アンドリュー・マーレー『謙遜』

(五) イエスの弟子たちの謙遜

「あなたがたの間で高い地位にある者は、仕える者のようでいなさい」ルカ二二・二六

これまで、イエスの人格における謙遜と、イエスの教えにおける謙遜を学んできました。今度は、イエスの選んだ同行者の群れである十二使徒の謙遜を探求しましょう。もし使徒たちに謙遜が欠乏していることがわかれば、キリストと人間との違いがますます浮き彫りになり、ペンテコステの日に彼らの内に働いた力強い変化がどんなに素晴らしいものかを正しく理解できるようになります。加えて、人間のなかに吹き込まれたサタンの高ぶりに対してキリストの謙遜が完全に勝利されましたが、その勝利に私たちもあずかることのできるという事実が、いかに現実的なものであるか弟子たちの変化を通して証明されます。

イエスの教えからの引用ですでに見たとおり、謙遜の恵みが弟子たちにまったく不足していたことが露呈した場面は何度かあります。あるときは、どうすれば自分たちのなかでだれがいちばん偉くなれるかを議論していました。またあるときは、ゼベダイの子たちが母とともに、御座の右と左という最高の座を願い求めました。また、のちの最後の晩餐でも、だれがいちばん偉いかという議論が持ち上がりました。 弟子たちが主の御前にへりくだる瞬間がまったくなかったというのではありません。ペテロがこう叫んだことがありました。「主よ、私から離れてください。私は罪人ですから。」弟子たちも、嵐を静めたキリストにすがりついて礼拝しました。しかし、ときおり見られる謙遜の表現は、ふだん彼らが考えていることをますます浮き彫りにするだけです。彼らの「自己」がどこにあり、どんな力を持っているかは、別の機会に、おのずから示されているとおりです。このすべての意味するところを研究すれば、最も大切な教訓が学べるでしょう。

第一に、どれだけ熱心で活動的な宗教であっても、謙遜が悲しいほどに欠落している場合があります。弟子たちがそうでした。彼らはイエスを熱烈に慕っていました。イエスのためにすべてを投げ打っていました。父なる神みずから、イエスが神のキリストであると教えてくださった者たちでした。イエスを信じ、イエスを愛し、イエスの戒めに従っていました。すべてを捨ててイエスに従いました。 ほかの者たちが帰ってしまっても、弟子たちは付き従いました。キリストと共に死ぬ心の準備もありました。しかし、このすべてよりも深いところに、闇の力がありました。その力の存在と忌まわしさに彼らはほとんど気がついていませんでした。彼らが、救いをもたらすイエスの力の証人となる前に、その力を滅ぼし、追い出さなければなりませんでした。それは今もひそやかに働いています。 信仰告白者や牧師、伝道者や働き人、宣教師や教師に、たとえ御霊の賜物が豊かに現れ、彼らが多くの人に祝福をもたらす管になっていたとしても、試練の時が来たり、親密な交わりによって知識が今よりも豊かに与えられたりすると、キリストの内住のしるしとしての謙遜の恵みが実は大きく欠けていたという事実が、痛ましく露呈するかもしれません。 謙遜が、最高の恵みのひとつであり、最も手に入れ難いもののひとつ、私たちが何よりも第一に目標とすべきもののひとつ、そして御霊に満たされることでキリストが内住し私たちの内側で生きてくださるときにはじめて、私たちに力強く与えられるもののひとつである、という教訓を確認できるでしょう。

第二に、自力で高ぶりを克服し、柔和でへりくだった心を得ようとする外面的な教えや個人的な努力は、どれも粉々に打ち砕かれます。三年間、弟子たちはイエスの訓練課程を受けました。イエスは何がいちばんの教訓であるかを教えました。イエスが教えようとされたのは、「わたしから学びなさい。わたしの心は柔和でへりくだっているから」という教訓でした。弟子たちに、パリサイ人に、群衆に、謙遜だけが神の栄光に至る道であることをイエスは何度も話しました。イエスは人々の前で、神の謙遜を体現する神の小羊として生きただけではありませんでした。イエスはご自分の生き方の深い奥義を一度ならず明らかにされました。「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た。」「わたしはあなたがたの間で仕える者のようである。」イエスは弟子たちの足を洗い、その模範にならうようにと命じました。 それでも、だれもそこから学びませんでした。聖餐の場でも、だれがいちばん偉いかという議論が持ち上がりました、弟子たちが繰り返しイエスの教えを学び、イエスをまたしても落胆させることのないようかたく決心していたのは疑いありませんが、すべては無駄でした。その教えの真の目的は、弟子たちに、また私たちに、かけがえのない教訓を教えるためでした。それは、キリストご自身からの命令であっても外から命令を与えられるだけでは、どれほど説得力のある議論をしても、どれほど謙遜が美しいと感じても、どれほど真剣に個人的な努力や決心をしても、それらによっては高ぶりという悪魔を追い出すことができないということです。サタンがサタンを追い出しても、あらためてもっと強い者が、もっと巧妙に入ってくるだけです。神の持っておられる謙遜という新しい性質が力強く啓示され、古い性質と置き換わって、古い性質が現実的に私たちに働きかけたのと劣らぬほど、新しい性質がありありと現実的に私たちのものとならない限り、あらゆる努力は無益です。

第三に、私たちが本当の意味で謙遜になれるのは、神としての謙遜を持っておられる内住のキリストによる以外にありません。私たちの高ぶりは、ひとりの人、つまりアダムから来ています。私たちの謙遜も、ひとりの方から来なければなりません。高ぶりは私たちに属し、私たちをそのおぞましい力で支配しています。高ぶりが私たちのありのままの姿であり、偽りない心根だからです。謙遜もそれと同じあり方で、私たちのものとならなければなりません。謙遜が私たちのありのままの姿となり、偽りない心根とならなければなりません。高ぶりが容易にそこに向かっていく自然な性向だったのと同じように、謙遜もそうならなければなりませんし、事実そうなるでしょう。約束はこうです。「罪の満ちるところに、恵みがはるかに満ちあふれる。」この法則は心に関しても通用します。キリストが弟子たちに与えたすべての教えも、弟子たちの無駄になった努力も、結局はキリストが彼らの内に神としての力をもって入って来られるための必要な準備でした。そのゆえに、キリストが教えようと願ったものが、弟子たちの内側に成就されました。 キリストはご自分の死によって悪魔の力を打ち砕き、罪を除き去り、永遠の贖いを成し遂げられました。キリストはご自分の復活によって父なる神からまったく新しいいのちを受け取られ、神の力によるいのちを人間に与えることができるようになりました。そのいのちを注がれることで、人の生き方は神の力で刷新され、満たされます。キリストは昇天において父の御霊を受けられたので、キリストが地上におられる間になしえなかったことを御霊を通じて行えるようになりました。キリストは愛する者たちとひとつとなって、彼らのいのちをじっさいに生きたものにしてくださいました。その結果、彼らは父なる神の御前にキリストと同じ謙遜をもって生きることができるようになりました。なぜなら、キリストご自身が彼らの内に住み、息づいておられたからです。そして、ペンテコステの日には、キリストは来られ所有のものを得られました。先立つ教えと罪を自覚させる働き、イエスの教えによって起こさせられた願いと希望は、ペンテコステの日に起こった力強い変化によって完全にまっとうされました。ヤコブとペテロとヨハネの生き方と手紙には、すべてが一新された証があり、イエスの柔和と苦しみの霊が彼らをじっさいにとらえていたことを証していました。

これらのことに何と言いましょうか。私の読者はさまざまなレベルにおられるに違いありません。ある人は、この問題についてこれといって考えたことがないため、教会と信徒一人ひとりに切迫した重要性をもつ生涯をかけた問いであることをすぐには理解できないでしょう。 ある人は自分の不足に心責められて、非常に熱心に努力をするけれども、徒労に終わり失望してきたことでしょう。またある人は、霊的祝福と御力を豊かに受けたことを喜んで証しすることができるにもかかわらず、だれの目にも明らかに欠乏しているものに関して必要な罪の自覚がなかったことでしょう。 あるいは、ある人はこの謙遜の恵みに関しても主が解放と勝利を与えてくださったことを証しすることができますが、イエスの満ち満ちた身丈にまで達するためにまだどれほど恵みが必要で、それを期待すべきかを主が教えてくださったことでしょう。読者がどのレベルに属しておられるにせよ、私たちすべての者にとって、謙遜がキリスト教において占めている特別な場所に関して、もっと深い確信を求めるべき差し迫った必要があることを私は力説したいと思います。そして、キリストの謙遜こそがキリストのいちばんの栄光であり、キリストの第一の命令であり、私たちのいと高き祝福であることを認識するのでなければ、教会にとっても信徒にとってもキリストのみこころにかなった者となることはまったく不可能であると強調したいと思います。この恵みに恐ろしく欠乏したままの弟子たちが、いったいどれだけ高みに達することができたかをよく考えようではありませんか。ほかの賜物で満足してしまわないよう神に祈ろうではありませんか。ほかで満足するなら、この恵みの欠乏が神の力が力強く働くことのできない隠れた原因であるという事実に気づけません。御子と同じように、私たちも自分からは何もすることができないのだということを本当の意味で知り、それを生き方で示すところにおいてのみ、神がすべてを行なってくださいます。

内住のキリストという真理が、その真理そのものが要求するとおりに、信じる者の体験の内に打ち立てられるなら、そのときにこそ教会は美しい装いと謙遜とで着飾り、教師たちも信徒たちも聖性の美しさに輝くようになります。