アンドリュー・マーレー『謙遜』

(七) 謙遜ときよめ

「その者が言う、私から離れてそこに立っていなさい。私はあなたよりも聖なる者だから。」イザヤ六五・五

近年、ホーリネス運動がよく話題にのぼります。このゆえに神をほめたたえます。非常にたくさんの人たちがきよめを求め、きよめに関する教えを伝えたりきよめの集会を開いたりしてくれるホーリネス運動の主唱者に会いたがっていると聞いています。キリストにあるきよめ、また信仰によるきよめの祝福された真理は、かつてないほどに力説されています。私たちが追い求めているきよめや、私たちがついに獲得したと宣言するきよめが、ほんとうに真理でありいのちであるかどうかを確かめる大きな試金石は、そこに結果として謙遜が豊かに現れているかどうかです。被造物にとって謙遜は、神の聖さが彼の内側にとどまり、彼を通して神の聖さが輝くようになるために必要なもののひとつです。私たちをきよめてくださる神の聖なる方イエスにとっては、神のご性質である謙遜は、そのいのち、その死、その昇天の奥義です。ですから、私たちのきよめを確かめる確実な試験は、神と人との前での謙遜というしるしです。謙遜はきよめの開花であり、きよめの美です。

逆に、偽のきよめを見極めるいちばんのしるしは、謙遜の欠如です。きよめを探求する人がみな警戒しなければならないのは、霊で始まったことが無意識のうちに肉によって完成されたり、まったく予期しないところに高ぶりが忍び寄ってきたりすることです。ふたりの男が神殿に祈りに詣でました。ひとりはパリサイ人、もうひとりは取税人でした。神殿はどこよりも聖なる場所でしたが、パリサイ人はそこに入ることができました。高ぶりの心は神の神殿の中にいても頭をもたげるので、礼拝は自己満悦の舞台になりえます。 キリストがパリサイ人の高ぶりを明るみに引き出してからというもの、パリサイ人は取税人の装いをまとっています。そのため、深く罪を告白する者は、高いきよめを宣言する者と同様に、警戒していなければなりません。私たちの心を神の神殿にしていただくことを私たちが切実に願っている最中に、ふたりの男が祈りに詣でるのを私たちは発見します。そこでは、取税人にとって危険とは、彼を見下している隣のパリサイ人から来るのではなく、彼を賞賛し持ち上げる内なるパリサイ人から来るものであることがわかります。 神の神殿で、神のきよさの臨在のなかで、私たちが自分をすべての者のうちで最も聖なる者であると考えるとき、高ぶりに陥らないよう気をつよけようではありませんか。「ある日、神の子どもたちが主の御前に立つために来た。そこにはサタンも彼らの間に来ていた。」

「神よ、私がほかの者たちのようでないことを、特にこの取税人のようでないことを感謝いたします。」感謝をささげるその内容に、また神にささげる感謝そのもののなかに、自己満悦の種があります。ときには、神がすべてをしてくださったと告白する言葉のなかにさえも、自己満悦があるかもしれません。そうです。神殿の中で悔い改めと神の恵みのみに信頼する言葉が聞かれているときでさえ、パリサイ人が賛美の音色を借りて、神に感謝するふりをしながら自分自身をほめてたたえていることがありえます。高ぶりは、賛美や悔い改めの外観を装うことがあります。「私がほかの者たちのようでない」という言葉を高ぶりの罪だと理解して言わないようにしたとしても、そこに宿る高ぶりの精神は、共に礼拝する者たちや仲間たちに向けた私たちの感情や言葉のなかに見られることがあまりにも多くあります。これが事実なのかどうかご存じなければ、教会やクリスチャンたちがお互いのことをよくどんなふうに話しているかをお聞きください。イエスのような柔和と穏和がほとんど見られないことがわかるでしょう。 深い謙遜こそが、イエスのしもべが自分やお互いを表現するための基調でなければならないということが、ほとんど記憶されていません。多くの教会や会衆で、多くの教団や協議会で、多くの団体や共同体で、さらには多くの異教徒への宣教会で、調和がくずれ、神の働きが停滞していないでしょうか。その原因は、聖徒と思われている人たちが、実は神経質で短気で怒りっぽく、自己弁護と自己主張に明け暮れ、容赦ない裁きと冷酷な言葉を投げかけ、ほかの人を自分よりもすぐれているとは思わず、彼らのきよめが聖徒たちの柔和をもたらすきよめになっていないからではないでしょうか。彼らの霊的な歴史において、偉大なへりくだりや、たましいの砕かれた経験が何度かあったかもしれませんが、このことと、謙遜を着ること、また謙遜なたましいを持つこと、またそれぞれが自分をほかの人のしもべと考えるへりくだりの心を持つこと、またイエス・キリストの内にもあったへりくだりの心を示すようになることとは、なんと大きな違いでしょうか。

「私から離れてそこに立っていなさい。私はあなたよりも聖なる者だから!」これがきよめの姿だとしたら、たちの悪い冗談です! 聖なる方イエスはへりくだった方です。最も聖なる者が最もへりくだった者となるのです。神以外に聖なる方はいません。私たちが神のご性質にあずかれば、それだけきよめにあずかることになります。私たちがどれだけ神のご性質にあずかったかによって、私たちの謙遜がほんものになります。なぜなら、謙遜とは、神がすべてになってくださるというビジョンによって「私」が消滅していくことにほかならないからです。最も聖なる者が最もへりくだった者となります。ああ! イザヤの時代にあからさまに高慢なユダヤ人はあまり多く見られなかったように、私たちもこのように話してはいけないと作法を教えられてはいますが、その高ぶりの精神は、仲間である聖徒との交わりだけでなく、この世の子どもたちとの交わりにおいても、いまでも非常によく見られます。意見を話すときの精神、仕事を行なうときの精神、失敗を告白するときの精神において、態度は取税人の装いをしているものの、その声はいまもパリサイ人のそれなのです。「ああ、神よ、私がほかの者たちのようでないことを、感謝いたします。」

では、人がほんとうに自分を「すべての聖徒たちのうちで最も小さい者」として、すべての人たちに仕える者になる謙遜は、いまもあるのでしょうか。あります。「愛は、自分を誇らず、高慢にならず、自分の利益を顧みません。」心のなかで愛の精神が広く行き渡っている場所、つまり、満ち満ちた神のご性質が生まれて、柔和でへりくだった神の小羊キリストがほんとうの意味で内側に形作られる場所に、完全な愛の力が与えられます。完全な愛は自分自身を忘れ、どんなに卑しい人に対しても、ほかの人を祝福すること、寛容になること、賞賛することに自らの祝福を見いだします。この愛が入る場所に、神ご自身も入ります。神ご自身が御力をもって入った場所で、神はご自分がすべてであり、被造物が無に等しい者になることを明らかにされます。そして、被造物が神の御前に無に等しい者になる場所で、彼は周りの被造物に対して謙遜以外の何ものでもなくなります。神の臨在は何度か体験すればよいとか一定期間体験すればよいとかいうものではなく、永遠にわたってたましいがその下で生きるにふさわしいものです。ですから、神の御前に深くへりくだることが、神の臨在の聖なる場所にふさわしく、その場所からすべての言葉もすべての働きも生じるのです。

どうか神が私たちに教えてくださいますように。周りの人に対して抱く考え、言葉、感情が神に対する謙遜を試すテストであり、逆に神の御前での謙遜だけが、周りの人にいつでもへりくだることを可能する力であることを。私たちの謙遜は、私たちの内側におられる神の小羊キリストのいのちでなければなりません。

きよめの教師をしているすべての人たちに、講壇に立っていてもステージに立っていても、警鐘を鳴らそうではありませんか。また、きよめを求めるすべての人たちに、祈りの小部屋にいても大きな集会にいても、警鐘を鳴らそうではありませんか。自分がきよめられた者であるという高ぶりほど危険なものはありません。その高ぶりは狡猾に心に侵入し、知らぬ間に広がっていくからです。それはあからさまに「私から離れてそこに立っていなさい。私はあなたより聖なる者だから」と言ったりしないだけでなく、そういう考えを持つことすらありません。じっさい、そういう考えは憎むべきものであると分かっているはずです。にもかかわらず、まったく無意識のうちに、自分の成し遂げたことに自己満悦したくなる隠されたたましいの習慣がだんだんと成長し、ほかの人と比べて自分がいかにすぐれているかが気になって仕方なくなります。 その高ぶりは、いつも特別な自己主張や自己賞賛のなかに見出されるものではなく、むしろ、神の栄光を見た者のたましいに刻まれざるを得ない、自分が卑しい者であるという深い洞察(ヨブ四二・五〜六、イザヤ六・五)が単純に欠けているところにこそ見出されるものです。その高ぶりは言葉や思考のなかだけでなく、ほかの人についての話し方や話す調子にもその姿を現わします。霊の見分けの賜物をもつ人なら、「私」の力をそこに見出すに違いありません。この世でさえ、鋭い目でそれを見分けるでしょう。そればかりか、それこそが、天のいのちを持っていると口では言っても天からの特別な実をみのらせていない証拠ではないかと指摘するでしょう。ああ、兄弟の皆さん! 目を覚ましましょう。私たちがきよめと考えるものにどれだけ進歩があったとしても、私たちが学んでいるこの謙遜が増し加わるのでない限り、きよい行いや聖化や信仰についての美辞麗句や満足感にただ酔いしれているだけで、「私」の消滅という、神の臨在をしめす唯一の確かな記章をつねに外したままです。イエスの謙遜を身に着るまで、イエスを避けどころとし、イエスを隠れ場としようではありませんか。それだけが、私たちのきよめです。