(六) 日常生活での謙遜
「目に見える兄弟を愛さない者が、どうやって目に見えない神を愛せようか。」ヨハネの手紙第一四・二〇 私たちが神を愛しているかどうかは毎日の人間関係とそこで示される愛によって確かめられるという考え方には、なんと厳粛な重みがあることでしょうか。また、神を愛していると言いながらも、身近な人たちとの日常生活という試験に合格するというかたちで神への愛が証明されなければ、その愛はただの思い違いであるという考え方もまた、厳粛に受け止められるべきです。私たちの謙遜についても同じことが言えます。自分が神の御前にへりくだっていると考えるのは容易です。しかし、人に対する謙遜だけが、神に対する謙遜が本物であることをはっきりと示します。それだけでなく、謙遜が私たちの内側を住まいとし、それが私たちの本心となり、キリストのように私たちがじっさいに自分の評判を求めていないことをも、人に対する謙遜が不足なく証明してくれます。 神の臨在のなかでへりくだりの心が、祈りの姿勢というよりも、生活そのものの精神になるとき、兄弟たちとの関係のあらゆる局面で謙遜がその姿をあらわします。次の教訓には深い重要性があります。すなわち、謙遜が本当の意味で私たちのものとなるとは、神の御前で祈るときにそれを示そうとすることではなく、私たちがいつもそれを持ち歩き、普段のふるまいで実行していることであるという教訓です。日常生活のなにげない所作が、永遠を左右するたいせつな試験です。なぜなら、私たちを所有する霊が本当は何であるかを明示するのが日常生活のふるまいだからです。人が謙遜であるかどうかを知るためには、また謙遜な人がどのようにふるまうのかを知るためには、彼の日常生活のありふれたひとこまを観察しなければなりません。
これがイエスの教えたことではないでしょうか。イエスが謙遜の戒めを教えたのは、弟子たちがだれがいちばん偉いかと議論していたまさにそのときでした。ほかにも、パリサイ人が宴会の上座を好み、会堂の上席を愛するのをイエスが見たまさにそのとき、そしてイエスが弟子たちに足を洗う模範を見せたまさにそのときのことでした。神の御前での謙遜は、人の前での謙遜によって証明されるのでなければ無意味です。
パウロの教えも同じです。ローマの人々にパウロはこう書いています。「お互いに尊敬の心で相手を自分よりもたいせつにしなさい。」「高ぶった思いを持たず、低い者に目線を合わせなさい。」「うぬぼれて自分を賢い者だと思わないようにしなさい。」またコリントの人々にはこう書いています。「愛は」――根本に謙遜のない愛はありえません――「自分を誇らず、高慢にならず、自分の利益を顧みず、怒りません。」ガラテヤの人々にはこうです。「愛をもってお互いに仕え合いなさい。お互いに虚栄に走ったり、怒りをぶつけ合ったり、うらやんだりしないようにしよう。」エペソの人々には、天の生活について書かれた三つの素晴らしい章の直後に、こう書いています。「したがって、謙遜と柔和を尽くして歩みなさい。愛をもってお互いに寛容になり忍耐しなさい。」「いつも感謝し、キリストをおそれうやまってお互いに従いなさい。」ピリピの人々にはこうです。「党派心や虚栄心から何事もしないようにしなさい。そうではなく、へりくだった心でお互いに相手を自分よりもすぐれていると思いなさい。キリスト・イエスも抱いておられるのと同じ思いをあなたがたの内に持ちなさい。キリストはご自分をむなしくし、しもべの形をとり、ご自分を低くされた。」コロサイの人々にはこうです。「あわれみ、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐の心をお互いに持ちなさい。主があなたがたをゆるしてくださったように、お互いにゆるし合いなさい。」真実なへりくだりと謙遜の心が見られる場所は、私たちのお互いに対する人間関係と態度のなかです。神の御前での謙遜は、それが周りの人たちにイエスの謙遜を明らかにするよう私たちを整えるのでなければ、価値がありません。
謙遜な人はどんなときもルールにのっとって行動しようとします。そのルールとは「お互いに尊敬の心で相手を自分よりもたいせつにしなさい、お互いに仕える者となりなさい、相手を自分よりもすぐれた者と思いなさい、お互いに従いなさい」というものです。こんな質問がよく寄せられます。「相手を自分よりもすぐれた者と思うと言われましても、相手が知恵も聖さも明らかに私よりずっと下で、生まれつきの能力も、いただいた恵みでさえも私より劣っているとわかるときには、どうすればよいのでしょうか。」その質問からただちに分かるのは、私たちが本当のへりくだった心をいかに理解していないかということです。真実な謙遜が来るときは、私たちが神の光に照らされて自分自身を無に等しい者と見なし、「私」に別れを告げ、それを捨て去ることを神との間で取り決め、神にすべてになっていただいてからです。このことを経て「私はあなたを見出すこと以外に何も欲しません」と言えるたましいは、もう自分をほかの人と比べません。そうなれば、自分に執着することは神の臨在のなかで永遠になくなります。周りの人と会うときには自分が無に等しい者であり、また自分からは何も求めない者であるとして接します。神のしもべとなり、神の目的のためにすべての人に仕える者となるのです。忠実なしもべは、自分が主人よりも賢かったとしても、しもべとしての真実な精神と品位を保ちます。謙遜な人は、どんなに弱々しい人をもどんなに卑しい人をも、一人ひとりを神の子どもと見なします。そして、一人ひとりを尊重し、王の子どもとしての尊敬をもって自分よりもたいせつにします。弟子たちの足を洗ったキリストの精神によって、私たちはみずから最も小さい者となってお互いに仕えることに喜びを感じるようになります。
謙遜な人は嫉妬しません。ほかの人が自分の前で優遇され祝福されるときにも、神をほめたたえることができます。ほかの人が賞賛され、自分が忘れられていても、謙遜な人はそれを気にせずにいられます。その理由は、彼は神の臨在のなかで「私は無に等しい」とパウロと共に言うことを学んだからです。自分を満足させず、自分の栄誉を求めもしないイエスの精神を、彼は自分の生き方の精神として受け取ったのです。
周りのクリスチャンの失敗や罪を見て、それに難癖をつけようとする考えを持ったり厳しく責める言葉を発しそうになったりして、いらだちや怒りに捕らえようとする誘惑のようなものの真っ只中にあっても、謙遜な人はその心のなかに戒めがこだまし、それを生活のなかで示します。「お互いに寛容の心を持ちなさい。主があなたがたをゆるしてくださったように、お互いにゆるし合いなさい。」彼が学んだのは、主イエスをこの身に着るときに、あわれみ、親切、謙遜、柔和、寛容の心を着ることができるということです。イエスが「私」の場所にいてくださるので、イエスがゆるしてくださったように人をゆるすのはもう不可能ではありません。彼の謙遜は、ただ単に自分を取るに足りない者とする考えや言葉だけで形作られているのではなく、パウロが「謙遜」という単語を「あわれみ、親切」と「柔和、寛容」の間に書いたように、神の小羊のしるしとして知られている、優しくへりくだった穏やかさによっても形作られています。
クリスチャンライフの高みに達する経験をやっきになって求めるあまりに、信徒がいわゆる人間的な徳のほうに、嬉々として向かっていくという危険に陥ることがよくあります。人間的な徳とはたとえば、大胆さ、喜び、世への軽蔑、宗教的熱意、自己犠牲といったものです。これらは昔のストア派でも教えられ、実践されていた徳です。一方で、もっと深くもっと穏やかな、もっと神に近くもっと天に由来する恵みがあります。それはイエスが天からもたらしてくださったので、地上でイエスがはじめて説き明かしたものです。その徳はイエスの十字架と「私」の死を、今までよりも明確に結び付けてくれます。すなわち、心の貧しさ、柔和、謙遜、へりくだりです。ところが、これらについて考えを深めたりその価値が見直されたりすることがほとんどありません。ですから、あわれみ、親切、謙遜、柔和、寛容の心を着ようではありませんか。私たちがキリストに似た者であると証明される根拠は、失われた者を救うために熱心になることだけでなく。すべての人の前に兄弟としての交わりを持って、主が私たちをゆるしてくださったように、私たちがお互いに寛容になり、お互いをゆるすようになることです。
クリスチャンの皆さん、聖書が謙遜な人をどう描写しているかを学ぼうではありませんか。そして、兄弟たちに、また世界に向けて、私たちの姿に原型となる方と似ている性質が見られるでしょうかと尋ねようではありませんか。この書の各章を、どのように神が私たちの内に働いてくださるかを約束したものであると思い、またイエスの御霊が私たちの内側に生み出してくださるものを教える啓示であると考えるほどに、まずは厳粛に受け止めようではありませんか。また、失敗や不足の一つひとつをあれこれ悔やまず謙遜と柔和の糧として、柔和でへりくだった神の小羊のところに向かおうではありませんか。キリストを私の心にお迎えしてキリストが私の王座についてくださるとき、キリストの謙遜と穏和が私たちの内側から流れ出る生ける水の川のひとつとなる、という保証があるのですから。
「私はイエスを知っています。イエスは私のたましいにとって極めて貴重な方です。しかし、私の内に優しさ、忍耐強さ、親切さを保つことのできない何かがあります。それを何とか押さえつけようとしましたが、それはなくなりませんでした。私はイエスにすがりついて助けを求めました。私が自分の意志をイエスにゆだねたとき、イエスが私の心に来てくださり、優しくないすべての思い、親切でないすべての思い、忍耐強くないすべての思いを追い出してくださいました。そうして、イエスは私の心のドアを閉めてくださいました。」ジョージ・フォックス
もう一度、以前に申し上げたことを繰り返します。教会が神に由来するこの謙遜を受け取れていないために苦しんでいるという事実に関して、考察する機会があまりにも少ないと私は切実に感じています。謙遜と愛の精神をもったクリスチャンがさまざまな地域の教会をいくつも知るにつれて、嘆かわしくもそこに愛と寛容の精神が欠けているとわかって、深い悲嘆の言葉をこぼすことがあります。もしヨーロッパで男性も女性も自分の交友関係を選べて、それぞれ考え方の合わない人たちと接するようなったとしたら、寛容になること、愛すること、平和のきずなの内に御霊の一致を保つことが、いかに難しいかを痛感するでしょう。そして、仲間内に対しては喜んで助けの手を伸べていた人たちでも、困難を感じ、疲れ果てるでしょう。そうなる理由はただひとつです。謙遜の欠如です。自分を無に等しい者と見なす謙遜は、みずから最も小さい者となり、また小さい者として扱われることを喜び、ただイエスのように、ほかの人たちに仕える者、助ける者、慰める者となって、どんなに低い人にもどんなに卑しい人にも同じように接しようとするのです。
では、キリストのために喜んで自分を投げ打った人が、こんどは兄弟たちのために自分を投げ打つ番になると、非常な困難を覚えるのはどうしてなのでしょうか。その責任は教会にないといえるのでしょうか。教会は信徒に、キリストの謙遜こそが第一の徳であって、すべての御霊の恵みと力のなかで最高のものであることを今までほとんど教えてきませんでした。キリストが謙遜を最もたいせつな教えとし、必要不可欠かつ実現可能なものとして第一に宣べ伝えたように、私たちもキリストのご性質に似た謙遜をそのように扱うべきであることが、今までほとんど明確にされてきませんでした。とはいえ、失望せずにいましょう。この恵みに不足しているということを自覚したのですから、神からもっと多くのものをいただけるというますます大きな期待を持とうではありませんか。兄弟が私たちを試み、苦しみにあわせるとき、彼を神の恵みの手段と思い、私たちをきよめるための神の道具ととらえ、私たちのいのちであるイエスが私たちの内側に吹き込んでくださる謙遜を実践させるために神が与えたチャンスと考えようではありませんか。私は無であり、神がすべてであるという信仰を持とうではありませんか。そうすれば、私たちは自分の目では何も探し求めず、神の力によって、お互いに愛をもって仕えることだけを追い求めるようになります。