スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(十五) 知恵のことば

この終わりの日にあって、神は私たちに多くのものを与えておられます。多くが与えられる者には多くが求められます。主は私たちに言われました。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ五・一三)同じ意味のことが、私たちの主イエスさまが言われた別のことばでも見ることができます。「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ一四・六)一方で、こうも言われてます。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ一四・七)私たちがこの時代を主と共に生きず、啓示された真理の光のなかを歩まないならば、私たちは塩けのない塩、枯れた枝になります。私たちはただ一つのことに励むべきです。すなわち、うしろのものを忘れ、過去の失敗や過去の栄光を捨てて、前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走ることです。

何年もの間、主は私を導かれ、霊的枯渇にならないように守って下さっています。私がウェスリアン・メソジスト教会にいた頃、私は救いの確信を持っていましたし、何の問題もありませんでした。主が私に「出て行きなさい」と言われたので、私はそこから出ました。ブレズレンという名で知られる人々と一緒にいた頃も、私は何の問題もありませんでした。しかし、主が「出て行きなさい」と言われました。それから私は救世軍に入りました。その頃、そこはいのちに満たされていて、至る所でリバイバルが起きていました。ところが、救世軍は自然の事柄に関心を注ぐようになり、初期に起きていた大きなリバイバルは止みました。主が私に「出て行きなさい」と言われたので、私は出ました。それから私はさらに三度、出て行かなくてはなりませんでした。私たちが今いるペンテコステ派のリバイバルが、今日主が地上で起こされている最高のものだと私は信じていますが、ここからさらにすぐれたものを神が起こしてくださるとも信じています。神と、神の義に対して、まだまだもっと欲しいと飢え渇いている人でなければ、神は役立つものを与えられません。

最高の賜物を熱心に求めるようにと、主は私たちに言われました。私たちは主の栄光を最高に輝かせるものを求める必要があります。私たちはいやしの賜物と奇跡の働きが今日でも効力を発するのを見る必要があります。いやしの賜物には、霊の見分けの賜物が一緒に働くことが必要だと言う人もいます。しかし、見分けの賜物が伴わなかったとしても、私たちが病人に奉仕する際には、聖霊が私たちのために神の啓示を与えて下さると、私は信じてます。ほとんどの人が、霊の見分けの賜物を持っているようです。あるいは、持っていると考えています。でも、彼らが実際に見分けの賜物を十二ヶ月間働かせたとしたら、もう二度と霊の見分けをしたくないと思うでしょう。霊の見分けの賜物は、批判することではありません。私たちペンテコステ派のサークルで今日、何にもまして必要なのは、より完全な愛だと私は確信しています。

完全な愛は、あらゆる場面で上座に着こうとしません。他の人の場所を乗っ取ろうとしません。いつでも自分から下座に着こうとします。大会に行くといつも、メッセージを話そうとする人と、聞こうとする人がいます。大会に行きたいという願いがある時には、三つの問いかけを心に留めてください。私は誰かに聞いてもらいたいと思っているだろうか。私は誰かに見てもらいたいと思っているだろうか。私は金銭的なものを得たいと思っているだろうか。もしも私の心にこのような思いがあるなら、大会に行く資格はありません。主の働きをする私たちを動かすただ一つのものは、私たちの心を縛る神の愛でなければなりません。説教者が金銭に心を奪われると、必ず失敗します。ペンテコステ派の説教者は、宣教のための金銭的な協力を募る時以外には、多くの金銭を集めるのは避けた方が良いのです。けれども、宣教のために多くの献金が集まったのなら、説教者はまったく恐れる必要はありません。主が金銭的な管理をして下さいます。説教者がある場所に赴いた時、神が自分を遣わされたと言うべきではありません。そういうふうに自分を宣伝している人を見ると、私はいつも恐ろしくなります。もし本当にその人が神から遣わされたのであれば、聖徒たちがそのことを知るはずです。神はご自分のしもべのためにご計画を持っておられます。私たちは主のご計画のなかを生きるべきです。私たちを主が望まれる場所に置いていただくようにしなければいけません。神のみこころだけを求めるなら、神はあなたをいつも正しい時に正しい場所に置かれます。いやしの賜物と奇跡の働きは、御霊のご計画の一部です。私たちがそのご計画に沿って働いているなら、それらの賜物が現れるようになることを理解していただきたいと思います。御霊の動きと神の御声を私は知らなくてはいけません。御霊の賜物が働くのを見たいと願うのなら、私は神のみこころを理解しなくてはならないのです。

いやしの賜物には実に多様性があります。十人の人がいれば十人の現れ方があります。病人の寝ている寝室にいる時ほど、私が主にあって幸せを感じることはありません。他のどんな時よりも、私が主の臨在にあって、より多くの啓示を受けるのは、ベッドのそばで病人に奉仕をする時です。主がご自分の臨在を現されるのは、あなたが助けを必要としている人に、深いあわれみをもって心を注ぎ出す時です。あなたは彼らの状態を見定めることができます。それから、あなたの前にある状況を取り扱うために、御霊に満たされなければならないということを、あなたは知るようになります。

病に伏せている人々と話すと、彼らがみことばの理解について混乱があることによく気づきます。とはいえ、彼らは普通、三つの聖句を知っています。一つはパウロの肉体のとげについての聖句。もう一つは、パウロがテモテに胃のために少量のワインを飲むよう勧めている聖句。そしてパウロがある場所で誰かの病気をそのままにしておいたという聖句。彼らはその病人の名前を忘れていて、どこでそれがあったのかも覚えておらず、どの章に書かれていたかも知りません。ほとんどの人は、自分の病気は肉体のとげだと考えています。病気の人に奉仕する際の主な仕事は、彼らの状態を厳密に見定めることです。御霊の力のもとで働きをしているなら、病人にとってより助けになる方法や、信仰によって霊感が与えられた最もふさわしい方法を、主があなたに教えて下さいます。

私が配管工の仕事をしていた頃、病人のために祈るのが楽しみでした。緊急の呼び出しがあると、手を洗う暇もなく、手が真っ黒のままで病人のところに宣べ伝えに行きました。私の心は愛で照らされていました。ああ、祈る時にあなたの心はそんなふうであるべきです。癌のどん底にある人に、神のあわれみによって近づくのです。そうすれば、御霊の賜物が働くのを見るようになるでしょう。

夜の十時に、ある若い女性のために祈って欲しいと呼ばれたことがあります。彼女は医者に見放され、憔悴し切って死ぬばかりでした。見たところ、神が御手を触れて下さらなければ、彼女が生きるのは不可能だと分かりました。私は彼女の母親に向かって言いました。「さあお母さん、もう寝て下さい。」母親は言いました。「ああ、私は三週間も娘に付きっきりで着替えもしていません。」私は娘たちに言いました。「もうあなたたちも寝なさい。」しかし、娘たちも部屋から出て行こうとしませんでした。息子にも同じことを言いましたが、同じ結果でした。私は自分のコートを取って、言いました。「さようなら。帰ります。」彼らは言いました。「ああ、私たちを置いて行かないで下さい。」私は言いました。「ここで私にできることは何もありません。」彼らは言いました。「残っていただけるのでしたら、私たちはベッドに行くことにします。」ただの自然の同情や不信仰があるところには、神は何も変えて下さらないということを、私は知っていました。

彼らはベッドに行き、私は残りました。それからが、私はそのベッドのそばにひざまずいて、死と、悪魔とに顔を付き合わせる時間でした。しかし、神は最も難しい状況を変えることがおできになります。神は全能であるということをあなたに知らせて下さいます。

それから戦いになりました。天が真鍮で閉じられているかのようでした。私は十一時から朝の三時半まで祈りました。病人の顔からかすかに光が見えて、彼女が亡くなったのが分かりました。悪魔が言いました。「もう終わりだな。お前はブラッドフォードからわざわざ来たのに、この子はお前の手の中で死んだ。」私は言いました。「それはありえない。神は私を遣わされて何もなさらないことはない。今こそ勢力が変わる時だ。」私は次のように言われた箇所を覚えています。「いつでも祈るべきであり、失望してはならない。」(ルカ一八・一)死は確かに起こりました。しかし、私の神は全能の方であること、紅海を分けた神は今日でも同じ方であることを私は知っていました。その時、私は「ノー」と言わず、神が「イエス」と言われました。ふと窓に目をやった瞬間、イエスさまの御顔が現れました。主の御顔からは百万もの光線が放たれているように思われました。たった今亡くなったこの女性を主がご覧になると、彼女の顔色に血色が戻りました。彼女は寝返りを打って、すやすやと眠りました。それから私は栄光に満ちた時間を過ごしました。早朝になると、彼女は起きて、部屋着を着て、ピアノのほうに歩きました。ピアノを弾き始め、素晴らしい歌を歌いました。母親も姉妹も兄弟も皆、降りてきて聴きました。主が引き受けて下さいました。奇跡が起こされました。

主はこのような方法で私たちを召されます。私は難しい状況に出会う時こそ神に感謝しています。主がご自分と一つ心になるようにと私たちを召されました。主はご自分の花嫁に、主ご自身と一つ心、一つ霊になるようにと願われています。主ご自身がしたくてたまらないことを、花嫁にしてもらいたいのです。この場合には、(いやしではなく)奇跡でなければなりませんでした。肺はもう死んでおり、ぼろぼろでした。けれども、主が肺を直して、完全に健康な状態にされたのです。

いやしの賜物に伴っているべき御霊の実があります。それは四番目の実である寛容です。いやしの働きで神に用いられて歩んでいる人は、寛容の人でなければなりません。その人はいつでも慰めのことばをかける用意ができているべきです。病人が苦しみのうちに無力になっていて、いやしや信仰に対する見解があなたと一致していないなら、あなたは病人に対して忍耐強くあるべきです。私たちの主イエス・キリストはあわれみに満ちておられ、寛容という実のうちに生きて働かれました。私たちが助けを必要としている人を手助けしようとするなら、私たちもこの実のうちに入らなくてはいけません。

病人のための祈りは、荒々しく見える場合が時々あります。しかし、あなたは人を取り扱っているのではなく、その人の背後にある悪魔的な力を取り扱っているのです。あなたの心はすべての人に対して愛とあわれみに満ちています。しかし、病人のからだに場所を占めている悪魔の働きを見る時に、あなたは聖なる憤りに動かされます。あなたが扱っているのは現実の力を持って働く悪魔の住処です。ある日、ペットの犬が家の外まで飼い主の女性について来ました。彼女の足に絡みつくように走り回ります。彼女は犬に言いました。「ワンちゃん、今日は一緒にお散歩できないの。」犬は尻尾を振って、ワンワンと吠えます。彼女は言いました。「帰りなさい、ワンちゃん。」でも犬は行きません。ついに彼女は荒々しく怒鳴りました。「帰りなさい!」それで犬は帰りました。ある人々は悪魔に対してそんなふうに扱っています。悪魔はあなたが優しい言葉でどれだけ出て行くように言っても、びくともしません。悪魔を追い出して下さい! 人を扱っているのではなく、悪魔を扱っているのです。悪魔の力は、主の御名によって武装が解除されています。病気を、背後に悪魔の力が働いているものとして大胆に扱うのは、いつでも正しいことです。多くの病気の原因は、ある種の背き、すなわち何か間違いがあったり、どこかで行うべきことを行わなかったために、サタンが入り込むチャンスを与えたことにあります。悪魔に場所を与えてしまったことを告白し、悔い改めることは必要です。そうすれば、悪魔を扱うことができます。

癌を取り扱う場合なら、からだを破壊しているのは、生きている悪霊だということを認識して下さい。ロサンゼルスで癌の女性のために祈ったことがあります。悪霊を叱りつけると、すぐに出血が止まりました。癌は死にました。次に起きたことは、自然のからだが癌を排出したことです。自然のからだには、死んだ細胞を取っておく余地などないからです。何万本もの繊維でできた大きなボールのようなものが出てきました。この細胞の塊が肉体に押し込められていたのでした。これらの悪霊どもはからだのシステムをぐいぐいと縛り付けて乗っ取ろうとしてきますが、彼らの働きが打ち壊された瞬間に、その縛りは消え去ります。イエスさまは弟子たちに、解く力と結ぶ力を与えられました。サタンの縄目をほどき、サタンに抑圧された者を自由にすることは、聖霊の力にあって私たちに与えられた特権です。

ヨハネの第一の手紙に立って、こう宣言して下さい。「私のうちにおられる方が、世のうちにいるあの者よりも力がある」。(第一ヨハネ四・四)それから、悪魔の力を扱わなければならないのは、あなた自身ではなく、あなたのうちにおられる偉大な方であると認識して下さい。ああ、その方に満たされるとはいったいどんなことでしょう。あなたはあなた自身では何もすることができませんが、あなたのうちにおられる方が勝利をもたらされます。あなたは御霊の宮となりました。あなたの唇、あなたの心、あなたのすべてを通して、神の御霊が働かれ、成し遂げられるのです。

ノルウェイのある町に呼ばれた時のことです。会場には千五百人が座っていました。私が到着した時には、会場はいっぱいでしたが、なお数百人が入ろうとしていました。警察が数人、動員されていました。私が最初にしたのは、建物の外にいる人々に福音を宣べ伝えることでした。それで私は警察に言いました。「中にいる人よりも外にいる人の方が多いので、私は胸を痛めています。この人たちに福音を宣べ伝えなくてはいけないと感じています。それで、外に私が説教をするための場所を設けていただきたいのですが。」彼らは私のために、大きな公園に大きなスタンドを立ててくれました。それで私は数千人の人々に福音を宣べ伝えることができました。その説教の後で、素晴らしいいやしがいくつか起こりました。ある男性が食べ物を持参して、百マイルも離れたところから来ていました。彼は胃癌に犯されていたので、一ヶ月以上、何も喉を通りませんでした。その集会で彼はいやされました。そして彼は荷物を開けて、すべての人々の前で食べ始めました。また、腕が硬直して動かなくなっている若い女性がいました。子供の頃に、母親が腕を使わせないで、腕の発育を止めたままにしていたので、腕が硬直していました。彼女は大人になりましたが、病弱の霊に抑圧されている女性のようになっていました。彼女が私の前に立って、私がイエスの御名によって病弱の霊を叱りつけました。悪霊は瞬間的に追い出され、腕は自由に動かせるようになりました。それから彼女は自分の腕を曲げたり伸ばしたりして大きく動かしました。集会の終わり間際に、悪魔が二人の人に発作を起こさせて倒しました。悪魔が症状を現す時が、悪魔を扱う好機です。二人とも解放されました。二人は立ち上がって主に感謝し、主をほめたたえました。私たちは何と素晴らしい時間を過ごしたことでしょうか。

私たちは目を覚まして注意し、神を信じる必要があります。神が私をこの場所に至らせることができるようになる前に、私を千回も砕かれました。神が私を砕かれた者とならせるまで、私は幾夜も泣き、うめき、労苦しました。神が人をへりくだらせるまでは、他の人へのこの寛容の実を得ることはできないと、私には思われます。私たちが神から賜った聖なる力にとどまり、神を信じることにとどまり、私たちが今も信じてとどまっているあらゆることを済ませるまでは、いやしの賜物や奇跡の働きが現れるのを見ることは決してできません。

私たちはこの終わりの日にあって素晴らしい奇跡を見てきましたが、それらはこれから私たちが見るもののほんの一部に過ぎません。私たちは素晴らしい賜物のちょうど入り口に立っていると、私は信じています。けれども、私が強調したいのは、これらすべてのものは聖霊の力を通して現れるということです。これらの賜物が熟したさくらんぼのように上から降ってくるものだと考えないで下さい。ある意味では、あなたが何かを得ようとするなら、何であれそのための対価を支払わなければならないのです。神の最高の賜物を熱心に求めなければなりません。そして、主が私たちを整えるために通らせようとするテストに対して、アーメンと言わなくてはなりません。それは、私たちがへりくだり、神が用いるのに適した器となるため、また神ご自身が私たちを通して御霊の力によって働くことがおできになるためです。