アンドリュー・マーレー『謙遜』

(三) イエスの生き方における謙遜

「わたしはあなたがたのあいだで仕える者のようにしています。」(ルカ二二・二七)

ヨハネの福音書には私たちの主イエスの内面生活が明らかにされています。イエスはよくご自分と父との関係や、ご自分の向かっている目的や、ご自分の活動に働く御力と霊をどう認識しているかについて語られました。謙遜という単語こそ出てきませんが、ヨハネの福音書ほどキリストの謙遜を雄弁に語っている書は他に見当たりません。 すでに言ったことですが、この恵みは、神にすべてになっていただくという単純な真理以外のどこにもありません。その真理のゆえに、被造物は神が働いてくださるみわざだけに自分自身を明け渡すようになります。イエスの内に私たちが見るものは、イエスが天にいます神の独り子として、かつ地上の人間として、いかに完全な従属という立場をとられ、いかにご自分に属する誉れと栄光を神にお返ししたかです。ですから、イエスが何度も教えてくださったさとしはご自分にとっても真実でした。「自分を低くする者は、高くされる。」またこう書いてあるとおりです。「この方は自分を低くした。それゆえ、神はこの方を高く上げた。」

私たちの主が、ご自分と父との関係について語ったことばを聞きましょう。主がどんなに絶え間なく「ない」「何もない」ということばでご自分を表現しておられるでしょうか。パウロは「私ではなく」と自分とキリストとの関係を表現しましたが、それはキリストがご自分と父との関係について表現なさるときの精神とちょうど同じです。

「子は自分からは何もすることができない」(ヨハネ五・一九)

「わたしは、自分自身からは何もすることができない。わたしのさばきは正しい。なぜならわたしが自分自身の意志を求めていないからである」(ヨハネ五・三〇)

「わたしは人からの栄光を受けない」 (ヨハネ五・三〇)

「わたしが来たのは、自分の意志を行うためではない」 (ヨハネ六・三八)

「わたしの教えはわたしのものではない」(ヨハネ七・一六)

「わたしは自分から来たのではない」 (ヨハネ七・二八)

「わたしは自分からは何もしない」(ヨハネ八・二八)

「わたしは自分から来たのではなく、神がわたしを遣わしたのである」(ヨハネ八・四二)

「わたしは自分の栄光を求めない」(ヨハネ八・五〇)

「わたしが話すことばは、自分から話しているのではない」(ヨハネ一四・一〇)

「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではない」(ヨハネ一四・二四)

これらのことばが私たちに明らかにしているのは、キリストの生き方と働きの最も深い根です。これらが伝えているのは、全能の神がキリストを通じて力強い贖いのわざをすることができたのはいったいどのようにしてなのかです。これらが示しているのは、キリストが父なる神の御子としてふさわしい心をどんなものと考えておられたかです。 これらが教えてくれるのは、キリストがかつて成し遂げられ、今伝えてくださっている贖いに関して、何が本質であり、いのちであるのかです。すなわち、こういうことです。キリストが無に等しい者となられたので、神がすべてになってくださった。キリストは心尽くし力を尽くして、ご自分の内に働かれる父なる神に余すことなくご自分を明け渡しました。主ご自身の力にも、主ご自身の意志にも、主ご自身の栄誉にも、すべての働きと教えを担う主の使命全体にも、主の語られたあらゆることばにも、「私」がありませんでした。わたしは何者でもない。わたしは御父の働きのために自分を与える。わたしは何者でもない。御父こそがすべてである、と。

全面的な自制の生き方こそ、そして父なる神のみこころに対する絶対的な従順と信頼の生き方こそ、完全な平安と喜びの一つであるとキリストは心得ておられました。キリストは神にすべてを差し出しましたが、そのことによっては何一つ失いませんでした。神が彼の信頼をたたえ、彼のためにすべてのことをなしてくださいました。そればかりか彼を栄光のうちにご自分の右の手にまで引き上げてくださいました。 キリストがそのように神の御前にご自分を低くし、神もいつでもキリストの御前におられましたから、キリストは人の前でもご自分を低くし、すべての人に仕える者となることが可能であると感じました。キリストの謙遜は、単純にご自分を神に明け渡すことでした。みこころのままに神が彼のうちになさることをさし許すことでした。周りの人々が彼のことを何と言おうと、あるいは何をしようと関係ありませんでした。

キリストの贖いに徳と有効性があるのは、この心、この霊、この思いにおいてです。私たちがキリストにあずかる者とされるのには、こうした思いを私たちの内に与える目的があります。私たちの救い主が招いておられるのは、この真実な自己否定です。また、からの器に神が満たしてくださるのでなければ、自分自身の内には何の良いものもないという認識です。そして、自分が何者かである、あるいは何事かをすることができるという自己主張が、一瞬たりともさし許されていないという認識です。 神がすべてになってくださるのは、すべてに先立ち、すべてに優先して、自分は何者でもなく自分からは何もすることができないという認識において、私たちがイエスと一致するときなのです。

ここに本当の謙遜の根源と本質があります。私たちの謙遜がうわべだけで貧弱なものになっているのは、このことが理解されておらず、探求されていないからなのです。イエスから、どんなに彼が柔和でへりくだった心の持ち主であったかを学ばなければなりません。本当の謙遜がどこから生まれて、どこにその力の源泉があるのかをイエスは教えてくださっています。すべてにおいてすべての働きをしておられるのは神であると知ること、私たちが自分からは何者にもなれず何もすることができないと心から同意し、私たちの場所を完全な委任と信頼をもって神にゆだねるべきであると知ること、そこに源泉があります。 これが、キリストが分け与えてくださった生き方です。キリストが来られたのはそれを明らかにするためです。罪に対して死に、自己に対しても死ぬことを通じて神に向かう生き方です。この生き方が私たちにはあまりにも高く、とても到達できないと感じるとすれば、ますます切実にキリストの内にそれを探し求めざるをえなくなるはずです。柔和で謙遜なこの生き方を私たちの内に入れてくださるのは内住のキリストだからです。これを切に求めているなら、その間、何よりもまず、神のご性質に関する聖なる奥義を探求しようではありませんか。神は瞬間ごとにすべてにおいてすべての働きをしてくださっているのですから。その奥義は、すべての自然とあらゆる被造物が、そして何よりも神の子ども一人ひとりが、その証人となることができるものです。その奥義とは、被造物は生ける神がご自分の知恵、力、善をあらわすことのできる器であり、また管であるということです。それ以外の何ものでもありません。すべての徳と恵みの根源、すべての信仰と受け入れられる礼拝の根源は、自分が受け取っているもののほか何も持っていないないと知ること、恵みを求めて神を待ち望み、ますます深い謙遜の内にひざをかがめることです。

この謙遜は、イエスが神のことを考えるつどに呼び覚まされ、へりくだりの実行に促すようなただの一時的な感情ではなく、彼の生き方全体をつらぬく精神でした。だからこそ、イエスは神との交わりだけでなく、人との交わりにおいてもまったく同じように謙遜であられたのです。イエスはご自分を、神が造られ神が愛された人間のための、神のしもべと考えました。その必然的な結果として、イエスはご自分を、彼を通じて神が愛のみわざを行なうための、人間に仕えるしもべと見なしておられたのです。イエスは一瞬たりともご自分の栄誉を求めたり、ご自分の力を自己弁護のために使ったりすることを考えませんでした。イエスの精神は、神が内側で働いてくださるままにご自分を委ねるという生き方で貫徹していました。クリスチャンはイエスの謙遜を研究しなければなりません。イエスの謙遜を、欠かせない贖いの本質として、神の御子の生き方にあらわされた祝福として、父なる神に対するたったひとつの真実な関係として、したがって私たちがイエスの一部にあずかるならイエスが必ず与えてくださるものとしてとらえるべきです。そうしてはじめて、謙遜の実質的な、天的な、明白な現れが私たちに致命的なほど欠乏していることに気づかされ、それが重荷となり悲しみとなって、平凡で儀式的な宗教では満足できなくなり、キリストの内住を示すこの第一にして主要な記章を獲得するよう努めるようになるでしょう。

兄弟の皆さん、あなたは謙遜を身に着ていますか。日々の生活に問いかけてください。イエスに問いかけてください。友人に問いかけてください。世界に問いかけてください。そして、神をほめたたえ始めましょう。なぜなら、天的な謙遜はあなたに向けてイエスの内に開示されているからです。この謙遜をあなたはこれまでわずかにしか知りませんでした。この謙遜によって、今まで味わったことのないような天的な祝福があなたの内に入ってくるようになります。