スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(四) よくなりたいですか

テキスト ヨハネ五・一〜二四

神のことばにはどんな人をも変えることのできる強い力があると、私は信じています。神のことばにそれほどの力があるのに、明かされるべきことが十分に明かされていません。神の口から出ることばには、それを成し遂げる力があります。詩篇の著者はこう言っています。「主はみことばを送って彼らをいやし」(詩篇一〇七・二〇)。神のことばが徐々に力を失ってきていると思いますか。私の答えはノーです。そうではなく、神のことばは聖書の時代と同じように、今日でも物事を動かすことができるのです。

詩篇の著者はこう言います。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」また「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇一一九・六七、七一)それで、もし私たちが苦しみによって、人がパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる、と学ぶとしたら、苦しみに会った人たちは、恵み深い目的に仕えるようになるでしょう。けれども、私があなたに知っていただきたいのは、神のことばによってきめれられた、純粋ないのちがあるということです。信仰によってそのいのちのなかにとどまるなら、あなたの霊がサタンの束縛から自由になって神の栄光を現すのと同じように、あなたのからだが病気から自由になって神の栄光を現すことができるのです。

さて、池の水が動くのを待って、大勢の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが池の回りに伏せっていました。イエスさまは全員をいやされたでしょうか。イエスさまはその池の回りにいたほとんどの病人をいやされませんでした。多くの人が池にばかり目を向けていて、イエスさまに目を向けなかったことは疑いようがありません。今日でも、見える事柄にいつも信頼を置いている人が多くいます。彼らが自然の物事ではなく神に目をとめさえするなら、どんなに早く助けを受けられるでしょうか。

疑問を持たれるかもしれません。救いといやしはいったいすべての人のためのものなのか、と。救いといやしは、自分の相続分を得ようとする、まさしくすべての人に与えられます。スロ・フェニキヤの女が、自分の娘から悪霊を追い出して下さるように求めた話を覚えておられると思います。イエスさまは彼女に言われました。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」いやしと解放のことを主は「子どもたちのパン」と言われたことを注意して下さい。ですから、あなたが神の子どもであれば、間違いなく自分の相続分をいただくことができるのです。

スロ・フェニキヤの女は、後に彼女がいただけることになるものを主に願って言いました。(マルコ七・二四〜三〇)「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」イエスさまはこの女の信仰を見て驚かれて、こう言われました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」からだの健康はキリストの血によって買い取られたものであるにもかかわらず、今日では残念なことに、神の子どもとされた多くの人が、その健康を拒んで、うち捨てています。その一方で、かつてと同じように、罪人たちが押しかけて食卓の下のパンを拾っている状態です。彼らはいやしがからだの健康だけのためにあるだけでなく、霊とたましいのためでもあることを理解しています。スロ・フェニキヤの女が家に帰ると、悪霊はもう娘から出ていました。今日でも、パンがあります。いのちがあります。そして、からだの健康があります。これらは、神のすべての力強いことばによって、神の子どもたち全員のために差し出されているものです。

みことばは、あなたのからだからあらゆる病気を追い出すことができます。それはキリストにあるあなたの相続分なのです。キリストは私たちのパンであり、いのちであり、健康であり、いっさいのものをいっさいのもので満たして下さる方です。たとえあなたが罪の深みにいたとしても、悔い改めて神に立ち返るなら、主はあなたを赦し、きよめ、受け入れて下さるのです。ヨエル書の最後でこのように約束されています。「私がきよめたことのない彼らの血を、私はきよめよう。」(ヨエル三・二一 KJV)このみことばは、主が私たちの内側に新しいいのちを吹き込むと言われたのと同じです。神の御子であるイエス・キリストのいのちは、人の心と思いをきよめることができ、刷新の範囲は霊とたましいとからだの全面に及びます。

人々が池のまわりにいます。この男性は長い間そこにいました。彼の苦しみは三十八年も続いていました。時折機会が来ると、み使いが水を動かしましたが、彼が行きかけると、もうほかの人が池に降りて先にいやされていくので、彼の心は打ちひしがれていました。しかしある日、イエス様が池を通りかかって、彼がそこに悲しみに沈んで伏せっているのを見て、「よくなりたいですか」と聞かれました。イエスさまはそう言われました。そして、イエスさまのことばは、とこしえからとこしえまで滅びません。これはあなたへのことばでもあるのです。今日、みじめで試みにあっている人に向けられたことばです。このみじめな病人のように、「私は今まで何度も機会を失ってきました」と言う人もいるかもしれません。でも、そんなことを考える必要は全くありません。「よくなりたいですか。

長年病に苦しんでいた女性のところに私が訪れた時のことです。彼女はリウマチに苦しめられて、二年間ベッドに寝たきりでした。私は彼女に言いました。「どうしてあなたはここに寝たきりになっているのですか。」彼女は言いました。「私は肉体のとげを持っていると思うことにしました。」私は言いました。「肉体のとげを持たなければならないなんて、あなたはどれだけ素晴らしい義の賜物を味わったというのですか。あなたは高ぶる危険があるほどに、そんなにも豊かな神の啓示を受けたのですか。」彼女は言いました。「私は、主が苦しみを下さったと信じています。」私は言いました。「あなたを苦しめることが主のみこころだと信じているのに、あなたはできるなら早くその状態から治ろうとしているんですね。医者の処方した薬のボトルがそこら中に置いてありますよ。あなたは隠されたところから出てきて、自分は罪人だと告白して下さい。あなたが自分で自分を義とすることをやめるなら、神はあなたに働きかけてくださいます。神があなたを苦しめるほどあなたは自分をきよくしているという考えは捨ててしまいなさい。あなたの義ではなく、あなたの罪が病気の原因です。病気は義によって起きるのではなく、罪によって起きるのです。」

キリストの血には、いやしとすべての捕らわれ人の解放があります。神はご自分の子どもたちがみじめな人生を送ることを願っておられません。悪魔から直接来る苦しみもあるからです。完全な贖いはカルバリで成し遂げられました。イエスさまが私の罪を負われたので、私はあらゆるものから完全に自由にされていることを信じます。私が大胆に信じるなら、あらゆる罪から潔白な者とされます。主ご自身が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負われたのです。だから私が大胆に信じるなら、いやされるのです。

池にいたあわれで無力な男を見て下さい。「なおりたいですか。」けれども、そのためには困難がありました。その男は片方の目で池を、もう片方の目でイエスさまを見ていました。こんなふうにそれぞれの目で違うものを見ている人が今日でも大勢います。彼らは片方の目で医者を、もう片方の目でイエスさまを見ているのです。あなたがただイエスさまだけを見て、両目を主のほうに向けるなら、あなたの霊、たましい、からだがくまなく完全になります。信じる者を義とし、あらゆるものから自由にするのは、生ける神のことばなのです。子が自由にするなら、その人はほんとうに自由なのです。

「ああ、信じることさえできたらいいのに」と言うかもしれません。主は理解しておられます。イエスさまは彼が長い間苦しんできたことをご存知です。主はあわれみに満ちておられます。主は肝臓の問題もご存知です。主は腫れ物があることもご存知です。主は神経痛のこともご存知です。主がご存知ないことは何一つありません。主はあなたに対して、主ご自身が恵み深くあわれみに満ちておられることを示す機会を求めておられるだけなのです。しかし、主はあなたを励まして神を信じるようにさせたいのです。あなたが信じさえすれば、あなたは救われいやされます。イエスさまがあなたの背きの罪のために刺し通され、あなたの咎のために砕かれたこと、彼へのこらしめがあなたに平安をもたらし、彼の打ち傷によってあなたがいやされていること、それもまさしく今ここでいやされていることを、大胆に信じてください。あなたがうまくいかなったのは、主を信じなかったからです。主を今すぐ呼び求めて下さい。「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。」(マルコ九・二四)

私がカルフォルニアのロングビーチで、友人と一緒にホテルに泊まっていた時のことです。友人が足の病気で苦しんでいる医者のことを教えてくれました。彼は足の病のせいで六年間、外出できませんでした。私たちが彼の部屋へ行くと、四人の医者がそこにいました。私は「お医者さん。どうもお取り込み中のようですね。また後日伺います」と言いました。別の時にそこを通りがかると、聖霊が「彼の所を訪問しなさい」と語られました。かわいそうな医者です! 彼は確かにベッドに寝たきりでした。彼は「六ヶ月間もこんな状態です。誰も私を治せません」と言いました。私は「神の全能の力が必要です」と言いました。人々は自力で彼らの人生の破れを繕おうとしますが、神なしでは何もできません。彼に私は主についてしばらく話し、それから祈りました。私は大きな声で「イエスの御名によって彼から出て行け」と命じました。医者は「完全に去りました!」と叫びました。

そこでの集会で、老人が息子を講壇に連れて来ました。老人は「息子はほとんど毎日発作が起きるのです」と言いました。また、癌におかされた女性がいました。ああ、罪が何という事をしたのでしょう! 神が主の民をエジプトから導き出した時のことがこう書かれています。「その部族の中でよろける者はひとりもなかった。」(詩篇一〇五・三七)病気がありませんでした! すべての者が神の力でいやされました! 今日でも人々がそうなることを主は望んでおられると、私は信じています。

私が癌をわずらっている姉妹のために祈ると、彼女は言いました。「私は自由になりました。神が私を解放してくださったことがわかります。」それから人々は発作持ちの男の子を連れて来ました。私はイエスの御名によって悪霊に去るよう命じました。それから私は糖尿病をわずらう医者のために祈りました。翌日の夜の集会では会場はいっぱいになりました。私は昨日の医者に呼びかけました。「さあ、お医者さん。糖尿病はどうですか。」彼は「もうなくなりました」と答えました。私は老人に言いました。「息子さんはどうですか。」老人は「あれから発作が消えました」と答えました。私たちには祈りに答えて下さる神がいます。

池にいたこの男を永遠までの証しとするのがイエスさまの意図でした。彼が両目をイエスさまに向けた時、主は彼に言われました。「不可能なことをしなさい。起きて、床を取り上げて歩きなさい。」イエスさまは別の場所で、手のなえた男に不可能な要求をしました。手を前に伸ばせと。その男は不可能なことをしました。手を伸ばし、するとすっかり直りました。同じように、この弱り切った男も不可能を行いました。彼が起き上がり始めると、神の力が自分の中に流れ込んでくるのを感じました。彼は床を取り上げて歩き始めました。それは安息日のことでした。周りには主がなさったことを思うよりも、日を守ることをもっと大切だと考えるような人が少なからずいました。そして彼らはつぶやき始めました。神の力が現れる時にはいつも偽善者からの反対がつきものです。イエスさまはこの男の過去の行いをすべてご存知だったので、彼に再び会った時に主はこう言われました。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

罪と病気の間には密接な関係があります。どれだけの人が、自分たちの病気が罪の直接的な結果だと知っているでしょうか。罪の中に生きているのに祈ってもらいに来ることがないようにと、私は望んでいます。しかし、あなたが神に従い、罪を悔い改め、それをやめるなら、神はあなたに会って下さいます。そうすれば、あなたの病気もあなたの罪も残りません。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」(ヤコブ五・一五)

信仰とは、主が通られるための開いたドアそのものです。こうは言わないでください。「私は信仰によっていやされた」と。信仰が救うのではありません。神がその開いたドアを通って救いに来られるのです。いやしも同じようにして来ます。あなたが信じると、いやしが同じドアを通ってきます。あなたが信じると、キリストの力が来るのです。いやしは神の栄光を現すためのものです。わたしがここにいるのは、私が死にかけていた時に神が私をいやされたからです。それで私は世界中をまわって、この全面的な贖いを宣べ伝え、私をいやしてくださった素晴らしいイエスさまの御名の栄光を現すために、私のできる限りのことをしています。

「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」主は別の場所で私たちに、人から出て行った悪霊について教えられました。悪霊が出て行った家に戻ってみると、家は掃除してきちんと片付いていましたが、新しい居住者はいませんでした。そこで悪霊は自分より悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住み着きます。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。主はあなたが野球やレースを見に行くためにいやして下さるのではありません。主がいやして下さるのは神の栄光のため、そして今後のあなたの人生が神の栄光を現すものとなるためです。その人は以前の生活のままでした。彼は神をほめたたえませんでした。彼は聖霊に満たされることを求めませんでした。だから、後の状態が初めよりもさらに悪くなったのです。

主は私たちの心にある動機や願いをきよめて下さいますから、私たちはただ一つのこと、すなわち主の栄光だけを求めるようになります。以前私がある場所に行った時、主が「これは私の栄光のためだ」と言われました。若い男性が長い間病気でベッドから出られず、全く希望のない状態でいました。彼はスプーンだけで食事を取っていて、着替えは全くしませんでした。天気が湿っていたので、私はその家の人達に言いました。「この若い人の衣服を火の近くで乾かしていただけませんか。」最初は彼らは私の言うことに耳を貸しませんでしたが、しつこく私がお願いしたので、ついに彼らは衣服を取り出して干してくれました。衣服が乾くと私はそれを持って病人の部屋に入りました。

主は私に言われました。「あなたはこのこととは何の関係もない。」それで私はただ床にひれ伏していました。主はこれからこの場所を、主の栄光で揺るがすと私に示されました。ベッドが文字通り揺れ動きました。私がイエスの御名によって若者に手を置くと、御力が下って私は顔から床に倒れました。十五分もすると若者は起き上がってそこら中を歩き、神をほめたたえました。彼は自分で着替え、それから部屋を出て彼の両親がいる部屋に行きました。彼は言いました。「神が私をいやされました。」父も母も、その部屋に急激に下った神の力によって倒れて床に伏しました。その家には精神病で保護施設にいたことのある女性も住んでいて、精神状態が非常に悪いので家の者は施設に戻そうとしていました。ところが、神の力はその女性をもいやしたのです。神の力は聖書の時代も今日も全く同じです。人々は立ち戻る必要があるのは、かつての道、かつてと同じ信仰です。神のことばの一つひとつを「主がそう言われる」そのままに信じることです。主の御霊は現代にも動いておられます。神が近づいておられます。その流れの上に乗るためには、神が言われることを何でも受け入れなければなりません。

「よくなりたいですか。」こう尋ねられるのはイエスさまです。あなたが主に答えて下さい。主は聞かれ、主は答えて下さいます。