(四) イエスの教えにおける謙遜
「わたしから学びなさい。わたしの心は柔和でへりくだっている」マタイ一一・二九 「あなたがたの間でいちばんになりたい者はだれでも、仕える者となりなさい。人の子も仕えるために来たのだ」マタイ一〇・二七
キリストの生活における謙遜を前章で見てきました。キリストがご自分の心を私たちに見せてくださった通りです。続いて、キリストの教えに耳を傾けましょう。ここで私たちが聞くことになるのは、キリストがどんなふうに謙遜について話しておられるか、どれほど人間に、特に弟子たちに対して、ご自分と同じように謙遜であるよう期待してくださっているかです。聖句を丹念に読み解きましょう。私には聖句を引用する以上のことはほとんどできません。キリストが謙遜についてどれほど繰り返し、どれほど熱心に教えてくださったか、十分に感じ取ってください。そうすれば、キリストが私たちに求めておられるものについて正しい認識に近づけるでしょう。
(一)キリストの働きの最初を見ましょう。山上の垂訓の始めに語られた八福の教えで、キリストはおっしゃいます。「霊の貧しい者は祝福されている。天の御国は彼らのものだから。柔和な者は祝福されている。彼らは地を相続するから。」天の御国に関する宣言は、まさに最初のことばから、私たちが御国に入るためにただひとつの門が開かれていることを明らかにしています。貧しい者、つまり自分からは何も持たない者のところに、御国が来ます。柔和な者、つまり自分からは何も求めない者に、地の相続権があります。天の祝福も地の祝福も、低き者のためにあります。なぜなら、天の生活でも地の生活でも、謙遜が祝福を得る奥義だからです。
(二)「わたしから学びなさい。わたしの心は柔和でへりくだっているから、あなたのたましいは安息を得ます。」イエスは教師でもありました。キリストは柔和と謙遜という精神が何であるかを理解しておられます。そのため、私たちは教師としてキリストを受け入れ、また、キリストから学び、受け取ることができるのです。柔和と謙遜はキリストが提供してくださる一つのものです。そのなかに、たましいの完全な安息を得ることができます。謙遜が救いになるのです。
(三)弟子たちは、御国で誰がいちばん偉いかを議論していました。そして、皆で主に尋ねました(ルカ九・四六、マタイ一八・三)。キリストは子どもを弟子たちの真ん中に立たせて、おっしゃいました。「この小さな子どものように自分を低くする者はだれでも、高くされます。」だれが天の御国でいちばん偉大なのでしょうかという質問はじっさい、深みを突いていました。天の御国でいちばんの栄誉となるものは何でしょうか。イエスのほかにはだれも答えられません。天でのいちばんの栄光、天に向けられた真摯な関心、数々の恵みのなかで第一のもの、それは謙遜です。「あなたがたの間で最も小さい者が、いちばん偉大です。」
(四)ゼベダイの子たちはイエスに、御国のいと高き場所でイエスの右と左に座らせてくださいとお願いしました。イエスは、それを決めるのはわたしではなく父であり、それが用意されている人々に父が与えます、と言われました。彼らはその栄誉を自分で追求してはなりませんでした。彼らの考えは謙遜のさかずきと謙遜のバプテスマに向かわなければなりません。それからイエスは付け加えました。「あなたがたの間でいちばんになりたい者はだれでも、仕える者になりなさい。」謙遜はキリストが天から来られたことを示す記章でした。ですから、謙遜が天での栄光をいただく一つの基準になります。つまり、最も低い者が最も神に近いのです。教会の最高の地位は、最もへりくだった者に約束されています。
(五)群衆と弟子たちに、パリサイ人のことについて、彼らが上座に座ることを好むと話されたあと、キリストはもう一度言われました(マタイ二三・一一)「あなたがたの間で最も偉大な者は、あなたがたに仕える者です。」謙遜は、神の御国で栄誉をいただくための唯一のはしごです。
(六)別の機会に、パリサイ人の家で、イエスは招かれて上座に座ろうとする客のたとえを話されました(ルカ一四・一〜一一)。続けてこう言われました。「自分を高くする者はだれでも低くさせれ、自分を低くする者は高められる。」この要求は変更できません。ほかに道はありません。自分を低めることだけが、高く上げられる道です。
(七)パリサイ人と取税人のたとえのあとで、キリストはまた話されました(ルカ一八・一四)。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」神の宮で、神の御前で、神を礼拝所で、神と人とに対する深い真実な謙遜が充満していないなら、どんなものも無価値です。
(八)弟子たちの足を洗ってから、イエスはおっしゃいました(ヨハネ一三・一四)「主であり師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのなら、あなたがたもお互いの足を洗いなさい。」ご命令の権威と、従順と服従の模範によって、謙遜は、弟子を名乗るためにいちばんはじめに必要で欠かすことのできない要素となりました。
(九)聖餐の場でも、弟子たちはだれがいちばん偉いかをまだ議論していました。イエスは言われました。「あなたがたの間でいちばん偉い者は、いちばん若い者のようにしなさい。いちばん高い地位にある者は、仕える者のようにしなさい。わたしはあなたがたの間で仕える者のようです。」イエスがご自分の歩みによって私たちに開示された行程、そしてイエスが私たちを救うために働かせた救いの御力と霊は、すべての人に仕える者へと私を造り変えるこの謙遜です。
このテーマについての説教がどんなに少ないことでしょうか。謙遜の実践がどんなに少ないことでしょうか。謙遜の欠乏についての実感や告白がどんなに少ないことでしょうか。キリストの謙遜において彼に似た者となったことがはっきりわかるほどに到達する者がどんなに少ないか、と言っているのではありません。そうではなく、謙遜がたえず祈り求めるべき特有のテーマであると考える者が、どんなに少ないかを嘆いているのです。この世界に謙遜が見られる機会がどんなに少ないことでしょうか。教会の内部においてさえ、めったに見られません。
「あなたがたの間でいちばんになりたい者はだれでも、仕える者となりなさい。」イエスがここで言おうとされたことを信じるようにと、神はこのみことばを与えられたのです! 忠実に仕える奴隷の性格がどんなものであったかをだれもが知っています。主人の関心に身を捧げ、主人に喜んでいただくために学ぶことにも配慮することにも思慮深く、主人の繁栄と栄誉と幸福にこの上ない喜びを見出します。これらの品性が見られるしもべは地上にもいます。彼らにとって、しもべという称号は栄光以外の何ものでもありません。私たちが自分をしもべとして、神の奴隷として捧げることができると知ったとき、そしてキリストの奉仕は私たちの至高の解放、罪と自己からの解放のためとわかったとき、私たちのうちどれだけ多くの者がそれをクリスチャンライフの新しい喜びとしてこなかったと気づかされるでしょうか。
いま、もう一つの教訓を学ぶ必要があります。イエスが私たちをお互いに仕える者となるよう召しておられます。またそのことを心から受け入れるなら、この奉仕もまた、罪と自己から解放する新しい十分な祝福となるでしょう。はじめのうちは困難に思えるかもしれません。その理由はただ、自分をひとかどの人物と思わせる高ぶりがまだあるからです。神の御前には無に等しい者となることが被造物の栄光、イエスの精神、天の喜びであると一度でも学ぶなら、私たちは自分を苦しめようとする者にさえ仕える修養を心から歓迎するでしょう。私たち自身の心がこの本当の聖別に向けられるなら、私たちは自分を低くすることに関するイエスのことば一つひとつを熟慮する新しい動機を持つようになるでしょう。下るのに低すぎる場所はもうありません。へりくだるのに深すぎる場所もありません。みっともない奉仕も、嫌になって投げ出したくなる奉仕もありません。「わたしはあなたがたの間で仕える者のようです」と言われた方との交わりを他の人にも見せることさえできるなら、どんな奉仕もいとわなくなります。
兄弟の皆さん、ここに、いと高き生き方への道程があります。へりくだること、低くへりくだることです! これこそ、御国で偉大なものになってキリストの右と左に座りたいと考えていた弟子たちに、イエスが言われた答えです。みずから高く上げられることを追求してはいけません。それは神の側でなされるみわざだからです。自分を低め、へりくだること、そして神と人との前に仕える者として自分を捧げてください。それがあなたの仕事だからです。それをあなたの一つの目的、一つの祈りとしてください。神は忠実な方です。水が低きを求め、低きを満たすのとちょうど同じで、へりくだって空の状態になっている被造物を神が見出されるなら、その瞬間に神の栄光と力がそこに流れ込んで、被造物を高く引き上げ、祝福してくださいます。自分を低くすることが私たちの責任ですが、高く上げることは神の責任です。神の大能の力によって、神の大きな愛によって、それをしてくださいます。
ときどき、謙遜と柔和は、気品と大胆さと人間らしさを損なうというようなことを言う人がいます。ああ、自分を低くしてすべての人に仕える者となることこそが、天の御国での気品、天にいます王なる方があらわしてくださった威厳ある精神、神の似姿です! これが、いつまでも私たちの内にキリストの臨在があり、いつまでもキリストの力がとどまるという、喜びと栄誉をいただくための道程です。
柔和でへりくだった方であるイエスが、神に近づく道をご自分から学びなさいと私たちを召しておられます。これまで読んできたみことばをよく読みましょう。ただひとつ私に必要なものは謙遜である、という考えに心が満たされるまで。そして、イエスはご自分が見せるものを与えてくださり、ご自身そのものを分け与えてくださると信じましょう。柔和でへりくだった方として、イエスは切に求める心のなかに来られて住んでくださいます。