(九) このいのちのことば
テキスト使徒五・一〜二〇
主が福音のメッセージのことを「このいのちのことば」(五・二〇)と表現されたことに注意して下さい。それは、存在し得るものの中で最も素晴らしいいのちです。神の御子の中にある信仰のいのちです。神がいかなる時でもそのいのちと共にいて下さいます。神が近くにおられるだけでなく、内側に住んで下さいます。そのいのちは、多くの啓示により明かされたものであり、そのいのちによって、幾度も神の聖霊の現れを見ることができます。そのいのちにあって、主をいつも見て、知って、感じて、聞くことができます。「死からいのちに移っている」(ヨハネ五・二四)とあるので、それは死の無いいのちです。神のいのちそのものが私たちの内側に来ました。このいのちが満ち満ちているところには、病気が存在することはできません。この素晴らしいいのちの中に何があるのかを悟るのに、私は一ヶ月を要しました。誰もがこのいのちの中に入ることができ、このいのちを持つことができ、このいのちに所有されることができます。
あなたがこのいのちの近くにまで来ても、それを受け損なうことはあり得ます。たとえあなたが、神が御霊を注いで下さるところにまで来ても、神が喜んで与えようとしておられる祝福を受け損なうことはあり得ます。そうなってしまう原因はすべて、啓示の不足、神の無限の恵みに対する誤解、そして「あらゆる恵みに満ちた神」(第一ペテロ五・一〇)に対する誤解によります。神は信仰の手を伸ばす者すべてに喜んで与えて下さる方です。神が無対価で与えられるこのいのちは、神からの賜物です。ある人はそれを努力によって手に入れようとするので、全体を失ってしまいます。ああ、必要なのは神が惜しみなく与えようとされるあらゆるものを、単純に受け取ろうとする信仰だけです。上から来るこのいのちを受け取るなら、その日からあなたの人生は平凡でつまらないものではなくなります。私たちの非凡な神による非凡な力に満たされて、あなたは非凡な人となるのです。
アナニヤとサッピラはこのことの中にいながら、いのちを受け取り損なった人たちです。彼らはひょっとしたら物事がうまくいかなくなるかもしれないと考えました。それで彼らはうまくいかなくなる事態に備えて、自分たちのために予備の財産を取っておこうとしました。神が初期の教会に与えられた素晴らしいリバイバルの中にあっても、彼らはいのちを受け取り損ねました。この二人と似たような人々は今日でも大勢います。彼らは人生の重大な危機に直面して神に誓いを立てます。ところがその誓いを守ることができずに、霊的に破産してしまうのです。祝福される人は、苦難にあっても立てた誓いを曲げないで、神に立てた誓いを守り通す人です。そして、その人のすべてを喜んで神の足元に捧げて置く人です。このようにする人のたましいはくじけることがありません。「あなたの骨を強くする」(イザヤ五八・一一)と神は約束されました。そのような人にとって、水の枯れた地はありません。いつもみずみずしく、おい茂っていて、ますます力強く栄えます。そのためには、自分のすべてをもって神に信頼する必要があります。予備のものを残しておいてはいけません。
私たちにどれほど偉大な神がおられるのかを分かっていただくことが私の願いです。アナニヤとサッピラは現に神を疑っていました。彼らは主が始められた御業が本当にうまくいくのだろうかと疑問に思っていました。彼らは自分たちの持ち物を売り払って、栄光を分けていただこうとしましたが、信仰が欠けていたために、神の御業が失敗した場合に備えて彼らは代金の一部を予備に取っておきました。
多くの人はこのペンテコステ運動のリバイバルがうまくいくのだろうかと疑っています。このペンテコステ運動の働きが止まってしまうとあなたは思いますか。決してそんなことはありません。この十五年間、私は常にリバイバルの中にいました。そしてこの流れが止まことはないと確信しています。ジョージ・スティーブンソンが蒸気機関車のエンジンを発明した時、彼は妹のメアリーにそれを見せました。メアリーはエンジンを一瞥して言いました。「ジョージ。こんなものが動くはずないわ。」彼は言いました。「乗ってみてよ。メアリー。」彼女はもう一度言いました。「動くはずないわ。」彼は言いました。「動くよ。乗ってみて。」メアリーはついに乗り込みました。汽笛が鳴り、ポッと煙を上げて、ガタガタ音を立てながらエンジンが動き始めました。するとメアリーは叫びました。「ジョージ、これは絶対に止まらないわ! 絶対に止まらないわ!」
人々はこのペンテコステ運動のリバイバルを見て、非常に批判的にこう言います。「動くはずがない。」でも彼らがこの働きの中に誘われて入ると、一人残らずこう言います。「これは絶対に止まらない!」この神のリバイバルは嵐のように吹きまくり、このいのちと愛と霊感と力の流れはとどまることを知りません。(異言の解き明かし:これをもたらしたのは生けるみことばである。小羊はそのただ中におられ、昨日も、今日も、いつまでも同じである。)
神はあらゆる人のために無制限の供給源をお与えになりました。疑わないで下さい。信仰の耳をもって聞いて下さい。神が真ん中におられます。今日あなたが見聞きすることを現されたのは神であるということを理解して下さい。
聖霊の力に導かれていた初期の教会では、嘘が存在することができなかったということを知っていただきたいと思います。嘘が教会に入り込んだ瞬間に、すぐに死んでしまいました。後の雨の時になって聖霊の力がますます強くなると、私たちの中に偽りの霊を残しておける人は誰もいなくなるでしょう。神は教会をきよめられます。神のことばがいやしや他の御霊の現れの中でそのような力を持つと、初期の教会と同じものを見る人々の上に非常な恐れが生じることでしょう。
いざという時のために少しの財産を残しておくのは、アナニヤとサッピラにとって自然な考えで、些細なことのように思われました。しかし、生ける信仰に立つことによってのみ、あなたは神に喜ばれることができ、神から何かをいただくことができるということをお伝えしたいと思います。神には失敗がありません。神には失敗があり得ないのです。
私がノルウェーのベルゲンにいた時のことです。病院で看護師として働いていた若い女性が集会に来ました。大きな癌が鼻にありました。鼻が大きく膨らんで充血していました。彼女は祈ってもらいに来ました。私は「あなたはどんな状態ですか」と聞きました。彼女は「鼻に触る勇気がありません。とても痛いのです」と言いました。私はそこにいた人々全員に言いました。「皆さんに、この鼻と、この恐ろしい状態を見ておいていただきたいのです。私たちの神は恵み深く、忠実ですから、悪魔がもたらしたこの状態を解消されることでしょう。私はこれから、すべてにまさって力強いイエスの御名でこの病気を叱ります。痛みはなくなるでしょう。神がご自分の恵みを私たちに見せて下さることを私は信じています。私はこの若い女性に明日の夜の集会に来て、神が彼女のためになさった御業を証言してもらうようにお願いするつもりです。」
ああ、罪の恐ろしさ! ああ、罪の力の恐ろしさ! ああ、堕落の結果の恐ろしさよ! 私は癌を見るといつもそれが悪霊から来るものだと分かりました。それが別のものから来ると信じることなど、私にはできません。腫瘍についても同じです。こういうことが神の御業であり得るでしょうか。これが悪魔のわざであり、それを追い出す方法があるということをあなたに示すために、神は私を助けて下さいます。
私は人々を罪に定めようというのではありません。私は人々を責めません。罪の背後に何があるかを私は知っています。悪魔が吠えたける獅子のようにいつも歩き回って、食い尽くすべきものを探し求めていることを、私は知っています。主イエス・キリストの寛容と愛とを私はいつも覚えています。姦淫の場で捕らえられた女を、人々が主のもとに連れて来て、「先生。この女は姦淫の場でつかまえられたのです」と主に言った時、主はただ身をかがめて地面に書いておられました。それから主は静かに言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」罪のない者は一人もいません。「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ三・二三)とあります。しかし、私はこの祝福に満ちた福音のメッセージの中に、神が私たちすべての罪をイエスさまの身に負わされたことを読むことができます。ですから、私は悪い状態を見ると、私自身の使命に立って、その状況を叱らなくてはならないと感じるのです。
私はこの痛々しい鼻に両手を置いて、彼女にひどい痛みを引き起こしている悪しき力を叱りつけました。次の夜、集会の場所は人々がぎゅうぎゅう詰めになるほどいっぱいになりました。その家の中にはこれ以上、一人も余計に入れないほどでした。神の雨がどれほど私たちの上に注がれたことでしょうか。神は何と良い方なのでしょう。あまりにも恵みに満ち、あまりにも愛に満ちておられます。聴衆の中にその看護師がいました。彼女を呼んで前に来てもらいました。彼女は全員に神がして下さったことを話しました。神は完全に彼女をいやされました。ああ、主はまさしく同じイエスさまだということをお伝えします。今日でも主は同じ方です。あなたが大胆に神に信頼するなら、どんなことでもできるのです。
初期の教会で神の力が勢いをもって現れ、アナニヤとサッピラが息絶えると、教会全体に非常な恐れが生じました。そして、私たちが神の臨在の中にいる時、神が私たちのただ中で勢いをもって働かれている時には、非常な恐れ、崇敬の念、いのちの聖め、神の喜ばれないことはしまいとする純粋さが生じるようになります。使徒の働きを読むと、他の人々はひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、ただ神が救われるべき者を教会に加えてくださったことが分かります。私たちのペンテコステ派の教会でも、町全体の人々が来るようにするよりは、むしろ神が加えて下さる人を受け入れるようにしたいと思います。神は毎日、主ご自身の教会に加えて下さいます。
次に起きたことはこうでした。人々は神が働かれていることを確信するようになって、どんなことでも可能だと知るようになりました。そして人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかる時には、せめてその影でも、誰かにかかるようにするほどになりました。大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを使徒のもとに連れて来ましたが、その全部を神はいやされました。私はペテロの影がいやしたのだとは信じていません。そうではなく、神の力が勢いをもって現れ、人々の信仰が呼び覚まされ、皆が一つ心になって神を信じたからだと私は信じています。神は信仰を持つ人々といつも会って下さいます。
神の潮流は地上のあらゆるところで隆起しています。ノルウェーのスタヴァンゲルで私が宣べ伝えていた時のことです。私はとても疲れていて、数時間の休憩を欲していました。次の約束があって、朝の九時半頃に到着しました。最初の集会が夜にあることになっていました。私は通訳者に言いました。「食事をしたら、フィヨルドを見に行こう。」私たちは三時間か四時間、海のそばで過ごし、四時半頃に戻りました。私たちは町の外れに狭い入口があるのを見つけました。自動車や荷馬車がたくさん停めてあって、そこにはあらゆる種類の怪我人や病人が乗っていました。その家に行くと、家は病人でいっぱいだと言われました。それを見て、使徒の働きの五章に書かれている光景を思い出しました。私がその通りにいた人たちのために祈り始めると、神はいやし始められたのです。その家にいた人々を主がいやされたことは、何と素晴らしいことでしょうか。私たちが昼食をとるために座っていると電話が鳴りました。向こう側で誰かが話しています。「どうしたらいいんでしょうか。町のホールはもう満員です。警察も制御できません。」
その小さなノルウェーの町に人々は来ていました。神の息はすべての人の欠けた部分に吹き付けられ、川のように溢れ出ます。誰もが新しい油注ぎを、新鮮な血のきよめを必要としています。あなたがそれを頼みにすれば、神の息が私たちの上にあるようになります。
アイルランドで集会を持った時のことです。大勢の病人が集会に運ばれて来て、無力な人々がそこで力を得ました。その集会には聖霊のバプテスマを求めている人々がたくさんいました。何年もそれを求めてきた人も少なくありませんでした。強い罪悪感の下にある罪人たちも来ていました。神の息がその集会を吹き抜けた瞬間がありました。十分ほどでそこにいたすべての罪人が救われました。聖霊を求めていた人は皆パプテスマを受けました。病人も皆いやされました。神は現実におられます。神の力は衰えません。私たちの信仰が手を伸ばすなら、神は私たちに会って下さり、同じ雨が降るのです。きよめをする同じ血が、同じ力が、同じ聖霊が、同じイエスさまが、聖霊の力を通して現実に現れて下さるのです! 私たちが神を信じるならどんなことが起こるのでしょうか。
今この時にも、主イエス・キリストの尊い血は効力を持ち、あなたの心をきよめ、この素晴らしい神のいのちをあなたの内側にもたらすことができます。あなたが大胆に信じるなら、その血があなたをあらゆる点で完全にします。聖書の至る所に神からの嘆願が見られます。その恵み、その力、その強さ、その義、そしてイエス・キリストの十全な贖いに、あなたが来て、参与し、受け取ってほしいという嘆願です。私たちが信じる時に、神はそれを聞き逃すような方ではありません。
私がいたある場所で、二年間寝たきりになって、回復の見込みのない、足のなえた男性が連れて来られました。その集会まで三十マイルを運ばれて、彼は松葉杖をついて祈ってもらいに来ました。彼の息子もひざを悪くしていて、二人合わせて四本の松葉杖をついていました。その男性の表情は苦渋に満ちていました。主にはいやしの力があります。私たちが信じるなら、主はいやさないでおくということは決してありません。イエスの御名によって、その力溢れる御名によって、その病気に冒された足に手を置きました。その男性は松葉杖を投げ捨てました。彼が支えなしで歩き回るのを見て、そこにいた人たちは皆ひどく驚きました。小さな息子が父に呼びかけました。「パパ、僕も! パパ、僕も! 僕も! 僕も!」ひざのなえた男の子も触れてもらいたがりました。そして同じイエスさまがそこにおられ、この小さな捕らわれ人を本当に解放して下さいました。男の子も完全にいやされました。
触れられたのは足でした。もし神がその大能の力をもって御手を伸ばし、なえた足の束縛を解かれるのなら、神が御手を伸ばして、永遠に存在するあなたのたましいに触れられることは何と素晴らしい恵みでしょうか。主が言われることを聞いて下さい。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由に」(ルカ四・一八)するとあります。主は招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ一一・二八)神はその大きな恵みによって、大能のいのちの力をもって、喜んであなたの手足に触れて下さいます。そして、もし神がこのことを喜んでして下さるのなら、神があなたのことをサタンの力から解放し、あなたを王の子どもとすることをどれだけ切望しておられることでしょうか。あなたのからだの疾患がいやされることよりも、あなたのたましいの病がいやされることのほうが、どれほど必要なことでしょうか。そして、神は両方の回復を喜んで与えて下さいます。
私がロンドンの町を通りかかった時のことです。ペンテコスタル・ミッショナリー・ユニオンの秘書をしているマンデル氏は私がそこにいることを知りました。彼は私とある場所で午後三時半に会うように手配しました。私はソールズベリーの町に故郷がある、ある少年と会うことになっていました。両親はこの少年を商売の手伝いのためにロンドンに送りました。彼は日曜学校のリーダーをしていましたが、もう辞めて離れてしまっていました。罪は恐ろしいものです。罪の報酬は死です。しかし反対側があります。神の賜物は永遠のいのちです。
この若者は凄まじい苦痛の中にいました。彼は恐ろしい病気にかかっていて、誰にも言えずにいました。もう死が目前でした。両親が彼の状態を知った時、言いようもない悲嘆に暮れました。
私たちが家に着くと、マンデル兄弟はひざまずいて祈りましょうと提案しました。私は言いました。「神がそう言っておられません。まだ私たちは祈ることにはなっていません。私は聖句を引用したいと思います。『愚か者は、自分のそむきの罪のため、また、その咎のために苦しんだ。彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。』(詩篇一〇七・一七〜一八)」若者は叫んだ。「私は愚か者です!」彼は泣き崩れて、自分がどんなに堕落していたのかを話した。ああ、人が悔い改めて罪を告白しさえすれば、神は御手を伸ばしていやしと救いをなされます。若者が悔い改めた瞬間、膿んだできものは破裂し、神は彼にいのちを吹き込み、力強い解放を与えられました。
神は恵み深く、苦しめることをなさらない方です。どれだけ多くの人が、胸のうちの罪をきよめていただこうとしているでしょうか。あなたがこれをした瞬間に、神は天を開いて下さるということをあなたにお伝えします。いと高き方のもとにあなたが今日来て、身を避けさえするなら、あなたのたましいを救うことも、あなたの病気をいやすことも神にとって容易です。主はあなたを長いいのちで満ちたらせ、主の救いをあなたに見せて下さいます。主の御前には喜びが満ち、主の右には楽しみがとこしえにあります。すべての人のための十全な贖いは、神の御子の尊い血によるのです。