スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(十四) 知識のことばと信仰

「ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ」(第一コリント一二・八、九)。

私たちはこれまで、この道を通ったことがありませんでした。サタンは多くのことを企んでいて、今日では以前よりも邪悪になっていると私は信じています。しかし、私はまた、一つひとつのサタンの計略を打ち負かすために、神の力と栄光が地上に完全に現れるようになるとも信じています。

エペソ人への手紙の四章で、私たちは、平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保つように教えられています。というのも、からだは一つ、御霊は一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父なる神は一つだからです。御霊のバプテスマは私たち皆を一つにすることができます。パウロは第一コリント一二・一三で、私たちは皆、一つのからだとなるように、一つのバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたことを教えています。私たちが同じことを話すようになるのは、神のみこころです。私たちが神の御霊の啓示を十分に受ければ、皆が同じものを見るようになります。パウロはこのコリントの人々に「キリストが分けられたのでしょうか」と問いかけました。聖霊が完全に支配されるなら、キリストは分けられません。キリストのからだは分けられません。分裂はありません。分派や分裂は肉の心による産物です。

私たちの真ん中で「知識のことば」の現れがあることが、どれほど大切でしょうか。知識のことばを現すのは、知恵のことばを現す御霊と同じ御霊です。御霊によって、神の神秘に関する啓示が与えられます。私たちが他の人々に、神の御霊によって啓示された事柄を伝えるためには、超自然的な知識のことばを持たなくてはいけません。神の御霊が、キリストをすべてにおいて満ち満ちたさまで知らせる、素晴らしい啓示を与えて下さいます。そして御霊は、聖書の初めから終わりまで、どの箇所からでも私たちにキリストを教えて下さいます。私たちに救いに関する分別を与えるのは、聖書です。また、私たちにすべての神のみこころを啓示してくれて、天の御国の深みを私たちに開くのも、聖書です。

神のことばを読んだり学んだりする人は大勢います。しかし、それらの行為が人々を生かすのではありません。御霊によらなければ、聖書は死んだ手紙です。御霊によらなければ、神のことばは私たちのうちで生きた力強いものになり得ません。キリストが話されたことばは、むなしい死んだことばではなく、霊であり、いのちです。ですから、神の御霊の力を通して、生けることば、真理のことば、神のことば、超自然的な知識のことばが、私たちから発せられることが、神のみこころです。私たちの唇に話すことばを与え、神のすべてのみこころに関する神の啓示を与えて下さるのは、聖霊です。

神の子どもは、みことばに渇きを覚えるべきです。神の子どもが知るべきことは、みことばの他に何もありません。また、イエスさまの他に知るべき方はおられません。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです。私たちがみことばに養われて、みことばに含まれているメッセージを深く思い巡らす時にこそ、神の御霊は私たちが受けたものにいのちを吹き込むことがおできになります。またその時にこそ、神の御霊があの老いた聖人モーセの上を動き、この霊感による書を与えられた時と同じように、力といのちで満たす知識のことばが、私たちの口を通して発せられるのです。みことばはすべて、最初に発せられた時には、神の息が吹き込まれたものでした。そして同じ御霊によって、みことばが私たちから発せられる時にも、いのちを吹き込まれ、生きて力強く働き、両刃の剣よりも鋭いものとなるのです。

御霊の賜物に伴って来るべきものは、御霊の実です。知恵には愛が伴い、知識には喜びが伴い、そして三番目の賜物である信仰には、平安の実が伴うべきです。信仰にはいつも平安が伴います。信仰はいつでも安らいでいます。信仰は不可能に対して笑います。救いは信仰により、恵みのゆえに、神の賜物として与えられるのです。私たちは信仰を通して、神の力により保たれています。神は信仰を与えてくださいました。何者も信仰を取り去ることはできません。信仰によって、私たちは神の素晴らしい事柄へと入る力を得ます。信仰には三種類あります。救いを得させる信仰、これは神からの値なしの賜物です。次に、主イエスさまの信仰。それから、信仰の賜物です。主イエス・キリストがパウロに言われたことばを記憶していただけると思います。使徒の働き二六章で、主がパウロを異邦人のところに遣わすと言われた箇所です。「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって(欽定訳:わたしの中にある信仰によって)、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって、御国を受け継がせるためである。」

ああ、主イエスさまのこの素晴らしい信仰! あなたの信仰は終わりを告げます。私はこれまで数えきれないほど、主に向かって「もう私は自分の持っている信仰を使い果たしました」と申し上げましたが、主がご自身の信仰を私の中に与えて下さるという体験をしました。

私たちの働き人の一人がクリスマスの時に、私に言いました。「ウィグルスワース、私の人生の中で、今ほど財布がすっからかんに近づいたことはありませんでした。」私は答えました。「神に感謝して下さい。あなたは神の宝物倉を開き始めているところです。」私たちは自分自身のものが終わりになる時にこそ、神の豊かな財産の中に入って行くことができます。私たちが何も持たない時にこそ、あらゆるものを持つことができます。

あなたが生きた信仰に立っているなら、主はいつでもあなたに会われます。ある時、アイルランドに滞在中に、私はある家を訪問して、戸口に出た夫人に言いました。「ウォーレス兄弟はいらっしゃいますか。」夫人は答えました。「主人はバンガーに行きました。でも、神が私のためにあなたを遣わして下さったんです。あなたが必要です。どうぞお入り下さい。」夫人の話によると、旦那は長老派教会の執事でした。夫人は長老派教会の教会員でしたが、彼女自身は聖霊のバプテスマを受けました。けれども長老派では、それが神から来たものだと認めませんでした。教会の信徒たちは彼女の旦那に言いました。「こんなことが起こるはずがありません。私たちはもうあなたに執事を続けてもらいたくありませんし、奥さんも教会にいてもらいたくありません。」旦那は非常に憤慨し、妻に激怒しました。あたかも悪霊が彼を捕らえたかのようでした。そして、かつて平和だった家庭が、ひどく荒れました。ついに、彼はお金も残さずに家を出て行きました。夫人は、どうするべきか私に尋ねました。

私たちは祈ることにしました。祈り始めると、五分もしないうちに、夫人は聖霊に満たされました。私は彼女に言いました。「お掛けになって、お話をさせて下さい。こんなふうに御霊に満たされるのは、よくありますか。」夫人は言いました。「はい。聖霊がおられなければ、今、何ができるというのでしょうか。」私は夫人に話しました。「状況はあなたのものです。神のことばによれば、あなたは旦那をきよめる力を持っています。大胆に神のことばを信じて下さい。今、私たちが最初にしなければならないことは、あなたの旦那が今夜戻って来るように祈ることです。」夫人は「あの人は戻ってきませんよ」と言いました。「私たちが一つの心で同意すれば、それは起こりますよ」と私は言いました。「では同意します」と夫人は言いました。私は夫人に話しました。「旦那が帰って来たら、あらん限りの愛情で、惜しみなく彼を愛して下さい。彼があなたの言うことに耳を貸さなければ、ベッドに行かせてあげて下さい。状況はあなたのものです。神の前にひざまずいて、主に彼の救いを主張して下さい。今日あなたが主の栄光に入っていったように、その栄光に入って下さい。神の御霊があなたを通して祈るなら、神があなたの心にあるあらゆる願いを保証して下さるということが分かるでしょう。」

一ヶ月後、私はこの姉妹と大会で会いました。彼女は事の次第を話してくれました。あの晩、旦那が家に帰って来て、ベッドに行きましたが、彼女は勝利を祈り通して、両手を旦那に置きました。彼女が旦那に手を置いだ瞬間、彼は恵みを求めて叫びました。主が彼を救い、聖霊のバプテスマを授けて下さいました。神の力は私たちのすべての考えにまさります。問題なのは、私たちの有限の狭い考えのせいで、神の力が十分に現されないでいることです。けれども、神に道をゆずるなら、私たちの無限の神が、無限の信仰に応えて成し遂げて下さることには、限界がありません。しかし、あなたがあらゆる神の力を絶えず探求することを怠っては、どこにも達しないでしょう。

ある日、私が十一時に野外集会から帰ってくると、妻が家にいませんでした。「妻はどこへ行ったのだろう。」妻はミッシェルの家に出かけると聞いていました。その日、私はミッシェルに会って、彼が死にそうになっていることを知りました。主が取り扱って下さらなければ、あと一日さえ生き延びることは不可能だと知っていました。

多くの人が、病にあると失望し、彼らのために与えられた主イエス・キリストのいのちを堅く保っていられません。死にかけている女性に私が見舞いに行った時、彼女に言いました。「具合はいかがですか。」彼女は答えました。「私は信仰を持っています。信じています。」私は言いました。「ご存知かと思いますが、あなたが持っているのは信仰ではありません。あなたは死にかけています。それは信仰ではなく、言葉です。」信仰と言葉は違うものです。彼女は悪魔の手に陥っていることが私に分かりました。悪魔が彼女から出て行かない限り、生き延びる可能性はありませんでした。それで私は彼女をしっかりつかんで、大声で言いました。「死の悪魔よ、出て行け! イエスの御名によって退去するよう、私はお前に命ずる。」一分もすると、彼女は勝利のうちに自分の足で立ち上がりました。

ミッシェル兄弟の話に戻りましょう。私は彼の家に急いで向かい、近所まで来ると恐ろしい叫び声が聞こえました。何かが起きたのだと分かりました。階段でミッシェル夫人と出会ったので、「どうしたんですか」と尋ねました。彼女は答えました。「亡くなりました! 亡くなりました!」私は彼女を置いて部屋に入りました。するとすぐにミッシェルが息絶えているのが見えました。私は理解できませんでしたが、とにかく祈り始めました。私の妻はいつも、私が行き過ぎるのを恐れていましたから、私をつかんで言いました。「やめて、お父さん! ミッシェルはもう亡くなったのよ。」私は祈りを続けました。妻は私に叫び続けました。「やめて、お父さん! ミッシェルが亡くなっているが分からないの。」けれども、私は祈り続けました。私は自分自身の信仰をもって、行けるところまで行きました。すると神が私を堅く掴んで下さいました。主イエスさまの信仰が私を捕らえ、堅固な平安が私の心に来ました。私は叫びました。「彼は生きている! 彼は生きている! 彼は生きている!」そして彼は、今日、まだ生きてます。私たちの信仰と、主イエスさまの信仰には違いがあります。主イエスさまの信仰が必要です。私たちは時々、信仰を変えなければならないことがあります。あなたの信仰が、ぐらぐらと揺れる場所に行き着くかもしれません。キリストの信仰は揺らぎません。そのような信仰を持つ時、物事を見えるままに見ることはしなくなり、自然のものが御霊のものに道をゆずり、この世のものが永遠のものに飲み込まれるのを見るようになります。

数年前にカルフォルニアのキャザデロで、キャンプに参加した時のことです。顕著なことが起こりました。まったく耳の聞こえない男性が来ていました。私が彼のために祈ると、神が彼をいやして下さったのが分かりました。それから、試練が来ました。彼は毎回、椅子を講壇の近くまで動かして、私の話が何とかして聞こえるように、ぎりぎりまで近づいて説教を聞いていました。悪魔が言いました。「いやされていないんだよ。」私は宣言しました。「それはもうなされたことだ。」この状態が三週間続きました。それから後に、現れが来て、彼は六十ヤード先の音でもはっきり聞き取れるようになりました。耳が開かれた時、そのことがあまりにも素晴らしいので、集会を止めて皆にそのことを伝えなければいけないと彼は考えました。私は最近、彼とオークランドで会いましたが、完全に耳が聞こえました。私たちが信仰に堅く立って動かされなければ、私たちは自分が信じていることを完全な現れのうちに見るようになります。

人々は私に言います。「あなたは信仰の賜物を持っていませんか。」それは確かに大切な賜物です。しかし、それよりも遥かに大切なのは、私たちがどの瞬間にも神にあって進歩することです。今日神のことばを見るなら、昨日よりも今日のほうが、みことばのリアリティが増しているのを私は感じます。神がそれを増し加えておられるということが、最も気高く喜ばしい真理です。いつでも増し加えられています。この御霊のいのちを生きるなら、死や渇きや不毛はありません。神はいつも私たちを動かして、さらなる高みへと導かれます。私たちが御霊に動かされるなら、私たちの信仰は困難な状況に対して立ち向かいます。

このようにして、信仰の賜物は現されます。困難に出会って、自分自身の信仰ではどうにもならないと分かる場合があります。ある日、サンフランシスコでのことです。車に乗っていると、道端で男の子がひどく苦しみ悶えているのを見かけました。私は「ちょっと外に出して下さい」と言って、その子に駆け寄りました。彼は胃痙攣でうずくまっていました。私はイエスの御名によって彼の胃に手を置きました。男の子は飛び上がって、驚いて私をじっと見つめました。彼は一瞬で自分がよくなったことを知りました。信仰の賜物はあらゆる状況に果敢に立ち向かいます。私たちが御霊のうちにある時にこそ、神の御霊がこの賜物をいつどんな場所にいても働かせて下さいます。

神の御霊がこの信仰の賜物を人のうちで働かせておられる時には、神がこれから何をされるのかを主はその人に知らせます。会堂にいた手の萎えた男と出会ったイエスさまは、その場にいた全員にこれから起こることを見ているようにと注意を引きつけました。信仰の賜物はいつでも、結果を知っています。主はその男に言われました。「手を伸ばしなさい。」主のことばには創造的な力があります。主は憶測や思弁の世界に生きておられるのではありません。主が話されると、何かが起こります。主がはじめにことばを話されると、世界が存在するようになりました。主は今日でも話されるので、これらのことが起こらなくてはならないのです。主は神の御子であり、また私たちに子たる身分を与えられました。主はよみがえりの初穂であり、また私たちを初穂、すなわち主ご自身と同じ種類の実と呼ばれました。

ここで、大事なポイントがあります。賜物は、ただの人間的な願いによって与えられるのではありません。神の御霊がみこころに従っておのおのに分け与えられるのです。神は賜物を持つ人を信頼されるのではなく、低くされて砕かれた、悔い改めた心を持つ人を信頼されます。ある日、私は医者や有名人や牧師がたくさん集まった集会に出ました。神の力が集会に下ったのは、大会の最中でした。テーブルで待機していた一人の慎ましい女の子が、主に自分の心を開くと、すぐに聖霊に満たされて異言を話し始めました。この大きな大人たちは皆、首を伸ばして何が起きているのかを見ようとしました。「誰なんだろう」と言い合いました。それから「召使いだ!」と彼らは言いました。「召使いだ!」と言われた人以外には誰も御霊を受けませんでした。これらの奥義は、賢く分別のある人には隠され遠ざけられています。でも、小さな子どもや、低められた人が、それを受けた人たちでした。他の人から栄誉を受けていると、信仰を持つことができません。神と共に歩む人は、他の人からの栄誉を受け入れません。砕かれて悔い改めた霊を持つ人に、神は栄誉を与えられます。どうやって私はそうなるのでしょうか。あまりにも多くの人が、偉大なことをしたいと願い、そうするのを人から見られたいと願っていますが、神が用いられる人は、偉大なわざを隠そうとする人です。私の主であるイエスさまはみわざを行うことができると宣伝されたことはなく、ただみわざを行いました。ナインという町からやもめとなった母親の息子が、死んでかつぎだされている葬列が進んでいるのに出会って、イエスさまは棺を降ろさせました。主は「起きなさい!」ということばを話され、息子をやもめに返されました。主はやもめにあわれみを抱きました。あわれみから外れると、あなたも私も何もすることができません。私たちが聖霊の力の中に深く沈められて、キリストのあわれみが私たちを通して生きているようにならないと、癌をいやすことは決してできません。

私の主がされたすべてのみわざにおいて、主はご自分からしているのではなく、ご自分のうちにおられる方がそのみわざをしておられる、と主が言われたのに私は気づきました。なんという聖なる服従でしょうか! 主は、神の栄光のための道具にすぎない者となられました。私たちは賜物が授けられるほどに信頼されるところにまで到達したでしょうか。第一コリント一三章には、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら何の値打ちもない、とあります。私の愛が神にあって深められ、私がただ神の栄光のために生きるようになれば、御霊の賜物が現されます。神はご自分を現すことを願っておられます。そして、へりくだった霊に神の栄光を現すことを願っておられます。

弱々しい心には賜物が与えられません。本質的なことが二つあります。第一に、愛。第二に、決心、すなわち神がみことばを実現されるという信仰の大胆さです。私がバプテスマを受けた時、私は素晴らしい時間を過ごして、御霊によって祈りました。ところが、後になると時々、異言が出てこなくなりました。でもある日、私が他の人を助けていると、主が再び御霊によって異言を与えられました。ある日私は道を歩きながら、長い時間、異言で祈っていました。植木屋が何人か仕事をしていて、何が起きているのかを見ようとこちらを振り向きました。私は言いました。「主よ、あなたは私に何か新しいものを与えて下さっています。異言を話す時にはその解き明かしを求めなさい、とあなたは言われました。解き明かしを求めます。解き明かしをいただくまで、ここにとどまります。」そしてその時から、主は私に解き明かしを与えられました。

ある時、私がイギリスのリンカンシャーにいて、監督教会の年老いた牧師と知り合いました。彼は私にいたく関心をもって、私を書斎に案内しました。老練の方がひざまずいて祈る、その祈りの言葉ほど甘いものを、私は聞いたことがありません。彼は祈り始めました。「主よ、私を聖めて下さい。主よ、私を聖別して下さい。」私は叫びました。「目を覚まして下さい! 今、目を覚まして下さい! 起きて椅子にお座り下さい。」彼は座って、私を見ました。私は彼に言いました。「あなたは聖い者とされたのだと思っていました。」彼は「そうだ」と答えました。「それなら、どうして神がもうあなたのためにして下さったことを、もう一度して下さいとお願いするのですか。」彼は笑い出しました。それから、異言を話し始めました。信仰の領域に入りましょう。信仰の領域に生きましょう。そして、神に道をゆずりましょう。