アンドリュー・マーレー『謙遜』

(十一) 謙遜と幸福

「したがって、私はむしろひときわ喜んで自分の弱さを誇りとしよう。それはキリストの強さが私の上にとどまるためである。そのため、私は弱さを喜んでいる。私が弱いとき、私は強いからである。」第二コリント一二・九、一〇

その啓示のあまりのすばらしさのゆえに、パウロが自分を高くすることのないように、彼をへりくだらせるために肉体のとげが送られました。パウロは最初、それが取り去られることを願って、主に三度、これを取ってくださいと懇願しました。答えは、試練は祝福である、というものでした。それがもたらす弱さと謙遜のなかに、主の恵みと強さがますます現されるための祝福である、と。ただちにパウロは試練に対する態度を改め、新しい段階に入りました。それを単純に耐え忍ぶのではなく、ひときわ喜んで栄誉としました。解放を求めるのではなく、喜びを見出しました。パウロは、謙遜の場所が祝福、力、喜びの場所であると学びました。

パウロが謙遜を追及するに際してこのふたつの段階があったことをほとんどのクリスチャンが見過ごしています。最初、彼は自分をへりくだらせるあらゆる機会に対して恐れを抱き、逃げ出そうとし、解放を求めました。彼はまだ、どんな代価を払ってでも謙遜を求めるということを学んでいませんでした。彼は謙遜になりなさいという戒めを受け入れ、それに従うよう努めていましたが、その努力は徒労に終わるだけでした。彼は謙遜を祈り求めていました。何度も、熱心に。ところが、心の奥底では、彼をへりくだらせる当のものから逃れることを、はっきりと言葉にはしないまでも、謙遜よりも祈り求めていました。神の小羊の美しさや天の喜びに関しては、すべてを売り払ってでも手に入れたいと願っていましたが、謙遜のともなう愛に関しては、まだそれほどまでに願っていませんでした。謙遜を追求し、それを祈り求めていましたが、まだそこにいくらかの重荷の感覚や束縛の感覚がありました。自分を低くすることが、まだ自然とにじみ出る本質的に謙遜な生き方や人格になっていませんでした。それがまだ楽しみや唯一の喜びになっていませんでした。まだこう言うことができませんでした。「私はひときわ喜んで自分の弱さを誇りとしよう。私をへりくだらせるすべてのものを喜ぼう。」

しかし、私たちはこのように言える段階を望めるのでしょうか。間違いなく、望めます。では、何が私たちをそこに導くのでしょうか。パウロをそこに導いたものが、つまり主イエスの新しい啓示が、私たちを導きます。神の臨在のほかに、「私」の正体をさらし、「私」を追放するものはありません。パウロはさらに明晰な洞察を得なければなりませんでした。イエスの臨在こそが、私たちのほうに何かを求めようとするあらゆる欲望を消し去ってくれるという真理を知らなければなりませんでした。また、イエスの臨在こそが、あらゆる恥辱に対して、イエスの満ち満ちた現れのために私たちを整えてくれるものとして喜ぶことができるようにするという深遠な真理を知らなければなりませんでした。私たちが恥辱を受けるとき、イエスの臨在と御力を経験します。その恥辱が、いと高き祝福として謙遜を選び取るように私たちを導きます。パウロの物語が教えている教訓を学ぼうではありませんか。

高みに達した信者であっても、有名な教師であっても、天の経験をした人であっても、弱さを喜んで誇りとする、完全な謙遜の教訓を十分には学んでいないかもしれません。パウロに例を見ることができます。高ぶりに陥らせる危険がすぐそこまで迫っていました。パウロはまだ、無に等しい者になるとはどういうことかを完全には理解していませんでした。彼の内でただキリストおひとりが生きるようになるために死ぬということ、自分を低くさせるあらゆるものを喜ぶということを、理解していませんでした。自分をむなしくすることによる主へのまったき従順が、彼が学ばなければならない最もたいせつな教訓であるようでした。それは、自分の弱さを誇り、神にすべてになっていただくためでした。

信者が学ぶべき最も高尚な教訓は、謙遜です。ああ、きよめにおいて高みに達することを目指すクリスチャンの皆さん、このことをよく覚えてくださいますように! はげしいきよめの体験や、燃えるような熱心や、天に届くような経験があるかもしれませんが、それが主の特別な取り計らいによって守られているのでなければ、無意識のうちに自己賞賛が入り込んでいる可能性があります。次の教訓を学ぼうではありませんか。すなわち、最も高いきよめとは、最も深い謙遜です。そして、謙遜はそれ自身から来るのではなく、私たちの忠実な主と、主の忠実なしもべが、特別に取り扱ってくださるかどうかだけが問題になっているのだということを覚えようではありませんか。

この体験の光のもとに私たちの生き方を見ようではありませんか。私たちが喜んで弱さを誇りとしているかどうか、パウロがそうしたように、侮辱にあっても、欠乏にあっても、困窮にあっても、それらを喜びとしているかどうかを確かめようではありませんか。そうです。正しい批判も正しくない批判も、友人からの非難も敵からの非難も、侮辱も、困難も、ほかの人々がもってくる厄介事も、なによりもまず、イエスこそが私たちにとってすべてであること、私たち自身の喜びや名誉は無にすぎないこと、そして、恥辱は私たちが喜びを見出す真理のひとつに数えられているいうことを証明する機会であるとみなすべきなのです。そのことを学んできたかどうかを自問しようではありませんか。「私」から解放され、私たちが何を言われようと何をされようと、イエスこそがすべてであるという思いのなかにそのいっさいが消え、一掃されるという経験は、ほんとうに祝福された、天からの深い幸福です。

パウロを顧みてくださった方は私たちをも顧みてくださるのですから、その方を信頼しようではありませんか。パウロには特別な修練と特別な戒めが必要でした。パウロは天で聞いた、言葉で表現することのできないほどの素晴らしい事柄を体験しました。しかし、それよりもはるかに尊いものが、弱さと低さを誇ることであるということを学ぶために、特別な修練と戒めが必要でした。私たちにもそれが必要です。あまりにも必要です。パウロを気遣った方は私たちをも気遣ってくださいます。神は「私たちが自分を高くすることのないように」ねたむほどの愛の気遣いによって私たちを見つめておられます。私たちが高ぶっているとき、神は私たちの悪を明らかにし、私たちを解放しようとなさいます。試みと弱さと困難のなかで、神は私たちを低くされます。それは、神の恵みがすべてであることを私たちが学び、私たちを低くし、低さを維持する当のものに私たちが喜びを見出すようになるまで続きます。神の強さは私たちの弱さの内に完全に現れます。神の臨在は私たちが空となるときに内側を満たしてあふれさせます。それが一度も失敗をみる必要のない謙遜の奥義です。神が私たちの内に、また私たちを通して働いてくださるものをくまなく見渡すとき、パウロのようにこう言うことができます。「私がおもだった使徒たちに劣るところはない。私自身は無に等しい者であるが。」恥辱は彼をほんとうの謙遜に導きました。へりくだりに至らせるあらゆるものを喜び、誇り、楽しむようになりました。

「私はむしろひときわ喜んで自分の弱さを誇りとしよう。それはキリストの強さが私の上にとどまるためである。そのため、私は弱さを喜んでいる。」謙遜な人は喜びにとどまるための奥義を学んでいます。自分の弱さをひしひしと感じるほど、ますます低みに沈んでいきます。自分の前に立ちはだかる恥辱が大きいほど、ますますキリストの力と臨在が彼の所有となります。そして、ついにこう言います。「私は無に等しい者です。」主のことばがさらに深い喜びをもたらします。「わたしの恵みはあなたに十分である。」

もう一度、すべての教訓をふたつに要約しなければならない必要性を私は感じています。高ぶりの危険は私たちが思うよりも大きくて、身近にあります。そして、謙遜の恵みもまた同様です。

高ぶりの危険は私たちが思うよりも大きくて、身近にあるのです。ことに、天の高みに至る経験をするときには。説教者が驚くべき霊的な真理を語って聴衆を彼の語ることばに釘付けにするとき、賜物を持った教師が聖なる講壇から天からのいのちの奥義を説き明かすとき、クリスチャンが祝福に満ちた経験を証しするとき、宣教者が勝利のうちに歩み、多くの人々を喜びで満たす祝福となっているとき、彼らが隠れた無意識の危険にさらされていることをだれも知りません。パウロは知らず知らずのうちに危険にさらされていました。イエスがパウロのためにしてくださったことは、私たちの教訓のために書かれています。私たちの危険を知り、私たちの唯一の避け所を知るためです。きよめの教師とかきよめの専門家とか言われることのある人は、じっさいには「私」が全然なくなっていません。自分の語っていることを自分で実行していません。与えられた祝福がその人にへりくだりや優しさという実をもたらしていません。これ以上は言わないでおきましょう。私たちの信頼するイエスこそが、私たちをへりくだらせることがおできになります。

そうです。謙遜の恵みもまた、私たちが思うよりも大きくて身近にあります。イエスの謙遜は私たちの救いであり、イエスご自身が私たちの謙遜です。私たちの謙遜はイエスの気遣い、イエスの働きなのです。彼の恵みは私たちに十分です。高ぶりの誘惑にあうときにも、そう言えます。彼の強さは私たちの弱さの内で完全なものになります。弱くされること、低くされること、無に等しい者とされることを選び取ろうではありませんか。謙遜を私たちの楽しみ、喜びとしようではありませんか。私たちを低くし、低さを維持させるすべてのもののなかにあって、自分の弱さを喜んで誇りとし、弱さを喜ぼうではありませんか。キリストはご自分を低くされました。それゆえ、神は彼を高くされました。キリストは私たちを低くされ、低さを維持されます。心から従い、信頼と楽しみをもって、へりくだりに至らせるすべてのものを受け入れようではありませんか。キリストの力が私たちの上にとどまるためです。最も深い謙遜が、最も真実な幸福の奥義です。何ものもその喜びを破壊することはできません。神はそのことを理解させてくださいます。