びでした。

完全に解放されたいのちがあります。これが、神があなたに願われるものです。私の平安が何かに阻害されることがあるなら、働きかけようとしているのは敵であると私は知っています。どのようにして私はこのことを知るのでしょうか。それは、あなたの心が主にとどまっていれば、完全な平和があなたの心にとどまると、主が約束されたからです。パウロは私たちに、私たちのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげるようにと言っています。それこそが私たちの霊的な礼拝です。聖霊がその人を通して呼吸されます。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ一二・二)またパウロはピリピ人への手紙でさらにこう述べています。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことを心に留めなさい。」(ピリピ四・八)清いことを考えているなら、私たちは清い者となります。聖なることを考えているなら、私たちは聖なる者となります。そして私たちの主イエス・キリストのことを考えているなら、私たちは主のようになります。私たちがたゆまず見つめているものがあれば、それに似るように私たちは変えられていきます。

霊の見分けのために、私たちは聖なる方と共に住まなければいけません。主はあらゆる場面で啓示を与えられ、サタンの力の覆いを取り除けられます。オーストラリアで私がある場所へ行くと、そこでは家々が分裂してばらばらになっていました。そこの人々はサタンの悪しき力によって惑わされていて、それぞれ夫は妻から離れ、妻は夫から離れて、お互いに霊的に同じような状態になっていました。これは悪魔によるものです! 神がこの時代にあってそうした悪から私たちを解放して下さいますように。神があなたに与えられた配偶者は、誰よりもあなたにとっての良きパートナーです。ぼろぼろになった心や、崩壊した家庭を私はあまりにも多く見てきました。この悪しき誘惑の霊どもについての本当の啓示が必要です。霊どもは入り込むと目によって惑わし、人生を破壊し、神の働きの評判を地に落とします。しかし、その背後には必ず肉なるものがあります。肉は清くありません。汚れていて、不純で、サタン的で、悪魔のようです。地獄がその背後にあります。敵がやって来てあなたをこんなふうに試みるなら、主イエスさまをすぐに見上げて下さるよう、あなたにぜひお願いします。主はあなたをそのようなサタンの力から解放することがおできになります。あなたが信仰を持っていくためには、あらゆる点で分離されているべきです。

破壊するために来るこの悪しき力を啓示によって悟るためなら、この霊の見分けの賜物を求めれば聖霊が私たちに与えて下さいます。これらのことを私たちに啓示する御霊のこの油注ぎは、私たちが求めれば得ることができます。

神秘主義者が集会に来ることもあるでしょう。神秘主義者の状態を取り扱うことができなくてはいけません。彼らを正しく取り扱えば、集会で彼らが力を発揮させないようにできます。神智学やクリスチャン・サイエンスの人が来ていれば、彼らを見分けて特定できなければなりません。彼らと交わらないで下さい。必ず追い出して下さい。彼らが陥っている迷妄から、自ら解放されたいと願うのでない限り、彼らは自分たちの仲間と一緒にいたほうが良いのです。主イエスさまの警告を覚えていて下さい。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(ヨハネ一〇・一〇)

サタンが彼の悪霊を送ることができたとしたら、その前にあなたは悪霊に対してドアが開いたはずです。聖書が言うことを聞いて下さい。「悪い者は彼に触れることができないのです。」(第一ヨハネ五・一八)「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」(詩篇一二一・七)どうやってサタンはドアを開くのでしょうか。聖徒たちが聖さ、純粋さ、義、真理を追い求めるのをやめる時に、また祈り、みことばを読むのをやめて肉の欲求に道をゆずる時に、サタンが来ます。病気が不従順の結果として来るのは非常によくあることです。ダビデは言いました。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。」(詩篇一一九・六七)主を求めて下さい。そうすれば主は、あなたの存在全体が聖さと純粋さをもって輝くようになるまで、あらゆる思考もあらゆる行いも聖化して下さいます。そして、あなたのただひとつの願いは、あなたを聖なるものとして造られた主ご自身となるでしょう。ああ、この聖さよ! 私たちは精錬されることができるでしょうか。できます。生まれながらのあらゆる罪は消えなければなりません。神はあらゆる悪しき考えからきよめることがおできになります。私たちは罪を憤り、義を愛するようになれるでしょうか。神が石の心を人から取り除かれます。主が清い水をあなたがたの上に振りかけるその時、あなたがたはすべての汚れから清められます(エゼキエル三六・二五)。いつ主はそうして下さるのでしょうか。あなたが主にその内なる清さを求める時にです。