スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(十三) 御霊の賜物について

第一コリント一二・一にこうあります。「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」神の御霊と、御霊の賜物に関してひどく無知であるために、キリストの教会には大きな弱点があります。主の御霊の力と現れに関するみこころを教えて下さる啓示によって、神は私たちをあらゆる点で強めようとされています。神は私たちが神の御霊から与えられるものをますます多く受け取りたいと願うように、絶えず飢え渇きを与えられます。過去に私は多くの集会を持ちましたが、それで分かったことは、私の講壇に来てくれる方々の中で、まだバプテスマを受けていなくて、神がその人のために用意されているあらゆるものに飢え渇いている人のほうが、バプテスマを受けて満足し、落ち着き払って流れがよどんでいる人よりも良いということです。もちろん聖霊のバプテスマを受けた方で、神に対してなおもっと飢え渇いている方が一番好きです。神からもっと受け取ろうと飢え渇いていない方は、どんな集会に出ても実りがありません。

御霊に満たされることの重要性はどれだけ強調しても過大評価できません。聖霊に満たされるまでは、「その日」(訳注:使徒二・一八「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」)の条件を満たすことや、主が光の中におられるように光の中を歩むこと、また、国々を征服し、正しいことを行い、サタンの力を縛ることはできないでしょう。

聖書を読むと、初期の教会で人々は、使徒たちの教えと交わりにも、パンを裂くことにも、祈りにも、堅く立って動かされずに続けていたことが分かります。これらの同じ事柄について、私たちも堅く立って動かされずに続けることが大切です。数年間、私はプリマスの兄弟たちと関わりを持っていました。彼らはみことばに立って強められていました。水のバプテスマについてしっかりした考えを持っていて、また、パンを裂く儀式を疎かにせず、毎週主の日の朝に初期の教会と同じように聖餐式を守っていました。この人々にはマッチ以外のあらゆるものが揃っているようでした。薪はありましたが、必要なのは火です。火がつけば、彼らはみな燃え上がります。聖霊の火が欠けていたので、彼らの集会には生命力がありませんでした。彼らの集会に出ていた一人の若者が、御霊のバプテスマを受けて、御霊の話させて下さる通りに異言を話し始めました。兄弟たちはこのことで非常に怒って、彼の父親のところに行って言いました。「息子さんをご自分の横に連れて来て、やめるように言ってください。」彼らは集会を邪魔されたくありませんでした。父親は息子に言いました。「息子よ、私はこの教会に二十年間通っているが、こんなことは今まで見たことがない。私たちは真理に建て上げられているのだから、新しいことを求めていない。私たちはそういうことをやらないのだよ。」息子は答えました。「神の計画なら私は従います。でも、黙っていることが神の計画だとはどうしても思えません。」彼らが家に帰ろうとすると、馬が静かに立っていました。車輪が深い轍にはまっていたのです。父親が手綱を引いても馬は動きませんでした。父親は尋ねました。「何が起きたんだと思う。」息子は答えました。「堅く建て上げられたんですよ。」神は私たちを動かない静かな状態から救い出して下さいました。

神は私たちが御霊の賜物に関することを理解するようにされ、最高の賜物を熱心に求めるように変えて下さいます。また、御霊の実へのさらにすぐれた道へと入らせて下さいます。私たちはこれらの賜物を神に嘆願しなくてはいけません。バプテスマを受けても平然として動かずにいるのは深刻な事態です。同じ霊的な平面に二日続けてとどまっているのは悲劇です。神の真理の啓示を受けるため、また御霊の満たしを受けるためには、私たち自身のあらゆるものを自ら進んで否定しなければなりません。そうすることによってのみ、神は喜ばれますし、他の何ものも私たちを満足させません。ある若いロシア人の青年が聖霊を受けて、いと高きところから力を着せられました。姉妹たちの中には彼の力の秘密を熱心に知りたがる人もいました。彼の力の秘密は、神を待ち望み続けることでした。聖霊が彼を満たすと、まるで一呼吸一呼吸が祈りになったようで、彼のすべての働きはあらゆる点で大きく祝福されました。

私の知っている聖霊に満たされた説教者で、神の力に力強く油注がれていると自分で認識した時にしか説教をしない人がいます。彼はメソジスト派の教会に呼ばれて説教を頼まれました。彼は牧師館に滞在していて、牧師に言いました。「先に教会に行っていて下さい。後で私も行きますから。」礼拝堂は人でいっぱいでした。でも彼は現れず、心配になった牧師が小さい娘を送って、彼がどうして来ないのかを調べに行かせました。娘が寝室のドアの前に来ると、彼が「私は行かないよ!」と三度も叫ぶのが聞こえました。娘は戻って、行かないよと三度も彼が言うのを聞いたと伝えました。牧師はそれで困ってしまいました。ところが、このすぐ後に彼はやって来ました。彼がその晩、説教をすると、神の力が非常な勢いで現れました。牧師は言いました。「どうして私の娘に、行かないとおっしゃったんですか。」彼は答えました。「私は自分がいつ満たされるのかを知っています。私は平凡な人間ですから、主が御霊の新鮮な満たしを与えて下さるまでは、行く勇気はないし行きたくないと、主に申し上げたのです。栄光が私を満たして溢れ出した瞬間に、私は集会に来ました。」

そうです。聖霊の臨在の中には、力も祝福も平安も休息もあります。あなたは主の臨在を感じることができ、主が共におられることを知るようになります。主の臨在に関するこの内なる知識なしでは、あなたは一時間でさえ過ごす必要がありません。主の力があなたの上にあれば、失敗や挫折はありません。いついかなる時でも基準の上にいることになります。

「ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像でした。」(第一コリント一二・二)今は異邦人の日です。ユダヤ人が神の祝福を拒否した時に、神は彼らを散らされ、ユダヤ人の枝が折られたオリーブの木に異邦人がつぎ合わされました。神がご自分の民でなかった者にそれほどまでに愛情を持たれた時はこれまで一度もありませんでした。神が異邦人を招き入れられたのは、すべての国に福音を宣べ伝えるという主の目的を行わせるため、また、聖霊の力を受けさせてその働きを成し遂げるためです。神が私たち異邦人を顧みて、ユダヤ人に属するすべての祝福の参与者へとして下さったのは、神の恵みによることです。この栄光の天蓋の下、この場所で、私たちは信じているゆえに、信仰の人アブラハムのすべての祝福を受け継ぐのです。

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(第一コリント一二・三)この終わりの日にあっては、多くの悪しき惑わしの霊が送られていて、イエスさまが主であることを信じさせないようにしたり、その正当な座から引き降ろそうと努力しています。多くの人が、新神学や新思考やクリスチャンサイエンスといった、この新しい悪魔に対して扉を開いてしまっています。この悪しきカルトは神のことばの根本的な真理を否定しています。彼らは皆、永遠の刑罰を否定し、イエス・キリストの神性を否定します。これらの間違いを受け入れている人には聖霊のバプテスマが下ることは決してないでしょう。ローマカトリックの人も聖霊を受けません。彼らはマリアを聖霊の位置に置いているからです。自分が救われたと知っているカトリック信徒がいれば、そういう人を連れて来ていただきたいと思います。誰も行いによって自分が救われたことを知る人はありません。カトリック信徒に話しかけてみれば、新生という点がはっきりしていないことが分かるでしょう。はっきりしているはずがないのです。もう一つ、エホバの証人も聖霊のバプテスマを受けることがありません。主イエス・キリストをすべてのものの上に高く置くことをしない他のあらゆるカルトの信奉者もそうです。

何よりも大切なことは、イエスさまを主とすることです。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせて下さったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ一〇・九)「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ一四・九)

癒しに関する真理を強調することで、偏った信仰に陥ることはあり得ます。水のバプテスマを四六時中宣べ伝えることで、間違うこともありえます。しかし、主イエス・キリストを高く上げることで間違うことはあり得ません。イエスさまをすべてにまさる場所に置き、主として、またキリストとしてほめたたえ、そして、まさしく神の神としてほめたたえることによって、間違うことはあり得ないのです。私たちは聖霊に満たされているので、私たちの唯一の願いは主をほめたたえることです。私たちが聖霊に満たされる必要があるのは、主イエス・キリストについての完全な啓示を得るためです。

私たちのための神の命令は、聖霊に満たされることです。私たちがもしも、いっぱいになったコップを持っているだけなら、無益です。いつでも溢れ出るコップを持つ必要があります。満ち満ちて溢れ流れるいのちに生きないことは悲劇です。溢れ流れる大波がある時に、その下にいることは決してできないということを知ってください。

「さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。」(第一コリント一二・四)おのおのの御霊の現れが与えられるのは、「みなの益となるため」(第一コリント一二・七)です。聖霊が会衆の中を動かれ、御霊の賜物が働く時、一人ひとりが益となるものを受け取ります。私は、恐ろしくちぐはぐになっている人たちと会ったことがあります。彼らは賜物を信じ、預言を信じていましたが、聖霊の力から離れてこの賜物を使っていました。私たちは聖霊に目を向けなくてはいけません。聖霊の力を抜かして賜物を使うことのないように、何のために賜物があるか、いつ賜物を使うかなど、賜物の使い方を、聖霊から教えられなくてはいけません。今日、人々が賜物を御霊の力なしで使うことほどの恐ろしいことは、私は他に知りません。決してそんなことはなさらないで下さい。神は私たちをそのようなことから救われます。

御霊の賜物を自分が持っているかどうかを知らない人でも、御霊に満たされれば、その人を通して御霊の賜物が現れることがあります。私はさまざまな場所に手伝いに行きましたが、聖霊の油注ぎのもとでは、主の栄光が人々の上にある最中に、多くの素晴らしいことが起こったのを見てきました。神に満たされ、聖霊に満たされた人なら誰にでも、賜物を自分が持っていることをたとえ知らなくても、どの瞬間にも御霊の九つの賜物がその人を通して現れるかもしれません。いつも聖霊に満たされている人が、賜物を持っているという自覚の無いままで、しるしと不思議と奇跡が起こるのを見る方が良いのか、あるいは賜物を持っている自覚があった方が良いのか、私は時々どっちが良いのだろうと考えます。もしあなたが御霊の賜物を受けて、それらが祝福されたものであるなら、どんな状況にあっても神の力があなたの上からその賜物を通して現れるのでなければ、賜物を使うべきではありません。聖なる御手に触れられることなく預言の賜物を使っていた人たちがいましたが、彼ら自然の領域に入って、台無しにしてしまいました。不満をもたらし、心を傷つけ、集会に集まった人を混乱させました。聖霊の中にとどまるという目的を持っていない限りは、賜物を求めないで下さい。聖霊の力にあってのみ、賜物は現されるべきです。

主はあなたが主の臨在にあっては御霊に酔いしれているようになるのを許可されますが、人々の中にあっては正気でいるようにされます。人々が御霊に満たされて、ペンテコステの日の百二十人の弟子たちみたいに酔ったようになっているのを見るのは私は好きですが、不適切な場所で酔ったようになるのを見るのは好きではありません。そのことが私たちにとって問題になっています。つまり、そのみことばについて何も知らない人々が多く集まっている場所で、御霊に酔った状態になる人がいます。そこで酔ったようになるのを自分に許可するなら、人々は離れて行きます。人々は神を見る代わりにその人を見るからです。その人が正しい時に正気でいなかったので、人々はそれを罪だと考えます。「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。」(第二コリント五・一三)気が狂うことはあり得ます。御霊に酔ったようになるよりも、もう少し先にも行けます。ふさわしい時には、もしそうしたければ、踊っても良いでしょう。人々がみな御霊に満たされている時には、実にたくさんのことが賞賛に値します。けれども、あなたの周りにいる人々が御霊に満たされていなければ、たくさんのことが愚かな行為になります。他の人に迷惑をかけてまで、自分が良い時間を過ごそうとすることのないように気をつけなければいけません。あなたが御霊にあって良い時間を過ごす時には、まずその場所の霊的な状態がふさわしいかどうかを確かめて、人々があなたと同じように御霊に満たされつつあることを見てからにしなくてはいけません。そうしたら、御霊に酔うことはいつでも祝福となります。

最高の賜物を熱心に求めることは正しいのですが、最も大切なことは聖霊ご自身の力に満たされることであると認識しておかなくてはいけません。聖霊の力に満たされている人々と一緒にいて問題が起きることはありませんが、賜物を持っているのに聖霊の力が伴っていない人々と一緒にいると、多くの問題を抱えることになります。主は私たちがどんな賜物にも欠けるところのないことを望まれますが、同時に、賜物を通して聖霊ご自身が現れるようになるために、聖霊に満たされることも望んでおられます。ただ神の栄光だけが現れるようにと願われているところでは、おのおの必要な賜物が現されるのを期待できます。神の栄光をたたえることのほうが、賜物を偶像視するよりもずっと良いです。私たちはどんな賜物よりも神の御霊のほうが好きです。しかし私たちは三位一体の神の現れを期待できます。「賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」(第一コリント一二・四〜六)三位一体の神が満ち満ちたさまで、ご自身を私たち会衆に現されるとは一体どういうことなのか、お考えになったことはありますか。

蒸気で満たされたあの大きな機関車のボイラーをご覧下さい。エンジンが静かにしていても、蒸気が漏れ出ているのが見えます。全体が今にも破裂しそうな状態になっているように見えます。聖人とはそのような者です。彼らは叫び声を上げますが、それは徳を高めるためのものではありません。しかし、蒸気機関車が動き始めると、それが造られた目的の通りに動き、そのエンジンで重い車両を牽引します。聖霊に満たされるのは素晴らしいことです。また、聖霊が私たちを通してご自身の目的に仕えられるのは素晴らしいことです。私たちの唇を通して神の話されることばが流れ出て、私たちの心は喜び、私たちの舌は楽しみます。外側に表現される現れは、内側にある力によります。イエス・キリストはほむべきかな。主にある信仰が生きたものとなる時、あなたの内側で生ける水が川となって流れ出ます。聖霊はあなたを通していのちの大河のようにご自分を注ぎ、数千人の人々が祝福されます。それは、あなたが自分を明け渡して、聖霊の流れ出る水路となっているからです。

最も大切なこと、たった一つの大切なことは、私たちが聖霊に満たされて、溢れるまでに満たされるのを見ることです。このことに達しないままでは、神は喜ばれません。神に与えられた命令は、聖霊に満たされることです。このことを損なっている限りは、人は神の計画から遠く離れています。主は私たちを信仰から信仰へと、栄光から栄光へと、満たされることから溢れ出すことへと進ませて下さいます。いつも過去形で信仰を考えているのは良くありません。そうではなく、私たちは大胆に神を今信じる場所へと進むべきです。神が宣言されたのは、聖霊が私たちの上に下った後に、私たちは力を受けるようになるということです。私たちが幻を捕えさえすれば、雪崩のような力が神から来るのを感じることができると私は信じています。

パウロはある時にこう書いています。「私は主の幻と啓示のことを話しましょう。」(第二コリント一二・一)神の最新の啓示を私たちが持つことを神が期待する場所へと、私たちは神に導かれてやって来ました。その啓示とは、私たちの中にキリストがおられるという驚嘆すべき事実と、その本当の意味です。キリストを余すことなく理解できるようになるためには、ただ神の御霊に満たされて溢れ出すことだけが必要です。何の収穫ももたらさない自然の生まれながらの心へと、落ちこぼれて戻ってしまわないための唯一の防御方法は、神の御霊に満たされ、また何度も満たされ続けること、そして、幻と啓示へと新しく導かれることです。私が聖霊に満たされることの重要性を強調する理由は、皆さんにあらゆる人間的な計画や考えを超えて、主イエス・キリストの満ち満ちた幻と、満ち満ちた啓示とに入っていただきたいからです。休息を求めておられますか。休息はイエスさまの中にあります。この終わりの日に悪魔がもたらしたあらゆるものから救われたいと願っておられますか。聖霊の満たしを受け取り、そして受け取り続けて下さい。そうすれば、あなたが必要とするいっさいのものは、どんな時でもあなたの主であるキリスト・イエスの中にあるのだということを、いつも御霊があなたに啓示されることでしょう。

私は、御霊の働きと、おのおのの益となるために与えられている御霊の現れとの重要性を強調したいと願っています。あなたが主の御霊に委ねるなら、御霊はあなたの知性も超え、心も超え、声も超えた力を持っておられます。聖霊はキリストを知るために覆いを取り去って、あなたの心のキャンバスにキリストの幻を映し出す力を持っておられます。それから、御霊の力を離れては決してなし得ない方法で、聖霊はあなたの舌が主を賛美し、ほめたたえるようにして下さいます。

yあなたが聖霊に満たされている時には、あれやこれやを「する義務がある」とは決して言わないで下さい。人々があれやこれやを「する義務がある」という時、それは神の御霊ではなくて、自分自身の霊がそうさせようとしています。そして、自分たちの霊がそうさせようと促すのは、その場にふさわしくないことや無益なことです。多くの人が集会中に叫ぶために、集会が乱されることがあります。もしそういうことをしたいのであれば、地下室にでも行った方がましです。集会中に叫ぶのは、徳を高めるためになりません。御霊が人の上に臨んで、御霊が話させて下さる通りに舌を動かす時、いつも徳を高めるためになるはずだと私は信じています。しかし、止めるべき時に続けてしまうことで、祈りの集会を乱すようなことはしないで下さい。誰が集会を乱すのでしょうか。御霊で始めて肉で終わる人です。祈りよりも素敵なことはありませんが、神の御霊があなたを通して働いているにもかかわらず、自分自身の霊で祈り続けてしまうなら、祈りの集会は台無しになります。集会から帰ってきた時に、こういう感想を持ったことがあるかもしれません。「説教者があと一時間半早く切り上げてくれたら、素晴らしいメッセージになったのに。」御霊が与えて下さる油注ぎを、即座に止めることを学んで下さい。聖霊はねたむ方です。あなたのからだは神殿であり、聖霊のオフィスです。でも、聖霊はその神殿を人間の栄光で満たすことはなさいません。ただ神の栄光で満たされます。あなたには、「主はこう仰せられる」ことを超えて続ける資格はありません。

このことに関して、別の側面があります。集まった人々に神が願われているのは、できるだけ自由であることです。ですから、御霊の働きがあるところに手を挟んではいけません。御霊の流れを止めると、確かに問題が起きます。バプテスマを受けたばかりの若くて新しいたましいが、ある程度の行き過ぎた言動をしても、それを許容する心構えが必要です。今あなたはいくらか落ち着いているにしても、御霊によるこの新しいいのちへとあなたが導き入れられた時には、他の人と同じようにあなたにも行き過ぎた言動があったことを覚えていて下さい。落ち着き払っているのはむしろ気の毒な状態です。というのも、最初に生かされた頃の状態ではなくなっているからです。集会で主が現れて下さっている最中に、御霊を妨害したり水を差したりしないように、また神の力を消さないように、私たちは神に知恵を求めなくてはいけません。集まった人々がいのちに満たされるためには、集まった人々の間で主の現れが満ちていなくてはいけません。現れのないところには誰も来ないでしょう。私たちが自然の観点から物事を見るという習慣に戻ってしまわないために、私たちは神に特別な恵みを求める必要があります。

説教者が油注ぎを失ったら、内心で悔い改めて神の前に自分を正すことで、油注ぎを取り戻すべきです。神の御霊の油注ぎがなくては、何もうまくいきません。神の恵みに満たされている人は、集まった人のうち誰をも裁くことがなく、むしろ一人ひとりを信頼し、そこで行われていることに対して恐れを抱くことがなく、あらゆることを信じる心を持ちます。そして、いくらかの行き過ぎた言動が見られても、神の御霊がそれらをコントロールして下さるので、主イエス・キリストご自身が高められ、栄光をお受けになり、主を知りたいと切望する飢えた心にはご自分を啓示されるのを見るだろうと信じます。主は私たちを、善にはさとく、悪にはうとく、疑いからは自由になって、イエスさまに似た者となるように変えて下さいます。そうして、神の全能の力が確かにあらゆるものを見通しているのだと、私たちは大胆に信じるようになります。ハレルヤ!

聖霊は主イエス・キリストをほめたたえる方、主を教えて下さる方です。あなたが聖霊に満たされるなら、唇を閉ざしたままでいることは不可能でしょう。御霊のバプテスマを受けたのに黙ったままでいるたましいがいるというなら、そういう人について話してみて下さい! 聖書の中でも外でも、そういう人は見つかりません。私たちが御霊に満たされるのは、主をほめたたえるためです。聖徒たちが御霊と真理をもって主に栄光をささげ、主をほめたたえ、賛美し、礼拝することのない集会は、開くべきではありません。

一つの注意のことばを与えたいと思います。というのも、私たちがいつもからだの中にいるという事実を認識していないために、失敗が起こることがよくあるからです。私たちが生きている限り、私たちはからだを必要としています。しかし、私たちのからだは、神の御霊によってコントロールされ、使われるべきです。私たちのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげましょう。それこそ、私たちの霊的な礼拝です。私たちのからだの諸部分は、御霊と調和して働くために十分にきよめられていなければいけません。私たちのこの目はきよめられているべきです。神は目くばせすること憎まれます。神が目くばせについて仰っていること(箴言六・一三、一〇・一〇)を読んだ日以来、私は目くばせをしません。私は自分の目をきよく保って、いつも主のために使われるようにしたいと切望しています。神の御霊は、私たちのこの目の中に、人々のたましいへのあわれみを入れて下さるでしょう。

最初に自然のものが来て、次に霊的なものが来るという物事の順序があります。神はこの順序を決して変えられません。たとえば、あなたが心の中で祈る時に、最初の一言は自然から始めますが、次のことばはおそらく御霊の力のもとで思い浮かぶでしょう。あなたが始めて、神が終わらせられます。御霊の力のもとで口でことばを発する場合も同じです。自分の内側で御霊が動いておられるのを感じて、あなたが話し始め、そして神の御霊が続けてことばを発するように助けて下さいます。多くの人が素晴らしい祝福を逃してしまうのは、彼らが信仰をもって動き、自然の領域で始めるということをしないからです。主が超自然の領域へと導いて下さるという信仰に立って、自然の領域で始める必要があります。聖霊を受けるとは、神の賜物を受けることです。聖霊の中にすべての御霊の賜物があります。パウロはテモテに、彼の中にある神の賜物を燃え立たせるように助言しています。あなたの中にある神の賜物を燃え立たせる力が、あなたにはあります。内なる賜物を燃え立たせる方法は、信仰によって始めることです。そうすれば、神が機会にかなって必要なものを与えて下さいます。あなたは神に満たされるまでは、始めの一歩を踏み出すことはなかったでしょう。私たちが臆病や恐れに自分を明け渡す時、単純にサタンに明け渡しているのです。サタンはささやきます。「それは全部自分の思いだ。」彼は嘘つきです。私が学んだのは、神の御霊が私を燃え立たせて下さるなら、異言を語り始めるのに何の躊躇もなくなり、神の御霊が私に話すことばとその解き明かしを与えて下さるということです。私がこのように主に委ねていく時はいつでも、神の御手が私に触れて、神の御霊に導かれた考えを得るので、集会が信仰を建て上げるものとして導かれるということを、私は学びました。

集会に出席する時には、そこで主が自分に会って下さると信じて、信仰をもって参加するものでしょう。ところが、もしかしたら宣教師が神と調和していない場合があるかもしれません。集まった人々は神の与えようとするものを得ることができません。主はそのことを知っておられます。主はご自分の人々が飢えているのを知っておられます。すると、何が起こるでしょうか。ある時には主は一番小さな器を使って、御力をその人たちの上に置かれるかもしれません。彼らが御霊に委ねると、異言によって打ち破りが起きます。別の人が御霊に委ねると、異言の解き明かしが来ます。主の教会は牧されなければなりませんから、主はご自分の人々にこのような方法でことばを話させます。ペンテコステ派の人々は自然のメッセージで満足できません。彼らは天にあるものに触れており、それ以下のものでは満足できないのです。彼らは集会で何かが不足していると感じると、神を見上げます。すると主が不足しているものを補って下さるのです。

御霊に満たされる人は、自分が何を持っているかを理解していません。私たちが何を受けたのかについての私たちの理解は、非常に限られたものでしかありません。私たちが与えられた力を知るための唯一の方法は、神の御霊の働きと現れを通して理解することです。ペテロとヨハネが宮に祈りに行った時、自分たちが何を持っているかを二人が知っていたと思いますか。二人は限られた考えと、限られた表現しか持っていませんでした。私たちが神に近づけば近づくほど、人間の貧しさに思いを馳せるようになります。そして、イザヤのように「私はもうだめだ。私は汚れた者だ」と叫ぶようになります。けれども、主は尊い血と燃えさかる炭で、私たちをきよめ、精錬し、遣わして、御霊に強められて主の働きができるようにして下さいます。

神がこの御霊の注ぎを送ってくださったのは、私たちが皆、子とされているという啓示に導き入れられるためです。つまり、私たちは神の子どもとされ、力ある人とされているということです。すなわち、私たちは主イエス・キリストに似せられていくということ、神の子としての力を持っているということ、弱い者をしっかりとつかんで救い出す力を持っているということです。私たちは人間の限界を思い知らされることになりますが、私たちの内に来られた聖なる方には限界がないということを知るでしょう。聖霊が私たちの上に臨まれて以来、私たちは実際に力ある神の子どもとされていることを信じなければなりません。できない、と決して言わないでください。信じる者にはどんなことでもできるのです。深みに漕ぎ出して下さい。そして、神がご自分の持てるすべてをあなたのために差し出しておられるということと、あなたはあなたを強めて下さる方によってどんなことでもできるのだということを、信じて下さい。

ペテロとヨハネは、彼らが屋上の間にいたということを知っていました。彼らは栄光が来るのを感じ取り、神から話させて下さることばを授かりました。彼らは人々の上にある罪を見ていました。彼らは素晴らしいものの中に入っていることを知っていました。彼らが持っているものはいつまでも増し加えられ、「聖霊がもっと内側に働かれる領域ができるように、器を大きくして下さい」といつまでも呼び求める必要のあるものだと彼らは知っていました。古いものは過ぎ去って、いつまでも増し加えられる神の知識へと入ったことを知っていました。神の御霊と力に毎日、毎時間、満たされることが彼らの主の願いであることを知っていました。力の秘密は、キリストの黙示、内におられる全き力強い方、私たちの内に住まわれた神の啓示です。彼らが美しの門で足のなえた男を見た時、彼らはあわれみで満たされました。御霊に促されて立ち止まり、彼に話しかけました。彼らはその男に言いました。「私たちを見なさい。」その男が期待感をもって目を見開くことは、神の計画でした。ペテロは言いました。「金銀は私たちにはない。しかし、私たちにあるものを上げよう。それが何であるかを私たちは知らないが、それをあなたに上げよう。そのすべてはイエス・キリストの名の中にある。」するとそこで、神の働きが始まりました。あなたが信仰によって始めるなら、これから起こることを見るのです。それは始めは私たちに隠されていますが、神に信仰を持つなら、神はそれを顕現させて下さいます。力が顕現するのは、私たちによるのではなく、神によることです。神がなさることに限りはありません。あなたが神を信じるなら、あらゆるものがクルミの殻から飛び出します。それでペテロは言いました。「私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」そして四十年も歩けずにいた男が立ち上がりました。彼は踊り上がってまっすぐに立ち、歩いたり、跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行きました。

「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ」(第一コリント一二・八)。御霊の賜物を、御霊の力を無視して期待してはいけないということの重要性をよく心にとめていただきたいと思います。最高の賜物を求めるに当たっては、神と主の栄光に十分に満たされて、賜物の現れがいつも神の栄光を現すものとなることを熱心に求めて下さい。私たちはすべてを知っているわけではありませんし、すべてを知ることは不可能ですが、知恵のことばの現れによって知ることが可能になります。神からの一つの知恵のことば、神のことばにある一筋の光があれば、私たちを千の落とし穴から救い出すのに十分です。神からのことばを抜きにして建て上げた人々、神からのことばを抜きにして事を運んだ人々は、困難に陥れられました。彼らに不足していたのは、自分たちの人生を神の計画へと導き入れてくれる知恵のことばです。私は、神からの知恵のことばが必要となる場面に何度も遭遇しましたが、知恵のことばをいつもいただいてきました。

例を一つお話しましょう。私が主にとても感謝していることが一つあります。それは、主が私に金銭欲を与えないという恵みを賜ったことです。金銭を愛することは、多くのことに対して非常に大きな障害となります。多くの人が主の働きを駄目にしてしまうのは、金銭的な問題に心を奪われるからです。私がある日、散歩をしていると、私の向かいに住んでいる敬虔な男性と会いました。彼は私に言いました。「妻と私で、私たちの家を売ろうかと話し合ったのですが、あなたにお売りしたいという気持ちに縛られているんですよ。」一緒に歩きながら、彼は家を買ってくれるように私を説得しました。別れ際にはもう、私はその家を買うことにすると彼に言いました。急いで物事を決めると、私たちはいつも大きな失敗をします。約束したことを妻に告げると、妻は言いました。「どうやってお金を工面するの。」私は妻に、今まで何とかなってきたんだから、と言いました。でも、今回はどうすればうまく行くのか分かりませんでした。私は神の秩序から外れていることを何となく分かっていました。しかし、人が神の秩序から外れてしまった時、神のもとに行くのは最後になるようです。私は建築家が助けになってくれるだろうと頼りましたが、そのもくろみはうまく行きませんでした。そこで親戚にお願いして回りましたが、次々に断られて、私は涙でシャツを濡らすことになりました。友人にも頼りましたが、どうにもなりませんでした。妻が言いました。「あなたはまだ神のところに行っていません。」私に何ができたというのでしょうか。

私は家の中のある場所に行って、祈りました。これまで何度も、そこで祈りました。そこで私は主に申し上げました。「主よ、私が自分で招いたこの困難からあなたが救い出して下さるなら、この点について二度とあなたを煩わすことをいたしません。」主からの答えを待っていると、主は一言だけ下さいました。それは、馬鹿馬鹿しいことに思われましたが、実際には最も賢い忠告でした。主が話される一つひとつのことばに神の知恵があります。私は妻のもとに行って話しました。「どう思う。主が私に、ウェブスター兄弟のところに行くように言われたんだ。」私は続けました。「馬鹿馬鹿しいことだと思うけどね。彼は私が知っている最も貧乏な男なんだから。」彼は私の知る最も貧乏な男でしたが、神を知っていたので、私の知る最も豊かな男でもありました。妻は言いました。「神が仰ったことをしなさい。それが正しいのだから。」

すぐに私は彼に会いに出かけました。彼は私にあいさつするなり、口を開きました。「スミス、どうしてこんなに早く来たの。」私は答えました。「神のことばがあったんだ。」私は彼に話しました。

「三週間ほど前に私はある人から家を買う約束をしたのだけれど、百ポンド不足していた。このお金を得ようと努力をしたんだ。でも、どうやら神の道から外れていたみたいだ。」「どういうわけで」と彼は尋ねました。「今になってやっと私のところに来たんだい。」私は答えました。「それは、私が昨日の晩になってやっと、主のもとに行ったからだよ。」彼は話しました。「ええと、不思議なことがあるんだ。三週間前、私は百ポンドを手に入れた。何年も前に相互扶助組織にお金を預け入れておいたのが、三週間前に百ポンド引き出しに行かなくてはいけなくなったんだ。それをマットレスの下に隠した。一緒に来て、それを持って行ってもらいたい。君のものだ。それは私にとっては厄介なものだったけど、君にとっては大きな祝福になることを希望しているよ。」私は神から一言頂いただけでしたが、それですべての問題は終わりました。その時以来、この経験があらゆる場面で役立っています。もし私が聖霊に満たされて歩んでいたら、家を買うことはなかったでしょうし、その重荷を引き受けることもなかったでしょう。主は私たちを地上の事柄から解き放とうとされてると、私は信じています。しかし、私は神からのあのことばを、いつまでも感謝しています。私の半生には大きな危機に陥ることや、大きなとりなしの重荷を負うことが幾度もありました。何を話すべきか知らないままで、集会に行ったこともあります。けれども、どうにかこうにか、神は御霊の力のもとで知恵のことばを与えて、その集会に出ている人々のたましいにとって必要なことばを語らせて下さいました。私たちが神を見上げるなら、主はみこころを教えて、主の啓示と主の知恵のことばを現して下さいます。