アンドリュー・マーレー『謙遜』

(八) 謙遜と罪

「私は罪人のかしらです」第一テモテ一・一五

謙遜はしばしば悔悛や罪悪感と同じものと見なされます。結果的に、謙遜を成長させる方法は、たましいをいつも罪でいっぱいにするほかないように思われています。私たちがここまで学んできたのは、謙遜はもっと別のものであり、罪悪感などより深いものであるということだと思います。主イエスの教えや使徒たちの書簡で、謙遜という徳が罪と無関係に何度も教えられていることをこれまで確認してきました。ことの本質において謙遜がきよめと祝福の核心であるということは、被造物が創造主に向かう関係全体をみても、またイエスが地上で現し私たちに分け与えたその生き方からも分かります。「私」が退いて神に即位していただくこと、これが謙遜です。神がすべてになってくださる場所で「私」は無に等しい者になります。

私が特に出版の必要を感じたのは真理のこの側面ではありますが、とはいえ、人の罪と神の恵みが聖徒の謙遜に新しい深さや高さをいかに与えるかを述べる必要もあるといくらか感じます。使徒パウロのような男を見ればそれだけで、彼が神に買い取られた聖徒として生涯のすべてにわたって、自分が罪人であったという自覚が打ち消しがたいほど深く根づいていたことが分かります。私たちはみな、パウロが迫害者であり冒涜者であった自らの過去について述べた聖書の節を知っています。 「私は使徒たちのうちで最も小さな者であり、使徒と呼ばれる価値のない者です。神の教会を迫害したからです。……私はだれよりも多く働きました。それをしたのは私ではなく、私と共におられる神の恵みです。」(第一コリント一五・九〜一〇)「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、異邦人に宣べ伝えるというこの恵みが与えられました。」(エペソ三・八)「私は以前は神を冒涜する者、迫害する者、侮辱する者でした。それなのに、私は恵みをいただきました。それは私が信じておらず、知らないで行なったからです。キリスト・イエスは世に来られたのは、罪人を救うためです。私は罪人のかしらです。」(第一テモテ一・一三、一五)神の恵みは彼を救いました。もはや神は彼の罪を永遠に思い出しません。しかし、彼のほうは自分がどんなにいまわしい罪人であったかを生涯忘れられませんでした。彼が神の救いを喜び楽しむにつれて、また言葉にならない喜びをもって神の恵みに満たされる経験をするにつれて、私は救われた罪人であるという自覚がますます明瞭になり、その自覚によって救いがありありと胸に迫る貴いものになるのでなければ、救いには何の意味もなく価値もないという考えに至りました。神が御腕をのばして愛し、王冠をさずけてくださった者がひとりの罪人であったということを、彼は片時も忘れられませんでした。

いま引用した箇所について、パウロが日常的に罪を犯していることを告白したのだ、と主張する人がよくいます。それぞれの聖句のつながりに気をつけながら読みさえすれば、それが的を得ていないのがわかるでしょう。これらの聖句にはもっと深い意味があります。永遠にわたって存続する事柄について述べており、謙遜に対して、神への驚嘆と崇拝をともなった深い基調を与えるものです。謙遜とは、神に買い取られた者が、その罪を小羊の血によって洗い清められた者として、神の御座の前にひざまずくときの姿勢でもあるということです。彼らは買い取られた罪人です。たとえ栄光のなかに入れられたとしても、断じてそれ以外の者ではありえません。恵みが神の子どもに与えると約束したすべてのものに対して、それを受ける唯一の権利と資格が、彼が罪から救い出されたという事実にあると実感しなければなりません。それなしには、神の愛の光にすみずみまで照らされてこのいのちを生きることは一瞬たりともできません。罪人として神に近づくときに持っていた謙遜は、新しい被造物としてのふさわしい生き方を学ぶときに新たな意味を与えられます。それからさらに、被造物としての新生において与えられた謙遜は、それが神の不思議な贖いのわざを思い起こさせる愛の金字塔となるときに、最も深く最も豊かな色彩を帯びて神を崇める姿勢になります。

パウロがこれらのことばによって教えようとした本当の意義は、次の注目すべき事実に気づくときにさらに力強く明らかにされます。それは、パウロがクリスチャンとしての生涯を通じて書いた手紙のなかには、個人的な感情をはげしく吐露している文書においてさえ、罪の告白のようなものがひとつも記されていないという事実です。彼が自らの欠点や欠陥について言及した箇所はどこにもなく、私は義務を遂行できなかったとか、完全な愛の律法にそむいて罪を犯したとかいったことを読者に書いた箇所はどこにも見られません。反対に、自らの身の潔白を申し立てた箇所が少なくありません。そのような主張は、彼が神と人との前に責められるところのない生活をしていたのでなければ、意味が通じません。「私たちがあなたがたに対してどんなにきよく、正しく、責められるところのないようにふるまったかに関して、あなたがたと神が証人です。」(第一テサロニケ二・一〇)「私たちの光栄はこれです。すなわち、私たちの良心が証ししていますが、私たちがこの世に対し、特にあなたがたに対して神のきよさと誠実をもってふるまってきたことです。」(第二コリント一・一二)これは理想や願望ではありません。パウロがじっさいにどのように生きたのかを示すことばです。罪の告白が書かれていないことについてどんな説明がありうるとしても、そのことが聖霊の力にある生き方を指し示していることはすべての人が認めるに違いありません。そのような生き方は私たちの時代においてほとんど現実のものとされず、期待もされませんが。

私が強調したいポイントはこうです。罪の告白が書かれていないというまさにその事実が、毎日犯す個々の罪においてよりも、片時も忘れることのできない罪の習慣性においてこそ深い謙遜の奥義が見られ、恵みが豊かに与えられるほどそのことがますますはっきりと示されるという真理に、大きな力を与えるということです。私たちのただひとつの場所、ただひとつの祝福される場所、神の御前に生きることのできるただひとつの場所は、「私は恵みによって救われた罪人です」と告白することに最高の喜びを見出す場所なのです。

パウロがかつて恵みを受ける前に犯した数々のおぞましい罪の記憶と、現在では罪から守られているという意識とは、たえず忍び寄ってきて罪に陥れようとする隠された闇の力を内住のキリストの臨在と力によって追い出すことができるという不朽の記憶と、かたく結びついています。 「私のなかに、私の肉のなかには、良いものが住んでいません。」ローマ七章で語られたこのことばは、肉を滅びに向かうものとして述べています。ローマ八章の栄光ある解放はこうです。「いまや、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則が、私をとりこにしていた罪の法則から私を解放しました。」この解放とは肉の消滅ではなく、肉の聖別でもありませんでした。むしろ、御霊が肉体の行いを克服することで与えられる、絶えざる御霊の勝利でした。 健康が病気を駆逐するように、光が闇を一掃するように、いのちが死を征服するように、御霊によるキリストの内住はたましいの健康であり、光であり、いのちです。けれども、それとともに、罪に対して無力であり私は破滅に陥っているという自覚が、途切れずくじかれない聖霊の働きに対する信仰を鍛え上げて、神の恵みだけによって生きる謙遜の下で至高の信仰と喜びがその召使いとなるような、懲らしめを通った信頼感のなかへと入っていきます。

先に引用した罪人に関する三つの節はどれも、パウロを深いへりくだりへと導いたのは彼の上に与えられた素晴らしい恵みであり、パウロはどんなときもその恵みの必要を実感していたということを示しています。その神の恵みが、彼と共にあってほかのだれよりも多く働くことを可能にしました。その恵みが、キリストのはかり知れない富を異邦人に宣べ伝えさせました。その恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛を豊かに満ちあふれさせました。それが罪人のためにあるということがこの恵みの本質であり栄光です。この恵みこそが、自分がかつて罪を犯し、罪のなかに安住している者であったという意識を、彼のうちにはげしく奮い立たせ続けました。「罪の満ちるところには、恵みも豊かに満ちあふれました。」この聖句が明らかにするのは、恵みの本質がどのようにして罪を取り扱いそれを除くことができるか、また、私は罪人であるという意識が強くなればなるほど恵みをますます豊かに経験するのはどうしてなのかという点です。罪ではなく、神の恵みこそが、人が罪人であることを示し、罪人であったことを思い出させて、人を真実に継続的にへりくだらせます。罪ではなく、恵みこそが、私はほんとうに罪人であると悟らせ、私は卑しい者であると深く悟らせる罪人の場所へと導いて、そこから離れないようにするのです。

もしかすると、少なからぬ人々が強烈な表現で自らを罪に定め、自らの罪を公に言い表すことによって、謙遜になることを探求しているにもかかわらず、謙遜の霊、つまり親切とあわれみ、柔和と忍耐強さを伴った「謙遜の心」にいっこうに近づけずにいます、と悲しみをもって告白しているのではないでしょうか。 最も深い自己嫌悪のさなかにあっても、自分のことで心がいっぱいになっているなら、「私」から解放されるはずがありません。私たちを謙遜へと導くものは、罪に定める律法だけではなく、罪から解放する神の恵みによって、神がご自分を現してくださる啓示なのです。律法は心を打ち砕いて恐れを抱かせます。しかし、ただ恵みだけが、たましいにとって第二の本性となるあの甘美な謙遜を喜びと共にもたらします。 アブラハムやヤコブ、ヨブやイザヤが深くひざをかがめたのは、神が恵みのうちにご自分を知らせるために近くへ引き寄せて、きよさのうちにご自分を現してくださったからです。神は創造主ですから、被造物が無になるときご自分がすべてとなってくださいますが、同じように、神は恵み豊かな贖い主ですから、罪人が罪の満ちるときに来られてご自分がすべてとなってくださいます。このよう方として神を待ち望み、信頼し、礼拝するとき、そのたましいは神の臨在に満たされ、「私」を残す余地がなくなるのです。そうして、この約束だけが成就されます。「その日、人の高ぶりはかがめられ、主だけが高く上げられる。」

聖なるいつくしみ深い神の愛の光にすみずみまで照らされた罪人が、キリストと聖霊を通じて与えられる神の愛を心に豊かに住まわせる経験をするなら、もはやへりくだるほかありません。罪で満たされるのではなく、神に満たされることこそが、「私」からの解放をもたらします。