アンドリュー・マーレー『謙遜』

(十二章) 謙遜と高く上げられること

「自分を低くする者が高く上げられる。」ルカ一四・一一、一八・一四

「神はへりくだる者に恵みを与える。主の目の前にへりくだりなさい。そうすれば主があなたを高く上げてくださる。」ヤコブ四・一〇

「ですから、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうどよい時にあなたを高く上げられる。」第一ペテロ五・六

ちょうど昨日、私は質問をしました。どのようにして、私はこの高ぶりを克服することができるのでしょうか。答えはシンプルです。必要なことは二点です。神があなたの仕事であるとおっしゃったことをしましょう――「自分を低くしなさい。」神がご自分の仕事であるとおっしゃったことを必ずしていただけると信頼しましょう――「神はあなたを高くしてくださる。」

命令ははっきりしています。「自分を低くしなさい。」生まれながらの性質である高ぶりを克服し追い出すことがあなたの仕事であると言っているのではありません。また、聖なるイエスのへりくだりというご性質をあなたの内側に形づくりなさいと言っているのでもありません。それらは神の側の仕事です。高く上げられることの本質は、愛する御子のほんとうの似姿へと神があなたを引き上げてくださることなのです。その命令が言おうとしていることはこうです。「神と人との前に自分を低くする機会を逃さないようにしなさい。」 あなたのうちにすでに恵みが働いていると信じる信仰によって、もうそこまで来ている勝利をもたらす恵みがますます大きくなるという保証のなかで、どんなときにも良心が心と思いの高ぶりを光で照らし出すことのできるようになるまで、あらゆる努力にもかかわらず失敗や挫折があるかもしれませんが、この不変の命令を辛抱強く固守してください。「自分を低くしなさい。」神があなたに謙遜の必要性を思い起こさせるため、また謙遜になるために有益なあらゆるものを与えるとき、それが内側からのものであれ外側からのものであれ、友人からであれ敵からであれ、自然のものであれ恵みであれ、どんなものでも感謝をもって受け入れてください。 謙遜を、徳の母であるとじっさいに考えてください。神の御前にあなたがしなければならない第一の義務であると考えてください。たましいにとって唯一の永続的な避け所であると考えてください。そして、すべての祝福の源泉である謙遜をあなたの心の基礎としてください。次の約束は、神からの確かな約束です。「自分を低くする者は高く上げられる。」神がしなさいとおっしゃっているのはただひとつであることを確認してください。「自分を低くしなさい。」神が行うのはご自分が約束しているひとつのことであることを神ご自身も確認するでしょう。神はもっと大きな恵みを与えてくださいます。あなたをちょうどよいときに高く上げてくださいます。

神が人を取り扱う方法はすべて、ふたつの段階で特徴付けられます。はじめは準備の段階です。命令と約束を与え、それを行おうとする努力と挫折、失敗と部分的な成功の入り混じった経験のなかで、もっと良いものが与えられるという聖なる期待が呼び覚まされ、そのことによって人をもっと高い段階へと訓練し修練します。 その次に、成就の段階があります。信仰が約束を相続し、何度求めても無駄になってきたものを喜ぶ段階です。この法則はクリスチャンライフのあらゆる部分にも、それぞれの徳を追求するに際しても良い影響を与えます。なぜなら、それは物事の本質に根ざしているからです。私たちの贖いに関するあらゆるものにおいて、是が非でも神に優先権を握っていただかなければなりません。そうなってはじめて人の出番があります。従順と獲得をめざした努力のすえに、人は自分の無力さを学ばなければなりません。自力で「私」に死ぬことが不可能であることに失望しなければなりません。それから、神から自発的に、理性的に、「終わり」を、つまり人が知らないうちに最初に受け取っていたものの完了を、受け取ることができるようになります。ですから、人が神を正しく知る前から、あるいは神の目的が何であるかを十分に理解する前から、神は「最初」である方でしたが、「終わり」になっていただき、すべてにおいてすべてになっていただくことを切に願い、歓迎するようになります。

謙遜の追及においてもこれと同じことが言えます。クリスチャン一人ひとりに、神ご自身の御座から命令が来ます。「自分を低くしなさい。」熱心に聞き従おうとするなら、報いがあります。そうです。その報酬は、二点の痛ましい発見です。第一は、高ぶり、つまり神に絶対的に従うために、自分自身を無に等しい者とみなしたり、またそう扱われたりすることに対してできれば避けたいという気持ちが、それまでまったく自覚していなかったほど深く存在するという点です。第二は、隠れた魔物を打ち倒すために、力を尽くして努力をしても、心を尽くして神の助けを祈り求めても、まったく無益であるという点です。いま神に期待を置くことを学び、内側にある高ぶりの力が押し寄せるにもかかわらず、神と人との前にへりくだりの行動を忍耐強く続けることを学ぶ人は幸いです。私たちは人間界の法則を知っています。すなわち、行動が習慣を作り、習慣が性向を養い、性向が意志を形成し、正しく形成された意志が人格であるということです。恵みの働きもこれと異なるものではありません。忍耐強く繰り返された行動が、習慣と性向を獲得し、それらが意志を強めるにつれて、意志と行動に働きかける方が大能の力と御霊をもって来てくださいます。高ぶりの心を悔いた聖徒がみずからを低くして神の御前に何度も自分を投げ出すなら、その報酬は謙遜な心という「ますます大きな恵み」です。そこにおいてイエスの御霊が征服し、新しい性質を成熟させてくださいました。いまや柔和でへりくだった方であるイエスが永遠にとどまってくださいます。

主の目の前に自分を低くしてください。そうすれば、主があなたを高く上げてくださいます。では、高く上げられる栄誉はどこにあるのでしょうか。被造物にとって最高の栄誉は、神の栄光を受け取り、楽しみ、現すための純粋な器となることにあります。それが可能になるのは、神にすべてになっていただくために、被造物がみずから進んで無に等しい者となるときだけです。水はいつでも、まずはじめに最も低い場所に下ります。人が神の御前でへりくだればへりくだるほど、また空になれば空になるほど、ますます速やかに神の栄光が流れ込み、ますます豊かに神の栄光に満たされます。神が約束された高く上げられる栄誉は、神ご自身を離れた外的なことがらではありません。それはありえません。神が与えなければならないもの、あるいは与えることのできるものは、すべて神ご自身から出ているものです。すなわち神ご自身です。神ご自身を完全な所有として与えてくださいます。高く上げられる栄誉は、地上の賞のように、報酬に値する行為と必然的な結びつきのない恣意的なものではありません。そうではなく、その栄誉は本質的に私たちがへりくだったことによる効果と結果です。それは、神の内住による謙遜という賜物です。神の内住を十分に受けるにふさわしい者となるために、神の小羊の謙遜に似せられること、その謙遜を所有することです。

自分を低くする者は高くされます。イエスご自身がこのことばが真理であることの証明です。イエスご自身がこのことばが私たちに実現することの確実な保証です。イエスのくびきを負い、イエスから学ぼうではありませんか。イエスは柔和で謙遜な心をもっておられるのですから。イエスが私たちに身をかがめてくださったように、私たちもイエスに身をかがめさえするなら、イエスはふたたび私たち一人ひとりに身をかがめてくださるので、私たちがイエスと共に背負うくびきは不当な重さではないことがわかるでしょう。イエスの受けた恥辱に共にあずかる交わりが深くなり、自分を低くしたり人からの恥辱に耐えたりするにつれて、私たちはそうした機会をイエスの昇天の御霊、「神の御霊、栄光の御霊」が私たちの上にとどまることであると思えるようになります。栄光のキリストの臨在と力は、謙遜な霊をもつ人々のところに来ます。神がふたたび私たちの内に正しい場所をとることができるなら、神は私たちを引き上げます。神の栄光をあなたの関心事とし、自分を低くしてください。神があなたの栄光をご自身の関心事とし、あなたの謙遜を完成させ、あなたの永遠のいのちである御子の御霊が内側で息づいてくださいます。すみずみまで充満した神のいのちがあなたを所有するにつれて、「私」のための考えや願望をもたず無に等しい者となることほど自然で甘美なものはほかになくなります。なぜなら、すべてを満たす方がすべてを占領してくださるからです。「私はひときわ喜んで自分の弱さを誇りとしよう。それはキリストの強さが私の上にとどまるためである。」

兄弟の皆さん。私たちの献身と信仰を、聖めの追求にほとんど向けてこなかった理由をここに見出すことができないでしょうか。信仰の名のもとで働きが行なわれたのは、「私」とその力によってでした。神に助けを求めたのは、「私」とその幸福のためでした。無意識のうちにたましいが喜びを見出していたのが「私」とその聖めにおいてであったことは、言い逃れようもない真実です。謙遜、それも絶対的な、永遠の、キリストに似た謙遜と、「私」の消滅が、神と人と共にある私たちの生き方全体に充満し、キリストのしるしをつけることこそが、追求すべき聖めの生き方の最も本質的な要素であることを、私たちは今まで知りませんでした。

「私」が消滅するのは、私が神の所有となるときだけです。太陽の光の高さと広さと栄光の中にあってこそ、光線の中でただようちりの小ささを見ることができます。同じように、謙遜とは、神の臨在の中に私たちの場所を定め、神の愛という太陽の光の中にとどまるちりとなること、それ以外の何ものでもありません。

「神はなんと素晴らしい方でしょうか! 私はなんと小さいことでしょうか! あふれんばかりの愛の中で私は失われ、掃き出されました! 神だけがおられ、私はなくなりました。」

謙遜になること、神の臨在の中で無に等しい者になることが、最高の到達であり、クリスチャンライフの最も満ち満ちた祝福であると信じるように、神が教えてくださいますように。神はこう告げています。「わたしは高く聖なる場所に住み、罪を悔いてへりくだった霊を持つ人と共に住む。」これを私たちの分け前としてください!

「ああ、ますます空になり、ますます低くなり、 卑しく、だれにも気づかれず、だれにも知られない者になること。 そして、神の用いる器として、ますます聖くなって、 キリストで満たされる。キリストだけに!」

ノート(四) 奥義の中の奥義とは、謙遜という真実な祈りのたましいです。――心の霊が新たにされるまで、すべての地上的な願望が空っぽになるまで、そして日夜、神を求めて飢え渇き、祈りの真実な霊が形造られるまで、そのときまでは、私たちの祈りは、多かれ少なかれ、学生に授業をするようなものにすぎません。つまり、それらを無視する勇気がないからというだけの理由で、とりあえず言っているだけです。しかし、気を落とさないでください。以下のアドバイスを聞いてください。そうすれば、教会に行くときに、あなたの心で感じているよりも高尚なことばで賛美や祈りが行なわれたとしても、あなたが口先だけの偽善者になるという危険に陥らずにすむかもしれません。 こうしてください。取税人が神殿に行ったときのような態度で教会に行くのです。内面的な心の持ち方は、取税人がことばと態度で表した姿勢にならってください。うつむいて、こう漏らすだけでした。「神よ、罪人の私をあわれんでください。」この心の姿勢と状態を変わらずに維持してください。少なくとも、そう願ってください。あなたの口から出る一つひとつの祈りがきよめられるようになります。何かが読まれたり、歌われたり、祈られたりするとき、そのことばが自分の心の思いよりも高尚なものであったとしても、あなたがそれを取税人の精神をさらに深く自分のものとする機会とするなら、あなたは助けを得て、大いに祝福されます。それらの祈りや賛美があなたよりももっと素晴らしい心を持った人のためのものでしかないように感じられるからです。

友よ、これが奥義の中の奥義です。あなたが蒔かなかったものを刈り取る助けになります。あなたのたましいの中で恵みがあふれ続ける源になります。なぜなら、あなたの内側で湧き起こるあらゆるものも、外側で起こるあらゆるものも、この謙遜な心の状態を練り上げ、かき立てるなら、あなたにとって本当に有益なものになるからです。謙遜なたましいにとって無駄も無益もありません。いつでも神にあって成長し続けます。わが身に降りかかるものすべてが、天からのしずくのようです。ですから、この謙遜な姿勢で沈黙してください。あらゆる良いものが伴います。それは天からの水です。その水が堕落したたましいの炎を神による柔和な生き方へと変え、神と人に対する愛に火をつけるための油を創造します。 それゆえ、それを身にまとってください。あなたがいつも身につける着物としてください。腰を締める帯としてください。その精神の中からのみ息をしてください。その目をもってのみ見るようにしてください。その耳をもってのみ聞くようにしてください。そうするなら、あなたが教会の中にいても外にいても、神の賛美を聞いていても人やこの世から不正な扱いを受けたとしても、すべてがあなたの徳を建て上げる糧となり、神のいのちにあって成長するための助けとなるでしょう。(『祈りの霊』第二集 百二一ページ)

<謙遜を求める祈り>

ここにすべての人を真理に向かっているかどうかをためす確実な試金石があります。それはこうです。一ヶ月間だけ、この世から退き、すべての会話を遮断してください。書くことも、読むことも、自分と対話することもやめてください。そのようなあなたの心と思いの働きをすべて止めてください。そしてあなたの心のいっさいを尽くして、この一ヶ月間、以下の神への祈りをできる限り継続してください。ひざまずいて何度も祈ってください。あるいは座っていても、歩いていても、立っていても、いつでも内心でこのひとつの祈りを切に願い、熱心に祈ってください。 「神はすぐれて良い方なので、どのような種類の高ぶりも、どのような形の高ぶりも、どのような程度の高ぶりも、悪霊から来たものであれ、あなた自身の堕落した性質から来たものであれ、あなたに知らせてくださり、あなたの心から取り去ってくださいます。神があなたの内にあの謙遜の最も深い奥行きと真理を目覚めさせてくださいます。その謙遜こそが、神の光と聖霊があなたの内に入ってくるのを可能にします。」あらゆる雑念を拒み、心の底からこのような祈りをもって待ち望むのです。悩みの窮地にある人が解放を求めて祈るような真実と熱心をもって。……この祈りの精神を求める真実と誠実の中で自分自身を手放すことができるなら、私は次のことを確信をもって保証します。仮にあなたがマグダラのマリアの二倍の悪霊を持っているとしても、すべての悪霊どもがあなたから出て行き、彼女と共に聖なるイエスの足元で愛の涙を流さざるをえなくなるでしょう。 『祈りの霊』第二集 百二四ページ