スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(七) 私たちの復活のキリスト

テキスト 使徒四章

私たちの栄光のイエスさまが復活のキリストであるという事実のゆえに、今日私たちは神をほめたたえます。私たちのうちで自分のなかに住まわれてる御霊の力を味わい知った者は、エマオの途上で復活の主と出会った二人の弟子が心の燃えるのを感じたように、心のなかで何かが燃えていることを知っています。

三一節に注目して下さい。「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き」とあります。この箇所から、祈りには多様な種類があることが分かります。祈り方も声の上げ方も知らない教会では、その場所が震い動くことは絶対にありません。そういう場所にいたら、「イ・カボデ(栄光がイスラエルから去った)」(第一サムエル四・二一)と玄関の上に書いても構いません。神が御力を現して下さるのは、祈りと力と賛美の秘密を人が理解した時だけです。ある人は「私は心のなかで神を賛美します」と言います。でも、心のなかに賛美が豊かに溢れていれば、自然と口から賛美の言葉が溢れてくるものです。

ロンドンで大規模なビジネスをしている男性がいました。彼は熱心に教会に通う人でした。その教会は豪華に装飾されていました。彼の座席には素敵なクッションがついていて、礼拝中に深々と座って居眠りするのにうってつけでした。彼はビジネスでは成功していましたが、心には少しも平安がありませんでした。ところが、彼はある時、いつも幸せそうにしている少年と出会いました。彼は絶えず飛び跳ねたり口笛を吹いたりしていました。ある日そのビジネスマンは少年に言いました。「私のオフィスに来てくれないか。」少年がオフィスに来くると彼は尋ねました。「いったいどうして、君はそんなにいつも口笛を吹いて楽しそうにしていることができるんだね。」少年は「僕はそうせざるを得ないんです」と答えました。「どこでその活力を得ているのかね」と彼は聞きました。「ペンテコステ派の集会からです。」「それはどこにあるのかね。」少年は彼に教えました。彼が次にしたことは、その集会に出席することでした。主はそこで彼を打ち砕かれ、短期間で彼は全く変わりました。そんなことがあって少ししてから、ある日彼は、自分が変化したのを発見しました。以前の彼はビジネスのことでいつも頭がいっぱいでしたが、そうはならずに実際に口笛を吹いたり飛び跳ねたりしていました。彼の態度も生活もまるっきり変わったのでした。

叫びというものは心のなかにそれがなければ出てこないものです。最初に心の内側に神の力が働いていなければなりません。心を変え、生活を新たにして下さるのは主です。そして目に見える外側の証拠が現れる前には、必ず神のいのちが内側に流れ込んでいなければならないのです。時々私は人々に言います。「昨晩は集会に来ませんでしたね。」彼らは答えます。「はい。霊はそこにいたのですけども。」私は彼らに言います。「ええ。今度はからだも一緒に来てくださいね。霊がたくさん集まってもからだが集まらない集会はしたくありません。あなたにはきちんと来て、神に満たされていただきたいのです。」すべての人々が集まって祈り、賛美する時、初代の弟子たちがそうすると何かが起きたように、素晴らしいことが起こります。集まりに来る人々は心に火を受け、もう一度来たいと願うようになります。ですが、あらゆることが形式張っていて、無味乾燥で、死んでいる場所では、人々は何も受けることができません。

ペンテコステが初めに起きた時、その力は人を束縛から解放するものでした。神は私たちにすべての点で自由になるようにと願われています。誰もが偽物に飽き飽きしています。本物が必要です。彼らは生けるキリストを住まわせている人々、聖霊の力に満たされている人々を見たいと願っているのです。

私はたくさんの手紙や電報を受け取りましたが、ある時には知らせを受けて私が到着すると、もう手遅れだと言われたことがあります。私は「そんなはずはありません。神が私を手遅れのところに送られたことはありません」と言いました。私がそこへ行くと、神は私がこれまでに見たことのないみわざを起こして下さるということを示されました。私が行った場所で出会ったのは知らない人たちばかりでした。紹介されたのは無力に寝かされている若い男性でした。彼には希望がありませんでした。医者がその朝彼を診察して、あと一日のいのちだろうと宣告されたところでした。彼は横になって顔を壁に向けていました。そして私が話しかけると、こうつぶやきました。「もうどうにもならない。」彼の母親はここ何週間も、ベッドのシーツを取り替えるためには彼を抱きかかえなければいけなかったと言いました。彼はあまりにも衰弱していたので、一つの場所から動くことすらできませんでした。

その若者は言いました。「心臓がとても弱っています。」私は彼に保証しました。「神はとこしえにあなたの心の岩、あなたの分の土地です。あなたが神を信じるなら、今日でもこのみことばの通りになります。」

私たちのキリストはよみがえられました。私たちのなかに住まわれているのは生けるキリストです。私たちはこの真理をただの理論として持っているのではいけません。キリストは御霊の力によって、私たちの内側でよみがえられなければならないのです。キリストを死者の中からよみがえらせた力は、私たちにもいのちを吹き込みます。そして、この栄光ある復活の力があなたの中で満ち満ちたものとなる時、あなたはあらゆる弱さから自由にされ、主にあって、その大能の力によって強められるのです。復活の力が今日あなたのものとなることを神は望んでおられます。いかがでしょうか。今ここであなたの相続分を受け取って下さい。

私はこの人たちに言いました。「私はあなたの息子さんが今日起き上がることを信じています。」彼らは笑うだけでした。かつてイエスさまの弟子たちが見たしるしと不思議が今日でも起こることを、人々は期待していません。神は変わってしまわれたのでしょうか。それとも私たちの信仰が弱くなって、イエスさまが約束された最も偉大なわざが行われることを期待しなくなったのでしょうか。私たちはハープのマイナーキーを弾いているのではいけません。私たちのメッセージはコンサートに合わせて調和した音を奏でなくてはいけません。聖書の中に書かれていることから外れてはいけないのです。

冬でした。私は両親に言いました。「この男の子の着替えをここに持ってきて下さい。」彼らは私の言うことを聞き入れませんでした。この子は死ぬと予期していたからです。でも、私は神を信じることにしました。ローマ四・一七にアブラハムについてこう書いてあります。「(私はあなたをあらゆる国の人々の父としたという約束は、)彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。」神はこのことを私たちが理解できるように助けて下さいます。今こそ、人々が信仰によって声を上げる方法を知るべき時です。死者をよみがえらせ、立ち上がらせることを造作もなくされる私たちの神の永遠の力について、じっと考えるべき時です。信仰の叫びを上げないために、神の力に満たされた信仰の巨人になれなかった人に何人か出会ったことがあります。至る所で、祈っていても倒れてしまう人々を見かけますが、彼らがそうなるのは、ただ単純に声を出さずに息だけで祈りの言葉を語っているからです。それでは勝利を得ることはできません。勝利を得ること、そして悪魔の顔の前で声を上げることを学ばなくてはいけません。「それはなされている!」声を上げることを学んだ人は疑いを持つことがあり得ません。声を上げる適切な方法を知るならば、物事は違ったものとなり、とてつもないことが起こります。二四節にこうあります。「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。」ここに書かれてある祈りは、声を出す祈りだったに違いありません。私たちは神が私たちにいのちを持たせようとされていることを知る必要があります。この世界でいのちをその中に持っているものがあるとすれば、それは私たちがあずかっているこのペンテコステ派のリバイバルです。私は異言を伴う聖霊のバプテスマを信じています。聖霊のバプテスマを受けた人は誰でも御霊が話させてくださる通りに異言で話すようになると信じています。私は聖霊を信じます。あなたが御霊で満たされるなら、あなたはいのちを豊かに持つようになって、腹の底から生ける水が流れ出るようになります。

やっとのことで両親にこの若い男性の衣服を持ってきてもらうよう説得して、衣服をベッドに置きました。自然の観点からすれば、この人は死につつありました。私は苦しんでいるこの人に言いました。「神が私にこう言われました。私が両手をあなたに置くと、この場所が聖霊で満たされて、ベッドは揺れ動き、あなたも揺れ動いて、聖霊の力によってベッドに寝ていられなくなり、あなたは自分で着替えて、強くなります。」私は信仰によってこのことを彼に言いました。私はイエスの御名によって彼に手を置きました。すると瞬間的に神の力が下って、その場所が聖霊で満たされました。私は立っていられなくなり、床に倒れました。少し経ってからその場所がぐらぐらと揺れましたが、それ以外のことは私は知りません。私の近くでその若者の歩く音がして、こう言っているのが聞こえました。「栄光あれ、主に! 栄光あれ、主に!」

彼は自分で着替えて叫びました。「神が私をいやされた!」父親も床に倒れ、母親も床に倒れ、その場にいた他の人も床に倒れました。神はその日、この一家全体を救い、この若者をいやすために、御力を現されました。私たちに必要なのはキリストのよみがえりの力です。この若者は今日、福音を宣教しています。

何年もの間、私たちは神が御力を現して下さるのを切望してきました。そして、神をほめたたます。主は御力を現して下さっています。聖霊の流れはどこででも現れます。それほど昔のことではありませんが、私がスイスにいた時のことです。ペンテコステ派のメッセージがまだ伝えられていない場所で私は福音を宣べ伝えました。今日では九つのペンテコステ派の教会が立って、神の祝福を受けて存続しています。世界中で同じことが起きています。このペンテコステ派の大躍進は活発です。飢え渇いた心に神が御霊を注がれない場所は今やほとんどありません。神はすべての肉なる者に主の御霊を注がれると約束されました。そして神の約束は反故にされることがありません。私たちのキリストはよみがえられました。主の救いは町の片隅でなされたことではありません。まことに主は私たちのためにカルバリに行かれた栄光の方でした。それは、主が私たちを恥ずべき隠されたことから自由にして下さるため、主が恵みによって私たちを変えて下さるため、そして私たちをサタンの圧制から救い出して神の栄光に満ちた力へと移して下さるためなのです。私たちの復活のキリストにひとたび触れていただければ、死人がよみがえるのです。ハレルヤ!

ああ、この私たちの素晴らしいイエスさま! 主は来られて、私たちの内に住まわれました。私たちに聖霊のバプテスマを授けて、あらゆることを変えて下さったのは、イエスさまです。私たちは神にささげられる一種の初穂となり、キリストの御跡を歩み、その御力に生きることによって、正真正銘の初穂であるキリストに似た者とされていくのです。他のすべてのものは無益となり、役に立たなくなり、崩れ去っていくに違いないと私は感じています。私たち自身を優れた者とする考えは、キリストを栄えさせるために、衰えていかなければなりません。そうして、私たちは御霊の力の下にいっさいのものを従わせる新しい状態で生きるようになります。

あなたは大胆に神からの相続分を受け取りますか。大胆に神を信じますか。大胆に神のことばに書かれていることに立ちますか。何が書かれているのでしょうか。もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とあります。あなたは麦としてふるいにかけられます。あなたは何か思いがけないことが起こるようにして試されます。あなたは神に自分のすべてをゆだねて信頼しなくては乗り切れない場所に行くことになります。神が許可されたことを超えて試みを受けるということはありません。試みが来る時にはいつでも、神が試みの中であなたと共にいて、あなたを解放しようとしておられます。そして試みを通過すると、神はあなたを金のように取り出されます。すべての試みは、あなたが神にあって、もっとすぐれた位置に至るためのものです。信仰をためす試みはあなたを導いて、ついに次の試みで神の信仰が立ち現れるようになると知るでしょう。人は、その人のうちにあるキリストのよみがえりの力なくしては、勝利を獲得できません。「私がこれやあれをした」と言えません。何事においても神に栄光を返すことを願うようになります。

自分の立っている土台をあなたが確信していれば、また、あなたが自分のうちに生けるキリストがおられることを頼みにしていれば、事態が悪化しているように見えても笑っていることができます。神はあなたをキリストにある土台にしっかりと据えられます。そして聖霊に満たされる時に初めて、あなたはキリストにあって堅く立って動かされることがなくなるのです。

主イエス・キリストは言われました。「私には受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるためには、どんなに苦しむことでしょう。」(ルカ一二・五〇)主は確かにその道で苦しまれました。ゲッセマネで。裁判の場で。それから十字架上で。十字架上で主は、とこしえの御霊によって、傷のないご自身を神におささげになりました。神は私たちを同じように導かれます。聖霊がその道を一歩一歩導かれます。神はイエスさまを、空の墓、昇天、栄光、天の御座へと導かれました。そして、私たちもその栄光を共にし、その御座を共にするまでは、神の子である方は決して満足されないのです。