スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(十二) 聖霊のバプテスマに関する聖書的な証拠

このペンテコステ派の働きの真実性に関して今日多くの反対論がありますが、十五年以上前に聖霊に導かれて始まったリバイバルが今も止んでいないという事実ほど、反対論に対して説得力のあるものはありません。世界中の至る所で神は顕著な方法で御霊を注がれ、一世紀に始まった栄光あるリバイバルに匹敵するものを見せて下さいます。神が人々を祈りに専念させている時には、彼らは神がなさっていることを理解できませんでした。しかし、彼らは今の時が聖霊によってもたらされている日であることを知って驚き、自分たちがペンテコステの日に使徒たちが体験したのと同じ体験に入り、まさに同じ場所にいるということが分かりました。

私たちの主イエスさまは弟子たちに言われました。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ二四・四九)神は預言者ヨエルを通して約束されました。「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。……その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」この聖霊を受けることについて誤った認識が広まっていますが、主は私たちにこのテーマについて聖書を調べることを願われていると私は信じています。

愛する皆さん、私を動かしてきたのは堅固な事実の上にあるものです。私は聖霊を受けたことを力を尽くして確信してきましたし、この確信の上に絶対的に堅く立ってきました。このペンテコステの注ぎがイギリスで始まった時、私はサンダランドに行って、聖霊を受けるために集まった人々と一緒になりました。私はその集会でずっと人々を困らせていて、しまいにはもう来ないで欲しいと言われました。彼らは、私が集会全体を妨害していると言いました。でも、私は神に飢え渇いていたのです。サンダランドに行ったのは、神が新しい方法で御霊を注がれていると聞いたからでした。神が今、主の民のもとに訪れて、御力を現されているので、ペンテコステの日のように人々が異言で話すようになっていると聞いたのでした。

私はこの場所に着いた時に言いました。「この集会が理解できません。私はブラッドフォードの集会で神の炎を受けて来ました。炎が最終日の晩に下り、私たちは神の力の下に皆倒れました。私がここに来たのは異言のためです。でも異言が聞こえません。何も聞こえません。」

「ああ!」彼らは言いました。「聖霊のバプテスマを受ければ、あなたは異言で話しますよ。」「そうなんですか」と私は言いました。「神の臨在が私の上に来られると、私の舌はゆるんで、新しいことばを語るために、空中に引き上げられているかのように本当に感じました。」彼らは否定しました。「ああ、違います。そうではありません。」「じゃあ、何なのですか」と私は尋ねました。彼らは言いました。「あなたが聖霊のバプテスマを受ければ」「私はバプテスマを受けました」と私は口をはさみました。「それに、ここには私がバプテスマを受けていないと説得できる人はいませんよ。」ですから、私は彼らに楯突いていたし、彼らも私に反対していました。

ある男性がやって来てこう言ったのを覚えています。「兄弟姉妹の皆さん。ご存知のように、私は三週間ここにいて、それから主が私に聖霊のバプテスマを授けたので、私は異言を話すようになりました。」私は言いました。「異言を聞かせて下さい。そのために私はここに来たのです。」けれども、彼は異言を話しませんでした。私は他の人たちが今日しているのと同じことをしていました。第一コリント一二章と使徒の働き二章を混同して混乱していたのです。この二つの章は別々のことを扱っています。一方は御霊の賜物のことを扱っていて、もう一方は御霊のバプテスマとそれに伴うしるしを扱っています。私はこのことを理解していなかったので、その男性に言いました。「異言で話すのを聞かせて下さい。」でも、彼はできませんでした。彼は異言の「賜物」を受けたわけではなく、バプテスマを受けたのでした。

日が経つにつれて私はますます飢えを感じました。私はその集会でしぶとく反抗していましたが、主は恵み深くあられました。最終日のことを決して忘れません。私はその日に帰らなくてはなりませんでした。最後の晩に神は私と共におられました。集会に参加しましたが、私はずっとそわそわしていました。牧師館に行って、その書斎で私はボディ夫人に言いました。「もう落ち着いていられません。この異言を話せるようにならないといけないんです。」夫人は答えました。「ウィグルスワース兄弟。あなたに必要なのは異言ではなくてバプテスマですよ。神があなたにバプテスマを授けることをあなたが許可するなら、他のものは全部問題なくなります。」「親愛なる姉妹よ。私はバプテスマを受けたことを自分で知っています」と私は言いました。「私はもうここを四時に出なくてはいけません。どうか私が異言を受けるように私に手を置いて下さい。」

夫人は立ち上がって私の上に手を置きました。すると、火が下りました。私は言いました。「火が下っています。」それからトントントンとドアのノックがあり、夫人は出て行かなくてはなりませんでした。起こり得る中で最高の出来事が起こりました。私は神と一対一で対峙できたからです。そして、主は私に啓示を与えました。ああ、素晴らしい啓示でした。神は私に、誰もつけられていない十字架と、栄光を受けられたイエスさまを見せて下さいました。十字架が空だったこと、キリストがもはや十字架上におられなかったことを私は神に感謝しました。主が呪いを負われたのはその場所においてでした。「木にかけられた者はすべて呪われた者である」と書いてあるからです。主は私たちのために罪となられ、私たちはこの方にあって神の義となりました。そして今は、主は天で栄光を受けておられます。それから私は、神が私をきよめて下さったのを見ました。神が私に新しい幻を与えられたようでした。私は自分の内に完全な方がおられるのを見て、口を開けて言いました。「きよい! きよい! きよい!」それを繰り返し言い始めると、私は自分が異言を話していることに気づきました。喜びがあまりにも大きかったので、私が「きよい」と言おうとすると舌がもつれて、御霊が話させてくださる通りに異言で神を賛美し始めました。

その幻は、イエスさまが嵐に向かって「黙れ、静まれ」と言われた時のように美しく、平安が広がっていました。その瞬間の静けさと喜びは、私がその時までに知っていたどんな平安や喜びよりもまさっていました。しかし、それだけではありません。ハレルヤ! 今日までそれは、もっと大きく、もっと力強く、もっと素晴らしい御霊の現れと力をもって、成長し続けています。あの体験は始まりに過ぎませんでした。あなたが栄光にたどり着くまで、またあなたが永遠の神の臨在に入るまでは、聖霊に終わりが来ることは決してありません。その時になると、私たちは主の臨在をとこしえに感じるようになります。

私は何を受けたのでしょうか。聖書的なしるしを受けました。聖書的なしるしは私にとって驚きに満ちています。そのしるしによって、私が受けたのは使徒たちがペンテコステの日に受けた御霊の注ぎと同じものだということの確証を得ました。その時までに私が受けたあらゆるものは、神が私を整えるための油注ぎの性質を持つものだったということを私は知っています。しかし今は、御霊による聖書的なバプテスマを受けたことを私は知っています。それは複数の聖句に支持されています。聖句の支えがあれば、人はいつでも正しく立つことができます。他方で、証しが神のことばを土台としなければ、正しく立つことはできません。

何年もの間、聖霊のバプテスマに御霊が話させて下さる異言が伴わない場合が仮にあるなら、それを私に証明していただきたいと、私はチャレンジを投げかけてきました。聖書的なしるし抜きで聖霊のバプテスマを受けた人がいれば、そのことをみことばによって証明していただきたいと言いました。しかし今までのところ、そのチャレンジに応えた人はいません。私がこのことを言うのは、非常に多くの人がかつての私と同じだったからです。彼らには、聖書的なしるしがなくても自分はバプテスマを受けたのだという、かたくなな考えがあります。主イエスさまはみことばを宣べ伝える人々に、みことばに伴うしるしを持ってほしいと思われています。他のものに惑わされないで下さい。あなたの持っているすべてのものについて聖書的な証明を得て下さい。そうすれば、誰にも揺り動かされない場所に立つようになります。

私は喜びに溢れて、自分が聖霊を受けたことを伝えるために自宅に電報を打つほどでした。家に着くとすぐに、息子が私に駆け寄ってきて言いました。「お父さん! 聖霊を受けたの。」私は「そうだよ」と言いました。息子は「じゃあ異言で話してみて」と言いました。でも私は異言で話せませんでした。どうしてでしょうか。私が受けたのは御霊のバプテスマであって、それに伴う異言は、使徒二・四に基づいた聖書的なしるしとしての異言でした。第一コリント一二章にある異言の賜物を受けたわけではなかったのです。私はあらゆる賜物を与える方ご自身を受けました。しばらくしてから、御霊のバプテスマを求める数人のたましいのために私が奉仕していた時に、神は私に異言の賜物を与えて、私がいつでも異言を話せるようにして下さいました。私は異言を話せましたが、自分から話そうとすることはありません。絶対にありません! 私がすべきことは、聖霊が賜物を使うのを許可することです。御霊が話させて下さる神からのことばを話すためには、そうでなければいけません。私が自分で賜物を使うのは非常に申し訳ないことです。そうではなく、与えて下さる方が九つの賜物全体を使う力を持っておられるのです。

私の立場を証明する聖句をいくつか取り上げたいと思います。ここにビジネスマンがいれば、法的に争う場合には二つの明確な証言があれば、オーストラリアではどんな裁判でも勝つことができるということをご存知でしょう。二つの証言という明確な証拠に基づいて、裁判の判決は下されます。神が私たちに与えたものは何なのでしょうか。聖霊のバプテスマに関する三つの明確な証言をここに挙げます。法廷で必要な数以上ですね。

第一に、使徒二・四です。「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」ここに原型となるパターンがあります。神はペテロに、この経験とそれ以前になされた約束とを結びつける、永遠のことばを与えました。「これ(訳注:使徒二章でみなが異言を話し始めたこと)は、それ(訳者注:預言者ヨエルによって語られた約束)です。」(使徒二・一六)そして神はそれに劣らずこれもあなたのものとなることを願われています。この原型となるペンテコステのパターンに従って、聖霊のバプテスマを受けることを願われているのです。

使徒の一〇章にもう一つの証言があります。ペテロはコルネリオの家にいます。コルネリオは聖なる御使いの幻を見て、ペテロのために人を遣わしました。ある時、ある人が私に言いました。「私が聖霊に満たされてバプテスマを受けたことをあなたは認めてくれませんね。でも、私は十日と十夜、主の御前にいたことがあります。主は私のたましいを喜びで溢れさせて下さいましたよ。」私は言いました。「主をほめたたえます。姉妹よ、それは始まりに過ぎません。弟子たちはあの時、待っていました。静かにしていました。それから、神の大能の力が彼らの上に臨みました。御力が臨んだ時に何が起きたかは聖書に書かれてある通りです。」そして、ちょうど同じことがコルネリオの家でも起きました。みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊が下りました。「割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。」(一〇・四五)とあります。偏見を持っていたこのユダヤ人たちが、聖霊が下ったと確信を持ったのはどうしてでしょうか。「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(一〇・四六)彼らが知る方法は他にはありませんでした。このしるしは否定する余地がありません。これは聖書的なしるしです。

二つの証言を見てきました。この世の基準を満たすためにはこれで十分です。しかし、神はさらに良いことをなさいます。使徒一九・六を見ましょう。「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」エペソの人たちは使徒たちが最初に受けたのと同じ聖書的なしるしを受け、加えて預言も話しました。三箇所の聖句が私たちに御霊のバプテスマのしるしについて教えています。私は異言をほめたたえているのではありません。そうではなく、神の恵みによって、私は異言を与えて下さる方をほめたたえます。そして何よりも、聖霊が私たちに明らかにされた方、主イエス・キリストをほめたたえます。聖霊を送られた方は主であり、主は最初からいた者たちと私たちとの間に何の差別もされなかったので、主をほめたたえます。

しかし、異言は何のためにあるのでしょうか。第一コリント一四・二をご覧ください。素晴らしい真理がそこにあります。ああ、ハレルヤ! 愛する皆さん、そこに行ったことがありますか。神はあなたをそこに連れて行こうとされている、と皆さんにお伝えします。「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」続けてこう言われています。「異言を話す者は自分の徳を高めます」。

神の約束に入って下さい。それはあなたの相続分です。あなたが本当に聖霊で満たされれば、あなたが主と離れた状態で五十年間働きをするよりも、もっと多くのことを一年で成し遂げるようになります。