(十六) 預言の賜物
第一コリント一二・一〇でパウロは、同じ御霊によってさまざまな賜物があることに言及して、こう書いています。「ある人には預言(の賜物)」。第一コリント一四・一で、この賜物の重要性が述べられています。愛を追い求めるようにパウロは言い、続けて「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と勧めています。また、「預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します」(一四・三)とも書いています。それでは、聖徒たちが建て上げられ、強められ、神の慰めに満たされるために、教会でこの賜物が現れることはどれほど大切なことでしょうか。しかし、他のすべての賜物と同じように、この賜物に関しても、御霊の力によって働き、御霊の油注ぎによって現れを見るべきです。それは、預言を聞く者が誰でも、預言のことばが聞く者の徳を高めるためにあることを理解し、預言が神によって発せられたことを知るようになるためです。神の御霊こそが、神の事柄を啓示することばを教えるために、神の深みまでくみ取られ、それを明らかにされ、預言に油を注がれるのです。
預言のことばには、聞く者を真理へと導く、本物の力と本物の光があります。預言は心で考えたことを話すのではありません。それよりも遥かに深いものです。預言によって私たちは主のみこころを受け取ります。そして私たちが主の御霊を通して、この祝福された新鮮なことばを受け取るなら、集まる人たち皆が霊の領域に導き入れられます。御霊の与えられることばを通して、私たちの心も考えもからだ全体もよみがえりを受けます。御霊が預言を与えられる時、私たちはあらゆる点でいやしや救いや力が現されるのを見ます。こういうわけで、預言は私たちが熱心に求めるべき賜物の一つなのです。
本物の預言を正しく評価する一方で、間違ったものに関して、聖書は明確なかたちで私たちに警告を与えていることを忘れてはいけません。第一ヨハネ四・一に「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」とあります。それからヨハネは、本物と偽物をどうやって見分けられるかを教えています。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(四・二〜三)預言を装ったもっともらしい声もあります。本物の預言に見せかけた、まがいものに耳を傾けることで、時には恐ろしい闇と霊的束縛を受けることがあります。本物の預言はいつでも、キリストを賛美し、神の息子をほめたたえ、イエス・キリストの血をたたえ、聖徒たちにまことの神をあがめて礼拝するようにと励ますものです。偽りの預言は、徳を高めるためにならない事柄を取り扱い、聞く者を思い上がらせ、間違いへと導きます。
多くの人はサタンを、大きな耳と目と尻尾のついた大きく醜い怪物のように思い描いていますが、聖書はサタンをそのように描写していません。サタンは非常に美しい者だったので、その心が高ぶりました。今日至るところで、サタンは光の天使をよそおって現れます。サタンは高慢に満ちています。ですからあなたも気をつけていないと、サタンが試みて、自分はひとかどの人物だとあなたに思わせようとします。ひとかどの人物であるという考え、これこそがほとんどの説教者やほとんどの人にとっての弱点です。何者かである人は一人もいません。私たちが無に等しいものであることを知れば知るほど、神は私たちを神の力が流れる通路として下さいます。親愛なる主が、道の外れにあるすべての高慢から私たちを救い出して下さいますように。高慢は悪魔の罠です。本物の預言は、キリストがすべてにおいてすべてであられることを教え、あなたが自分自身では無や虚飾にすぎぬものであることを示します。偽りの預言はキリストをほめたたえません。また、最終的にあなたが何か偉大な人物になれるように思わせます。そのような考えは、「すべての誇り高い獣の王」(ヨブ四一・三四)にそそのかされたものだと、はっきりと知って下さい。
直接的な声を聞くことを追求し続けるという愚かな間違いに対して、警告したいと思います。聖書を見てください。ここに神の声があるのです。「神はむかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました。この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル一・一〜二)別の道にそれていかないで下さい。神の声が聞こえるなら、それは霊感を受けたみことばの中に与えられている聖書の真理と合致しているでしょう。黙示録二二・一八〜一九には、この預言の書に付け加えたり取り除いたりしようとすることの危険性が示されています。本物の預言は、神の御霊の力にあって発せられるものなので、聖書に付け加えたり取り除いたりせず、私たちにすでに与えられた神からのことばを燃え立たせたり、よみがえらせたりします。イエスさまが言われたことや行われたすべてのことを、聖霊は私たちに思い出させます。本物の預言は、真理である聖書から新しきも古きも取り出して、それらを私たちにとって生きたものとし、力あるものとしてくれます。
こう尋ねる人がいるかもしれません。「聖書があるのに、どうして私たちに預言が必要なのでしょうか。」聖書自身がこの問いに答えています。終わりの日に、神の御霊をすべての人に注ぐ、と神が言われました。「すると、あなたがたの息子や娘は預言」(使徒二・一七)するとあります。この終わりの日に、預言が私たちを祝福する本物の手段となることを、主は知っておられました。このようなわけで、主が御霊によって、主のしもべにもはしためにも本物の預言的なメッセージを語らせるということを、私たちは期待できます。
声を聞くことに関して警告を与えたいと思います。スコットランドのペイズリーという町の集会で、二人の若い女性と知り合った時のことです。一人は白いブラウスを着ていましたが、ブラウスが血でにじんでいました。二人は非常に興奮していました。この二人の女性は電報のオペレーターで、御霊のバプテスマを受けた貴重な若者でした。二人は宣教師になることを切望していました。しかし、私たちがどのような霊的段階にあろうと、誘惑は訪れます。悪しき力がこの女性たちの一人に訪れて、こう言いました。「もし私に従うなら、あなたを最も素晴らしい宣教師にしてあげます。」これはまさに悪魔か、あるいは光の天使をよそおった悪魔の使いです。この若い女性たちの一人がただちに囚われました。彼女があまりに興奮しているので、もう一人が異常を察知して、監督にしばらく時間をもらえるようにお願いしました。
もう一人が彼女を部屋に連れていくと、神の御霊のふりをしたサタンの力が、声をもってその力を現し、もし私に従うなら今晩、宣教の計画をあなたに明かそうと語りかけて、もう一人の若い女性をも信じ込ませました。悪霊は言いました。「あなたの姉妹以外には誰にも言わないで下さい。」神に関する事柄はどんなことでも、誰に対しても包み隠さず伝えることができるはずだと私は思います。あなたの今の生き方を隠さず宣べ伝えることができなければ、あなたの生き方が間違っています。あなたが秘密にしている行いを話すことを恐れているなら、そうなります。いつかそれは屋根の上で語られるでしょう。それから逃れられるとは考えないで下さい。純粋なものが光のほうに来るように、真理を行う者は、光のほうに来ます。その行いが神にあってなされたことがあきらかにされるためです。(ヨハネ三・二一)
悪しき力がこの女性のところに来て言いました。「今夜、鉄道の駅に行きなさい。すると七時三十二分に到着する電車があります。切符をあなたと姉妹のために買いなさい。すると手元に六ペンス残ります。電車の客室に、看護婦の服を着た女性が座っています。その女性の反対側に座っている男性が、あなたの必要なお金をすべて持っています。」彼女は切符を買い、手元に六ペンスだけ残りました。最初の言葉は当たりました。次に、七時三十二分ちょうどに電車が来ました。しかし、その次のことが起きませんでした。電車が動き出す前に、二人は先頭から後ろまですべての車両を走り回って調べましたが、彼女たちに示された人は見つかりませんでした。その電車が動き出すとすぐに、同じ声が来て言いました。「プラットホームの反対側です。」その晩中、九時半までこの二人の若い女性はプラットホームからプラットホームへと走らされました。九時半になるとすぐに、この同じ悪しき力が言いました。「あなたたちが私に従順であることが今分かりました。ですから、あなたたちを最も偉大な宣教師にしましょう。」いつも何か大げさなことを言ってきます! これが全くの茶番だということを彼女たちは知ることができたかもしれません。この悪しき力が言いました。「この男性が、あなたたちをグラスゴーのある街角のある銀行に連れて行きます。そこで、あなたたちのために必要なすべてのお金を引き出してくれるでしょう。」グラスゴーでは銀行はそんな夜更けに開いていません。この悪霊が言っていた町の通りに彼女が行っていたら、おそらくそこに銀行はなかったことでしょう。彼女たちに必要だったのは、少しの常識でした。それがあれば、主からの啓示ではないと見分けることができたでしょう。この種の声に心を開くなら、あなたはすぐに罠にかかります。私たちが常に覚えておかなくてはいけないことは、世の中には多くの悪霊がいるということです。
この二人は解放されたのでしょうか。解放されました。神と共におそろしく労苦した挙句、二人は完全に解放されました。彼女たちの目が開かれて、このことが神からのものではなく、悪魔からのものであると悟りました。この二人の姉妹は現在、中国で主のために労していて、主のための働きが祝福されています。このような過ちに陥ることがあっても、逃れの道があるので、神をほめたたえます。あらゆる誇りが私たちから離れるまで、主は私たちを砕かれます。この点で私は神をほめたたえます。私たちが持ちうる最悪の誇りは、自分を高く引き上げる高慢です。
パウロは主の命令としてこう書きました。「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」(第一コリント一四・二九〜三一)あなたの預言が吟味されることに対して我慢ならないと感じるほど謙虚さに欠けていたら、あなた自身が間違っていると言っていいくらいに、その態度は間違いです。預言は吟味されなければなりません。パウロが提案したこの集まりのような集会は、あなたが体験し得る最高の集会に違いありません。神をほめたたえるべきことに、このことに関して潮が満ちてくるでしょう。教会がただイエスさまの栄光だけをたたえるという偉大な考えに浸されて見えなくなる時に、完全な秩序が訪れることでしょう。それから物事は価値あるものへと変えられます。
預言と対になって持つべき御霊の実は、善意です。むかしの日に預言を語った人々は、聖霊に促されていたので、聖なる善意の人々でした。今日でも同じように、信頼できる預言者は善意に満ちた人です。その善意とは、御霊の実です。けれども、その人がその位置から外れて自分自身の腕により頼むなら、高ぶりに陥って敵の道具となる危険にさらされます。私は、素晴らしい牧場と、多くの家畜と、良い隣人に恵まれた、ある人たちを知っていました。彼らは、何もかもを売ってアフリカに行くようにという声を聞きました。その声があまりにもやかましくしつこいので、彼らはそれらを売り出す時間もほとんど持てませんでした。彼らは財産をばかげているほどの安値で売りました。同じ声が彼らに、ある船に乗るようにと言いました。彼らが港に着くと、その名前の船がありませんでした。難しいのは、彼らをこの偽りの声を信じないようにさせることです。別の船を与えることがきっと主のみこころなのだろう、と彼らは言いました。すぐにその声が別の船の名前を伝えました。彼らがアフリカに到着した時、そこで話されている言語をまったく知りませんでした。しかし、その声は彼らを止めませんでした。彼らは引き返さなければなりませんでした。打ちひしがれて、かき回されて、すべてにおいて完全に自信を失いました。この人々がもしも御霊に満たされた神の人のところに行ったほうがよいと感じて、助言を求めていたら、これらの声が神からのものではないことをすぐに確信したでしょう。しかし、このような声を聞くと、人は自分が他の兄弟よりもすぐれているのではないかという霊的高慢がいつももたらされます。そして、他の人の助言を聞かなくなります。他の人は自分たちほどに御霊に満たされてはいない、と考えるからです。もしもあなたが何か声を聞いて、そのことによって、教会を牧するために神が教会に置かれた人よりも自分のほうがすぐれていると考えるようになるとしたら、気をつけて下さい。それは確実に悪魔からの声です。
黙示録には「イエスのあかしは預言の霊」(黙一九・一〇)とあります。本物の預言のことばは必ず、神の小羊を高くほめたたえるものだということが分かるでしょう。
預言の霊に触れられても、その中に炎があるのでなければ、その霊は良いものから来ているのではありません。炎が燃えない限り、私は神に用いられることを決して期待しません。私が何かを一言でも話すなら、それは御霊によるものでなければならない、と私は感じています。同時に、預言する者は信仰の量りに応じて預言すべきだということを覚えて下さい。もしあなたが自分の弱さのなかにあっても、神をほめたたえたいと願って愛のなかに立ち上がって、行動を起こすなら、主の臨在があなたの上にあることを見いだすでしょう。信仰によって行動して下さい。主はあなたに会って下さいます。
私たちが聖霊のうちにあるので、神が私たちを通して奇跡や預言などの働きをして下さるという、栄えに満ちた信仰の事実に、神が日々私たちを導き入れて下さいますように。そこに入れば、生きているのはもはや私たちではなく、私たちを通して働いておられる神であることを知って、神ご自身の善の喜びのうちにあるものが現されるでしょう。