スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(三) 御名の力

テキスト 使徒三・一〜一六

イエスの御名を通してどんなことでも可能になります。神はイエスさまを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それはイエスの御名によってすべてのものがひざをかがめるためです。世界のあらゆるものに打ち勝つ力がイエスの御名にはあるのです。イエスの御名との素晴らしいつながりを私は待ち望んでいます。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていません。

私はその御名にある力と徳と栄光があなたに注ぎ込まれて、その素晴らしさを実感するようになることを望んでいます。六人の人が、ある病気の男性の家に祈りに行きました。彼は監督派の代理牧師でした。彼はベッドに寝たきりで、自力で食事をする力もないほどに弱り果てていました。彼はいやしに関するトラクトを読み、病人のために祈ってくれる人々がいるのを聞いて、友人に頼んで信仰の祈りのできそうな人々を呼んでもらいました。ヤコブ五・一四に従って、彼は油を注いでもらいましたが、すぐにはいやしの結果が現れなかったので、彼はひどく泣きました。六人は病人が何も変わらないままベッドに寝ているのを見て、落胆しながら部屋を出ました。

彼らが外に出た時、六人のうち一人が言いました。「まだ試していないことがあります。皆さん、私と一緒に戻ってそれをやってみていただけませんか。」皆で一緒に戻ることにしました。この兄弟は言いました。「イエスの御名をみんなでささやきましょう。」彼らがこの尊い御名をささやき始めた時には、まだ何も起こりそうにありませんでした。しかし彼らが「イエスさま! イエスさま! イエスさま!」とささやき続けると、御力が下り始めました。神が働き始められるのを見て、彼らの信仰と喜びは増し加わり、彼らは御名をますます大胆にささやきました。そうしていると、ついに病人がベッドから起き上がって、自分で着替えました。秘密は次のことです。六人は病人に目を向けたのではなく、ただ主イエスさまご自身に取り扱われることに目を向け、そして彼らの信仰が主の御名にある力をつかんだのです。ああ、もし人々がこの御名にある力の素晴らしさを認めさえすれば、どんなことが起こるかしれません。

イエスの御名を通して、御名の力を通して、私たちは神に近づくことができることを私は知っています。イエスさまの御顔こそがその場所全体を栄光で満たすのです。世界中でその御名をあがめる人々がいます。そして、ああ、その御名を口にすることは何という喜びでしょうか!

ある日、私は山に祈りに登りました。私は素晴らしい一日を過ごしていました。ウェールズにある高い山の一つでした。この山に祈りに登った人が、素晴らしい主の御霊に触れられて、天使のように顔を輝かせながら帰ってきたという話を聞いたことがありました。その町の人は皆、その話をしていました。私がその山に登って主の臨在のなかで一日を過ごしていた時、主の素晴らしい御力が私を包み、浸し、満たしているように思われました。

この時より二年前、私たちの家にウェールズから二人の若者が来たことがありました。彼らはごく普通の若者でしたが、神に対してはとても熱心になりました。二人は私たちのミッションに参加し、神のみわざを何度か見ました。彼らは私に言いました。「もし主があなたを導いて、ウェールズで私たちのラザロを起き上がらせても、私たちは驚かないと思います。」彼らの説明によると、彼らの集会のリーダーは日中にスズ鉱山で働いて、夜に説教をしていました。ところが、結果的に彼は倒れてしまい、肺結核を患って、四年間病気のまま自分でスプーンを持てないほどに弱り切っていました。

山の頂上にいる間、私は変貌山の場面を思い起こしました。そして、主が私たちを栄光に導き入れるただ一つの目的は、山を下りてふもとでさらに偉大な働きをさせるためだと感じました。

異言と解き明かし:「生ける神は、神のものを相続させるために私たちを選ばれた。働きのために私たちを整えるのは主ご自身である。私たちの働きは人から出たものではなく神から出たものである。」

その日、山の頂上で主は私に言われました。「あなたにラザロを起き上がらせに行ってもらいたい。」私は一緒に来ていた兄弟にこのことを告げ、私たちは山を下りてふもとに行き、一枚のはがきを書きました。「今日山で祈っていると、神が私に、行ってラザロを起き上がらせなさいと言われました。」送り先は二人の若者が以前に教えてくれた男性のところでした。はがきを送った男性のいる家に、私たちも向かいました。そこに到着すると、その男性が私を見て「この手紙を送ったのはあなたですか」と言いました。私は「そうです」と答えると、彼は「こんなことを私たちが信じるとでも思っているんですか。ほら、お返しします」と、はがきを投げて返しました。

彼は召使を呼んで言いました。「この人を案内してラザロを見せてあげなさい」それから彼は私に言いました。「彼を見た途端にあなたは帰る支度を始めるでしょうよ。引き止めはしません。」彼が言っていることは、自然の観点からすれば正しいことでした。その人は弱り果てていました。骨と皮しかないほど痩せこけていました。生きているようには見えませんでした。完全に衰弱していました。

私は彼に言いました。「大声で叫んでもらえますか。ほら、エリコでは城壁がまだ立っているうちから人々は叫んだでしょう。あなたが信じさえすれば、神はあなたのために勝利の力となってくださいます。」でも私は彼を信じさせることができませんでした。そこには信仰のかけらさえもありませんでした。彼は心の中から何もかもを締め出していました。

神のことばはむなしく地に落ちることはないと学ぶことは、まさに祝福です。人間の計画に耳を傾けてはいけません。あなたが人間的な観点から落胆することなく、神への信仰を堅く保っていれば、神は力強く働くことがおできになります。私がはがきを送った男性のところに戻ると、彼は「もうお帰りになりますか」と尋ねました。

私は、見えるものによっては動かされません。私は自分が信じていることによってのみ動かされます。私は次のことを知っています。人は信じれば、見えるものに目を向けなくなります。信じていれば、何を感じるかに気をとめません。神を信じる者は、その信じているものを持つようになります。ペンテコステ派の信仰に入った人は誰でも、あらゆる物事に対してただ笑って神を信じることができます。ペンテコステ派の働きは世界の他のどんな働きとも違ったものがあります。聖霊が注がれる時、神が現実であることをあなたは知ることができるでしょう。聖霊が働かれる通り道があるところならどこででも、御霊の賜物が現れるでしょう。逆に御霊の賜物の現れがないところでは、神が本当に臨在されているんだろうかと私は疑問にさえ思います。ペンテコステ派の人々はペンテコステの集会以外のものでは満足できないのです。私たちは教会が提供するおもてなしは欲しません。神が入って来られる時、神ご自身が私たちをもてなして下さいます。*王の王、主の主である方のもてなしを受けましょう! *ああ、素晴らしいことです。

そのウェールズの町には難しい状況がありました。その人たちを信じさせるのは不可能に近いことでした。「もう帰る用意はできましたか」と私は聞かれました。しかし、一人の男性と一人の女性が私を引き留めて、彼らのところに来て泊まるように言ってくれました。私は「あなたがたのうちで祈れる方が何人おられるのかを知りたいです」と言いました。誰も祈りたがりませんでした。この気の毒な病人の解放のために私と一緒に祈る人が七人集まるでしょうか、と尋ねました。私たちを引き留めた二人に、私は言いました。「まずあなたたち二人がいますね。それから私の友人と私自身。あと三人が必要です。」私はその人たちに、明日の朝には彼らの中の何人かが彼らの持っている特権に目覚めて、私たちと一緒にラザロが起き上がるための祈りに参加するようになると信じている、と告げました。人の意見に左右されても何にもなりません。神がそうだと言われれば、それを信じるべきなのです。

私は今夜は何も食べないと彼らに言いました。ベッドで眠りにつこうとすると、悪魔が寝たきりのあわれな病人の上に置いたあらゆるものを、私の上にも置こうとしているような感じがしました。夜中に私は目が覚めました。咳がひどく出て、結核患者のような症状が出ていました。私はベッドから這い出て、床に這いつくばって、悪魔の力から解放されるように神に呼び求めました。私は家中の者が飛び起きるほど大声で叫びましたが、誰も起きてきませんでした。神はついに勝利を下さいました。それで私はいつも通り自由になってベッドに戻りました。朝五時に主は私を起こして言われました。「私のテーブルで食べるまではあなたは食事をしてはいけない。」朝六時になって主は私にこう言われました。「そして私は彼を起き上がらせる。」私は隣で眠っている友人をひじでつつきました。彼は「うう」と言いました。もう一度ひじで彼をつついて私は言いました。「聞いたかい。主は彼を起き上がらせると言われたよ。」

朝八時になって彼らは「少し気分転換したらいかがですか」と私に勧めました。でも、私にとって祈りと断食は最高の喜びでした。あなたにとっても、神に導かれた祈りと断食が最高の喜びになりますように。ラザロの家に私たちが行くと、集まったのは全部で八人になりました。神がいつも祈りに答えられないなんて、誰も私に証明してみせることはできません。主はいつも祈り求めた以上のことをしてくださいます。主はいつも私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方です。

私は絶対に忘れません。その病人の部屋に入った時に私たちの上にどのようにして神の御力が現されたかを。ああ、それはもう、うっとりすることでした。私たちはベッドを輪になって囲んで、一人の兄弟に病人の片手を握ってもらい、私がもう片方の手を握り、それから私たちは互いに隣の人と手をつなぎました。私は言いました。「これから私たちは祈りません。ただイエスの御名を使います。」私たちは皆ひざまずき、ただ一つのことばをささやきました。「イエスさま! イエスさま! イエスさま!」神の御力が下ってきて、それから消えました。五回、神の御力がくだり、五回目には残りました。しかしベッドの上の病人は動きませんでした。二年前に誰かが来て、彼を起き上がらせようとしたことがありましたが、悪魔はその時の失敗経験を使って、ラザロに今回も無理だと思わせようとしていました。私は言いました。「私は悪魔の言うことなんか気にしない。神があなたを起き上がらせると言ったら、そうならなければいけないんだ。神がイエスさまについて言われることの他はみんな忘れてしまいなさい。」

六度目に御力が下ると、病人の唇は動き始め、涙がこぼれ始めました。私は彼に言いました。「神の力がここにあります。それはあなたのものですから受け入れて下さい。」彼は言いました。「私は心の中に苦々しい思いを持っていました。私は神の御霊を悲しませてきたことを知っています。私は今ここで無力です。手を上げることも、スプーンを口に運ぶこともできません。」私は言いました。「悔い改めなさい。神はあなたの願いを聞き入れて下さいます。」彼は悔い改めて叫びました。「ああ神よ、このことをあなたの栄光へと変えて下さい。」彼がこう言うと、主の御力が彼のからだに流れ込みました。

私はこの話の顛末をありのままに話して、何も付け加えることのないように主にお願いしました。というのも、神は誇張や大袈裟を祝福されないことは私には分かっているからです。私たちがもう一度、「イエスさま、イエスさま、イエスさま」と言い始めると、ベッドが揺れ、その人も揺れました。私はその場にいた人々に言いました。「皆さんはもう下の階に降りて行って構いません。これはすべて神のわざです。私は彼を手伝いません。」私が座って見ていると、彼は起き上がって自分で着替えました。私たちは頌栄を歌いながら、彼が階段を歩いて降りるのを見守りました。私は彼に、「さあ、何が起きたのかを話して下さい」と言いました。

ラザロが起き上がったという話ですぐに外が騒がしくなり、ラネリーや他のあらゆる地区から、ラザロに会って彼の証しを聞くために人々がやって来ました。そして神は多くの人に救いをもたらしました。この人は外に出て神がして下さったことを言い広めたので、その結果として多くの人が罪を悟り回心しました。すべてこのことはイエスの御名を通して、イエスの御名を信じる信仰を通して来たことです。そうです。イエスさまによって与えられた信仰が、見ているすべての人の前でこの病人を完全なからだにしたのです。

ペテロもヨハネも無力で、無学で、無知でした。彼らはイエスさまと共にいました。彼らにイエスの御名の力について素晴らしい啓示が与えられたのです。彼らはイエスさまが増やされたパンと魚をその手に持って配りました。彼らはイエスさまと同じテーブルにつき、ヨハネはよくイエスさまの御顔をじっと見つめました。ペテロはよく叱られましたが、イエスさまはそのすべてを通して愛をペテロに示されました。そうです。主はペテロを愛したのです。この分からず屋の頑固者を。ああ、主はなんと素晴らしい愛の方でしょうか! 私は分からず屋でした。私は頑固でした。私は時には手の付けられないかんしゃくを起こしました。それでも主はなんと忍耐強く寛容だったことでしょう。イエスさまとその素晴らしい御名の中にある力が、あらゆる人を変え、あらゆる人をいやすことができると、私はここであなたにお伝えします。

あなたがイエスさまを神の小羊として受け入れるなら。また、イエスさまを私たちすべての罪をその上に負われた神の愛する御子として受け入れるなら。イエスさまが私たちが自由になるための贖いの代価を完全に支払われたことを受け入れるなら。そうしさえすれば、あなたは、あなたのために買い取られた救いといのちと力との相続人となることができるのです。

あわれなペテロ、あわれなヨセフ! 彼らには金銀がありませんでした! でも彼らには信仰があり、彼らには聖霊の力があり、彼らには神がいました。たとえ他に何が無くとも、あなたは神を自分のものとすることができます。たとえあなたが悪人だったとしても、あなたは神を自分のものとすることができるのです。私は最悪の人が神の力によって救われるのを見てきました。

ある日、私がイエスの御名を宣べ伝えていると、街灯に寄りかかって話を聞いている男の人がいました。彼は街灯の柱で足を支えて立っていました。私たちは野外の集会を終えましたが、その男性はまだ柱に寄りかかっていました。私は「何か病気があるのですか」と彼に声をかけました。彼は私に手を見せました。コートの下にあった手には、銀の柄のナイフが握られていました。彼は不信仰な自分の妻を殺しに行く途中だったと言いました。でも、イエスの御名の力に関する私の話を聞いて、そこから立ち去ることができなくなったそうです。私は「ひざまずいてください」と言いました。人々がほうぼうへ帰っていく広場の一画で、彼は救われました。

私は彼を自分の家に連れて行き、新しいスーツを着せました。私が見たところ、彼には神が用いることのできる何かがあるようでした。彼は次の日の朝、私に言いました。「神がイエスさまを私に啓示されました。あらゆるものがイエスさまの上に置かれているのを私は見ました。」私は彼にいくらかのお金を貸すと、彼はすぐに小さな素晴らしい家を買いました。彼の不信仰な妻は他の男と同棲をしていましたが、彼は妻のために用意したその小さな家に戻ってくるようにと妻を招きました。彼女は来ました。そして以前は敵意と憎しみがあったその場所で、状況全体が愛によって変わりました。神は彼の行く所どこにあっても彼を働き人として立てました。至る所でイエスの御名の力が現されました。神は最も遠くされた者を救うことがおできになります。

ストックホルムでの集会を私は心にずっと忘れずにいて、今も昨日のことのように思い出せます。そこには治療不可能な病人のための施設があって、そこに収容されている人の一人が集会に運ばれてきました。彼は中風を患っており、からだ中が震えていました。彼は二人の人に支えられて、三千人の前で立って講壇まで来ました。私がイエスの御名によって彼に油を注いだ時、神の力が彼の上に下りました。私が彼に触れた瞬間、彼は松葉杖を捨ててイエスの御名によって歩き始めました。彼は階段を降り、すべての人が見ている前でその大きな建物中を歩き回りました。私たちの神にできないことは何一つありません。あなたが一歩踏み出して信じるなら、神はあらゆることをしてくださるのです。

ある人が私に提案しました。「治療不可能な人たちのための施設に行ってはどうでしょう。」残りの一日は彼らが私をそこに連れて行きました。彼らは病気の人々を広い廊下に連れ出しました。主は一時間で、二十四人をいやして自由にされました。

イエスの御名はあまりにも驚きと不思議に満ちています。ペテロもヨハネもその御名にすべての力があることを知ってはいませんでした。美しの門にいた、生まれつき足のなえた人も、それを知りませんでした。その代わり、彼らには信仰がありました。彼らは信仰をもって「ナザレのイエス・キリストの御名によって、歩きなさい」と言いました。ペテロが彼の右手を取って立たせると、たちまち彼の足とくるぶしは強くなりました。そして彼は歩いたりはねたりしながら、神を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行ったのです。どうやってそれが可能になったのでしょうか。イエスの御名によって、イエスの御名を信じる信仰によって、イエスさまが与えて下さる信仰によってです。