スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(十) 御霊にあるいのち

テキスト第二コリント三章

ヘブル人への手紙六章でこう教えられています。私たちはキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心や、きよめの洗いについての教えなどの基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう、と。古い家を取り壊して、新しい土台を据える建築家はどんな人だと思われますか。あなたの人生に神の力が現されることをお望みなら、後戻りしないで下さい。あなたが後戻りすることを自分自身に許可すればするほど、神があなたに与えようとしておられるものを受け取り損なうようになることが分かるでしょう。

私たちがひとたび解放された罪と死の原理へと後戻りしてはいけないと、聖霊が私たちに示しておられます。神は私たちを新しい秩序の中に導き入れられました。それは、人間の理解に遥かにまさるキリスト・イエスにある愛と自由のいのちです。多くの人が神の御霊の力によって新しいいのちに入りますが、そのあとでガラテヤ人のように初めはよく走っていても、途中で律法主義に陥って自分の行いで自分を義としようとします。彼らは御霊にあるいのちから、生まれながらの自然のいのちに後戻りしてしまうのです。神はこのようなことを喜ばれません。というのも、神はビジョンを失った人間のための場所を持っておられないからです。すべきことはただ一つ、悔い改めることです。他のことで補おうとしないで下さい。あなたが何か間違いを犯したら、罪を告白して下さい。そうして神を見上げれば、あなたは信仰をしっかり据えられた場所へと導かれ、あなたの歩み全体が御霊のうちにあるようになるでしょう。

私たちは皆、救いは主から来るという明確な確信を持っているべきです。このことは人間的な物事の秩序を超えています。敵があなたを信仰の場所から引きずり降ろすことに成功すれば、あなたは神の計画の外へと引っ張り出されます。人間が罪に落ちていく瞬間に、神のいのちは流れを止めて、その人のいのちは力を失います。けれども、そうなることは神の子どもたちに対する神のみこころではありません。ヨハネの手紙第一の三章を読んで下さい。神の子どもとしての場所に立って下さい。自分は神の子どもであると知る場所に立って下さい。そして、あなたの希望がキリストのうちにあるなら、そのことによって、あなたのいのちをきよめる影響が現れてくることを覚えて下さい。聖霊は言われます。「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」(第一ヨハネ三・九)心に植えつけられたみことばの種はいのちと力を持っています。神はこの箇所で、罪を犯すことが「できない」と言われました。神のことばには人間のどんな反対論をも退ける力があります。私たちそれぞれに向けられた神のみこころは、私たちがキリスト・イエスによって、いのちにあって支配することです。あなたは神のなかにある時に自分がどんなに素晴らしい存在であるか、また、自分自身のなかにある時にはどんなに無力な存在であるかを知らなくてはいけません。

神が天から闇の力を追放された時、神はご自身があらゆる反対勢力よりも力強い方であることを宣言されました。サタンを天から追放した御力と同じものが、神から生まれた者一人ひとりのうちに宿っていることを知っていただきたいと思います。このことを認識しさえすれば、あなたはいのちにあって支配するようになります。悪霊の力が現れるのを見たら、いつもこのように問い詰めて下さい。「イエスさまは肉体をもって来られたのではなかったか。」私は悪しき力が同意するのを一度も見たことがありません。あなたが悪霊に対処することができるということを知るなら、あなたは悪霊を追い出す力を得るようになります。そのことを信じて行動して下さい。「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいるあの者よりも力があるからです。」(第一ヨハネ四・四)神はあなたを征服者の場所におらせようとして、悪魔に打ち勝つ力を授けられました。

試みはあらゆる人に来ます。試みられるに値しない人は、銃弾や火薬になるに値しない人です。ヨブは言いました。「神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ二三・一〇)試みが来るたびに、主はあなたを剣の柄へと精錬されます。でも、あなたが従順に歩んでいるなら、あなたが打ち負かされることを神は許容されません。というのも、試みのただ中にあっても、神はいつでも「脱出の道」をも備えて下さるからです。

異言と解き明かし:「神が来られる。その御力をもって嘘の隠れるところと、あらゆる闇の力を一掃される。そして、キリスト・イエスにあって常に勝利をもたらされる。主はご自分の聖徒を愛され、主の全能の御翼で彼らを覆われる。」

神は私たちが勝利を目にするように助けて下さるでしょうか。私たちが試みに対して準備が整い、試みに勝利を収めることができるまでは、私たちは神の栄光をほめたたえられません。人間は罪が自然の性質に入り込んだという事実から逃れることはできません。しかし、神が私たちの自然の性質を死の場所へと追放して下さいました。それは、神の御霊があらゆる御力と自由にあってその神殿に住まわれるため、そして、悪い世であるこの今の世界にあって、信じる者によってサタンが退位させられるためです。

サタンはいつも神の聖徒たちを悪評に陥れようとして、口汚く彼らを告訴します。けれども、聖霊は罪に定めることをなさいません。御霊はいつでもキリストの血を啓示されます。主はいつでも助けて下さいます。主イエスさまは、聖霊を来たるべき慰め主と呼ばれました。試みと試練との期間にあっても、主は常にあなたを助けようとしてそばに居合わせて下さいます。聖霊はキリストの教会を抱き上げて下さる力です。それでパウロはこう書いています。私たちは「キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」(第二コリント三・三)聖霊は最初に心のなかを取り扱われます。それも、人間の愛情の深いところに働きかけられます。聖霊は心のなかにキリストの啓示を豊かに与え、そこに純粋さと聖さを植えつけられます。その心の深みから、賛美が絶えず湧いてくるためです。

聖霊は私たちをキリストの手紙として形造られます。その手紙が伝えるのは、私たちの主イエスさまが贖い主であり、神はその啓示を決して破棄されないということを伝えます。そして、ほふられた小羊の完全な贖いのゆえに、すべての人のための救いといやしと解放があることを伝えます。ある人々は、きよめられるのは一度だけだと考えていますが、私たちが光の中を歩んでいるなら、イエス・キリストの血により私たちは絶えずきよめられています。

キリストのいのちこそが私たちのうちにあり、私たちのうちに働いています。それは完全ないのちです。主はこのいのちの力を私たちに見せて下さるでしょうか。「私たちの齢は七十年。」(詩篇九〇・一〇)ですから自然の摂理に従えば、私のいのちは七十年で終わります。しかし、私は決して終わることのない新しいいのちを生き始めました。「とこしえからとこしえまで、あなたは神です。」(詩篇九〇・二)これが、私が入ったいのちです。このいのちに終わりはありません。私のなかに働く力は、他のどの力よりも強いものです。キリストが、神の力が私のうちに形造られました。どうして私たちが上から着せられる必要があるのか、私には分かります。それは、私のうちにあるいのちが外側にあるものよりも一千倍も大きいからです。そのいのちが膨張する力は途方も無いものがあるに違いありません。このことは自然の観点では理解できないということ、また自然の理性は神の計画を理解し得ないということを、私は痛感していますし、痛感させられました。

「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」(第二コリント三・五)後戻りをするなら、神の計画を逃してしまいます。私たちは古い物事の秩序を離れなくてはいけません。私たちは肉にあるままで自信を持つことはできません。自信からはかけ離れています。私たちは新しい秩序、霊的な秩序を生きています。それは、まったき信仰による新しいいのちです。神から来る資格によって与えられるいのちです。それが、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えます。

あなたはこの場所に入っていながら、なおセブンスデー・アドベンチストの教会員になることはできません。あなたの中には律法を置く場所がありません。(訳注:セブンスデー・アドベンチスト教会では、十戒を現在も守るべきものと解釈する。)あなたはあらゆるものから自由の身とされました。同時に、あなたはパウロのように「御霊に縛られて」、御霊に悲しまれることは何もしないようになります。

パウロはさらにこう書いています。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(第二コリント三・六)この箇所をただ読むことと、この箇所の啓示を受けてその霊的な力を見ることとは別のことです。どんな人でも文字の中に生きれば、飢え渇いて言葉数が多くなり、霊的な真理についての知識が制限されて、あげつらいばかりにいつまでも時間を費やすことになります。しかし、御霊の領域に触れるなら、すぐさますべての飢え渇きは満たされて、あらゆる批判の霊は出て行きます。御霊にあるいのちに生きるなら分裂はありません。神の御霊は、そのような柔軟性とそのような愛の中へと導いて下さいます。御霊のうちにある愛は比類ないものです。それは神から来る純粋で聖い愛です。それは御霊によって私たちの心の中に隠されてあります。それは主に仕え、主をほめたたえる愛です。

私にとって聖霊のバプテスマがこの十五年間どれほど意義を持ってきたか計り知れません。まるで一年が三年にも感じられるような濃密さがありましたから、私は一九〇七年以来、四十五年分も幸福な奉仕をしてきたことになります。それに、常にますます良くなっています。御霊に満たされるのは贅沢なことです。同時に、酒に酔うのではなく、御霊に満たされなさいということばは神からの命令でもあります。ペンテコステ派の人は誰でも、御霊を失って御霊が与えて下さる異言を話さなくなった状態で、ベッドから出るべきではありません。集会のドアを通る時に、異言や詩や賛美なしでいてはいけません。御霊が入って来られると、御霊が私たちを満たされるので、教会の最後尾のメンバーでさえ主に明け渡されるということを私たちは強調します。そして、誰であれ御霊が話させて下さるとおりの異言を伴うことなしに御霊のバプテスマを受けることはありません。さらに、継続して満たされて、あなたは朝に昼に夜に異言を語るようになるのです。御霊のうちに生きるなら、あなたが住んでいる家の階段を降りる時に、悪魔があなたの前を逃げて行かざるを得ません。あなたは悪魔に対して圧倒的勝利者となるのです。

御霊に導かれるのでなければ、何事もうまくいかないことを私は知っています。けれども、御霊のなかに生きるなら、あなたはどこに行くのであれ、何をするのであれ、飲食するのであれ、あらゆることを神の栄光のためにするようになります。私たちのメッセージはいつもこうです。「御霊に満たされなさい。」このからだは、あなたのためにある神の場所です。そして天が地から遥か高いように、御霊によるいのちは自然のいのちよりも遥かに高いのです。満たされるために、あなた自身を神に明け渡して下さい。

モーセはイスラエル民族と共に非常な試練を耐えました。彼らはいつも問題を抱えていました。しかしモーセが山に登り、神が十戒を彼に啓示された時、栄光が下りました。彼はその二つの石版をもって山を下りながら、喜びに満ちていました。彼の顔はまばゆいばかりの栄光に輝いていました。彼はイスラエルに契約を持ち帰りました。それに従えば、いのちを得るという契約です。

その時、私の主が天から来られたのだと思います。天が目に見えて動かされたのでしょう。文字による律法はモーセがもたらしました。それは栄光あるものでしたが、そのすべての栄光は、さらにまさる栄光の前に消え去りました。その栄光とはイエスさまがいのちの御霊の中で私たちに与えられたものです。シナイ山の栄光はペンテコステの栄光の前にかすみました。「汝すべからず、汝すべからず」と書かれた石版は消え去りました。というのも、それらは誰にもいのちをもたらさず、代わりに主ご自身が新しい契約の中でいのちをもたらされ、いのちの御霊によるこの新しい律法を私たちの思いのなかに入れられ、私たちの心のなかに書き付けたからです。聖霊が内側に入って来られるなら、主は私たちをそれほどの愛と自由で満たして下さるので、私たちは喜びのあまりこの一一節のみことばを叫びます。「消え去った! 消え去った!」これからは私たちの心に新しい叫びが生まれます。「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇四〇・八)神は一番目のもの、すなわち石に刻まれた文字による死の務めを廃止されて、二番目のもの、すなわち御霊にあるいのちによる義の務めを力強く立てられました。

こう尋ねるかもしれません。「御霊に満たされた人は戒めを守らなくなるのですか。」神の御霊がここで私たちに言われたことを、私はただ繰り返して言いましょう。石に刻まれた文字による死の務め(そして十戒が石版に書かれていたことはご存知のはずです)は、「消え去った」のです。生ける神の御霊によって書かれた、生けるキリストの手紙となった人は、姦淫、殺人、むさぼりなどをやめてしまいました。神のみこころはその人が喜びに満たされることです。私は神のみこころを行うことを愛しています。それは退屈なものではありません。祈りを妨げる試練はありません。神のことばを読むのに問題はありません。礼拝の場所に行くのに困難を覚えません。詩篇にはこうあります。「人々が私に、さあ、主の家に行こうと言ったとき、私は喜んだ。」(詩篇一二二・一)

この新しいいのちが、どのように良い実を結ぶのでしょうか。事がうまく運ぶのは、神がみこころのままにあなたのうちに志を立てさせ、事を行わせて下さるからです。(ピリピ二・一三)ポンプと泉では大きな違いがあります。律法はポンプです。バプテスマは泉です。古いポンプは故障し、部品が欠け、井戸は枯れました。文字は殺します。しかし、泉からは絶えず水が湧き出で、神の御座から直接、とどまることなく流れ出ます。そこにはいのちがあります。

キリストについて「あなたは義を愛し、不正を憎まれます」(ヘブル一・九)と書かれています。御霊にあるこの新しいいのち、この新しい契約によるいのちのなかで生かされれば、あなたは正しいもの、純粋なもの、聖いものを愛するようになり、あらゆるまがいものには身震いするようになります。イエスさまはこうおっしゃることができました。「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。」(ヨハネ一四・三〇)私たちが神の御霊に満たされれば、その瞬間にこのような素晴らしい状態に入れます。さらに私たちが御霊に満たされ続ければ、敵は私たちのなかに一インチも領地を持てません。

あなたが御霊に全面的に満たされれば、正しく生きない者があなたの前で裁かれ、罪に定められるようにさえなるということを信じませんか。御霊のいのちに生き続ける私たちについてこう言われています。「神に捨てられた人を、その目はさげすみ」(詩篇一五・四)。イエスさまはそういう領域に生きて働いておられました。主のいのちは絶えず、周りにいる汚れた者への叱責となっていました。しかし、イエスさまは神の御子です。神ご自身が私たちに神の子どもという身分を与えて下さいました。主が肉体を持たれるという機会があったのなら、聖霊は私たちをも造り変えて、主と同じ場所へと導くことがおできになります。

私は自分を誇りたいのではありません。もし私が何かを誇るのなら、私に恵み深い主だけを誇ります。しかし、ある時電車に乗っていて、手を洗うために客室を出た時のことを私は覚えています。その時は祈りの期間で、主は私を溢れんばかりの主の愛で満たして下さっていました。アイルランドの集会に行く途中でしたが、少し遅れそうでした。お手洗いから戻ると、主の御霊が重く私の上におられて、自分の顔が輝いていたに違いないと思います。(御霊が人の顔つきを変えられても、自分ではそれと分かりません。)二人の牧師が同席していましたが、私が客室に戻ると、一人が大声で言いました。「私は罪人です! あなたを見たら私は罪人だと分かりました!」三分もするとその客室の一人ひとりが神に救いを求めてむせび泣いていました。このようなことは私の人生の中で何度も起こりました。パウロが言っていた御霊に満たされるというのは、このような御霊による務めのことです。御霊に満たされると、あなたのいのちは燃え立たせられ、たとえあなたが店で買い物をしていても、そこにいる人々があなたの近くにいると自分の罪が露わにされているような感じがして、あなたの前から立ち去りたくなってしまうほどです。

私たちは文字によるあらゆるものから離れる必要があります。私たちはあらゆることを御霊の油注ぎのもとで行う必要があります。問題は、私たちペンテコステ派の人々が文字に生きてきたことです。パウロを通して聖霊が言われたことを信じて下さい。キリストにあるあなたが自由になるのを妨げてきた、罪に定めるこの務めは消え去りました。律法は廃止されたのです。あなたに関する限り、すべての古い秩序は永遠に消え去り廃止され、神の御霊が、純粋な愛に満ちた新しいいのちへとあなたを導き入れられました。あなたがキリストにあって新しく造られた者となる時、古いいのちに関する事柄はすべて消え去るということを、御霊は保証して下さいます。御霊にあるいのちに生きれば、古い誘惑はその力を失います。悪魔は繰り返しあなたを試そうとしますが、神の御霊がいつも悪魔に対して吹き荒れます。

ああ、神がその道を保っておられたなら、私たちは燃えるたいまつのようになって、私たちの行く所どこにあっても、汚れた者の力をおののかせながら、その場所の空気をきよめるはずです。

異言と解き明かし:「主は御霊です。主はあなたの心のなかで動かれます。あなたのうちにある御力があらゆる闇の力よりも強いことを主はあなたに示されます。」

消え去りました! 私は何を言おうとしているのでしょうか。あなたは不忠実な者になるでしょうか。いいえ、あなたは忠実以上の者になるのです。ひどい扱いを受けたら、あなたは不満をつぶやくでしょうか。いいえ、あなたは反対の頬を差し出します。神が内側に住んでおられる時のあなたの行いは、いつもそのようなものです。あなた自身を神の御手にゆだねて下さい。安息に入りましょう。「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」(ヘブル四・一〇)ああ、素敵な安息です! 人生全体が安息日です。これだけが、神の栄光をたたえることのできる人生です。喜びの人生です。毎日が、地上で生きる天国の日々です。

生きている間、私たちは絶えず変えられていきます。御霊なる主の働きによって、私たちはみな鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。何度も顔の覆いを取り除けられ、いつも啓示を受け、繰り返し上から着せられます。私はあなたに、もう二度と後戻りせず、御霊が「消え去った」と言われた律法には戻らないことを、神と約束していただきたいのです。私はもう二度とみことばを疑うことを自分自身に許可しないと、主に約束しました。

赤ん坊について一つのことが言えます。赤ん坊なら誰でもそうです。用心深い人は、頭で考えすぎることで神の最善から自分を遠ざけてしまいます。けれども、赤ん坊はお母さんが与えるものは何でも受け取ります。哺乳瓶でも何でも吸い付きます。赤ん坊は歩けませんが、お母さんが運んでくれます。赤ん坊は自分で着替えられませんが、お母さんが着替えさせてくれます。赤ん坊は話すことさえできません。ですから、御霊のいのちに生きていれば、私たちにできないことを神はさせて下さいます。私たちは神に背負われています。神が私たちを装って下さり、話すことばを与えて下さいます。私たちは皆、赤ん坊のような単純さを持つべきです。