ジョナサン・エドワーズ『キリスト者の巡礼』

キリスト者の巡礼

天に向かう旅としての真実なクリスチャン生活

ジョナサン・エドワーズ(1703-1758) 1733年9月

地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。(ヘブル11:13-14)

主題「この人生はただひたすら天に向かう旅とすべきである」

この聖書箇所で使徒は、旧約聖書の聖徒たちの信仰に言及し、信仰という恵みの素晴らしさを強調しています。信仰がもたらす栄光に富んだ幸福な結末を語っています。使徒はその章の前半で特に、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブについて語りました。それらの例を数え上げて、次の注意を与えました。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13)この言葉の中で使徒は、アブラハムとサラとその親族に特別な敬意を払っているようです。彼らはハランから、またカルデアのウルから出て行きましたが、十五節で使徒が語っているとおり、「もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。」(ヘブル11:15)

ここに、二つの事実が観察されます。

(一) 聖徒たちは自身をどのように告白していたか。すなわち、地上では旅人であり寄留者であると告白していました。特にアブラハムはこう言っています。「私はあなたがたの中に居留している異国人です」(創世記23:4)。イスラエルの父祖たちはみな同様だったようです。ヤコブはパロに言いました。「私のたどった(my pilgrimage:寄留の。訳注)年月は百三年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(創世記47:9)「私はすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。」(詩篇39:12)

(二) そのことを使徒はどう解釈しているか。すなわち、彼らは地上の故郷とは違う国を求めていた、ということです。「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。」(ヘブル11:14)自分が旅人であると告白することで、地上が自分たちの国ではなく、安住できる故郷でないことを端的に証言しています。また彼らは寄留者であると告白することによって、地上が定住すべき場所ではなく、別の国を慕い求めており、そこに向かって旅していることを端的に証言しています。

第一部

この人生はただひたすら天に向かう巡礼の旅とすべきことについて。

ここで私がお伝えしたいのは以下のことです。

(一) 世と世の楽しみに安住してはなりません。天を願うべきです。「神の国を第一に求めなさい。」(マタイ6:33)何よりも天的な幸福、神と共にありイエス・キリストと共に住まう幸福を求めるべきです。外面的な楽しみに囲まれ、望ましい友人や家族に恵まれているとしても、また喜びを分かち合える仲間や将来有望な子供がいるとしても、あるいは良き隣人が近くに住み知人に広く愛されているとしても、それらのことを私たちの相続分だと考えて安息を見出してはなりません。私たちはそれに安住するどころか、神の定められた時にそのすべてを置いて去ることを願うべきです。私たちは世のものを得て、楽しみ、使うとしても、いつでも喜んでそれを捨てる心づもりができており、召されたならいつでもこの時とばかりに、天のためにみずから進んでその生活を変える用意ができているべきです。

旅人は旅路で出会うものがどんなに心地よく喜ばしいとしても、それに安息を見出したいとは思いません。花や草、日陰になる木立など喜びを与えてくれる場所を通過するとしても、そこで満足するのではなく、あくまでもつかの間の眺めの後にまた旅を続けます。素晴らしい風景に誘惑されて旅をやめてしまおうと考えたりはしません。そうではなく、旅の目的がいつも心の中にあります。宿屋でもてなされて心地良い一晩を過ごしても、ここに定住しようかという考えにふけったりはしません。旅人はそれが自分のものではないと考え、一人の旅人にすぎないと知っているので、しばしの休息を得たら、あるいは一晩泊まったら、また先に進みます。長い道のりを踏破してきたと考えることが旅人の楽しみです。

ですから、この世の生活の居心地の良さや楽しみよりも天を願うべきです。使徒はクリスチャンを励まし慰めるために、幸福がますます近づいていると考えなさい、と勧めています。「私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいている」(ローマ13:11)。私たちの心は旅人の楽しみのように世の楽しみから自由であって、神の召しがあればいつでも喜んで手放すことができなければなりません。「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」(第一コリント7:29-31)これらのものは現在の時に仕えるためにただわずかの間私たちに貸し付けられているだけで、私たちの心はあくまでも永遠の相続分である天に向かっているべきです。

(二) 私たちは天を求め、天に至る道を旅するべきです。それは聖性の道です。他ならぬこの道において天に向かって旅することを選び、願うべきです。かの肉的な欲望は重荷となって私たちの道を阻むものですから、手放しましょう。「いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)欲望の充足がどんなに喜ばしいとしても、それが天に至る道の妨害物やつまづきの石となるなら、かたわらに捨てなければなりません。

私たちの旅は神のすべての命令に従う従順の道を行くべきです。簡単な命令だけでなく難しい命令にも従い、罪に陥りやすい私たちのあらゆる性向と興味とを否定するべきです。天に至る道は上に向かっています。けわしくつらい道だとしても、また私たちの肉による自然の性質に逆らう道だとしても、その山を登ることに満足しなければなりません。キリストに従うべきです。キリストの通った旅路は、天に至る正道です。自分の十字架を取って、柔和で謙遜な心で、従順と愛、善いわざを行おうとする誠実さ、苦しみに耐える忍耐をもって、キリストに従うべきです。天に至る道とは天にいる者の生き方です。天にいる者は聖なる楽しみのうちに神と小羊を愛し、崇め、仕え、ほめたたえます。その生き方を模範としましょう。たとえ私たちが肉体的な欲望を満足させたまま天に行けるとしても、福音の言うとおり霊的な自己否定の法則に従う聖性の道のほうをより好むべきです。

(三) 私たちの旅は苦労しながらこの道を行くべきです。長旅には骨折りや苦労が付きものです。特に荒れ野を行く旅であればなおさらです。そういう旅をする人は何よりも困難や苦労に見舞われることを予期します。ですから私たちもこの聖性に至る道を旅するにあたって、私たちの時間と力を途上で出会う困難と生涯を乗り越えることに注ぐべきです。私たちが旅する土地は荒野です。多くの山、岩場、荒れ地を越えていかなければなりませんから、持てる力すべてを注ぐことが大切です。

(四) 私たちの生き方そのものがこの旅路を行くようにすべきです。早く始めましょう。人がひとりで歩き出せるようになったなら、これが第一の関心であるべきです。この世において踏み出す第一歩が、この旅路に向かう一歩であるべきです。根気よく旅するべきです。普段から旅の目的地を思い、そこに至る道を旅することを日課にしてください。旅する者はしばしば目的地に思いをはせます。旅の目的地に向かって足を進めそのために時間を使うことが、旅人の毎日の関心であり務めです。そのように、天を絶えず私たちの思いの中に置き、天に直行する入り口であり通路である死を私たちの目の前に置くべきです。生きている間、私たちはこれをやり通すべきです。

「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)道のりが険しく歩きにくくても、我慢強く進み、困難に耐えることをよしとすべきです。旅が長くても、立ち止まらずに目的の場所にたどり着くまで歩み続けなければなりません。道のりの長く険しいからといって弱音を吐いてはいけません。イスラエルの子らのように後ろを振り返ってはなりません。私たちの思いと計画を目的地に着くまで自分を押し出し続けるという一点にかけなさい。

(五) 私たちは聖性において成長し続け、その点で天にますます近づくべきです。天に近づくよう努力し、天にいる者のようになり、聖性と神への従順、神とキリストを知る知識、神の栄光とキリストの美と神の卓越した素晴らしさを見ることにおいて天の住民にますます似るようになり、至福直観に近づくべきです。私たちは神の愛の中で成長し続けるよう労するべきです。神の愛が私たちの心の中で炎となり、心が上に引き上げられるまでに炎を強めなさい。従順と天的な交わりをもって、天において御使いが神のみこころを行うのと同じように、慰めと霊的喜びと、神とイエス・キリストの交わりを感じながら、地上で神のみこころを行うことができるようになりなさい。「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)そのような道であるべきです。私たちは義を増し加えられてもなお、義に飢え渇いているべきです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」天の完全さが私たちの目標であるべきです。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

(六) 生活上の他の関心いっさいがこれに完全に従属すべきです。旅人にとって、すべての歩みが旅の終着地に向かうという目的に従属しています。金銭や物資を持ち運ぶにしても、旅に資するための供給です。ですから、私たちは天に至る旅という目的の下にその他すべての仕事とすべての一時的な楽しみを従属させるべきです。どんな所有物でも旅の妨げになるなら、直ちに捨てるべきです。世的な楽しみや所有に関しては、天に向かう道の補助に使うという見方と扱い方をするべきです。そのように私たちは食べ、飲み、着、友人たちの会話と楽しみを過ごすべきです。どんな仕事をしているにせよ、どんな計画に従事しているにせよ、その仕事が天に向かう道に資するだろうかと自問すべきです。資するのでないなら、その計画は手放すべきです。

第二部

なぜクリスチャン生活は巡礼の旅なのか。

(一) この世は私たちの住処ではありません。ここに生きる時間は非常に短いものにすぎません。地上で生きる人の日々は影のようです。この世が故郷となることは神のご計画はありません。そのためにこの一時的な宿泊所を与えたのでもありません。もし神が広大な地所と子供たちと喜ばしい友人たちとを与えたとしても、それは定住して楽しみを享受するためではなく、当座の用としてそれを使い、ほんのしばらくの後に去るように計画されているのです。私たちが世俗的な仕事に召されたり、家族を養う責任を負ったりするとき、天に向かう旅以外の目的で時間を費やすなら、すべての働きは失われます。もし私たちが金銭や感覚的喜び、人からの信頼や評価、子供たちによる喜び、子供たちが大きくなって良い暮らしをするようになるという期待など、一時的な幸福の追求に人生を費やすなら――そういうものには私たちにとって本当の意義がほとんどありません――死がすべての希望を吹き飛ばして、これらの楽しみに終止符を打ちます。「私たちを知っていた場所も、もう私たちを知らない。」「私たちを見た目も、もう私たちを見ない。」私たちはこういうものからいずれ永遠に去らなければなりませんが、いつそうなるのかを知りません。手に入れた直後にその時が来るかもしれません。私たちが静かに墓に横たわるとき、この世の財産や楽しみはどこに置いておけるというのでしょうか! 「人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目ざめず、また、その眠りから起きない。」(ヨブ14:12)

(二) 未来の世は私たちがとどまり永住する場所となるように計画されています。そこは私たちが腰を落ち着ける場所であり、そこだけが永続する住まいであり永続する相続財産です。現在の状態は短く一時的なものですが、後の世は永遠に続きます。そこに入れば、もう変わることはありません。それゆえ、未来の世にある私たちの状態は永遠なのですから、この場所での生活よりもはるかに重要です。この世での私たちのすべての関心事は、未来の世の下に完全に従属すべきです。

(三) 天こそは私たちの至高の目的と至高の善とが与えられる唯一の場所です。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」。(ローマ11:36)それゆえ、私たちが神に至るとき、そのときにこそ至高の目的が達せられます。けれども、それは天に上げられるときです。神の特別な臨在の場所である神の王座がそこにあるからです。この世にあっては神との交わりも非常に不完全なものにすぎません。神を知る知識は非常に不完全で私たちは暗闇の中にたたずみ、神への従順も非常に不完全で私たちは離反してばかりです。この世で神に仕えほめたたえるのは、非常に不完全な作法でしかできません。私たちの奉仕は、罪が混じっているため神の栄誉を汚します。けれども、天にたどり着くとき(それがかなうならば)、私たちは神との完全な交わりをいただき、神をはっきりと見るようになります。そこでは私たちは罪の名残もなく神に完全に従うようになります。「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(第一ヨハネ3:2)天にあっては私たちは性質の力と能力を尽くして完全に神に仕え、崇高な作法で神をほめたたえるようになります。そのとき私たちは自身を完全に神に捧げます。私たちの心が純粋で聖なる供え物となって、神の愛の炎の中で捧げられます。

神は理性ある被造物にとって至高の善でありますから、神を楽しむことが私たちの魂を満足させる唯一の幸福です。神を存分に楽しむために天に行くのは、この世の最高の安楽な住まいを楽しむよりも比べものにならないほど素晴らしいことです。それゆえこの世でひたすら天に至る旅として生きることが私たちにふさわしく、私たちの至高の目的と正しい善を求めることを人生の使命にして、他のすべての関心事をそれに従属させることが私たちにふさわしいのです。私たちの正しい目的と本当の幸福を差し置いて、どうして他のことに心を砕き労苦するべきでしょうか。

(四) 私たちの現在の状態とそれに付随するいっさいのものは、別の世の下に完全に服するようにと神がご計画されました。この世は次の世の準備の場所として造られました。死ぬべきいのちが人に与えられたのは、永遠の状態の準備のためです。神がこの世で与えてくださるいっさいはこの目的のためです。太陽が輝き、雨が私たちの上に降り、大地が産み出すのもこの目的のためです。国家も教会も家族も個人的な関心事も、万物を創造し配置なさった方によって、未来の世に従属するものとして計画され秩序付けられているため、私たちの手で未来の世に従属させられます。

第三部

人生は天に向かう巡礼の旅であることをよく噛みしめることによって与えられる教訓。

(一) 親しい友人が亡くなったとき、その人が正しい目的に生涯をささげたと知っていれば、この教えは悲しみを和らげてくれます。友が聖なる生き方をしたのなら、その生涯は天に向かう旅だったと言えます。その旅の目的地に着いたのですから、どうしていつまでも悲しみに暮れる必要がありましょうか。死は恐ろしい面もあるように思えますが、彼らにとって大きな祝福です。彼らの終わりは幸福で、始めよりも良いものです。「死の日は生まれる日にまさる。」(伝道7:1)生きている間、彼らは天を願い、この世にもこの世の楽しみにもまさって天を選びました。天を熱心に待ち望んだ彼らがついにそれを得たのですから、どうして嘆く必要がありましょうか。今や彼らは父の家に着いたのです。故郷に着いたのですから、旅していた時よりも千倍の慰めを見出しています。彼らはこの世で多くの労苦を味わいました。荒野の通り抜けてきました。道すがら多くの困難にあいました。山々や荒地を通ってきました。辛く骨の折れる道を旅し、へとへとに疲れる日夜を過ごしました。けれども今、永遠の休息を得たのです。

また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」(黙示録14:13)

彼らはその生涯に出会った困難や悲しみや危険を思い返して、そのすべてに打ち勝ってきたことを喜んでいます。

私たちはともすれば死を悲惨なものと見なして、親しい人が暗い墓に入るのを嘆き悲しみます。墓の中で身体は朽ち果て、虫に食われ、愛する子供たちやさまざまな楽しみから引き離されます。あたかも彼らがひどい場所に置かれているかのようです。けれどもこれは私たちの弱さがそう思わせているのです。彼らは幸福な状態にあり、想像を超えた祝福にあずかっています。悲しんではおらず、非常な喜びに満ちています。その口は喜びの歌に満たされ、その喉は喜びの川から飲んでいます。天にいる彼らには地上的な楽しみや死すべき者との交わりが変わってしまったと言って悲しむことはもうありません。この世の生は、最高の環境にいてもなお苦難や痛みを避けられませんが、今やすべての苦難が終わりました。「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7:16-17)

この世で彼らに会えなくなるのは真実ですが、私たちも同じ場所に向かって旅していることをよく考えるべきです。私たちよりも先に目的地に着いたのですから、どうして悲しむ必要がありましょうか。私たちも後に続き、旅の目的地に着いたらすぐに今よりも良い環境で彼らと再会する希望を持っています。親しい人が逝去したときにある程度悲しむのはクリスチャンの信条に反しているわけではなく、よく合致しています。というのも、私たちは肉と血にあるかぎり動物としての性質と感情を持っているからです。けれども、私たちには悲しみに喜びを混ぜることができる正当な理由があります。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」(第一テサロニケ4:13)すなわち、未来の幸福を知らない異教徒のようには悲しむ必要がありません。続く節を読めばおわかりになるでしょう。「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」(4:14)

(二) 私たちの人生がひたすら天に至る旅となるべきであるなら、人生を地獄に至る旅に費やしている人々はなんといたたまれないことでしょうか。ある人々は生まれた日から死ぬまでその生涯を破滅に至る道を歩むことに費やしました。彼らは地獄を近くに引き寄せただけでなく、日々破滅のために実を熟させました。この世の住民にますます同化しました。他の人々はいのちに至る狭くまっすぐな道をたゆまず進み、シオンに至る丘を懸命に登り、肉の傾向と性質とに格闘しますが、彼らはまっしぐらに永遠の死に向かって行きます。これはすべての悪人にとって毎日の務めであり、ひねもす時間を費やしています。朝起きるとすぐに地獄への道を新しく出発し、起きている間ずっと地獄への旅に費やします。彼らは早い時期にそれを始めます。「悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。」(詩篇58:3)彼らは不屈の精神で貫きます。多くの者は年老いてもまったく疲れません。百年生きたとしても、地獄への道を旅することをやめません。そこに着くまでやめません。人生のすべての関心がこの務めに従属しています。悪人は罪のしもべであり、彼の活力と能力は罪に仕え地獄にふさわしい者となるために使われています。彼のすべての財産は同じ目的のもとに一貫して使われます。人々は御怒りの日のための怒りを後生大事に蓄えることに自分の時間を費やしています。隠れて淫行を行う汚れた人々、悪意のある人々、宗教的義務をないがしろにする冒涜的な人々は皆そうです。不正を行う人々、詐欺と暴力を行う人々は皆そうです。陰口や口汚い批判を行う人々、その心がこの世の富にばかり向かう貪欲な人々は皆そうです。酒場や悪い仲間のいるところに足しげく通う人々など皆そうです。人類の大部分がそのように破滅に至る広い道を我先にと進んでいます。その道は昔も今も一斉に滅びに向かっていく群衆でいっぱいです。何千人もの群衆が毎日この大通りに押し寄せ、地獄に向かって歩いています。まるで大きな川の水が海に絶えず流れ込むようにして、群衆が絶えず火と硫黄の池になだれ込んでいます。

(三) ですから回心とは、ただ自分の本来の務めを始め、行かなければならない道を出発するだけのことです。その時まで人は生涯かけて行うべき務めに着手していないのです。回心する前の人はその道に一歩も踏み出していません。キリストが本来の場所に帰らせてくださるとき、彼は自分の旅路を初めて出発しますが、クリスチャンとしての仕事と務めは始まったばかりであって今のところ完成にはほど遠く、残りの生涯をかけて関心と労力をもってそれに取り組まなければならないのです。

回心して自分のいのちが将来良い状態に置かれるという希望をいただいたとしても、覚醒しているにもかかわらず、道を進む熱心な努力を以前のように行わないなら、それは悪を行なっているのです。回心したならこれからは生きているかぎり、今までよりも熱心で懸命にまた注意深く目を覚まして努力すべきです。そうです、日に日にますますそうしていくべきです。弁解の余地はありません。ふさわしく神に仕え神をほめたたえるために力の限り懸命であるべきではないでしょうか。恵みをいただいたなら、前にある恵みをいただけるようにさらに努力するべきです。後ろにある恵みは小さいのですから。使徒は私たちに後のものを忘れひたすらに前にあるものに向かって進むよう命じています。(ピリピ3:13)

そうです、回心した者には今や恵みを得るために奮闘するべきさらなる理由があります。彼らはその恵みの素晴らしさを垣間見たのですから。カナンの祝福を一度味わった者には、以前よりもさらに懸命に進むべき理由があります。回心した者は「召しと選びを確かなものにする」ために奮闘すべきです。回心した者がみな確信しているわけではありませんし、確信している者が常にそうであると知っているわけではありません。むしろ今もなお、さらなる誠実さをもって神を求め神に仕えることが、保証をいただきそれを維持する方法です。

第四部

人生をひたすら天に至る旅として過ごす勧め。

あなたの相続分と故郷のために天を選べぶことができ、天を熱心に待ち望み、天のためにこの世とこの世の楽しみを喜んで変えられるように心がけてください。神があなたを召して、地上にいる最高の友と慰藉とから去らせるときに、天のために喜べるように、天と天の楽しみをいつも心に抱くように労してください。天では神とキリストとを楽しむようになるのですから。

天に至る道の旅に承諾してください。すなわち、聖なる生活、自己否定、禁欲、神のすべての命令に対する従順、キリストの模範に従うこと、天的な生き方、天にいる聖徒たちと御使いに見習うことです。それを朝から晩まで日々の仕事とし、終わりまでしっかりとやり遂げてください。他の全ての関心事はそれに従属させてください。どうしてそのように生きるべきなのか、これまで言及した理由についてよくお考えください。この世は定住の地ではなく、未来の世が永遠の永住地であり、この世の楽しみと関心事は全部、未来の世のためにあるのです。踏み出す力を得るためにさらによくお考えください。

(一) あなたの人生を天に向かう旅に捧げるのはどれほど価値があることでしょうか。それにまさる人生の目的があるでしょうか。義務と関心事のどちらを優先すべきでしょうか。天を得ることの他にどんな望ましい旅の結末があるでしょうか。あなたはこの世にあって、自分の喜びのために旅するか、天に至る旅をするか、選択が与えられています。この道よりも良い道が他にあるでしょうか。どんな人にでも何がしか人生の目的があるものです。ある人はこの世的なものを求めています。この世的なものを追求して人生を過ごします。けれども、あなたが求めるべきもの、遥かに価値のあるものは、永遠の喜びに満たされている天ではないでしょうか。永遠に続く神の楽しみに至る道を旅することの他にあなたの力を注ぎ、知恵を尽くし、日々を費やすにふさわしいものがあるでしょうか。神の栄光に富んだ臨在、新しいエルサレム、天にあるシオンの山にまさる良いものがあるでしょうか。そこではあなたの願いはかなえられ、あなたの幸福が失われる危険はありません。だれにとってもこの世は故郷ではありません。天を選ぶにせよ選ばばないにせよ、ここでは旅行者にすぎません。天の他にさらにすぐれた故郷を選び得るでしょうか。

(二) 死を慰め豊かなものにする方法がこれです。人生をひたすらに天に向かう旅とすることが、束縛から自由になり、死を前にし死を思っても不安でなくなる方法です。旅人は旅の目的地に不安や恐れを感じるでしょうか。まもなく旅の目的地だと考えることは恐ろしいでしょうか。イスラエルの子らは四十年間の荒野を旅し、もうすぐカナンだというときに悲しんだでしょうか。これが悲しみに暮れずにこの世を去ることのできる方法です。旅人が故郷に着いたとき、旅の途中に必要だった杖と荷を降ろすのは、悲しいことでしょうか。

(三) このような生き方ほど臨終に際して喜べる人生はありますまい。もしあなたがこのような生き方に見向きもせずに生きてきたなら、よほど思い違いをしているのでないかぎり、臨終に際してあなたの人生をふりかえるのは恐ろしいに違いありません。その時あなたは、その道からそれたあなたの人生が無駄だったことに気づきます。その時あなたは、自分なりに思い描いた目標いっさいがむなしいことに気づきます。ここで何を所有し何を楽しんだかを思い返しても、それをこの目的に従属させてきたという自負がなければ、満足感はありません。

(四) 天に向かう旅として人生を生きてきた人が、じっさいに天をいただくようになることをよくお考えください。天は高く栄光に富んでいますけれども、私たちのような貧しく価値のない者にも頂戴できるものです。御使いたちの住んでいるあの栄光に富んだ場所を私たちは頂戴できるのです。そうです、神の御子がおられる場所、偉大なエホバのおられる栄光の場所です。しかも金銭も対価もいらず、ただで頂戴できます。天に至る道を喜んで旅し、生きているかぎりその道をたゆまず進むなら、永遠の安息の地である天を必ずいただけるのです。

(五) 天に向かう旅でなければ、人生は地獄に向かう旅となることについてよくお考えください。人類は皆、ほんの短い間ここにとどまってからこの世から去り、大きな二つ倉のどちらかに行きます。一つは天にあって、そこに大勢が殺到しています。もう一つがこの世で生きる私たちにとって大問題であるに違いありません。

いくつかの指南をもって結びといたします。

(一) この世はむなしいものであると肌で知るよう心がけてください。この世の楽しみは本物の満足ではなく、持続せず、ここぞと助けが必要な時に、つまり死の間際で役に立たないのですから。この世で長く生きた人は皆、少しの思慮さえあれば、この世のむなしさを十分に実感できます。ですから、他人の死を見聞きするときに、思慮を働かせてください。この道に思いを向けるようにしてください。他人の死を鏡にして、この世のむなしさを理解してください。

(二) 天をよく知るよう心がけてください。天をよく知らないままでは、天に向かう旅の人生を生きるのは難しいでしょう。天の素晴らしい価値を感じることも、天を待ち望むこともできません。この世よりも素晴らしい善があることを心で実感していないかぎり、世のものから心が自由になったり、世のものを他の目的に従属させて使ったり、いつでもその善のために世のものを捨てる心構えを持ったりすることは、きわめて困難です。ですから、天にある世を深く実感し、それが現実であることをかたく信じ、いつも天を思ってよく知るように心がけてください。

(三) 天を求めるのは、イエス・キリストによってのみであることを忘れないでください。kリストはご自分が道であり、真理であり、いのちであるとおっしゃいました(ヨハネ14:6)。ご自分が羊の門であるとおっしゃいました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)ですから、天に至る旅として人生を生きるためには、私たち自身の義ではなくキリストによってそれを求めなければなりません。ただキリストのゆえに天を得ることを期待し、キリストを見つめ、キリストに信頼するのです。キリストがご好意によって私たちのために天を勝ち取ってくださったのですから。聖なる歩みをする力と、天に至る道筋は、ただキリストからのみ来ることを期待してください。

(四) クリスチャンはこの旅路を行くように励まし合おうではありませんか。教会の集まりなどクリスチャン同士で励まし合える機会はたくさんあります。ですから、お互いに仲間として、声をかけ合い、支え合いながら旅路を進むように勧めましょう。旅の仲間はありがたいものですが、この旅ほど仲間が必要なものはありません。連帯して進み、途中で落ちこぼれて互いの足を引っ張ったりせず、手を尽くしてこの山を登るために助け合おうではありませんか。そうすれば、旅の途中で挫折せず、父の家で栄光のうちに喜びの再会を果たせる希望がますます確実になるに違いありません。