(十八) 異言の賜物
「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」(第一コリント一四・一〜二)
御霊の賜物を切望することが必要です。賜物は必要で大切なものですから、私たちは飢え渇いてそれを熱心に願い求めるべきです。それは、神の恵みによって賜物を受けた私たちが、神の栄光のために用いられるようになるためです。
御霊にあって神と交わるための素晴らしい超自然的な方法として、神に向かって話すこの異言を神は授けて下さいました。神に向かって異言を話す時、御霊にあって素晴らしい奥義を話しているのです。ローマ八・二七にこうあります。「人間の心を探く窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」神に向かって話す異言は、多くの場合、とりなしの祈りをしています。御霊にあって祈る異言は、神のみこころに従って祈っています。そして、御霊ご自身が言いようもない深いうめきをもって、私たちのためにとりなしをして下さるようなことがあるのです。
この点に関して、ベルギー領コンゴで神の働きをしている、ウィリー・バートンについてお話したいと思います。バートン兄弟は力強い神の人で、アフリカの異教徒のために人生を捧げています。彼は熱病にかかって、死の底に下りました。人々は言いました。「彼は自分の死期を告げた。私たちにはどうしようもない。」人々の希望は完全にくじかれたようでした。彼らは打ちひしがれて、これからどうなるのだろうと途方に暮れながら立ち尽くしていました。ただ彼が死ぬに任せていました。ところが、何の前触れもなく、一瞬で、集まった人々の真ん中で彼はすくっと立ち上がりました。彼らは何が起きたのか理解できませんでした。彼の説明によると、あたたかいものがからだを駆け巡ったのを感じて意識を取り戻したそうです。そして、彼のからだには何も悪いところがありませんでした。どうしてこのようなことが起きたのでしょうか。この神秘は、彼がロンドンに帰るまで分かりませんでした。ロンドンで彼は、自分が一度死んで生き返った経緯を話しました。一人の女性が近寄ってきて、彼と個人的に話したいと申し出たので、話す時間をもちました。彼女は尋ねました。「日記はつけましたか。」彼は「はい」と答えました。彼女は言いました。「ある日のことですが、私が祈りに行ってひざまずくと、すぐにあなたのことが心に浮かびました。主の御霊が私をとらえて、私を通して異言で祈られました。幻が目の前に現れて、あなたが無力に倒れているのが見えました。それで私は異言で叫び続けて、ついにあなたが起き上がって部屋から出て行くのが見えました。」彼女はその時のことを記録しておきました。彼が日記を読み返すと、それが起きたのは彼が生き返ったのとちょうど同じ日でした。私たちが御霊にゆだねて、寝室で神に向かって話す静かな時間を過ごすことには、大きな可能性があります。あなたが聖霊に満たされて、あなたの周りのあらゆることが、天の動的な力に動かされていくことを、神は望んでおられます。
「異言を話す者は、自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。」(四節)異言を話す者は自分の徳を高める、すなわち自分自身を建て上げるということを理解していただきたいと思います。私たちは教会の徳を高める前に、自分の徳を高めるべきです。聖霊が霊的に建て上げるこの方法で、私はどれだけ個人的に恩恵を受けてきたことか知れません。私が皆さんの前にこうして立っていること自体が、世界で最も不思議なことの一つです。講壇に立っているのはこれ以上ないほどの弱々しい人間です。人前で話す。まさか。そんなことはまったく不可能です。私の自然の性格は、講壇に立って福音を説教するのとは正反対のものです。その秘密は、聖霊が来られて、素晴らしい御霊の徳を与えて下さったことです。私はこのみことばを可能な限り何度も読んできましたが、みことばの息である聖霊が来られて、このみことばをつかんで下さいました。聖霊がこれに光を当てて下さいました。そして聖霊が、私には早口で話せない言語を与えられました。あまりにも早口なことばなのです。神がそれを与えられたので、そのようなことばが出てきます。慰め主が来られると、その方があなたにすべてのことを教えるでしょう(ヨハネ一四・二六)。その方が私に異言で話すというこの超自然的な方法を与えられました。これは私自身の徳を高めるため、さらにはその後で、私が教会の徳を高めることができるようになるためです。
第一ヨハネ二・二〇にはこうあります。「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。」二七節にはこうあります。「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」聖霊のバプテスマを受けた人でさえ、「私は渇いている。自分がどこにいるのか分からない」と言うかもしれません。みことばは、あなたは油注ぎを持っていると言っています。油注ぎを受けたことを神に感謝しましょう。聖霊がここで言われているのは、聖霊がとどまっておられるということと、聖霊がすべてのことをあなたに教えるということです。これらのことはあなたにとって大きな確固たる足場となります。あなたが油注ぎを持っていて、注ぎの油がとどまっているという、このことばが真実であることを信じるように、聖霊があなたの信仰を燃え立たせて下さるでしょう。朝起きては、この素晴らしい真理を信じて下さい。御霊の臨在と力にゆだねると、あなたは御霊にあって神に向かって話します。そしてこうすることによって、あなたが個人的に建て上げらていくことに気づくでしょう。あなたについてのあらゆることを偽りものとしてでも、この神のことばを真実として下さい。悪魔は、あなたがどうしようもない無味乾燥な人間だと言うでしょう。また、あなたは何もできないと言ってくるでしょう。でも、キリストから受けたそそぎの油があなたのなかにとどまっているという神のことばを信じて下さい。
「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。」(第一コリント一四・五)神はいつでも、あなたが預言する場所に導かれることを理解しておかなくてはいけません。聖霊を受けた者は誰でも、預言する権利を持っているからです。三一節には「あなたがたは、みながかわるがわる預言できる」とあります。さて、異言に解き明かしが伴う場合を除いては、異言よりも預言のほうがずっと建設的です。解き明かしがあれば、異言も預言と同等になります。一三節には「異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい」とあります。これは大切なことばです。
私は聖霊のバプテスマを受けて、一度御霊の話させて下さる通りに異言を話した後で、それから九ヶ月間は異言を話しませんでした。私はあちこちに行って人々が聖霊を受けるようにと手を置くと、彼らは異言を話すようになりましたが、私自身は異言を話す喜びを味わえなかったので、そのことで悩んでいました。私がバプテスマを受けた時に受けた、御霊が話させてくださる異言と、その後に受けた異言の賜物とは異なっているということを、神が私に教えようとされたのでした。私がほかの人々に手を置いて、彼らが聖霊を受けた時、私はこう考えました。「ああ、主イエスさま、あなたが私に話させて下さったら、素敵なのですが。」主が私に賜物をお預けにされたのは、聖霊のバプテスマについて誤解している多くの人に私が出会うことを、主が知っておられたからです。その人たちは、聖霊のバプテスマは異言を伴わなくても受けられると主張していて、異言が出るのは単に聖霊のバプテスマと同時に異言の賜物を受けただけなのだと主張していました。私はその時に異言の賜物を受けていませんでしたが、九ヶ月後に、ある朝外出しようと支度をしていると、主が私の心に語られ、多くの異言が口から出てきました。異言がやんでから私は主に申し上げました。「さあ、主よ。私がこれをしたのではありません。私が求めたのでもありません。あなたがなさったことなので、あなたが私に解き明かしを下さるまで、私はこの場所から動きません。」すると、解き明かしが来ました。この解き明かしは、今に至るまで世界中で成し遂げられてきたものです。聖霊が異言を話させて下さるのでしょうか。それなら、聖霊に解き明かしがおできになります。異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈って下さい。そうすれば、神が解き明かしを与えられます。神が私たちに語っておられるはずの事柄について、私たちは明確に理解することなしに先走るべきではありません。
「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」(一五節)御霊によって異言で祈っている時、あなたは自分で何を祈っているのかを知りません。すなわち知性で理解していません。異言で祈っても知性は実を結びません。しかし、あなたが異言で祈らなければならないような状況では、御霊の油注ぎのもとに知性でも理解できる祈りの力が同様に与えられます。ある人はこう言います。「ああ、私はそう祈ることができました。でも、それをしたのは私自身でしょう。」もし、あなたが祈るのなら、祈るのはあなた自身です。あなたが行うどんなことでも、それを始めるのはあなた自身です。私はひざまずいて、最初の二言三言は自分で祈ります。始めるのは自然の自分かもしれません。しかし、それを終えるとすぐに、御霊が私を通して祈り始められます。始めるのは確かにあなた自身です。間違いありません。次に聖霊が来られて、聖霊があなたの祈り全体を導かれるでしょう。主をほめたたえます。信仰によらないものはすべて、「正しくない」と言うでしょう。信仰は「それが正しい」と言います。自然の人は「正しくない」と言うでしょう。信仰が「正しい」と言います。パウロは言います。「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。」彼はそれを信仰によって行いました。悪魔もそれに反対し、あなたの生まれながらの性質も反対します。どうか神なる聖霊が私たちを導いて、私たちが御霊によって生き、歩み、祈り、賛美し、また知性によっても祈り、賛美することのできる、祝福された領域へと導き入れて下さいますように。信仰がそれをするでしょう。信仰は悪魔に耳を貸しません。信仰は自然の心の働きに耳を貸しません。信仰は神に聞く大きな耳を持っています。信仰はあなた自身には耳を貸さず、神に耳を開きます。信仰は感情に注意を払いません。信仰は「あなたは神にあって完全である」と言います。
御霊によって祈り、御霊によって賛美すること、すなわち神の御霊が話させて下さる通りに異言で祈り、異言で賛美するのは、素晴らしいことです。私は毎朝起きる時に、御霊による神との交わり無しでベッドから出ることはありえません。それは地上における最も素晴らしいことです。あなたが着替えている時に聖霊のうちにあり、あなたが世に出ても、世があなたに何の影響も与えないのは、この上なく素敵なことです。そのように一日が始まれば、あなたは一日中御霊の導きを受けていることに気づくでしょう。
「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりも、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」(一八、一九節)多くの人がここで言うことは、パウロは理解できない異言で一万語話すよりも、理解できる五つのことばを話したいと言ったということです。それでいつも、「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」という部分を置き去りにしています。パウロはここで、解き明かしが伴わない異言を過剰に話すことについて正しているのです。それは集まった人たちの徳を高めることにならないからです。解き明かしが提示されなければ、彼らは単に神と自分に向けて話しているだけです。説教する人がいる前で、二、三十人がみな異言で話し出したらどうなるか想像してみて下さい。とても深刻な事態になります。集会が混乱することでしょう。集会に出席する人々には、知性で理解できない一万語よりも、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるための五つのことばのほうが良いのです。
「律法にこう書いてあります。『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者ではなく、信者のためのしるしです。」(二一、二二節)みずからを信者と名乗りながらも、極度に不信仰を行っている人が大勢います。イギリスのシェフィールドに住んでいたメソジスト派の牧師は、不信仰な「信者」の一人でした。ある人が彼に小切手を渡して、休暇を取るように言いました。この人は私の名前と住所も彼に教えました。それで、彼はブラッドフォードに着くと、私を探し始めました。彼は私について「異言を話す人々」の一人だと警告されていました。それで、彼らのすることはすべての悪魔から来ているものだから、十分に気をつけて、仲間に加わらないようにと言われていました。彼は言いました。「彼らが私を仲間に入れることはないよ。彼らのことはよく知っているから、彼らが私を仲間にすることはできない。」
彼は極めて疲れていて、休息を必要としていました。彼が来るとこう言いました。「あなたの友人が私をここに来させました。よろしいですか。」私は答えました。「はい。ようこそ。」けれども、私たちはこの人のために何もできませんでした。不可能でした。話す。彼ほどよく話す人は聞いたこともないでしょう。ひたすら話して、話して、話して、話し続けました。私は言いました。「彼をそのままにしておきなさい。いつかきっと、彼の話が終わるでしょう。」夕食のあいだも、彼はずっと話しました。次の食事でも話し続けました。
金曜日の夜の集会になりました。バプテスマを求める人たちのための集会で、部屋に人が集まり始めましたが、まだ彼は話していました。誰も割り込めませんでした。部屋に入ってくる人が誰も邪魔できないほどに彼は話すことに集中していました。私は言いました。「兄弟、そろそろ話をやめて下さい。これからお祈りしましょう。」普段、私たちは祈りの前に賛美を歌うのですが、この時には違っていました。神の示された通りの順番にしました。私たちはすぐに祈ることにしました。祈り始めるとまもなく、二人若い女性が、一人はこちらの端で、もう一人はあちらの端で、異言で話し始めました。それでこの牧師は、そのことが彼にとってあまりにも不思議に思われたので、彼らの言っていることを聞こうとしてこちらとあちらを行き来しました。しばらくして彼は言いました。「自分の部屋に戻ってもいいですか。」私は言いました。「はい、兄弟。そうなさりたいなら。」そういうわけで彼は部屋に戻り、私たちは素晴らしい時間を過ごしました。
夜十一時ごろに私たちはベッドに行きました。早朝三時半に、この男性が寝室のドアを叩きました。コンコン、「入ってもよろしいですか。」「どうぞ。」彼はドアを開けて言いました。「主が来られます。主が来られます。」――彼は口を押さえていて、ほとんど英語が喋れませんでした。私は言いました。「もう寝て下さい。また明日お話して下さい。」異言は不信者のためです。この男性は不信者でした。不信仰な「信者」でした。何度も私は、異言を話すことを通じて人々に確信が訪れるのを見てきました。
翌朝、彼は朝食に来て言いました。「ああ、昨晩は素晴らしい夜ではありませんでしたか。」彼は言いました。「私はギリシャ語もヘブライ語も知っています。そしてあの二人の若い女性はこれらの言語を話していました。一人はギリシャ語で『神に立ち返りなさい』と、もう一人は同じことをヘブライ語で話していました。それらを話しているのは神だと分かりました。彼らが話しているのではありませんでした。私はまず悔い改めなくてはなりませんでした。私は不信者として来ました。でも、神がここにおられることが分かりました。夜、神は私を二時間あまり床に倒れさせられました。何もできませんでした。それから神が突き破られました。」そこで彼はまた異言で話し始めました。朝食のテーブルのまさにその場で。
神がご自分の大能の力を証しされると、どんな人でも否定できません。聖霊があなたを通して異言と解き明かしをもって話されることで、皆の前で不信者に確信を与えるようになるのを、あなたは見るに違いありません。そして、神がこの方法であなたを確信に導くことが分かるでしょう。
賜物を受けるための最も完全な方法をご説明します。第二列王記の二章をご一緒にお読み下さい。賜物を受けた一人の人がいます。エリヤは神に力強く用いられた人でした。火が天から降ったり、他のさまざまな奇跡が起きたりしました。またエリシャはこの人の賜物をなんとしても手に入れたいという非常な熱意に動かされていました。あなたも御霊の賜物を貪欲なほど熱心に求めることができます。神はそれを許されるでしょう。エリヤは彼に言いました。「ギルガルにとどまっていなさい。」エリシャは言いました「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」
いかなるものも彼を止められませんでした。エリヤがエリシャに、エリコにとどまるように言いましたが、彼は「私はとどまりません」と反抗したも同然でした。止まる人は何も得られません。おお、エリコにとどまらないで下さい。ヨルダンにとどまらないで下さい。神があなたのために持っておられるすべての満ち満ちた賜物へと導こうとしておられる時には、どこであってもとどまらないで下さい。
二人はヨルダン川に来て、エリヤは外套を丸めて水を打ちました。水は両側に分かれました。エリヤとエリシャは乾いた土の上を渡りました。エリヤは振り向いてエリシャに言いました。「ほら、あなたの願うものを求めなさい。」エリシャは求めたものを得るようになりました。あなたのものになると神が言われたものはすべて、あなたは求めて良いのです。エリシャは言いました。「あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」師の手にあるものを願い求めたのは、この田舎者の少年でした。しかし彼の霊は非常に大胆になって、エリヤが舞台を降りる時に、師の役を彼が引き継ぐことを心に願ったのでした。
エリヤは言いました。「あなたは難しい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。」あなたが求めるものを得るまで熱意を保つのをやめないように、どうか神が助けて下さいますように。神の最高の賜物を求める熱心が火となって燃え立つまで、あなたの熱意を大きくして、信仰を奮い立たせて下さい。
こうして二人は進みました。一人が進むと、もう一人が追いかけて進みました。彼は最後まで師から目を離そうとしませんでした。一台の火の戦車と火の馬とが現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行きました。エリシャがこう叫ぶのが私には聞こえてきそうです。「私が父、エリヤ。その外套を落として下さい!」外套は落ちてきました。外套がひらひらと落ちてくるのが目に浮かびます。エリシャは自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂きました。彼がもう一方の外套を身にまとった時に、何か自分自身に変化が起きたことを感じたとは、私は信じていません。しかし、彼がヨルダン川に来ると、エリヤの外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言いました。すると水が両側に分かれたので、彼は乾いた土の上を渡りました。それで預言者の息子たちは言いました。「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。」
賜物を受けるのもこれと似ています。あなたが信仰によって行動を起こすまでは、あなたは賜物を持っていることを知りません。兄弟姉妹の皆さん、求めるものを受けると信じて下さい。