アンドリュー・マーレー『謙遜』

(九) 謙遜と信仰

「あなたがたはお互いからの栄誉は受け入れて、唯一の神からの栄誉を求めないのに、どうして信じることができようか」(ヨハネ五・四四)

最近、ある講演でこういうことを聞きました。クリスチャンの生き方を成熟させる数々の祝福がしばしばショーウィンドウに並べられた商品のようになっている、と。人がそれを近くで眺めることはできるけれども、手が届かないということです。もしショーウィンドウに並べられた商品に手を伸ばして取るように言われたら、人は「できません」と答えるでしょう。「私と商品の間は厚いガラスでへだてられています」と。クリスチャンについても同様です。クリスチャンにはまったき平安と安息を与えるという祝福や、愛と喜びであふれさせるという祝福や、交わりと実りのうちにとどまるという祝福が、約束として与えられていますが、それらをはっきり知っていても、本当の意味でそれを所有することを邪魔する何かがあるように感じることがあるかもしれません。それはいったい何でしょうか。高ぶりです。それ以外にありません。信仰についての確実な約束は無償で与えられています。また、力強い招きと励ましは与えられています。さらに、信仰がたのみとする神の大能の力はすぐ近くにあり、無償でいただくことができます。とすれば、数々の祝福を私たちのものにするのを妨害しているものは、信仰を妨害しているのです。この章の冒頭の聖句でイエスが明らかになさったのは、高ぶりこそが信仰を不可能にしているという点です。

ただひとつの必要なことは、ほんの少しでも信仰とは何かを考えることです。信仰とは「私は無力で取るに足らない者です」と告白し、自分を明け渡して神に働いていただくのを待ち望むことではないでしょうか。信仰とはそれ自体、ありうる限りの最も謙遜なもの、すなわち、私たちにふさわしい場所が、恵みが与えるもの以外に何も欲しがったり所有したり行なったりすることのできないしもべの位置であると、受諾することではないでしょうか! 謙遜とは単純に、信頼がたましいの土台となるように自らを整えていく品性です。そして、高ぶりがどんなに息をひそめても、「私」の追求、「私」の意志、「私」の誇り、「私」の称揚を生かしておくなら、高ぶりがひと息の呼吸をするごとに「私」が強大になっていきます。「私」は御国に入ることができません。また御国の財産を所有することもできません。なぜなら、神を現にそうである方、またそうであらねばならない方――すべてにおいてすべてになってくださる方――になっていただくことを拒絶するからです。

信仰は天の世界とその祝福を知覚し把握するための感覚器官です。信仰は神からの栄誉を追い求めます。その栄誉は神がすべてになってくださる場所からのみ来るものです。私たちがお互いからの栄誉を求めている限り、また人からの賞賛や名声といったこの世の栄誉を求め、愛し、だれにも取られまいとかたく握っている限り、神からの栄誉を求めることはありません。それを受け取ることはできません。 高ぶりは信仰を不可能にします。救いは、十字架とはりつけにされたキリストを通じて来ます。救いは、はりつけにされたキリストとの交わりを十字架の御霊において持つことです。救いはイエスの謙遜と結合しそこに喜びを見出すこと、救いはその謙遜に参与することです。高ぶりがなおも君臨しているため信仰が弱りきっているのですから、私たちがこれまで謙遜を救いの最も必要かつ祝福された部分として、切に祈り求めることさえもほとんど学んでこなかったのは当然です。

謙遜と信仰は、多くの人々が知っているよりも密接な関係にあることが聖書から分かります。キリストの生涯を見てください。キリストが「偉大な信仰」と言われたふたつのケースがあります。千人隊長の信仰をキリストは驚かれました。「わたしはこのように偉大な信仰をイスラエルのなかでさえ見たことがない!」それは、千人隊長がこう言ったからではないでしょうか。「私にはあなたを屋根の下にお入れする価値すらありません。」また、子犬の名を受け入れた母にキリストは言われました。「ああ、婦人よ。あなたの信仰は偉大です。」それはこう言ったからではないでしょうか。「はい、主よ。しかし犬もパンくずくらいはいただきます。」謙遜こそが、たましいを神の御前に無に等しい者へとへりくだらせ、信仰に至るまでのあらゆる障害を取り除き、神への全幅の信頼を寄せないことによって神の御名を汚すことだけを恐れるようにさせるのです。

兄弟の皆さん。ここに、私たちがきよめを追求するときに失敗する原因があるのではないでしょうか。それがこの高ぶりではないでしょうか。私たちはこれまで次のことを知りませんでした。この高ぶりこそが私たちのきよい生活と信仰をきわめて表面的で短命なものにしてきたということを。また、高ぶりと「私」がひそやかに私たちの内側でどれほど働いていたかを。そして、神だけがその臨在と大能の力によってそれらを追い出すことができる方であるということを。私たちは次のことを理解していませんでした。古い「私」のいた場所が全面的に新しい神のご性質に満たされる以外には、私たちを本当の意味でへりくだらせるものは何もないということを。 また、絶対的な、不変の、全面的な謙遜が、人に対するときだけでなく、神に近づいて祈るときにもつねに基本的姿勢でなければならないということを。そして、謙遜と心のへりくだりのないまま神を信じ、神に近づき、神の愛にとどまろうとするのは、目なしで見ようとするのと同じ、あるいは呼吸なしで生きようとするのと同じだということを。

兄弟の皆さん。私たちは高ぶりのなかに古い「私」がずっと残したままであるのに、神の祝福と豊かさを所有することを求めて、信仰を持つことのほうにあまりにも多くの労力を費やすという間違いを犯してきたのではないでしょうか。信仰を持てるはずがありません。進む方向を変えましょう。まず第一に神の力強い御手の下に自分を低くすることを追い求めましょう。そうすれば、神が高くしてくださいます。 十字架、死、墓。これらはイエスがご自分を低くなさって通った、神の栄光に至る道でした。これらは私たちの道でもあります。ただひとつ、キリストとともにへりくだり、キリストのようにへりくだることだけを願い、それだけをひたすらに祈り求めようではありませんか。神と人との前に私たちの身を低くさせることのできるあらゆるものを、喜んで受け入れようではありませんか。ただこれだけが神の栄光に至る道なのですから。

あなたは質問したいと思っておられるかもしれまけん。私は前に、祝福された経験をもつ人たちや、他の人に祝福をもたらす道具として用いられている人たちが、謙遜に欠けていることがあると書きました。そこで、人からの栄誉ばかりを求めていることが明らかである彼らが、真実な信仰、ときには力強い信仰をさえ持っているということを、これは証明しているのではないでしょうか、と質問なさることでしょう。

ふたつ以上の解答が考えられます。けれども、いまの文脈では原則的に次のような解答になるでしょう。すなわち、彼らはじっさいに信仰の量りを持っています。その量りに応じて、彼らの上に特別な賜物が与えられ、それが他の人にもたらす祝福になっています。ところが、まさにその祝福における彼らの信仰のわざにとって、彼らの謙遜の欠如が障壁となっているのです。 祝福が、内容の伴わない一時的なものにすぎないことがよくあります。その理由は、彼らが神にすべてになっていただく道へと続く「無に等しい者」になっていないから、ただそれだけです。謙遜が深まるなら、疑いようもなく、祝福も深まり、ますます満ちあふれます。聖霊は彼らの内で力ある御霊として働かれるだけでなく、恵みの満ち満ちたさまで、とくに謙遜の満ち満ちたさまで、彼らの内に住まわれ、彼らを通して回心者にご自身を現してくださいます。そして、今ではほとんで見られることのない、力ときよさに富んだ揺るがない生き方を彼らを通じて御霊が示してくださるのです。

「あなたがたはお互いからの栄誉を受け入れていて、どうして信じることができようか。」兄弟の皆さん! 神からの栄誉の追求だけにあなたの身を捧げるのでなければ、人からの栄誉を受けたいという渇望から、またそれが得られないときに来る感傷、痛み、怒りから癒されることはありえません。いっさいの栄光をもっておられる神からの栄誉をあなたにとってのすべてとしようではありませんか。人の栄誉からも「私」の栄誉からも解放され、自らが無に等しい者であることに満足と喜びを見出すようになるでしょう。無に等しい者であるというこのことから、あなたは信仰において力強く成長し、神に栄光を返すようになり、あなたが神の御前に深い謙遜の内に沈められるとき、ますます神は近くあってくださって、あなたの信仰のあらゆる望みをかなえてくださいます。