スミス・ウィグルスワース『いつまでも増し続ける信仰』

(一) 神への信仰を持ちましょう

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ一一・二三、二四)

私たちが生きている今日は、信仰を強める必要がある時、神を知る必要がある時です。義人は信仰によって生きるようにと神は定められました。どんな重荷を負わされている人でも、信仰を持つことで変わります。神のことばは十分だと私は知っています。神から出るたった一つのことばが国を変えることもできます。神のことばはとこしえからとこしえまで朽ちません。私たちが新生し、この素晴らしい救いに至る入り口は、このとこしえのみことば、すなわちこの朽ちない種なのです。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるものです。これこそが信仰を育てる食物です。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ一〇・一七)

聖書を信頼しないで、聖書から奇跡をすべて取り去ってしまおうという試みが至る所で行われています。ある説教者が言いました。「まあ、イエスさまは事前にその場所に行ってロバをつないでおいて、これこれをするようにと誰かに言いつけておいたんですよ。」しかし、私は言っておきます。神は、わざわざ近くに行かなくてもすべてを用意しておくことがおできになります。神はあなたのために計画されます。そして、神の計画はすべて、平安を与える計画です。あなたが信じるなら、どんなことでもできるのです。

別の説教者が言いました。「五つのパンで人々を満腹させるのはイエスさまにとって簡単なことでした。当時のパンは巨大だったので、単に数千個にちぎれば良かったんです。」でも、彼は忘れてしまっています。五つのパンは、小さな男の子が自分のかごに入れて持ち運んだのです。神が共におられれば、不可能はありません。不可能になるのは、いつでも私たちが不信仰により神を低く見積もるからなのです。

私たちには素晴らしい神がおられます。その道は測りがたく、その恵みと力は限りない方です。ある時、私はベルファストにいて、集会で一人の兄弟と会いました。兄弟は私に言いました。「ウィグルスワースさん、困ったことがあるんです。この五ヶ月間、大変な悲しみにあいました。私の集会でよく祈ってくれた婦人がいました。天からの祝福が私たちの集会に下るようにといつも祈ってくれていました。老齢でしたが、彼女がいるといつも霊的な祝福がありました。ところが、五ヶ月前に彼女は転倒して、ももの骨を折ってしまいました。医者にギプスをつけてもらい、五ヶ月後にギプスを取りました。でも骨がちゃんとくっついていなかったんですね。彼女は転んで、ももを再度骨折してしまったんです。」

私は兄弟に連れられてその婦人の家に行きました。部屋の右端に婦人は横になっていました。私は彼女に「具合はいかがですか。」と聞きました。彼女は言いました。「もう治療できないと診断されて自宅に帰らされました。私はもう年老いているので、骨がちゃんと接合しないとお医者様に言われました。骨に栄養が無くなっているために、お医者様にはもうお手上げだそうです。もう死ぬまで寝たきりで過ごすほかないと言われました。」私は婦人に言いました。「あなたは神を信じていますか。」彼女は答えました。「ええ。あなたがベルファストに来られたと聞いてから、私の信仰がよみがえってきたんです。あなたが祈ってくださるなら、信じます。地上のどんな力も私のももの骨をくっつけられないことは分かります。でも、もう一つ分かるのは、神が共におられれば何もできないことはないということです。」私は「神が今あなたに会われることを信じますか」と言いました。「はい」と彼女は答えました。

人々が神を信じるのを見るのは何とうるわしいことでしょう。神は足の骨が二つに別れていることもすべてご存知でした。私は婦人に言いました。「私が祈ると、何かが起こりますよ。」彼女の夫がそこに座っていました。その老人は四年間、自分の椅子から立ち上がれず、一歩も歩けませんでした。彼は叫びました。「私は信じないぞ。私は信じない。あんたは私を信じさせることは絶対にできない。」「承知しました」と私は言いました。そして、私は主イエスの御名によって両手を婦人に置きました。手を置いた瞬間、神の力が彼女に流れ込んで、彼女は叫びました。「私はいやされました!」そこで私は言いました。「立ち上がるための支えは必要ありません。神ご自身が完全にあなたを支えます。」婦人は立ち上がりました。部屋を行ったり来たりして歩き回りながら、神をほめたたえました。

老人は驚きました。自分の妻に起きたことを見て、叫びました。「私も歩かせて下さい! 私も歩かせて下さい!」私は老人に言いました。「あなたは罪人です。悔い改めて下さい。」彼は大声で言いました。「主よ、私は不信仰なことを言いましたが、心にもないことを言ったのだということをあなたはご存知です。主よ、あなたは私が信じていることをご存知です。」私は彼が心にもないことを言ったのだとは思いません。それでも主はあわれみに満ちておられます。主が私たちの罪に目をとめられたら、私たちにはどこに身の置き場があるでしょうか。条件さえかなえば、神はいつでも私たちに会って下さいます。信じるなら、どんなことでもできるのです。私は老人に両手を置きました。すると力が老人の体を通り抜けて行きました。そして、彼の足が御力を受け取って体を支えられるようになり、四年ぶりに彼は立ち上がりました。彼は部屋中を行ったり来たりして歩きました。それだけでなく部屋を出たり入ったりして歩き回りました。彼は言いました。「ああ、神が今夜私たちにしてくださったことは何と素晴らしいんだろう!」

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ一一・二四)神に望みを持って下さい。そうすれば神から望みが与えられます。そして、あなたが単純な信仰に到達した時に、神はその望みをかなえるためにあなたに会って下さいます。

ある男性が集会に来ました。彼は他の人々がいやされたのを見て、自分もいやされたいと願うようになりました。彼の説明によると、腕がある位置で固まっていて、何年も動かせなくなっていました。「信仰はありますか」と私は尋ねました。彼は十分な信仰があると答えました。祈った後で、彼は腕をぐるぐると回すことができるようになりました。しかし、彼はそれでは満足しないで不満を述べました。「このあたりに少し問題があるように感じます」と、ある部分を指しました。「何が問題なのかわかりますか。」彼は「わかりません」と答えました。私はこう言いました。「不完全な信仰です。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じてください。そうすれば、そのとおりになります。」

あなたが救いを得た時、信じることは救いを得るよりも先でしたか。多くの人が救いを得ようとしても得られないのは、救いを実感することを先に求めるからです。けれども、救いを実感することが信じるよりも先に来る人は誰もいません。神の計画はいつもこのようになっていて、あなたが信じるなら神の栄光を見るようになるのです。私たち皆が神への揺るぎない信仰と自信を持ちうる、確かな到達点にまで成長するようにと、神は願われています。私はそう信じています。

イエスさまはこの聖書箇所で山をたとえに使いました。どうして山と言われたのでしょうか。それは、もし信仰が山を動かすのなら、どんなものでも動かせるからです。神の計画はあまりにも不思議です。あなたがただ信じさえすれば、どんなことでもできるのです。

一つ、特に注目していただきたいフレーズがあります。「心の中で疑わず」とあります。心がキーワードです。たとえば、若い男性と若い女性がいるとしましょう。二人はひと目で恋に落ちました。すぐにお互いに深い愛情を持って、心から愛しあうようになります。では愛の心とは何でしょうか。それは信仰の心です。信仰と愛は結ばれています。その若い男女はお互いを愛していますが、その愛の深さに応じて、相手に誠実になります。一人が北へ行き、もう一人が南に行ったとしても、愛ゆえに二人は誠実であり続けるでしょう。

それは、主イエス・キリストへの深い愛が心にある時も同じです。神が導き入れて下さったこの新しいいのちのなかで、パウロは、私たちがキリストのからだによって律法に対して死んでいると言っています。また彼は、私たちは律法と結ばれるのではなく、他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と夫婦として結ばれるべきだと教えています。神は私たちを完全な愛と完全な信仰へと導いて下さいます。神から生まれた者には、心のうちに主イエスさまへの愛がもたらされます。その愛とは、どんな汚れたものをも避ける主イエスさまへの忠実でもあります。男女間の純粋さは、二人の間に深い自然な愛情がある時に見られるものです。相手が不誠実であると考えることでさえも二人の純粋さを汚してしまいます。私が言いたいのは、人がイエスさまに信仰を持っていれば、その信仰に応じてその人は純粋さも持つようになるということです。イエスさまを神の御子と信じる者は、世に勝つのです。愛によって働くのが信仰です。

心で私たちの主と交わりを保っている最中は、私たちは信仰をくじかれません。内心で疑うこともありえません。私たちが神と共に歩む時、素晴らしい神とのつながりによって、神のいのちとご性質が私たちの中に流れて来るのです。私たちが神のことばを読み、神が恵みをもって私たちに与えられた素晴らしい約束を信じるようになると、私たちは神のいのちとご性質にあずかる者とされるのです。主は私たちの花婿となられ、私たちはキリストの花嫁とされます。主が私たちに話すみことばは、霊であり、いのちです。みことばは私たちを変え、肉の性質を退け、神のきよさにあずからせます。

生まれながらの肉の理性で考えても、神の愛を悟ることはできません。神の御霊によって啓示されなくてはなりません。神は惜しみなく与えて下さいます。求める者は受けるのです。神はいのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに喜んで与えて下さいます。そうです、イエスさまを遣わしたことは神の愛でした。その同じ神の愛が、信じているあなたや私を助けます。さまざまな弱さの中にあっても、神はあなたの強さとなられます。神に触れていただくことをあなたが必要とする時、神があなたを愛しておられることを覚えて下さい。惨めで、無力で、病に臥している人は、恵みの神に目を向けてください。神は、あなたが必要とするいのちも強さも力もすべて惜しみなく受け継がせ、喜んで与えて下さる方です。神は愛なのです。

私がスイスにいた頃、主は恵みをもって働かれ、多くの人々が癒されていました。私はゴールドウィンのルース兄弟と一緒に滞在していましたが、二人の警察官が私を逮捕しに来ました。罪状は、私が無免許で人々の病気を治したことでした。ルース氏は警察官に言いました。「すみませんが、彼はここに今おりません。彼は二マイルほど向こうで集会を開いています。ですが、あなたがたが彼を逮捕する前に、お見せしたいものがあります。」

ルース兄弟は二人の警察官をその地区の一画に連れて行き、ある家に案内しました。そこは二人にとって馴染みのある家でした。というのも、そこにはある女性がいて、彼女がよく酒に酔っては喧嘩をしていたので、二人は何度も彼女を逮捕して牢屋に入れていたのです。ルース兄弟はこの女性のところに二人の警察官を連れて行って、こう言いました。「これは、あなたがたが今逮捕しようとしている人の働きを通して与えられた、多くの祝福のうちの一つです。この女性は私たちの集会に酔っ払った状態で来ました。彼女のからだは痛々しいものでした。二カ所がヘルニアになっていたからです。彼女は酔っていましたが、その人は彼女に両手を置いて、いやしと解放があるように神に求めました。」その女性が続けました。「はい。そして神は私を救ってくださいました。私はそれからはもう一滴もお酒を飲んでいません。」警察官たちは私の逮捕状を持っていました。けれども、彼らは「そういうことは医者に任せなさい」と言い捨てて、踵を返して去って行き、二度と私たちの前に現れませんでした。

私たちには、心の打ち砕かれた者をいやすイエスさまがおられます。主は捕らわれ人を自由にし、最悪な状況にある者を救われます。霊とたましいとからだを救うのは、この栄光に満ちた神の福音です。あなたはこの福音をあえて足蹴にしますか。この恵みをあえて足蹴にしますか。私はこの全き福音の大部分が隠されてきたことを知っています。この福音は解放をもたらすものです。この福音はたましいの重荷を取り除けるものです。この福音はからだを完全に健康にするものです。この福音は全き救いです。この素晴らしい救いを私たちに与えるために、栄光を残していかれた主のみことばをもう一度聞きましょう。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」どんなことでも信じて言ったものを、あなたは得るのです!

私たちがかたくな心や、批判的な心、赦せない心でいると、神は祝福をお与えになれないということを私は知っています。そういうものが何よりも信仰の妨げになります。私はある集会で聖霊のバプテスマを待ち望む人たちがいたのを覚えています。彼らはきよめを祈り求めていました。というのも、人はきよめられた瞬間に、御霊がその人に下られるからです。集会には目を真っ赤にしてひどく泣きはらした男性がいました。彼は私に言いました。「やり残したことをするために行かなくてはいけません。変えないといけないことがあります。それを済まさないと、ここにいても何も益になりません。私は義理の兄弟に手紙を送ったのですが、その手紙に書いたのはひどい罵倒ばかりでした。だからこのことをちゃんとしておかないといけないんです。」彼は自宅に帰り、妻に告げました。「私は君の兄弟に宛てた手紙で、あんなふうにひどい言葉を書いてしまったことを赦してもらうようにお願いするつもりだよ。」「そんなくだらないことのために帰って来たの!」と妻は言いました。「気にしなくていいい」と彼は答えました。「これは神と私との問題だ。けじめをつけないといけないんだ。」彼は手紙を書いてから集会に戻って来ました。するとすぐに、神は彼を聖霊で満たされました。

いやされるはずだったのにいやされなかった人が非常に多くいると、私は信じています。彼らは心のなかに暗い影を抱えていました。そうしたものは手放しましょう。人を赦しましょう。そうすれば主はあなたを赦されます。善良な人々、良いことをしているつもりの人々はたくさんいますが、彼らは神のために何もできずに無力になっています。ずっと以前に彼らの心のなかにほんの小さな影が入り込んで、それ以来彼らの信仰が麻痺しています。すべてを明るみに出して下さい。神がしようとされることをあなたが受け入れれば、神はそれをすべて洗い流して下さいます。キリストの尊い血によってすべての罪からきよめられて下さい。あなたが信じさえすれば、神はあなたに会われ、あなたのこれまでの嘘に神の愛の光をあてて下さいます。