(二) 謙遜:贖いの奥義
「キリスト・イエスも抱いておられるのと同じ思いをあなたがたの内に持ちなさい。キリストはご自分をむなしくし、しもべの形をとり、ご自分を低くされ、死に至るまで従順になられた。それゆえ神はこの方を高く上げた。」(ピリピ二・五〜九一部略)
どんな木も成長するための根がなければ育ちません。木はその寿命を全うするまで、はじめに芽を出した種のなかにもともとあった生命によって生きていられるだけです。この真理を第一のアダムと第二のアダムに適用しましょう。そのことを十分に理解するなら、私たちはイエスのなかにある贖いの必要性とその性質とを理解するうえで大いに役立つに違いありません。
贖いの必要性について。古い蛇が天から落とされたのは、高ぶりのゆえでした。彼の悪魔としての全性質は、高ぶりです。蛇が誘惑の言葉をエバにささやいたとき、これらの言葉にまさしく高ぶりという地獄の毒も含まれていました。エバがそれを聞き、善も悪も知っているにもかかわらず、自分の願いと意志とを「神のようになれる」という幻想に捧げたとき、その毒が彼女のたましいと血といのちとに注入され、その結果、あの祝福に満ちた謙遜と神への信頼は永遠に破壊されました。謙遜と神への信頼こそが私たちのとこしえの幸福だったのです。それらを享受することはかなわず、エバのいのちと彼女から始まる人類のいのちは、あらゆる罪とあらゆる呪いの中でも最悪のものであるサタン自身の高ぶりという毒を受け、まさしく根の部分から腐りました。この世界にうずまくあらゆる悲惨さ、国々のあいだのあらゆる戦争と流血、あらゆる自己中心性と苦しみ、あらゆる野望と嫉妬、日々の不幸に伴うあらゆる心の痛みと人生の悲痛、それらすべての起源は、この呪われた、地獄の高ぶりが私たちにもたらした結果にあります。自分自身の高ぶりであっても他者の高ぶりであっても同じことです。高ぶりこそが贖いの必要性を証明しています。私たちは何にもまして、高ぶりから贖われる必要があります。ですから、私たちの存在に食い込んだ最悪の性質について知れば知るほど、贖いの必要性に関する洞察は深まっていくでしょう。
どんな木も成長するための根がなければ育ちません。サタンが地獄から持ち込んで人間のいのちに植えつけた力は、毎日、毎時間、世界のいたるところで力強く働いています。人類はその力に苦しめられています。それを恐れ、それと戦い、それから逃げ出します。しかし、人類はそれがどこから来るのか知りません。それがどこからおぞましい主権を発揮しているのか知りません。どこで、またどのようにすればそれを克服できるのか知りません。そのような状態にあることは疑いようがありません。高ぶりにこそ、私たちの外側からも内側からも攻める、おぞましい霊的力の根源があります。高ぶりを私たち自身の問題として告白し、嘆き悲しむことが是が非でも必要であるのと同様に、高ぶりの起源がサタンであることを知ることも必要です。それを知ることによって、どうあがいても自力でその力を克服することも振り払うこともできないという絶望へと導かれるなら、もう間もなく、私たちの解放を見出しうる、唯一の超自然な御力へと導かれるでしょう。それは、神の小羊の贖いです。 私たちの内にある、自我と高ぶりの活動に対する格闘は勝機が見込めないうえ、その背後に闇の力があると考えるとますます絶望的になるかもしれません。まったくの絶望に至ってから、ようやく私たちの外にもあった力といのち、さらには天的な謙遜の存在に気づき、受け入れることができるようになります。その力もいのちも謙遜も、神の小羊が天から下され、近くに置いてくださったものです。それらによってサタンと彼の高ぶりを追い出すことが可能になります。
どんな木も成長するための根がなければ成長できません。最初のアダムとその堕落に目をやって、私たちの内に働く罪の力を知ることは確かに必要です。しかし、第二のアダムと私たちの内にいのちのある謙遜を与える彼の御力もよく知る必要があります。高ぶりの力が私たちの内に活動してきたのと同様に、謙遜のいのちは私たちの内でありありと、永続的に、圧倒的な力をもって働きます。 私たちがアダムから、アダムのなかにあったいのちを受けたことは真実ですが、それと同じように、いやそれ以上に、私たちがイエスから、イエスのなかにあるいのちを受けることは真実です。私たちは「イエスに根ざし」「神の力でからだ全体が成長するためのかしらにしっかり結びついて」歩むことができます。 受肉において人間の性質のなかに吹き込まれた神のいのちこそが、私たちが依拠し、そこから育つことのできる根です。イエスを受肉させ、さらに復活させたのと同じ大能の御力が、私たちの内に毎日働いています。ただ一つ必要なことがあります。キリストの内に啓示されたいのちが今や私たちのものとなったのですから、残るは私たちの身も心もそのいのちに所有されご支配を受けることについて、私たちの側の承諾が待たれるばかりであるということを、学び、知り、信じなければなりません。
この観点のなかに、想像をこえた重要な点があります。それは、キリストが何者であるか、イエスをキリストたらしめている本質は何か、特にキリストの人格の何が核であるか、すなわち何が私たちの贖い主として彼の人格の本質となり根源となっているかを正しく理解すべきであるという点です。この問いに対し、唯一の解答があります。それがキリストの謙遜です。 受肉とは、キリストがご自分をむなしくして人となられたという、キリストの天的な謙遜でなくていったい何でしょうか。キリストの地上での生涯は謙遜そのものでなくていったい何でしょうか。キリストはしもべの形をとられたのです。また、キリストの贖いのわざは謙遜そのものでなくていったい何でしょうか。「彼はご自分を低くして死に至るまで従順になられました。」 さらに、キリストの昇天と栄光とは、謙遜ゆえに王座に引き上げられ栄光の王冠を受けたことでなくていったい何でしょうか。「彼はご自分を低くした。それゆえ神は彼を高く上げた。」キリストが父と共に天におられたこと、またキリストの誕生、その生涯、その死、その王座への着座、そのすべてが謙遜以外の何ものでもありません。 キリストは神の謙遜を人間の性質のなかに具現化なさった方です。永遠の愛である方がご自分を低くされ、柔和と温和を身にまとって、私たちを勝ち取り、私たちに仕え、私たちを救うために来られました。神の愛と謙遜ゆえに、神ご自身がすべての者の援助者、助け主、仕える者にならざるをえなかったと同じように、イエスが受肉した謙遜となられたことは必然でした。今も、キリストは柔和でへりくだった神の小羊として王座に着いておられます。
この謙遜が根の部分であるなら、その性質は枝にも葉にも実にも、木の末端にまで宿っていなければなりません。もし謙遜が第一のもの、つまりあらゆる恵みを内包したイエスのいのちの恵みであるなら、またもし謙遜が彼の贖いのわざの奥義であるなら、私たちの側がこの恵みを第一としているかどうか、私たちが主をあがめるに際し主のご謙遜を第一にほめたたえているかどうか、私たちが謙遜を第一に求めているかどうか、ほかの何を犠牲にしても謙遜を求めているかどうかに、私たちの霊的生活の健康と力強さとが全面的にかかっています。(章末ノート二参照)
クリスチャンライフが弱々しく実りないものになることがあまりに多いといっても、キリストのいのちの根を無視し、知らないままであれば、何の不思議があるでしょうか。救いの喜びがあまりにも小さいといっても、キリストがその中に喜びを見出し、その中に喜びをもたらした当のものをほとんど求めていなければ、何の不思議があるでしょうか。 謙遜は、自己が完全な終局と死を迎える場所に宿ります。謙遜は、イエスにならって人からの栄誉をまったく願わず、ただ神から来る栄誉だけを求めます。謙遜は、ただひたすら自分自身を無に等しい者と見なし、神にすべてになっていただきます。主だけが高められるためです。そして、このような謙遜が、私たちがどんな喜びにもまさってキリストの内に求めるものとなり、どんな代価を払っても歓迎するものとならない限り、キリスト教が世界を征服する望みはほとんどありません。
ひょっとすると読者は、あなたの内側にも外側にもある謙遜の欠乏に特別な注意を払ったことがないかもしれません。そこで、読者の皆さんに私は心から懇願します。どんなに熱心に懇願しても足りません。主の御名によって呼ばれる者たちの内に、神の小羊の柔和で謙遜な霊を、豊かに見出したことがあるかどうか立ち止まって自問してください。 考えてみましょう。以下のすべてのものの根が、高ぶりにほかならないということを。すなわち、愛の欠乏、ほかの人の必要や感情や弱さに対する無頓着、公然と正直に言っているのだからという弁解のもとに正当化される容赦なき速やかな裁きと断罪、怒りと不安といらだち、苦々しい思いと仲たがいといったさまざまなものです。高ぶりは自分が自分がと要求し続けます。それらが高ぶりを根としていると気づくなら、あなたの目は開かれて真実を見るようになるでしょう。どのようにして暗闇が、つまり悪魔的な高ぶりが、ほとんどあらゆる場所に忍び寄るかを理解するでしょう。聖徒の集まりも例外ではありません。 問いかけ始めましょう。もしあなたの内側も外側も、また信仰の仲間や世界に対しても、信徒が本当にイエスの謙遜に絶え間なく導かれるようになったとしたら、どんな影響があらわれるでしょうか、と。また、こう言ってみましょう。私たちが心の底から、日夜、「ああ、私の内側も外側もイエスの謙遜で満たしてください!」と叫び求めるべきではないのでしょうか、と。 あなたの心を率直に、あなた自身の謙遜の欠乏にたゆまず向けましょう。謙遜はキリストの生涯に似た者となることにおいて、またキリストの贖いの性格全体において、啓示されてきたものです。あなたの心を謙遜の欠乏に向けるなら、あなたはキリストご自身とキリストによる救いが何であるのかを本当の意味では知ってこなかったと感じ始めるでしょう。
信じる方よ! イエスの謙遜を研究してください。これは奥義です。あなたの贖いの隠された根です。日ごとにその奥義にますます深く思いを沈めてください。心を尽くして信じてください。神があなたに与えてくださったこのキリストが、神としての謙遜をあなたのために働かせてくださったように、あなたの内側にも入ってきて働いてくださることを。そうして、父なる神があなたをみこころにかなう者に変えてくださるということを。
ノート二 「私たちは二つを知る必要がある。(一)私たちの救いとは、私たちが生まれながらに持っている私たち自身から救われるということから、その全体が成り立っている。(二)事の本質からして、言葉で言い表せないほどの神の謙遜のほか、何ものもこの救いや救い主になることはできない。したがって、救い主が堕落した人間に対して最初に発する不変のことばは、こうである。「人が自己を否定するのでなければ、彼はわたしの弟子となることはできない。」自己は堕落した性質によって全体が悪に染まっている。自己否定とは私たちが救われるための資格である。謙遜が私たちの救い主である。……自己は根である。枝である。木である。私たちの堕落した状態によってすべてが悪になっている。堕落した天使と人類の諸悪は、自己の高ぶりによって誕生した。一方で、天的ないのちの徳は、そのすべてが謙遜の徳である。天国と地獄を越えられない分け目となっているのは、ただ謙遜の有無だけである。では、永遠のいのちを獲得するための大いなる格闘とは何であり、またそこに何があるのだろうか。そこにあるいっさいは高ぶりとへりくだりの闘争である。高ぶりとへりくだりが二つの陣営の勢力である。二つの王国が人間に対する永遠の所有権を巡って争っている。謙遜にはただ一つのものしかなかった、またこれからもないであろう。それはただ一つのキリストの謙遜である。人が彼のいっさいをキリストからいただかない限り、高ぶりと自己が彼のいっさいを握っている。それゆえ、人が良き戦いをするためには、その格闘が次のようなものでなければならない。すなわち、アダムから続いている自己を偶像とする性質が、彼にいのちをもたらすキリストの超自然的な謙遜によって、死へと葬られるような格闘である。」(ウィリアム・ロウ『聖職者たちへの講演』五二ページ)
この聖霊についてのロウの本が、いずれ私の出版社から出版されることを私は期待している。